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楽市楽座って何がいいのですか?

rczdの回答

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  • rczd
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回答No.5

信長が安土山下町中に定めた、いわゆる「楽市楽座」令は信長政権の首都に足る町作りが主眼であったと思います。 元亀元年に六角氏が逃げ、天正四年から信長が住み始めた安土は、丸六年間は閑散とした、寂れた場所に陥っていたことと思います。その間、配下の者を配したことはありますが、日本の中心とはほど遠い場所であったでしょう。 信長が住み始めた翌年に発令された安土山下町中への掟の例を挙げると… ・すべての税金は免除。 ・商人が通行するときにはは必ず町に宿泊すること。 ・普請工事の義務を免除する。 ・伝馬のための馬の拠出する義務は免除する。 ・自家を出火させたら追放する。 ・信長の領地内に徳政令を布いても、この町だけは免除する。 ・ほかの土地から来た者も前から住んでいた者と同じ扱いとする。 ・喧嘩・口論・押し売り・押し買いは禁止する。 などがあります。 いずれも商人・居住者の天国です。これだけやれば人は自然と集まります。過去の楽市楽座令は商売をする上だけのことしか規定していなかったのに対して、この楽市楽座令は都市としての秩序のある町を作ろうとする信長の意図を感じます。

bonna
質問者

お礼

いやあびっくりしました。 現代人の自分の目から見ても非常に自由な気風、 進取の精神があふれていて、城下に住むものの 夢ややる気を増大させるものですね。 しかも、きちんとした規律と警察力によって治安も 確保されており、またこの時代までの商人にとって もっともいやな存在であった徳政令もここでは 免除となると、他郷からも人が砂糖に群がる ありのように自然に集まってくるのを拒むことは できませんね。 とても人間の心理を自然についた絶妙な方法だったのですね。 詳しい説明どうもありがとうございました。 大変勉強になりました。

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