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『こころ』の「上十六」2
日本語を勉強中の中国人です。夏目漱石の『こころ』を読んでいます。「上十六」の中に理解できないところがありますので、お伺いしたいと思います。結末部分はまだ読んでいないのでご回答の際には触れないでください。次は参考ページです。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/773_14560.html 1. ・「時間に後(おく)れると悪いって、【つい】今しがた出掛けました」といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。 ・こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風(ふう)も見えなかったので、私は【つい】大胆になった。 (1)上の二文の中の「つい」という単語のニュアンスを説明していただけませんか。 (2)「今しがた」は現在でも使われているのでしょうか。 (3)「困ったもの」の「もの」は「こと」に交換できるのでしょうか。 2.「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空(から)の盃(さかずき)でよくああ飽きずに献酬(けんしゅう)ができると思いますわ」 (1)「空(から)の盃(さかずき)でよくああ飽きずに献酬(けんしゅう)ができると思いますわ」はどういう意味でしょうか。「ああ」は何の内容を指すのでしょうか。 (2)「献酬」は現在でも使われるのでしょうか。 3.奥さんの言葉は少し手痛(てひど)かった。 「てひどい」と「ひどい」との中では、どちらのほうがよりひどいのでしょうか。 4.自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出(みいだ)すほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。 なぜこのように言うのでしょうか。上の文の意味を説明していただけませんか。「自分に」の「に」はどういうような役割なのでしょうか。 また、質問文に不自然な日本語がありましたら、ご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。
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1(1) http://dictionary.www.infoseek.co.jp/ から引用します。 一文目の「つい」は『距離・時間などが非常に近いさま。すぐ』という意味です。ただし、この文章の場合は「すぐ」と交換することはできません。「すぐ」という言葉は、これから起こる事態について使う副詞ですが、「つい」はもう起こった事態について使う副詞です。 二文目の「つい」は『そうする気持ちのないままに、そのことをしてしまうさま。思わず。うっかり』という意味です。「思わず」と交換することも、「うっかり」と交換することも、可能です。 (2) 現在でも、使われます。話し言葉でも、使われることがあります。若い人はあまり使いませんけれども。「今さっき」という言葉と交換可能で、「今さっき」の方がより口語的です。 (3) 交換できないことはありません。少しだけニュアンスが変わります。「困ったことだ」と言うと、困るような事態だということを、ただ単純に述べているだけです。これに比べて「困ったものだ」と言うと、より感情を含めた表現になります。「困ったものだ」は「どうしたらいいかなァ? どうするのが妥当かなァ?」と思案しているような表現です。 2(1) 酒も入っていない空の盃で献杯の応酬をするように、内容のない理屈を振りかざして空論の応酬をしている、という意味です。「ああ」は、「男の人が侃侃諤諤と議論する様子」を指しています。 (2) 少なくとも一般的な表現ではありません。使っても悪いことはありませんし、漢字から意味は推測できますが。難しい表現というイメージです。ここでは会話文で使われていますが、現代では、会話文で使われることはありえないと思います。 3 ふつうは「手酷い」と用字しますね。「手痛い」で「てひどい」と読ませるのは、漱石の完全な当て字です。「手痛(ていた)い」という別の言葉があり、意味も似ているので当て字したんですね。 どちらかと言うと「酷い」よりも「手酷い」の方が、より酷い気がします。「こっ酷(ぴど)い」と表現すると、さらに酷い感じになるでしょう。「少し」がくっついているので、かなり酷いんだか、そうでもないんだか、よく分かりませんが……。 4 「自分の中にも頭脳がある、ということを相手に見せつけて、そのことによって優越感を感じる」というのが、現代の一般的な感受性であるわけですが、奥さんはそういう感受性を有していなかった(現代的でなかった)ということです。婉曲な表現ですが、現代のそういう浅薄な風潮とは一線を画しているということを述べて、奥さんを褒めているわけですね。二文目は、奥さんが手酷い言葉を使うのは、そういう「相手をやっつけてやろう」というような風潮とは無関係であり、心の中のもっと深いところから、そういう言動が出てきているんだ、という意味です。 格助詞「に」は、「頭脳」の存在する場所を指定しているわけです。
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- tani_rohei
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#4です。少しだけ、補足訂正。 ウィキペディアの「当て字」の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E3%81%A6%E5%AD%97)には、次の二種類の解説が掲載されています。 『漢字の字義を無視し、読み方のみを考慮して漢字を当てる場合。狭義にはこれのみを指す。仮借を参照』 『漢字の読み方を無視し、字義のみを考慮して漢字を当てる場合。広義にはこれを含む解釈もある。なお六書の「転注」がこれを指すと考える学説がある。日本語の熟字訓も含まれる』 このうち、ぼくは後者の解釈で「当て字」について説明しました。前者の解釈だと、また説明が違ってきますね。うーん、ややこしい。 ウィキペディアのこの項は、参考になるので、お読みになるとよいでしょう。漱石の当て字の話なども、載っていますね。
お礼
今回当て字について軽く触れることができて大変嬉しいです。本当にありがとうございました。
- tani_rohei
- ベストアンサー率33% (8/24)
#2です。 おもしろい点にお気付きになりましたね。「漢字の上の平仮名」の話は、「当て字」の話と密接に関連しています。そして、日本語の表現を限りなく多様にしているのは、まさにこの点なのです。「漢字」という中国文化の結晶が、日本文化と結びついて、「日本語」という芸術作品を生み出したのです。日本語に対して、漢字が担っている力はとても大きい。 張りきって解説してしまいましょう! 「当て字」の話から始めます。日本語という言語は、長い間、独自の表記体系を持っていませんでした。「音」はあっても、それを記述するための「文字」がなかったのです。五、六世紀の頃、日本にも漢字が輸入され、誰かが「これを借りて日本語を表記したら便利なのでは?」と思いつきました。そこで、漢字の「音」だけを借りる日本語の表記法が作り出されたのですが、この表記法のことを「万葉(まんよう)仮名」と呼びます(もともと中国にも、こういう表記法があったようです)。時代の経過に従い、漢字の字体が崩されていって、平仮名および片仮名が成立します。しかし同時に、漢字の「音」ではなく「意味」を使って、日本語表記に役立てようとする手法も発達し、現在の、漢字・平仮名・片仮名が混在する表記体系が成立したわけです。 漢字の「意味」を借りる場合、「音」まで借りるのなら単なる漢語です。しかし、「意味」だけを借りる場合もあり、この場合は「漢字の意味」に「日本語由来の音」が合成されます。「飲」という漢字に「のむ」という日本語由来の音が合成され、「飲む」という表記になるわけです。しかし、飲むという意味を持つ漢字は、他にも沢山あります。「呑(酒などの場合)」「服(薬などの場合)」「嚥(薬などの場合)」「喫(煙草や茶などの場合)」など。だから、場合によって「呑む」と書いても「服む」と書いてもよいのです。しかし、一般的な表記は「飲む」であり、「呑む」や「服む」はあまり見かけない表記です。こういうふうに、日本語の「音」に一般的でない漢字を宛(あて)がうことを、「当て字する」と言うのです。当て字することにより、言葉の意味が、漢字由来の意味と日本語由来の意味とに二重化されます。そこで、表現に幅を持たせることができるのです。 「てひどい」の話に戻りますと、「てひどい」という音には「手酷い」という漢字を使うのが一般的です。「手痛い」と書いて「てひどい」と読ませるのは、一般的ではありません。と言うよりも、多分前例がありません。あとにも先にも、漱石のこの文だけが、こういう用字をしているのです。ですから、もちろん「手痛い」で「てひどい」と読ませるのは、「当て字」だということになります。 「前例のない表記をしても良いの?」とお疑いになるかも知れません。しかし、良いんです。ここが日本語の凄いところなんですが、自分で勝手に考えて、好きに当て字しても構わないのです。特に作家なんていう人達は、大量に当て字を使います。ところが、勝手に当て字をしてしまうと、読者には「音(読み方)」が分かりません。そこで登場するのが、漢字の上の平仮名なのですが、これのことを「振り仮名」と呼びます。日本語の音に漢字を指定し、それと同時に、振り仮名で音を指定するのです。無論、当て字の場合だけでなく、一般的な表記でも、難読である場合には振り仮名を使用します。 昔の小説には、ほぼ全ての漢字に振り仮名を用いていたものもありました。しかし、戦後、振り仮名は衰退傾向にあり、誰でも読める漢字には振り仮名を振らないようになりました。古い小説については、それぞれの出版社が振り仮名の量を調整しています。現代の小説については、初めに作家が振り仮名を振り、それを編集段階で調整するという感じです。当て字の場合は、作家本人が振り仮名を振らないと誰にも読めません。また、同じ字が何通りかの音を表わす場合(たとえば「明日」という語には、「みょうにち」と「あした」という二種類の音があります)も、作家が振り仮名を振らないと読み方が分かりません。 ちなみに、漱石は当て字の名手と呼ばれており、おもしろい当て字を沢山残しています。「やかましい」という言葉は、普通「喧しい」と表記されますが、漱石は「八釜しい」と表記しました。「八つの釜が打ち鳴らされたら、きっと喧しいだろうなァ」という感じで、ほとんど言葉の遊びですね。
お礼
再びありがとうございます。まず漢字があって、その次に平仮名、片仮名が誕生したんですね。日本語の歴史は少しわかるようになりました。当て字はどんなものなのか、だいたいわかりました。「八釜しい」は面白い用字ですね。確かに喧しいイメージを受けました。tani_roheiさんの自己紹介を前にも拝見しました。とても若いですが、本当にいろいろなことを知っていますね。感心いたします。優れた文士になりますように心からお祈りします。詳しく紹介していただき本当にありがとうございました。大変助かりました。
- Ishiwara
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>「つい」という単語のニュアンスを説明していただけませんか。 【答】「つい、さきほど(ほんの少し前)(せいぜい数分ぐらい前)」は、現在でも多く使われます。 もう一つの「つい」は、まったく別です。「つい、うっかりして」などという場合に使います。「つい大胆になった」は「とっさの判断で大胆になった」「とっさの判断だったから、あとから考えれば、正しい判断であったかどうか自信がない」 「彼に頼まれたものだから、つい承諾したんだよ。」←承諾したことを明瞭に後悔しているわけではないが、よく考えるべきだったかもしれない、という反省が、少し見えます。 > 「今しがた」は現在でも使われているのでしょうか。 【答】古風な言い方で、現在、使われることは少ないでしょう。日本人は、聞けば理解できますが。 >「困ったもの」の「もの」は「こと」に交換できるのでしょうか。 【答】交換可能と思いますが、僅かに違います。「困ったものだ」は、「どうしよう」と自問している状態。「ことだ」は単純叙述的。 > 「空(から)の盃(さかずき)でよくああ飽きずに献酬(けんしゅう)ができると思いますわ」はどういう意味でしょうか。「ああ」は何の内容を指すのでしょうか。 【答】たいへん難しいところです。 献酬は、自分の飲んだ杯を相手に渡して酒を注ぐこと。親愛の態度を示す行為。「空の盃を献酬する」は、奥さんの発想による「たとえ」であって「中身のない議論をやったりとったりしている」と男性を皮肉っているもの。 「よくああ」は「よく、あれほど(延々と、飽きずに、果てしなく)(男というものは)中身のない議論を延々とやっていられるものですねえ」と呆れているわけです。 >「てひどい」と「ひどい」との中では、どちらのほうがよりひどいのでしょうか。 【答】「てひどい」と「ひどい」は違う語です。「てひどい」は「てきびしい」に近いものです。「きびしく非難(批判)する」でしょう。 > 自分に頭脳のある事を相手に認めさせて、そこに一種の誇りを見出(みいだ)すほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。 なぜこのように言うのでしょうか。上の文の意味を説明していただけませんか。「自分に」の「に」はどういうような役割なのでしょうか。 【答】漱石の作品には「現代的な女」がたくさん登場し、漱石の「未来の女性像」を窺わせますが、この奥さんは、もっと古風なタイプでした。心の底にあるものを、すぐに口に出してくるような、現代的な女性ではないように思われた。ということです。漱石の他の作品(草枕、三四郎、虞美人草など)を読むと、その違いが分かってきます。 「自分に」は、「そのような現代的な頭脳が自分にはあるのだ、ということを男性たちに示してやる、ようなタイプの人ではなかった」ということです。
お礼
いつもお世話になっております。ご親切に回答していただき誠にありがとうございます。「つい」についてたくさんの例文を挙げていただき助かりました。この二つの「つい」は違うのですね。「今しがた」の感覚はわかりました。古風なのですね。「もの」と「こと」のニュアンスの違いはだいたいわかりました。「空の盃」のご説明は大変理解しやすいと思いました。すばらしい比喩だと思います。夏目漱石のほかの作品の中の女性像までも紹介していただき心より感謝いたします。お薦めの作品をぜひ読んでみます。大変参考になりました。本当にありがとうございました。
- fishbird
- ベストアンサー率29% (8/27)
(1) つい今しがた・・・の【つい】 たった今、ちょうど、というニュアンスに近いです。時間軸的には、【たった】=【ちょうど】≦【つい】という感じです。 「私はつい大胆」・・・の【つい】←調子に乗って、というニュアンスがあります。「つい、魔がさした」「つい、軽口がでた」という使い方もします。 【今しがた】←使われることは少なくなっていると思います。 【こまったもの】←この文章の際は変換は出来ないと思われます。微妙に意味が異なって来ます。【こと】とすると、【もの】よりも深刻な印象を与えます。なので、私が【大胆】になると違和感を感じます。 (2) 【空の・・・】←献酬は酒席で盃のやりとりをすること。「中身の無い議論を熱心に例えている様子を、空の盃を無駄にやり取りすることに例えたもの(新潮文庫解説より抜粋) 【ああ】は、「あんなにも」とか「よくもまぁ」という意味 【献酬】は先ず滅多に使いません。私も調べて初めて知りました。 (3)【てひどい】と【ひどい】←後にかかる文章によって使い分けますので、どちらの方が、という意味では同程度と思っていただいて結構です。 (4)「こころ」の時代背景(明治)を考えると、【現代的】の意味は当時それまで発言、行動することの無かった女性が、文明開化の影響を受け、女性の地位を向上させようという運動等が見えてきます。【無かった】のだから、奥さんはそういった女性のうちの一人ではない、と言えます。【それよりもっと底の方に沈んだ心】を大事にしている、というのは、【自分に頭脳を・・・】と比較すると、もっと本能的な、女性らしさ、人間らしい感情を大事にしているように私は見えた、のでしょう。漱石らしい難しい言い回しです。 【自分に】の【に】はそのままです。「それを私に下さい」の【に】と一緒です。英語なら「me」ですね。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。ご親切に回答していただき誠にありがとうございます。二つの「つい」の使い方は違うのですね。「今しがた」についての使う頻度の日常的な感覚は参考になりました。「もの」と「こと」のだいたいの違いはわかりました。「空の盃」というたとえはすばらしいですね。奥さんのような女性像はよくわかりました。本当にありがとうございました。大変参考になりました。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。ご丁寧に回答していただき誠にありがとうございます。二つの「つい」の使い方が違うことに気づきました。「今しがた」の現在の使う感覚を教えていただき助かりました。「もの」と「こと」のニュアンスの違いはだいたいわかりました。「空の盃」のたとえはすばらしいと思います。よく理解できました。「侃侃諤諤」という言葉は中国語にもあります。tani_roheiさんのおかげで初めて知りました(^-^;)。奥さんのような女性は理解できました。大変参考になりました。本当にありがとうございました。
補足
>ふつうは「手酷い」と用字しますね。「手痛い」で「てひどい」と読ませるのは、漱石の完全な当て字です。「手痛(ていた)い」という別の言葉があり、意味も似ているので当て字したんですね。 申し訳ありませんが、『「手痛(ていた)い」という別の言葉があり、意味も似ているので当て字したんですね』はどういう意味でしょうか。「当て字したんですね」とはどの単語のことをおっしゃっているのでしょうか。 「当て字」という言葉はよく見かけますが、これはどういう意味でしょうか。間違っている字という意味なのでしょうか。大文豪だから、間違っている字を使っても大丈夫ということになるのでしょうか。 『こころ』をここまで読んでおり、一つ興味があることがあります。夏目漱石という作家はたくさんの難しい漢字をご存知の作家ですね。お伺いしたいのですが、作家が文章を書く時に、漢字の上の平仮名までも自分で振るのでしょうか。いまインターネットで『こころ』を読んでいます。たくさんの漢字の上に平仮名が振ってあることに気づきました。これらの平仮名は現代人がパソコンを使って振ったのでしょうか。それとも夏目漱石本人が振られたのでしょうか。振ることは大変な作業ですね。この質問は無視しても結構です。ご存知であれば、教えていただければ嬉しく思います。