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ほにゃらか形而左右学 影

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.2

アリストテレスだったか忘れましたが、こんな例えをしました。 人間は洞窟に中にいて、影絵を見ているようなものだ。 人間・影絵・実態。 その先に光源(神)がいる。 実態をイデアと呼び、雛形と考えた。 だから りんごがいくつあって、本当はそれぞれが違うはずなのに、誰もがどのりんごを見ても、りんごだと答える。 それはそのりんごというイデア(雛形)は一つだから。 みたいな感じだったと思います。 (とここまで書いて、質問をもう一度読み返すと、アリストテレスではなく、プラトンが言ったわけですね。名前 間違えてしまいました。) 今ではイデアは雛形というより、アイデア・一つの考え という意味になって使われてしまうようになり、本来の意味とは別なものになってしまった。 ある日だれかが、洞窟の抜け出け出す方法を見つけ、抜け出し映し出された影ではなく、実態を見て帰ってきたとしたら。 「我々が見ていた狼は、本当は神の指だった」 こう言っても誰か信じるでしょうか? 外に出ておかしくなってしまった と思い 映し出された狼(影)は神の指だとは決して見ない限りは信じることはできない。 見えているものを実態だとしか認識できないから。 影。 文学的に影はいろいろな形で表されている。 例えば聖書のアポクリファ。 知られざる叡智 とか 隠された叡智 とか。 顕教の影は密教。 なんか影というと悪いイメージがつきますが、実は実態だと思っていたものが、我々が言うところの影の影で、我々は見ているといっていながら、実は影を実態だと思っているの かも しれない。 ゲド戦記というものに、「影との戦い」というものがある。 ゲド戦記の世界では、通称と真の名 という概念がある。 主人公名 ハイタカは通称。 この世界では真の名はよほど信頼できる相手にしか教えない。 何故なら真の名はその人の実態そのものを表すから。 敵対する相手に真の名を知られると、全てを知られるので、弱点も知られることになり、相手の手の内に入ってしまう。 だから この世界では滅多なことが無い限り、相手の自分の真の名を教えない。 ゲドは、龍と戦うことになったが、どうしても勝てない。 そして 調べ上げてとうとう龍の真の名がわかった。 今までは龍の影しか見えていなかったので、影にいくら攻撃をしかけても 空を突くような状態だったので勝てなかったが、ついに相手の真の名を見つけ出したことで、影ではなく実態そのものを認識できるようになり、自分の手の内に入れてしまえた。 相手の実態を把握できたので、どうにでもできるレベルになった。 龍をも捕捉する桁外れの能力を持ったハイタカ。 それでも自分の周りをうろつく何か 影にイライラさせられた。 「影など光で押し返してくれるわ」と言いながら、陰の存在が気になってしょうがない。 それでついに、影の正体を見破り影を打ち負かそうと決心し旅に出た。 だが影の真の名がわからない。 真の名 実態はなんなのかわからないので、どこを探していいのかもわからない。 だが、旅をしているといつか影の方からまた近づいてくると、当ての無い旅をする。 この世の端と称されるところまで船で旅をしたところ、影がまた近づいてきたことを悟った。 ゲドは影と向き合った。 ゲドはついに自分につきまとっていて自分をイライラさせていた影の真の名がわかった。 魔法使いの杖を足元に落とし、両手を広げ、影を抱きしめ、影の真の名を言った。 こわれた腕環編では、神殿をたてて影を崇拝する人々が登場する。 影を崇拝する巫女の頂点に立つ大巫女が死ぬと、生まれかわると信じられており、その大巫女が生まれ変わったら人々は探し出し大巫女の地位につける。 テナーは大巫女の生まれ変わりとされ、子供の頃殺される儀式を受ける。 食われしもの と称される。 儀式により食われてしまったので、テナーの人生はそこで終わりをむかえ、大巫女アルハとして影につかえることになった。 一度入ったら二度と出られないその影が住む迷宮の神殿にハイタカがこわれた腕環のもう片方を探しにやってきた。 食われしものが住む神殿では魔法の力がどんどん弱まっていく。 侵入者がやってきたことを察知したアルハはゲドを殺そうとする。 だが、影・知られざる者に食われしもののアルハは食われつくされてはいなかった。 ハイタカはアルハに自分の真を与え、アルハはゲドに自分の真の名を与える。 とても危険な行為です。 食われしものの神殿の守護者アルハが神殿から出たとき、食われしもの 影のようなものがハイタカは実在していると知る。 食われしものは守護者アルハが神殿から出れないようにしようとするが、アルハはハイタカによって救出された。 そしてアルハはものすごい殺意をハイタカに持ち殺そうとする。 だが、ハイタカはそれに気づかぬふりをする。 ハイタカもアルハの真の名を知っているから。 とまあ ゲド戦記は全編が実態と影に関する物語です。 通称と真の名。これによって構成されている世界。 読むとゲド戦記の真の名 つまり 何を作者が言おうとしているのか なんとなーくみえてくる。 我々は見ているようで、認識しているようで、実際は実態が映し出す影を実態だと思っている。 しかも世の中ばかりではなく自分自身に対しても。 影の部分に苦しむことの愚かさ。 影を拒否し影を他者としようとする無駄な努力。 人間は実態と影で成り立つ。 分離できない。 分離したら人間ではなくなる。 ハイタカが使う魔法は実態ではない。幻。 しかしそのハイタカの使う魔法実態だと思って、人々はくくられたり拘束されたりする。 魔法はむやみに使うものではない。 さいはての島編では、アレンは大賢者(ハイタカ)と一緒にこの世を救う旅に出る。 しかし、南の島で原住民に殺されかかる。 アレンは自分が愚かだったと思う。 原住民の攻撃にさらされ、魔法を使うわけでもなく 無様にやられて瀕死のハイタカを見て、こんな男とともにこの世を救えるはずなどないと、自分の愚かな決断を呪う。 この旅はアレンにとっての自分の影との戦いの旅。 帰還。 魔法使いのハイタカが人間に帰還する物語。 この世を救うため 全ての魔法を使い切ったハイタカ。 もう その手には魔法の杖は無い。 我々は生まれると同時に仮の名を与えられる。 ○○さんの息子・娘、 おにいちゃん おねーちゃん、○○さんにとってお父さん、○○大学の学生、○○会社の部長・社長。 その幻 つまり魔法を使って生きていく。 しかし、いつか魔法を喪失する。 例を挙げると去年までたくさんの年賀状・沢山のお歳暮が届いたのに、定年退職した途端、会社関係の年賀状は1通も来ない。 人々はその役職という魔法に捧げ者をしていたわけです。 魔法を喪失した人間にはもう用は無い。 それでも魔法を喪失したと気づけない男は、玄関のポストの前で、づっと年賀状を待つ。 自分の影に気づけないでいる。 人間に帰還したことに気づけないでいる。 影の存在を知らないから。 洪水になったときある男が言ったそうです。 「今すぐ自衛隊を派遣して俺を救出しろ。俺は○○会社の社長だ」 緊急事態で誰もが被災して右往左往している中で、魔法を使おうとした愚かな男。 この緊急事態の場では魔法は通用しない。 魔法が通じないことに男は激怒する。 他者が魔法に操られ動かないことに男は激怒する。 魔法の威力が足らないのか ともっと偉大な影を持つ知り合いの名前を利用して魔力を使おうとしても、その魔法は通用しない。 実態のみが通用する世界に隔離されていると気づけない。 魔法は効かない。 アチュアンの神殿の中にいることに気づけない愚かな男。 知られざる影を崇拝する神殿に第一巫女として仕えていながら、知られざる影が存在するなど思ってもいないコシルのようなもの。 ここで○○大学の名誉教授としての回答だ と書いてその魔法がここで通用すると思っている人 いるでしょうか。 その影によってその回答を鵜呑みのする人もいるかもしれない。 魔法により幻影を見せられて、それを影ではなく実態だと思い込んでしまう人もいる かも しれないですね。 我々はそのものを認識することはできない。 影を実態だと思って認識することしかできない。 そしていつまでも影をみることに飽きると、哲学という当ての無い旅に出たりするのかもしれない。 影の真の名がわかる日がいつか来るのでしょうか? 真の名がわかった人は賢者 とか 悟った人 とか呼ばれる。 でも そう呼んだ人が真実を知ることはできない。 だって こっちの世界に住んでいるのだから。 所詮 影を言っているのだから。 とまあ 国語的解釈で影の概念を書いてみました。

fishbowl66
質問者

お礼

本当に勉強になりますね。 「ゲト戦記」てっきり、「イリアス」のような古典かと思っていました。 なに、最近のファンタジー小説ですか、そう言えば、本屋に山積みされた本、色々有りましたね。 影が主役ですか、知りませんでした。 父親殺しの影と、第四の私「秘私的なわたし」の関連が興味深いですね。 舞台の上では、役者は役になりきるのですが、 舞台を降りても、切り替えの出来ない人もいるのですね。 まぁ、此処では皆さん、役者であるとともに観察者です、 私も、観葉植物の一役を、せっせと努めましょうか。 図書館へ行くと、決まった書棚をチェックします、ほとんど変わりはありませんが 先日、ちょっと変わった本を見つけました。 「市場(Souk.スーク)の中の女の子」松井彰彦 赤瀬川さんの、お金の何とか程ではないですが、絵本に近い。 「光が満ち溢れています。光はすべてのものに反射して、影はどこにも見当たりません。 ・・・ 眩しすぎて何も見えないよ。 そう。ここは影のない世界。だから何も見えないのよ。 ものを見るためには光と影が必要なの。悪がなければ善が見えないようにね。 そのとき、またあの声が聞こえてきました。 それと同じように、ものを考えるためには記憶と忘却が必要なんだよ。」(引用上記) 経済学の本ですがファンタジー小説風、珍しく、一日中読み続けても、頭が痛くならない。 でも、偶然、影が出てきて、今月は影ずくしの一ヶ月でしょうか。 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLJ,GGLJ:2006-45,GGLJ:ja&q=%e3%82%b2%e3%83%88%e6%88%a6%e8%a8%98 参考URL「ゲト戦記」のなんたらこうたら。 「ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント・・」うまくリンクしなかったら、此方です。 >奇妙なのは、喜んだ人たちはしばしば、失望した人たちに対して敵意をもって反応するのに比べ、 >その逆はめったに見られないことです。 これ意味深ですが、「文化は衝突すべきではない」と言う偉い人の言葉は、根拠がないね。 ご回答有難うございました。

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