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ほにゃらか形而左右学 影

毎度、お騒がせいたします、影だけ屋がお邪魔します。 かげ屋~かげだけ~♪ かげ屋~かげだけ~♪・・・ えへん、こんこん、調子が悪いですね。ほにゃらかに行きましょう。 「影を売った男」確か、悪魔に影を売るんでしたね、結局、良い事はなかった。 天使に売っておけば、良いこと有るのかな、とも思いますが、それはさておき。 影というと、表と裏の二元論的な一面ですが 木陰と物陰、守ってくれる陰と、排除する陰。 またまた、二元論に、陥ってしまいますが、さてさて、 われわれの習慣として、この様な分節に親しむ理由もさておき。 影とはなんじゃろうか。 最初は、存在論的に、影は、実在しますか、存在しますか。と問うて見ましょう。 実在 [哲]一般には、観念・想像・幻覚など主観の所産に対し、客観的に存在するもの、またその在り方。 特に、プラトンは感官によって知覚される存在を影にすぎず、その背後のイディアを真の実在と考えた。 アリストテレスを承けて種のような普遍を実在とするアベラールのような考えもある。(以下略、広辞苑) 存在 [哲]実体と属性とに分かれ、前者は基体・本体のようにそれ自体で独立にあるが、後者は前者に付帯して依存的にある。また実体には、自然的・物的なものと、意識的なもの更に超自然的で非感覚的なものとがある。(以下略、広辞苑) 影と陰の国語の講釈も、良ければお願いします。 お礼は遅れがちになりますが、宜しくお願いします。

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回答No.10

こんばんは、fishbowl66さん。 人の上に人ですか? やってみましょう。 まず、紙とえんぴつを用意して下さい。紙に『天』とひと文字書いてみて下さい。で、次に天の文字のてっぺんに人にみたてて『|』を立たせてみて下さい。書けましたか?目を瞑って書いた紙をくるりと回してみて下さい。ここでおまじないひとつ。「ねがいましては~♪」では、目を開けて。『¥』えん、えん、えん…循環論?はたまた、山の手線ゲームがなにやらあらわれてきたではないですか。こころのおもむくままにコマすすめます。福沢諭吉と前島密、大隈重信と福沢桃助ときたらば、中央区観光協会さんのHPへ飛んでヘンリー.フォールズさんにこんにちは。もうひとつおまけにマダム貞奴にご機嫌よう。雲をつかむような話をあれやこや。雲の話といえば千夜千冊『浮雲』眺め赤とんぼ。くもくもくも、もくもくもく、次から次にあらわれる。藪の中、突っつきゃ出てくるのはヘビかしら?ところがどっこい、現れ出たる雲の龍。good-better-best/へびー大蛇ー龍?雲龍図もありゃ、こちらもこちら海北さんに円山さん、俵屋さんに曽我さんと、60インチのモデルプリンタには驚き、桃の木、山椒の木。あっ?!と、驚くふくざつけい。『¥』 ひとまず、くるりヒト巡り~♪(CT)ふぅー。さて、準備運動をしたところで、いきますか?影のお話のつづき。造影剤注入したところでどこにあるのか(場所)影が存在を指し示します。影は見えれども、姿は見えず…その存在は?どこ? ↓粘膜 ↑ ↓粘膜層↑ ↓筋層 ↑ ↓漿膜 ↑ 内側からか外側からか? どこをどうみる? 【ヘンリー.フォールズ】 http://www.chuo-kanko.or.jp/knowledge/person/person_06.html 【浮雲】 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0206.html 【政体循環論】 http://charm.at.webry.info/200602/article_3.html 【複雑系経済学】 http://www.shiozawa.net/fukuzatsukeikeizaigaku/keizaigakunogenzai.html#0 【ハルニレ】 http://elekitel.jp/elekitel/nature/2006/nt_45_haru.htm 【診断の三つの諸相】 http://ganjoho.ncc.go.jp/pub/events/031129a.html

fishbowl66
質問者

お礼

littlekiss様、おはようございます。 相変わらずの、大量生産、大量消費。で、今回、一段と素晴らしい。 特に、東芝さんのメルマガ、ハルニレだけでなく、樹木の様子が一杯。 実は、近じか木の絵など練習しようと思っていた矢先です、思わず、ハグハグハグハ。 証拠の桜の画像をリンクさせようと、NEC関連のサイトに戻るが、行方不明。 マイピクチャーの中の画像にはリンク先が入っていない・・・ http://www.h7.dion.ne.jp/~kyoro/irodori/index.html やっと見つけましたが、肝心の桜は行方不明、お見せできなくて残念。 鉛筆一本で、花の咲いていない桜の樹を、桜色にかけるかな、連休が待ち遠しい。 人の上、面白い。面白すぎて絶句。 中央区の観光、これも良いですね、連休が待ち遠しい。 松岡さんの千夜千冊は、以前から参考にしています、 特に、借りる本と、買う本、ここに批評があると大変便利ですね。 政体循環論は、眉唾、不思議な文章。 たしか、ホワイトヘッドはプラトンではなく、アリストテレスの継承では、 まぁ、詳しいことは今回無関係。 塩沢さんのページは別のがお気に入りに、 と思いきや、確認すると何処かへ行ってしまったか、 さらっと書いていますが、スラッファの標準商品はかなりむずい。 均衡の経済学が、もう使い物にならなくなるのか、その辺ハッキリしてよ、と。 やややや、最後にポリープの影が、くわばらくわばら。 便利なのは良いけど、樹の写真探して、グラビアなるものをクリックすると 突然、水着の女の子が出てくるのには・・・困ったもんだ。 今回も参考になります、有難うございました。

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  • tyr134
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回答No.6

fishbowl66さん、またまたお邪魔します。 前回の矛盾の件では、お世話になりました。 さてさて、なにやら今回もなにやら難しそうなテーマですが、、、。 難し過ぎるので、手元の辞書(スーパー大辞林・シャープのパピルスPW-N800所蔵)を借りて国語の講釈から(笑) 『影』 1、物が光を遮ったとき、光源と反対側に出来る、その黒い形「夕日に―が長く伸びる」 2.光。灯火。「星―」 3、水面や鏡にうつるそのものの姿「―をうつす」 4,姿。そのものの形。「うわさをすれば―」 6、心の中に浮かぶ姿。おもかげ「―を慕う」 7、表だっては見えない人や物の存在を暗示するもの。特に不安・不吉な兆候。「死の―に怯える」 8、本体そのものではないこと。身代わり「―武者」 9、シャドー(ユング心理学における人格の影の面を指す元形の一つ。自分が生きられなかった反面が無意識の中に残されて作られるイメージ) 10、かすかな形だけで実態のないもの「このかぐや姫、きと―になりぬ/竹取」 12、本体に付き慕って離れないもの「よるべなみ身をこそとほくへだてつれ心は君が―となりにき/古今(恋三)」 13、魂。「亡き御―どもも/源氏」 14、本物に似せて作った物。 5、11は似た意味があるので、略。 『陰・蔭・翳』 1,光が遮られて当たらない所「ビルの―になって日当たりが悪い」 2、物などにより視線が遮られ見えないところ「電柱の―に隠れる」 3人の目にとどかないところ。「―で悪口をいう」 4表面に現れない所。物事の裏面。「勝利の―にはたゆまない努力がある」 5、はっきりとしないが、どこか暗い感じがすること。「―のある表情」 6、「蔭祭り」の略 7、恩恵を与えること。その人。御陰。「たれを頼む―にて、ものし給いはむとすらむ/源氏)。 似て否なる言葉、『影』と『蔭』。 個人的感想としては、全体的には『影』は実体があるけど『蔭』は空間に対する言葉のようですね。 「ビルの―」と言ったとき、『影』を使うとその形そのものを指すけど、『蔭』を使うとその空間を表す事になる。 「ビルの影になって、日当たりが悪い」というのは誤用かなと。 ビルと『影』の間の空間を表すのが『蔭』。 後、面白いのは『影』なのに光ってる「星影」。 光ってるのに何故『影』?? >最初は、存在論的に、影は、実在しますか、存在しますか。と問うて見ましょう。 う~ん、あやふやですね。 6,7,9,10,13の意味は、実態があるかどうか分かりませんよね。 6,7、9は人間の精神に深く関わった意味ですね。 『蔭』については、空間を指す言葉であり、神聖な意味合いも含まれる言葉でほぼ納得できるのですが。 取り合えず、『影』と『蔭』の講釈で閉めておきます。 (講釈というよりも、転載しただけのような・汗)

fishbowl66
質問者

お礼

やや、お礼が遅れてしまいました、申し訳ありません。 今回もご協力頂き、感謝いたします。 ふむふむ、「かげ」と言っても、色々ですね。21種類になりますね。 これでは、聖徳太子でも三人いないと考えられないです。 >『影』 >1、物が光を遮ったとき、光源と反対側に出来る、その黒い形「夕日に―が長く伸びる」 >3、水面や鏡にうつるそのものの姿「―をうつす」 >『陰・蔭・翳』 >1,光が遮られて当たらない所「ビルの―になって日当たりが悪い」 >2、物などにより視線が遮られ見えないところ「電柱の―に隠れる」 ひとまず、存在が問題になりそうなのは、上記の四点でしょうか、 それ以外は、観念的な、人間が作り出した、存在、おなじ存在でもレベルが違いそう。 ここでも、光の遮断と言う客観性と、自分の視線からの遮断と言う主観性が混同している、そこで存在のレベルの一番本質的な客観性に注目すると、空間的陰は、主体の位置に左右されるから、ビルの陰は存在しない。 う~ん、本当かなぁ(笑。 ビルの影なら、誰が見ても、一応有るような気がするのだが、謎。

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回答No.5

こんばんは、fishbowl66さん。 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kumamoto/kikaku/040/6.htm ↑ いまさっきまで、ココみてました。 (*^^*)>゛゛゛開けてビックリ?玉手箱~♪ いやさー、太陽の周りをまわる地球みたいやなぁー、と、おもったわけさ。陽があたるかとおもえば時が巡り来る中でぐわぁーっと影にすっぽりのまれたり、またしばらくして時をおくとぐわぁーと陽が辺り一面を照らしたり。で、太陽ー地球ときたらば忘れちゃいけないのが月、お月さん~♪月の満ち欠けは明るうなったり暗ろうなったりと。じわじわ明るうなったり暗うなったりする日があるかと思えば、突如として真っ暗に…月が太陽の前にバーンとあらわれるやいなや影が空を覆う。皆既日食。並びが太陽ー月ー地球と配列するとちょうど窓のブラインドを下ろしたように地球におるもんからしたらクロウなる。太陽ー地球ー月と地球の真後ろに月が来たときこれまたクロウなる。月食。地球を自身と考え、影はどうしてできるの?と、問えば…光が遮断されるからさ、光を遮断しているのは?時に月であったり地球自身であったりと知らず知らずのうちに自身の影が月のあかりを消してしまう。また、明るい陽の光が月のあかりを消してしまう。打ち消しあう。人の感情は年を経るほどに+ー0相殺~総括へ。 めぐる めぐる 季節の中で あなたは なにを みつめるだろう

fishbowl66
質問者

お礼

成る程、きじ馬ですか、子供の引っ張るおもちゃの車ですな。 しからば、これでどうじゃ http://www.asahi-net.or.jp/~SA9S-HND/agal16_2.html 何を聞いて、首を振り振り、さっぱり要領を得ない、べこ、私でございます。 光の遮断までは、いけるのですが、 その先は、行き止まりなのかが問題ですね。 めぐる、めぐる ノエシス・ノエマ めぐる、めぐる シニフィエ・シニファン めぐる、めぐる、めぐるめぐるめ、おなかが空いた。

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  • kigurumi
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回答No.4

No.2です。 >「光が満ち溢れています。光はすべてのものに反射して、影はどこにも見当たりません。 >眩しすぎて何も見えないよ。 >そう。ここは影のない世界。だから何も見えないのよ。 >ものを見るためには光と影が必要なの。悪がなければ善が見えないようにね。 死が存在しないと生が存在しないのと一緒ですね。 キリスト教は沢山の悪魔を創造しました。 神を存在させるためには、悪魔が必要だったから。 今日ギャオで、クリーシブルって映画観ました。 http://www.gyao.jp/sityou/catedetail/contents_id/cnt0026693/ 神を正義とするためには、悪魔が必要で、そのために人を殺していった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%AD%94%E5%A5%B3%E8%A3%81%E5%88%A4 集団ヒステリーが原因であって、悪魔が実在したという事件じゃあなかったわけですが。 しかし、神が存在するためには悪魔が存在不可欠って皮肉ですね。 それでてっとり早く 悪魔は存在するとすれば神は存在するとしたかったのか、カトリックでは悪魔祓いの部隊が本当にいるのだとか・・・・ なんか 方向性 違うんじゃないか・・・と思うのは私だけ? 確かに自分とは違うものが存在しないと、自分の存在も危うくなるかも。 <我 思うゆえに 我あり>としたデカルトも神が存在するという前提じゃないと、この理論は成り立たないらしい。 >「ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント・・」うまくリンクしなかったら、此方です。 ああ、原作者がオフレコで述べたもの、 公開されてしまった記事読みました。 「全く別物」とオフレコで原作者は述べており、私の映画の方を観ましたが、全く内容も別物でした。 内容が違ったとしても影の概念は一緒か?というと、違う。 無理解すぎたまま作品にしてしまった。 あえて言うなら大失敗作。 ただし、原作とは全く関係ない物語 だとすれば、失敗というものにはならないが、普通のほかでもよく見かける物語。 ゲド戦記での影の概念は 畏怖するもの みたいなもっと尊ぶ・・・というか重要な要素として描かれている。 原作者のホームページで オフレコで述べたものが巷に流れてしまったことに対して、意見を述べていたと思います。 (雑誌と記憶違いかもしれませんが) >奇妙なのは、喜んだ人たちはしばしば、失望した人たちに対して敵意をもって反応するのに比べ、 >その逆はめったに見られないことです。 敵意は持ちませんが、悲しみというか、、、哀悼というか、、、ため息というか、、、、  原作の方は小学生や中学生では理解しろといっても無理な物語だと思う。 それで映画化にあたって小学生でも理解できるストーリーに書き直されたんじゃないかと。 ただし、無理解なまま映画化してしまった無謀さが・・・若い頃のゲド並みの危険な影。 それによって宮崎五郎が間違えた道に向かわなければいいけど と思っていたら。。。  ああ 人工の林を作って自然を再生していると言っている。 かなり無謀です。 人工で作ったものは人工でしかない。 自然は自然しか作れない。 人間が領域に入らないのが自然を再生させる唯一の道だと思います。 まあ たまーにの訪問なら破壊しないと思いますが。 あ、そうそう。 私、日本語に翻訳した人の講座を受講したことがあります。 ゲド戦記についてとファンタジーの世界についての講義でした。 それで、内輪の出来事も教えてもらったんです。 ゲド戦記は全巻光と影がテーマ。 最初にこう書いてあります。 「言葉は沈黙に  光は闇に  生は死の中にこそあるものなれ  飛翔せるタカの  虚空にこそ輝ける如くに  ---『エアの創造』---  」 この全巻に流れるテーマに書いてあるのに気づけない読者がかなり多かったみたいです。 長い年月の沈黙を破り<帰還>という巻が出ると発表されると、ファンたちはこぞって喜びました。 しかし、読んだ読者からものすごいブーイング。 「我々は魔法をなくしたゲドなどみたくなかった。 我々は男たちにまわされ火にくべられた少女の物語など読みたくなかった。」 原作者のル・グウィンは必死に説明を試みボロボロになったそうです。 それを知った日本語に翻訳した清水真砂子さんは手紙を書き「I know.I know」と伝えたそうです。 「少なくとも私はあなたの真意をわかっている」 って伝えたわけです。 ファンたちはこの物語の本質を全く理解しないまま今ままで読んでいたんですね。 ハリー・ポッター系の人たちだったわけです。 魔法をバンバン使い悪者をやっつける勇者がゲドだと思っていた。 光だけ望んだ。 光だけでは実在できないとわかっていなかった。 で、清水さんはファンタジーの世界を氷山に例えて説明していました。 水の上に出ている部分が、文字として現れている。 が、文字には表されない水面下にあるほうがものすごい。 それを感知しながら読む。 これがファンタジーの世界。 水の上に出ている氷の点。  これは水面下につながていて、それはまた別な水面上の氷の点につながっていっている。 この水面下にある氷がゲド戦記の影の部分。 この影を感知しながら読まないと、この世界がわからず、ブーイングになってしまう。 影って意識に対して、無意識の部分のようなもの。 あるのにあると気づきづらい。 そして無いと思ってしまいがち。 光と影で成り立っているのに、光だけで全てが成り立っていると思っていると、それは全部が見えているつもりで、実は一部をみて全部見たと思っているだけ。 光と影は単純に、正義 VS 悪 の世界じゃあない。 アチュアンの神殿から抜け出したゲドは、知られざるもの(名もなきもの)が存在していると感知した。 それはゲドにとって 未知の領域なので脅威の対象でもあり、ずっと脅威の対象として気をつけるべきだと認識しつづけた。 大賢者になった後も。 ゲドは子供の頃 傲慢な少年で、「影など光で押し返してくれるわ」と意気込んでいて、死者すらも呼び出そうとしたんです。 その結果、死にかけて、魔法学院の賢者が身代わりになって救出したことで、生き返った。 この時、 影の恐ろしさを思い知らされることになったが、まだ ここでも その自分を滅ぼす力のある影の正体(真の名)がわかっていなかった。 ゲド戦記でいく影の概念。 日本も昔は真の名を人々は持っており、それは隠していましたよね。 その真の名がその人の本質を表していた。 だから 敵に知られるとまずいので、隠していた。 支配者は部下の真の名を知っていたが、逆は無かった。 そして昔の人は、影の力の恐ろしさを知っていた。 だから神社を作って奉ったりしていた。 今は影の存在を認識するのが希薄なので、日本ではものすごい宗教が盛んってわけじゃあない。 でもあちこち 影の力が噴出しないように神社を設けて封じていたりしています。 現代でも影は全くの迷信だと片づけていないわけですね。 質問内容を読むと、プラトンらの影の概念と、ゲド戦記の影の概念は違うと思えます。 プラトンらは無機質的に影をとらえており影の本体である雛形があるはずだ という考え。 ゲド戦記では隠れている とか 知られざるが実在しており、生きていると捕らえている。 光と影の距離は0。 別物じゃあない。 他者じゃあない。 ぞっとそばにあるのに、見えていないだけ。 これを知っていればセーラムの魔女裁判は起こらなかったかも。 中世のキリスト教により魔女狩りは起こらなかったかも。 日本の部落問題は起こらなかったかも。 プラトンの方が哲学的かというと、ゲド戦記の影の概念も十分哲学的だと思います。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 今回も色々な方面で参考になることばかりです。 私も、このサイトで色々勉強させてもらい、少しばかり本も読みますが まだまだ、点々とした知識のようなもので、知らない事が一杯です。 プラトンの影は今風に理解すると、現象学で言う「現象」を影と表現して、イデアとしての本質的な存在が、つまり、実在になるのでしょうか。アリストテレスで行くと、様態と言うややこしいものが、今風には、ドゥールズの「差異」とかホワイトヘッドの「過程」が実在と言えるのでしょうか。 ゲト戦記の影は、これらとは少し違うようですね、 原作も映画も見ていないですが、内なる影みたいな感じ。 ただし、ゲト戦記の原作のテーマが、光と影とすると、両方とも内なのかは判りませんね。 魔女裁判からイスラムの宗教対立は同根の影が付き纏いますが、ゲトの影でしょうか。 興味深い問題ですが、今回は、外部世界に存在する影に話を戻しましょうか。 あれこれ考えてみましたが、結局、視覚を中心とした外部世界の把握の過程での、情報(光)の不足が「影」処断が「陰」と言う説明ができそうなのですが、そうすると、不足するもの、無い物、つまり、「不在の存在」と言う不思議な問題になる。 あれ~この先には何があるんだろう、行き止まりか(笑。

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回答No.3

こんにちは、fishbowl66さん。 影ですか? それは… かえるぴょこぴょこみぴょこぴょこあわせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ はぁー、ひぃー、ふぅー はぁ、はぁ、 見えないところで特訓、かさねてます。カエル跳び積むと、いつか月まで飛んでいけるぐらいのウサギ跳びに飛躍するんじゃないかと夢と希望を抱きつつ日夜地獄の特訓に歯くいしばり励むわけです。時に、汗と涙で目の前が見えにくくなることもしばしば、 __//\\//\\__ と、そんな時はワイパー動かし右へ左へフリフリ。視界すっきり安全運転に努めるわけです。 ぼちぼち、輪郭見えてきましたか?まだ?そりゃ困った。 ではでは、ちょっくら、練習の成果をちとご覧あれ~~。 [BGM]おもいぃ~ こんだぁ~ら~♪ ヒザヒザヒザ…と『ヒザ』と声に出して10回言ってみて下さい。 (腕を指さし)「はい、ここは?」→ あっ?!いま、『ヒザ』っていいませんでしたか?ヒザじゃいですよ、ここは→腕! (*^^*)v 舵取り宜しくですー☆ ETV http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5714/saturn.html http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5714/shinbun/2007_03.pdf 影と陰の国語の解釈は… “義を見て為ざるは勇無きなり”

fishbowl66
質問者

お礼

「かえる」さんが、水面から目を出す、 上手いですね。 ロケットは良いですが、 次のが駄目、・・・ 幸い、再度のご回答がありますから、その時まで。 少し遅くなるかも、ひょっとして・・・ 来週、迷子になっていなければ、よいのですが。 有難うございました。

fishbowl66
質問者

補足

“義を見て為ざるは勇無きなり”littlekiss様の勇気を効果的に利用させていただきます。 つまり、予定を変更して、littlekiss様の補足欄お借りします。 前回の質問は全く忘れてください。相変わらず、手前勝手な質問文、 質問の意図をもう少し詳しく書いて置きます。 クオリアの問題です、赤い・痛い・甘い等の、感覚所与は厳密には所与といえるかもしれませんが、直接所与と言うと、間違いになるのでは、赤さとかのクオリアは、表面の状態を認識するためにという説明もひとつの可能性を持つ、人間が付け加えたもの、です。そこで、「影」です。 「影」は色のクオリアと違って、直接所与として、外部世界に実在するでしょうか? お礼は、見てのお楽しみ。あれ?

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  • kigurumi
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回答No.2

アリストテレスだったか忘れましたが、こんな例えをしました。 人間は洞窟に中にいて、影絵を見ているようなものだ。 人間・影絵・実態。 その先に光源(神)がいる。 実態をイデアと呼び、雛形と考えた。 だから りんごがいくつあって、本当はそれぞれが違うはずなのに、誰もがどのりんごを見ても、りんごだと答える。 それはそのりんごというイデア(雛形)は一つだから。 みたいな感じだったと思います。 (とここまで書いて、質問をもう一度読み返すと、アリストテレスではなく、プラトンが言ったわけですね。名前 間違えてしまいました。) 今ではイデアは雛形というより、アイデア・一つの考え という意味になって使われてしまうようになり、本来の意味とは別なものになってしまった。 ある日だれかが、洞窟の抜け出け出す方法を見つけ、抜け出し映し出された影ではなく、実態を見て帰ってきたとしたら。 「我々が見ていた狼は、本当は神の指だった」 こう言っても誰か信じるでしょうか? 外に出ておかしくなってしまった と思い 映し出された狼(影)は神の指だとは決して見ない限りは信じることはできない。 見えているものを実態だとしか認識できないから。 影。 文学的に影はいろいろな形で表されている。 例えば聖書のアポクリファ。 知られざる叡智 とか 隠された叡智 とか。 顕教の影は密教。 なんか影というと悪いイメージがつきますが、実は実態だと思っていたものが、我々が言うところの影の影で、我々は見ているといっていながら、実は影を実態だと思っているの かも しれない。 ゲド戦記というものに、「影との戦い」というものがある。 ゲド戦記の世界では、通称と真の名 という概念がある。 主人公名 ハイタカは通称。 この世界では真の名はよほど信頼できる相手にしか教えない。 何故なら真の名はその人の実態そのものを表すから。 敵対する相手に真の名を知られると、全てを知られるので、弱点も知られることになり、相手の手の内に入ってしまう。 だから この世界では滅多なことが無い限り、相手の自分の真の名を教えない。 ゲドは、龍と戦うことになったが、どうしても勝てない。 そして 調べ上げてとうとう龍の真の名がわかった。 今までは龍の影しか見えていなかったので、影にいくら攻撃をしかけても 空を突くような状態だったので勝てなかったが、ついに相手の真の名を見つけ出したことで、影ではなく実態そのものを認識できるようになり、自分の手の内に入れてしまえた。 相手の実態を把握できたので、どうにでもできるレベルになった。 龍をも捕捉する桁外れの能力を持ったハイタカ。 それでも自分の周りをうろつく何か 影にイライラさせられた。 「影など光で押し返してくれるわ」と言いながら、陰の存在が気になってしょうがない。 それでついに、影の正体を見破り影を打ち負かそうと決心し旅に出た。 だが影の真の名がわからない。 真の名 実態はなんなのかわからないので、どこを探していいのかもわからない。 だが、旅をしているといつか影の方からまた近づいてくると、当ての無い旅をする。 この世の端と称されるところまで船で旅をしたところ、影がまた近づいてきたことを悟った。 ゲドは影と向き合った。 ゲドはついに自分につきまとっていて自分をイライラさせていた影の真の名がわかった。 魔法使いの杖を足元に落とし、両手を広げ、影を抱きしめ、影の真の名を言った。 こわれた腕環編では、神殿をたてて影を崇拝する人々が登場する。 影を崇拝する巫女の頂点に立つ大巫女が死ぬと、生まれかわると信じられており、その大巫女が生まれ変わったら人々は探し出し大巫女の地位につける。 テナーは大巫女の生まれ変わりとされ、子供の頃殺される儀式を受ける。 食われしもの と称される。 儀式により食われてしまったので、テナーの人生はそこで終わりをむかえ、大巫女アルハとして影につかえることになった。 一度入ったら二度と出られないその影が住む迷宮の神殿にハイタカがこわれた腕環のもう片方を探しにやってきた。 食われしものが住む神殿では魔法の力がどんどん弱まっていく。 侵入者がやってきたことを察知したアルハはゲドを殺そうとする。 だが、影・知られざる者に食われしもののアルハは食われつくされてはいなかった。 ハイタカはアルハに自分の真を与え、アルハはゲドに自分の真の名を与える。 とても危険な行為です。 食われしものの神殿の守護者アルハが神殿から出たとき、食われしもの 影のようなものがハイタカは実在していると知る。 食われしものは守護者アルハが神殿から出れないようにしようとするが、アルハはハイタカによって救出された。 そしてアルハはものすごい殺意をハイタカに持ち殺そうとする。 だが、ハイタカはそれに気づかぬふりをする。 ハイタカもアルハの真の名を知っているから。 とまあ ゲド戦記は全編が実態と影に関する物語です。 通称と真の名。これによって構成されている世界。 読むとゲド戦記の真の名 つまり 何を作者が言おうとしているのか なんとなーくみえてくる。 我々は見ているようで、認識しているようで、実際は実態が映し出す影を実態だと思っている。 しかも世の中ばかりではなく自分自身に対しても。 影の部分に苦しむことの愚かさ。 影を拒否し影を他者としようとする無駄な努力。 人間は実態と影で成り立つ。 分離できない。 分離したら人間ではなくなる。 ハイタカが使う魔法は実態ではない。幻。 しかしそのハイタカの使う魔法実態だと思って、人々はくくられたり拘束されたりする。 魔法はむやみに使うものではない。 さいはての島編では、アレンは大賢者(ハイタカ)と一緒にこの世を救う旅に出る。 しかし、南の島で原住民に殺されかかる。 アレンは自分が愚かだったと思う。 原住民の攻撃にさらされ、魔法を使うわけでもなく 無様にやられて瀕死のハイタカを見て、こんな男とともにこの世を救えるはずなどないと、自分の愚かな決断を呪う。 この旅はアレンにとっての自分の影との戦いの旅。 帰還。 魔法使いのハイタカが人間に帰還する物語。 この世を救うため 全ての魔法を使い切ったハイタカ。 もう その手には魔法の杖は無い。 我々は生まれると同時に仮の名を与えられる。 ○○さんの息子・娘、 おにいちゃん おねーちゃん、○○さんにとってお父さん、○○大学の学生、○○会社の部長・社長。 その幻 つまり魔法を使って生きていく。 しかし、いつか魔法を喪失する。 例を挙げると去年までたくさんの年賀状・沢山のお歳暮が届いたのに、定年退職した途端、会社関係の年賀状は1通も来ない。 人々はその役職という魔法に捧げ者をしていたわけです。 魔法を喪失した人間にはもう用は無い。 それでも魔法を喪失したと気づけない男は、玄関のポストの前で、づっと年賀状を待つ。 自分の影に気づけないでいる。 人間に帰還したことに気づけないでいる。 影の存在を知らないから。 洪水になったときある男が言ったそうです。 「今すぐ自衛隊を派遣して俺を救出しろ。俺は○○会社の社長だ」 緊急事態で誰もが被災して右往左往している中で、魔法を使おうとした愚かな男。 この緊急事態の場では魔法は通用しない。 魔法が通じないことに男は激怒する。 他者が魔法に操られ動かないことに男は激怒する。 魔法の威力が足らないのか ともっと偉大な影を持つ知り合いの名前を利用して魔力を使おうとしても、その魔法は通用しない。 実態のみが通用する世界に隔離されていると気づけない。 魔法は効かない。 アチュアンの神殿の中にいることに気づけない愚かな男。 知られざる影を崇拝する神殿に第一巫女として仕えていながら、知られざる影が存在するなど思ってもいないコシルのようなもの。 ここで○○大学の名誉教授としての回答だ と書いてその魔法がここで通用すると思っている人 いるでしょうか。 その影によってその回答を鵜呑みのする人もいるかもしれない。 魔法により幻影を見せられて、それを影ではなく実態だと思い込んでしまう人もいる かも しれないですね。 我々はそのものを認識することはできない。 影を実態だと思って認識することしかできない。 そしていつまでも影をみることに飽きると、哲学という当ての無い旅に出たりするのかもしれない。 影の真の名がわかる日がいつか来るのでしょうか? 真の名がわかった人は賢者 とか 悟った人 とか呼ばれる。 でも そう呼んだ人が真実を知ることはできない。 だって こっちの世界に住んでいるのだから。 所詮 影を言っているのだから。 とまあ 国語的解釈で影の概念を書いてみました。

fishbowl66
質問者

お礼

本当に勉強になりますね。 「ゲト戦記」てっきり、「イリアス」のような古典かと思っていました。 なに、最近のファンタジー小説ですか、そう言えば、本屋に山積みされた本、色々有りましたね。 影が主役ですか、知りませんでした。 父親殺しの影と、第四の私「秘私的なわたし」の関連が興味深いですね。 舞台の上では、役者は役になりきるのですが、 舞台を降りても、切り替えの出来ない人もいるのですね。 まぁ、此処では皆さん、役者であるとともに観察者です、 私も、観葉植物の一役を、せっせと努めましょうか。 図書館へ行くと、決まった書棚をチェックします、ほとんど変わりはありませんが 先日、ちょっと変わった本を見つけました。 「市場(Souk.スーク)の中の女の子」松井彰彦 赤瀬川さんの、お金の何とか程ではないですが、絵本に近い。 「光が満ち溢れています。光はすべてのものに反射して、影はどこにも見当たりません。 ・・・ 眩しすぎて何も見えないよ。 そう。ここは影のない世界。だから何も見えないのよ。 ものを見るためには光と影が必要なの。悪がなければ善が見えないようにね。 そのとき、またあの声が聞こえてきました。 それと同じように、ものを考えるためには記憶と忘却が必要なんだよ。」(引用上記) 経済学の本ですがファンタジー小説風、珍しく、一日中読み続けても、頭が痛くならない。 でも、偶然、影が出てきて、今月は影ずくしの一ヶ月でしょうか。 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLJ,GGLJ:2006-45,GGLJ:ja&q=%e3%82%b2%e3%83%88%e6%88%a6%e8%a8%98 参考URL「ゲト戦記」のなんたらこうたら。 「ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント・・」うまくリンクしなかったら、此方です。 >奇妙なのは、喜んだ人たちはしばしば、失望した人たちに対して敵意をもって反応するのに比べ、 >その逆はめったに見られないことです。 これ意味深ですが、「文化は衝突すべきではない」と言う偉い人の言葉は、根拠がないね。 ご回答有難うございました。

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noname#31063
noname#31063
回答No.1

前回の質問は異例の特例が出ましたね。 で、みなさんの寛容さを覚えました。 偏見より我が身の安らぎに寛容は必須ですからね。 ええ、観葉植物増やし中。 「影」という詩を書いたことある。 影は闇じゃない。 隠されたものでなく現れたもの。 遮る輪郭を切り取って 誰かを何かの奥行きになる。 影は光りが無ければ存在できない。 影自体が光りを消せはしない。 それなのに光りに消されてしまう。 のような感じで、記録していないので殆ど忘れてしまいました。 実在にしては、能動的にも受動的にも、 消極的過ぎて自己満足に至るものが無いですよね。 国語的には隠語はある、影語ってない…。

fishbowl66
質問者

お礼

先月に引き続き、miko-desi様、ご回答、感謝いたします。 質問を締め切る際、Q&Aの講評も楽しそうですが私には荷が勝ちすぎ。 でも、前回の異例の特例という言葉に甘えて、すこし。 まぁ~要するに、 雑誌にクーポン広告を出稿しようとして、雑誌の出版元からクレームをくらい、 クーポン抜きで、残念と思っていると、どういう訳か、雑誌が馬鹿売れ、およそ一月、忸怩たる気分。 ふとどきな質問に皆様の「観葉力」の力に感謝するばかりです。 さて、今月はどうなることでしょう。 今日は一日荒れ模様ですが、昨日こちらは、雲ひとつない青空が広がっていました。 自転車のトレーニングは土曜日に済ませ、好天にも拘らず、珍しく一日読書。 たまたま、影の質問をした後、この本を読むのはなにやら因縁めいています、 本のことは、♯2様のお礼で紹介します。 お散歩がてら、遠くを眺めて、眼の運動。 まっさおの空で、きらりと光るものが、 立ちどまって、空をじっと見上げます。 明るさに眼が慣れてくると、グライダーのようです。 まるで、白いトンビのように、翼を広げて何度も旋回します。 やがて、一片の影も見せずに、青の中に溶けて行きました。

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