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ほにゃらか形而左右学 影

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.4

No.2です。 >「光が満ち溢れています。光はすべてのものに反射して、影はどこにも見当たりません。 >眩しすぎて何も見えないよ。 >そう。ここは影のない世界。だから何も見えないのよ。 >ものを見るためには光と影が必要なの。悪がなければ善が見えないようにね。 死が存在しないと生が存在しないのと一緒ですね。 キリスト教は沢山の悪魔を創造しました。 神を存在させるためには、悪魔が必要だったから。 今日ギャオで、クリーシブルって映画観ました。 http://www.gyao.jp/sityou/catedetail/contents_id/cnt0026693/ 神を正義とするためには、悪魔が必要で、そのために人を殺していった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%A0%E9%AD%94%E5%A5%B3%E8%A3%81%E5%88%A4 集団ヒステリーが原因であって、悪魔が実在したという事件じゃあなかったわけですが。 しかし、神が存在するためには悪魔が存在不可欠って皮肉ですね。 それでてっとり早く 悪魔は存在するとすれば神は存在するとしたかったのか、カトリックでは悪魔祓いの部隊が本当にいるのだとか・・・・ なんか 方向性 違うんじゃないか・・・と思うのは私だけ? 確かに自分とは違うものが存在しないと、自分の存在も危うくなるかも。 <我 思うゆえに 我あり>としたデカルトも神が存在するという前提じゃないと、この理論は成り立たないらしい。 >「ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント・・」うまくリンクしなかったら、此方です。 ああ、原作者がオフレコで述べたもの、 公開されてしまった記事読みました。 「全く別物」とオフレコで原作者は述べており、私の映画の方を観ましたが、全く内容も別物でした。 内容が違ったとしても影の概念は一緒か?というと、違う。 無理解すぎたまま作品にしてしまった。 あえて言うなら大失敗作。 ただし、原作とは全く関係ない物語 だとすれば、失敗というものにはならないが、普通のほかでもよく見かける物語。 ゲド戦記での影の概念は 畏怖するもの みたいなもっと尊ぶ・・・というか重要な要素として描かれている。 原作者のホームページで オフレコで述べたものが巷に流れてしまったことに対して、意見を述べていたと思います。 (雑誌と記憶違いかもしれませんが) >奇妙なのは、喜んだ人たちはしばしば、失望した人たちに対して敵意をもって反応するのに比べ、 >その逆はめったに見られないことです。 敵意は持ちませんが、悲しみというか、、、哀悼というか、、、ため息というか、、、、  原作の方は小学生や中学生では理解しろといっても無理な物語だと思う。 それで映画化にあたって小学生でも理解できるストーリーに書き直されたんじゃないかと。 ただし、無理解なまま映画化してしまった無謀さが・・・若い頃のゲド並みの危険な影。 それによって宮崎五郎が間違えた道に向かわなければいいけど と思っていたら。。。  ああ 人工の林を作って自然を再生していると言っている。 かなり無謀です。 人工で作ったものは人工でしかない。 自然は自然しか作れない。 人間が領域に入らないのが自然を再生させる唯一の道だと思います。 まあ たまーにの訪問なら破壊しないと思いますが。 あ、そうそう。 私、日本語に翻訳した人の講座を受講したことがあります。 ゲド戦記についてとファンタジーの世界についての講義でした。 それで、内輪の出来事も教えてもらったんです。 ゲド戦記は全巻光と影がテーマ。 最初にこう書いてあります。 「言葉は沈黙に  光は闇に  生は死の中にこそあるものなれ  飛翔せるタカの  虚空にこそ輝ける如くに  ---『エアの創造』---  」 この全巻に流れるテーマに書いてあるのに気づけない読者がかなり多かったみたいです。 長い年月の沈黙を破り<帰還>という巻が出ると発表されると、ファンたちはこぞって喜びました。 しかし、読んだ読者からものすごいブーイング。 「我々は魔法をなくしたゲドなどみたくなかった。 我々は男たちにまわされ火にくべられた少女の物語など読みたくなかった。」 原作者のル・グウィンは必死に説明を試みボロボロになったそうです。 それを知った日本語に翻訳した清水真砂子さんは手紙を書き「I know.I know」と伝えたそうです。 「少なくとも私はあなたの真意をわかっている」 って伝えたわけです。 ファンたちはこの物語の本質を全く理解しないまま今ままで読んでいたんですね。 ハリー・ポッター系の人たちだったわけです。 魔法をバンバン使い悪者をやっつける勇者がゲドだと思っていた。 光だけ望んだ。 光だけでは実在できないとわかっていなかった。 で、清水さんはファンタジーの世界を氷山に例えて説明していました。 水の上に出ている部分が、文字として現れている。 が、文字には表されない水面下にあるほうがものすごい。 それを感知しながら読む。 これがファンタジーの世界。 水の上に出ている氷の点。  これは水面下につながていて、それはまた別な水面上の氷の点につながっていっている。 この水面下にある氷がゲド戦記の影の部分。 この影を感知しながら読まないと、この世界がわからず、ブーイングになってしまう。 影って意識に対して、無意識の部分のようなもの。 あるのにあると気づきづらい。 そして無いと思ってしまいがち。 光と影で成り立っているのに、光だけで全てが成り立っていると思っていると、それは全部が見えているつもりで、実は一部をみて全部見たと思っているだけ。 光と影は単純に、正義 VS 悪 の世界じゃあない。 アチュアンの神殿から抜け出したゲドは、知られざるもの(名もなきもの)が存在していると感知した。 それはゲドにとって 未知の領域なので脅威の対象でもあり、ずっと脅威の対象として気をつけるべきだと認識しつづけた。 大賢者になった後も。 ゲドは子供の頃 傲慢な少年で、「影など光で押し返してくれるわ」と意気込んでいて、死者すらも呼び出そうとしたんです。 その結果、死にかけて、魔法学院の賢者が身代わりになって救出したことで、生き返った。 この時、 影の恐ろしさを思い知らされることになったが、まだ ここでも その自分を滅ぼす力のある影の正体(真の名)がわかっていなかった。 ゲド戦記でいく影の概念。 日本も昔は真の名を人々は持っており、それは隠していましたよね。 その真の名がその人の本質を表していた。 だから 敵に知られるとまずいので、隠していた。 支配者は部下の真の名を知っていたが、逆は無かった。 そして昔の人は、影の力の恐ろしさを知っていた。 だから神社を作って奉ったりしていた。 今は影の存在を認識するのが希薄なので、日本ではものすごい宗教が盛んってわけじゃあない。 でもあちこち 影の力が噴出しないように神社を設けて封じていたりしています。 現代でも影は全くの迷信だと片づけていないわけですね。 質問内容を読むと、プラトンらの影の概念と、ゲド戦記の影の概念は違うと思えます。 プラトンらは無機質的に影をとらえており影の本体である雛形があるはずだ という考え。 ゲド戦記では隠れている とか 知られざるが実在しており、生きていると捕らえている。 光と影の距離は0。 別物じゃあない。 他者じゃあない。 ぞっとそばにあるのに、見えていないだけ。 これを知っていればセーラムの魔女裁判は起こらなかったかも。 中世のキリスト教により魔女狩りは起こらなかったかも。 日本の部落問題は起こらなかったかも。 プラトンの方が哲学的かというと、ゲド戦記の影の概念も十分哲学的だと思います。

fishbowl66
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 今回も色々な方面で参考になることばかりです。 私も、このサイトで色々勉強させてもらい、少しばかり本も読みますが まだまだ、点々とした知識のようなもので、知らない事が一杯です。 プラトンの影は今風に理解すると、現象学で言う「現象」を影と表現して、イデアとしての本質的な存在が、つまり、実在になるのでしょうか。アリストテレスで行くと、様態と言うややこしいものが、今風には、ドゥールズの「差異」とかホワイトヘッドの「過程」が実在と言えるのでしょうか。 ゲト戦記の影は、これらとは少し違うようですね、 原作も映画も見ていないですが、内なる影みたいな感じ。 ただし、ゲト戦記の原作のテーマが、光と影とすると、両方とも内なのかは判りませんね。 魔女裁判からイスラムの宗教対立は同根の影が付き纏いますが、ゲトの影でしょうか。 興味深い問題ですが、今回は、外部世界に存在する影に話を戻しましょうか。 あれこれ考えてみましたが、結局、視覚を中心とした外部世界の把握の過程での、情報(光)の不足が「影」処断が「陰」と言う説明ができそうなのですが、そうすると、不足するもの、無い物、つまり、「不在の存在」と言う不思議な問題になる。 あれ~この先には何があるんだろう、行き止まりか(笑。

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