• ベストアンサー

1956年のポーランド事情について

mk2007の回答

  • mk2007
  • ベストアンサー率21% (5/23)
回答No.1

ワルシャワ蜂起と言うポーランドで起きた事件に関するものと思われます。

grace2006
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ワルシャワ蜂起は1944年とありますのでどうも違う事件のようです。 けどソ連が自分の都合のイイ政府を作りたいから敢えて支援しなかったらしい…ので 全く関係ないって話でもなさそうですね。

関連するQ&A

  • 「ワルシャワ蜂起」を支持しなかった理由

    ソ連軍が「ワルシャワ蜂起」を支持しなかったのは、戦後ポーランド問題を扱うときに不利になるからだと判断した体と思われるのですが、その考え方がよくわかりません。「共同で追っ払ったから、ちょっと義理を貸したんだら、それよこせ!」っていう論理じゃだめなんでしょうかね。

  • 旧東ドイツとポーランドへの個人旅行

    9月に2人でベルリン・ライプツィヒ・ドレスデンとワルシャワ・クラクフに旅行(観光目的)に行くことになりました。 そこで質問なのですがホテル選びとポーランドの国内事情についてです。ドイツはフランクフルト-ミュンヘン間は何度か行っておりますので、ドイツ国内の雰囲気はおおよそ見当はつくのですが、旧東ドイツは初めてです。ポーランドは共産政権下のワルシャワだけ行ったことがありますが、あの薄暗い感じは今も同じかなあと推測しています。 私はごく簡単な英語かほんの片言のドイツ語はできますが、ポーランド語はまったくダメです。 1.ベルリン・ライプツィヒ・ドレスデンのホテルはどの地区にあるのがお勧めでしょうか?(逆に治安の良くない地区は避けたい)予算の都合でハイクラスではなくミドルクラス(三ツ星程度)で十分です。具体的なホテル名を挙げていただいても結構です。 2.同じくポーランドのワルシャワ(3泊)とクラクフ(2泊)のホテル事情の情報があれば教えてください。ワルシャワは旧市街地に近いところがいいかな?クラクフは街の規模もわかりませんし見当もつきません。 20年前のワルシャワのホテルはトイレットペーパーが段ボールを1度水に溶かして、再び固めたようなものでびっくりしました。 3.ワルシャワ→クラクフは鉄道を使いますが、やはり前日までに切符を買っておいた方がいいでしょうか?購入や乗車の際の注意事項があれば教えてください。 4.クラクフ市街からクラクフ空港への移動手段(シャトルバス)や所要時間のなどの情報があれば教えてください。ガイドブックにはスリに注意なんて書かれておりますが…。 5.ポーランド・ズロチはポーランド国内に入ってからの両替にならざるを得ないと思いますが、やはり一端ユーロかドルにして持ち込んだ方がいいでしょうか?日本円だと両替してくれなさそうなのですが、最近のユーロ・ドル高に頭を痛めています。それから、今でもズロチは国外持ち出し禁止ですか?そうなると、空港でユーロなどへ両替ということになるのでしょうか? 6.ポーランド国内のクレジットカードの使い勝手はいかがでしょうか?レストランや鉄道でも使えますか? 質問が多くて大変恐縮ですが、よろしくお願いします。わかる範囲でのご回答でも大変嬉しいです。

  • カティンの森事件(ソ連によるポーランド軍将校捕虜大虐殺)

    カティンの森事件について疑問に思ったことがあります。 wikipediaや他の資料もみたのですがにこのように書かれていました。 「1943年、ソ連に侵攻したドイツ軍はカティン近くの森で溝に4,000人以上のポーランド軍将校・警察官・公務員・元地主等の遺体が埋められているのを発見し、ソ連が彼らを裁判無しで虐殺したとして非難した。ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年に侵略してきたドイツ軍によって戦争捕虜のポーランド人たちは捕らえられ、殺害されたと主張した。」 結局1990年にソ連による犯行だったと認めることになるのですが、ドイツではホロコーストがあるのに、ソ連のこの行為を非難できるような立場だったのですか?ソ連側が虐殺したのは捕虜でホロコーストはユダヤ人や反ナチスだから舞台が少し違うと言えば違うのですが、、、 この避難というのは人道的な気持ちでのひなんというよりは、ソ連をつぶしたいという気持ちでの非難ですか? 教えてください

  • 日本円をポーランドの通貨に変えるには?

    タイトルのとおりです。 方法はいくつか考えられますが、一番最新の情報を教えてください。 一番リーズナブルな方法がよいです。 1.日本の主要銀行で変える、または宅配サービスを使う。 2.日本でまず円をユーロに変えておき(途中、ヘルシンキ空港に立ち寄る)、   現地ワルシャワ空港内でユーロからズロチに変える。 3.現地空港等で円を直接ズロチに変える。 名古屋の中部国際空港から行きます。中部国際空港内でズロチに変えることが できれば楽なんですけど・・・。 それから、ポーランドは物価は安いほうですか? (この1~2年以内にウィーンやロンドンへ行きましたが高かったです。)

  • ノモンハンの停戦はソ連の提案?日本の提案?

    昭和14(1939)年5月11日、満州国とモンゴル共和国との国境線を巡ってモンゴル軍と満州国軍が衝突し、これを切っ掛けに、日本軍(関東軍)とソ連軍との間の大規模な戦闘が起こりました。ノモンハン事件です(ロシア名:ハルハ河戦争)。 ところが3ヵ月後の8月23日、独ソ不可侵条約が締結され、続いて9月1日にドイツ軍が電撃的に西部ポーランドへの進攻を開始し、第二次世界大戦が始まりました。 9月3日、東京の大本営は関東軍にノモンハン作戦の停止を指令し、関東軍と現地ソ連軍との間で停戦交渉が始まりました。 9月15日に停戦交渉が成立しました。 2日後の9月17日、ソ連軍が東部ポーランドへの進攻を開始しました。独ソ間にポーランドを東西に二分する密約があったのです。 以上の経過に関して質問です。 9月3日に大本営が関東軍に作戦の停止を指令しましたが、最初に相手に停戦を申し入れたのはソ連側でしょうか、それとも日本側でしょうか。 停戦成立の2日後に、ソ連軍が東部ポーランドへの進攻を開始したので、ノモンハン停戦とポーランド進攻の間には密接な関係があるように感じるので質問しました。

  • 歴史の事実は何故報道されないのか?

    1939年9月1日にドイツ軍がポーランドへ侵攻、第二次世界大戦が勃発した。 これは今でも報じられるが、同年9月17日にドイツ軍の呼応に応じてソ連軍が 東ヨーロッパをドイツとソ連が分割支配する為に、ポーランドへ侵攻した事は何故 報じられないのか? アメリカが日露戦争直後に立案、議会で成立されたオレンジ計画にて日本が引き込まれた 太平洋戦争。 日本軍が真珠湾を攻撃する日時を数ヶ月も前からローズウェルトは知っていたのに あえて攻撃させ、その翌日からヨーロッパへ軍隊を送り込んでいます。 アメリカはモンロー主義の為に、ドイツと同盟を組んでた日本と開戦する以外には ヨーロッパ戦線へ軍隊を送る事が出来ませんでした。 こう言った事実は何故に伝えられないのか?教えて下さい。

  • 「跪いての献花」に対するポーランドの評価(2)

    (1)はこちらです。 http://okwave.jp/qa/q8130720.html 2点ほど質問があるのですが、 1)1970年のワルシャワ条約締結の際のブラントの演説(?)に 「殺害された数百万人の記憶に敬意を払う」という言葉があったそうなのですが、 これはどういった文脈で言われたものなのでしょうか?? ・ナチス・ドイツ軍によって殺されたことは認めつつも、戦争の一環であって戦争犯罪ではないという考えなのか、 ・ナチスによる戦争犯罪であることは認めつつも、ドイツの戦争犯罪ではないという考えなのか、 ・ドイツによる戦争犯罪という考えなのか  ※私自身はWW2時のナチス占領下の非ユダヤ人の扱いに関し、ほとんどよく知らないので、トンチンカンなことを言っていたらすみません。 2)「跪いての献花」はポーランドでは報道されることはなかったのでしょうか?? 詳しい方、よろしくお願いします。

  • ブラントの「跪いての献花」に対するポーランドの評価

    最初に、ウィキペディアには以下のように書いてあります。 (多少関係ない部分でも、細かいところは省略しないで書いてあります。また、改行は自分で勝手につけさせていただきました。) 1970年に西ドイツのヴィリー・ブラント首相がポーランドを訪問し、ワルシャワ・ゲットーの前でひざまずきナチスの犯罪に対して深い謝罪の姿勢を示したが、 その一方で帰国後に「戦後のドイツ人の旧東部ドイツ領からの追放という不正はいかなる理由があろうとも正当化されることはない」とテレビで演説し、 ポーランド側の加害行為をも批判している。ブラントはあくまでも「ユダヤ人迫害」について謝罪したのであって、第二次大戦やポーランドへの侵攻を謝罪したのではない。 ブラントのポーランドに対する態度は、ナチスがポーランドに被害を与えたことは認めつつも、それは東部ドイツ領の併合とドイツ人に対する迫害により相殺されるというものであった。 また、この「跪いての献花」について共産党政権下のポーランドでは公表されず、一般のポーランド人にはほとんど知られていなかった。 したがって、これがポーランドの対独世論を変えたというわけではない。 (中略) 2006年に開かれた、ドイツ人追放者を扱った展示会「強いられた道」に関し、ポーランドのヤロスワフ・カチンスキ首相は「とても悲しく、心配だ」とコメントし、 2007年になると、以前からドイツとポーランドやチェコとの間で外交問題となっていたドイツ人追放を取り上げた「反追放センター」の建設に関する対立も加わって、 追放者問題を巡りドイツ・ポーランド関係は「戦後最悪」と報じられるほどに険悪化することになる。 自分も最初はこの記述を鵜呑みにしていたのですが、木佐芳男氏の本を読み、上の記述に疑問を感じました。 木佐氏はドイツの戦争責任の追及が不十分だという立場からですので、ドイツに有利になるような嘘は書かないと思うのです。 そこで、 ・ブラントの謝罪は、ポーランドではだれに対する謝罪だと受け止められたのか ・ブラントの謝罪は、当時のポーランド国民に伝えられることはなかったのか ・ブラントの謝罪は、ポーランドでは評価されているのか ・ドイツ=ポーランド関係は、近年悪化しているのか の4つのことに関して答えていただきたいのですが、 その際、ネットのみの知識や本を数冊読んだ程度の知識ではなく、 ヨーロッパ、できればポーランドの事情に詳しい方にお聞きしたいです。 回答よろしくお願いします!!

  • ポーランド国内の夜行列車予約方法

     2010年3月にポーランド旅行を計画中です。 ポーランド国内の移動(南北方向)に夜行列車を利用する予定で、 クラクフ-グダンスク、ワルシャワ-グダンスク、 グダンスク-カトヴィツェ、ポズナン-クラクフ、などいくつかの ルートで検討中です。  日本出発前に予約手配しておきたいのですが、ネットで手配する 方法をご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。 なお、ポーランド鉄道(PKP)のウェブでは時刻検索は できましたが、BOOKINGの方法はよくわかりませんでした。 また、一部のルートは旅行会社から 「取り扱いがないので手配できない」と言われてしまいました。 あと、東欧で夜行列車に乗るのは初めてなので、 用意しておいた方がよいもの、留意点などあればご存知の方教えてください。 どうぞよろしく。

  • 杉原千畝は英雄か。

    杉原千畝の「命のピザ」の発給と、ドイツのユダヤ政策を時系列で並べると下記のようになります。 1933年 1月:ヒトラー、首相に就任 1933年 4月:ユダヤ人の公職追放 1934年 8月:ヒトラー、総統に就任 1935年 9月:ニュールンベルク法制定(ユダヤ人の市民権剥奪) 1938年11月:水晶の夜事件 *1939年 8月:杉原、リトアニア副領事に着任 1939年 9月:ドイツ軍ポーランド侵攻、第2次大戦の開始、ワルシャワ陥落 1940年 6月:ソ連軍がリトアニアに進駐 *1940年7月:杉原のビザ無制限発行 1940年 8月:ソ連がリトアニアを併合 1940年9月:杉原、リトアニアから強制退去。 1940年10月:ワルシャワゲットーへのユダヤ人強制移住開始 1940年11月:ワルシャワゲットー封鎖 1943年 4月:ワルシャワゲットー蜂起 1942年 1月:ヴァンゼー会議(ユダヤ人絶滅政策を決定) 1942年 7月:絶滅収容所へのユダヤ人移送開始(虐殺の開始) 1944年 ?月:ラウル・ワレンバーグがユダヤ人を救う 1944年 ?月:オスカー・シンドラーがユダヤ人を救う 1945年 5月:ヒトラー自殺、第3帝国の崩壊 杉原がビザを発行した当時は、まだユダヤ人絶滅政策は決定しておらず、ワルシャワゲットー封鎖さえ行なわれていなかった事がわかります。 結果的には多くの命を救った事になりましたが、ピザを発給している時点ではこれが虐殺から命を救う事になるとは杉原には予想できなかったはずです。 ワレンバーグやシンドラーは自分の身の危険を顧みず絶滅収容所から虐殺寸前のユダヤ人を救ったのはまさに英雄的行為といえますが、杉原の場合は本当に英雄と言えるでしょうか。 日本国内で杉原が英雄視される理由を教えてください。