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「すみ分け理論」って本当にすごい学説なのですか

かなり昔なのですが、知人が「今西博士のすみ分け理論はダーウィンの進化論を否定するものだ」といっていたのが気になり、折に触れていろいろ調べてみたのですが、なにがそれほどすごいのかまったくわかりません。誰か詳しい方、「すみ分け理論」がなぜ自然淘汰説を否定するほどのものなのか、分かりやすく解説してください。

みんなの回答

回答No.6

私も今西先生のすみわけ理論に感動した一人として意見を書きます。 生物の進化はどうして起こったのか。 「仲間はずれによって起こった。」 人間がサルから進化したのは、生活に適した森を追われ、草原にでてきたから。 サルの集団から嫌われ差別されたサルは森に住めなくなり、生活するのに適していない平原に住まわされた。差別されたサルは、努力をして平原の環境に適応していく。このように進化は個体のレベルでなく、差別された集団の中で起こる。 今の社会もまったく同じ。力のあるのもがもっとも進化した素晴らしいものであるかのような考えがあるが、もとを正せば、仲間はずれにされたものが、力をつけないと生きていけなかったから力がついただけ。だれも力をつけたいと思ってつけたのではない。 自然淘汰説とこのすみわけ理論説では、このように進化の意味を大きく変えたと考えています。人間中心主義、権力志向を否定しました。 我々人間は、生物界ではもっとも嫌われてきたこと示唆しています。

  • Isaisa
  • ベストアンサー率15% (5/32)
回答No.5

「自然・・」には「喧嘩」「闘争」等含みます。 しかし「すみ・・」には「生物自身の取引がある訳です。」 「自然・・」は「生き残った」的解釈がありますよね。 「すみ・・」は「生き残ろう」とする協力があります。 「個体」ではなく「全体」から見直さなくてはならなくなったからです。

noname#74
質問者

お礼

ずいぶん昔に出したもので、すっかり忘れてましたが、どうも、ありがとうございます。 「生き残ろう」とする意思を生物に考えることはできないでしょうから、結果的にそのような行動をとったものが生き残り、その行動に擬人的な解釈を施したもの、と思われます。 ところで、個体でなく全体として生物の行動を見直すことには妥当性があるのでしょうか。利己的な遺伝子などの仮説によると個体どころか1個の遺伝子レベルで考えるようになっていますが。

noname#30
noname#30
回答No.4

 補足並びに説明不十分だった点に追加のための、レスです。  「種は一つの均質なもの」というのは、個体間差を認めないという意味ではありません。 例えば「ヒト」では肌が白かったり黒かったり、背が高かったり低かったりしますが、ヒトはそのような変異を有する種であるという意味で均質なものといっています。逆に、背の高いヒトだけを集めたとすれば、それは「ヒト」を説明するのに不十分です。  安直に言ってしまいますと、「ダーウインの自然淘汰」は「種の中の競争原理」ということができます。しかし、トキの生き残りは、トキという種の中では生存に適していたといえるかも知れませんが、もはや種の存続が危ぶまれる状況にあり、進化は望めません。  今西理論は「種の中では競争などしなくて良い」とします。最近都会に進出しているスズメやカラスは、それぞれの種の中では競争などしなくても良く、また、1000年前に比べて進化しているわけでもありません。しかし、それぞれの種の中に多様な変異を蓄えており、今後、進化をとげる可能性もあります。  なお、くどいようですが、今日ある「生物進化に関する概念」、「進化論」は、先人たちの様々な概念、「利己的遺伝子」を含めて、を総合したものです。

noname#74
質問者

補足

理論的な部分はよく分からないのですが、自然選択では説明がつかない、あるいはまったく相反するけど、すみ分け理論だと無理なく説明できる、あるいは必然である、というような具体的な事例はあるのでしょうか。もし1つでもあれば、私もきちんと勉強してみたいと思っています。

noname#30
noname#30
回答No.3

今西錦司先生は、「進化論」という大理論の中で、「自然淘汰によらない進化」の可能性を示した、偉大な生態学者です。すごい学説であり、あなたの知人は正しいです。 「進化論」についてダーウィンが果たした貢献は大きく、「創造説」全盛の時代に、自然淘汰を唱えたことはパラダイムといって良いでしょう。しかし、ダーウィン前後にも生物学者は遊んでいたわけではなく、様々な学者が「進化論」を補強あるいは修正する説を唱えています。ダーウィン前はアリストテレス、ラマルク、後はメンデル、モルガン、ヨハンゼン、ドフリーズなどです。今西先生を含め幾多の生物学者の貢献があって、現在における生物進化の概念が構築されています。 さて、ダーウィンの「自然淘汰」ですが、これは個体レベルの競争の結果、適者が生き残るとするものです。例えば首の長さの異なる2匹のキリンと背の高い木があった場合に首の長い方が生き残り、このような変異が蓄積されてキリンは首が長くなるように進化したという説明です。  しかし、化石を調べると少しだけ首の長いキリンというのは見つからず、ある時から急に長くなっています。また、コウモリがネズミのような生き物から進化したとして、少しだけ翼のある飛べないネズミというのは何の有利性があるでしょうか。キリンが首が長くないと生き残れないというなら、乳離れしたばかりの子供のキリンはみんな死んでしまいます。自然淘汰だけでは進化を説明できないのは明らかです。  その一方で自然淘汰は、適者生存=優勝劣敗、はては人種不平等、ナチズムの理論にまで結びついていきました。このような状況を今西先生は我慢できなかったのです。 「棲みわけの密度化による進化論」は個体レベルでの競争という観点を廃し、「種」は一つの均質なものと仮定し、進化は「亜種」レベルで起こると説明しています。また、それぞれの種は特定のニッチにおいて競争者がいない限りにおいては、環境に最適化している必要もありません。「種」を変化させる大きな変異は「種」の存立要因とは関係のないところで起き、存立を危うくする変異に対して初めて自然淘汰が働きます。字数制限に引っかかりますので、詳しくは以下のURLで。

参考URL:
http://www.ipe.tsukuba.ac.jp/~s965525/index.html
noname#74
質問者

補足

さっそくありがとうございます。ドーキンス博士だったか誰かよく覚えていませんが、すみ分け理論はすべて自然選択の枠内で説明できる、と言っていたと思います。それも含めて、tatさんの参考資料で検討してみたいと思います。当方は素人なので、もっと安直に分かるような説明があったら、よろしくお願いします。

  • kamuy
  • ベストアンサー率32% (51/156)
回答No.2

つまり、「taky88」様の知人の方が、解釈を間違っていた、 ということでしょうかねぇ? 色々と調べた結果、 進化論を覆す内容に出会うことが出来なかったということも、 それを裏付けているようにも思えますね。

noname#25358
noname#25358
回答No.1

 住み分け現象は別に進化論を否定するものではありません。  これは要するに、習性などが似通っている動物が競争などで相互作用した結果として、場所や時間を分かち合い、別々に生活するようになる現象のことです。  たとえば、ライオンとトラが同時に同じ場所に生活していた場合を考えてみると(実際にはそんなことはありえませんが)、この二種は一緒に生活したからと言って特に問題が起こるわけではありませんが、競争などが起こり、結果としてトラが森に移動したり、昼はライオン、夜はトラというように時間を分け合うことで、お互いに起こりえるトラブルをさけます。(分かりやすく言うと、嫁と姑が喧嘩にならないように二世帯住宅に住むような物です)  これを住み分けと言います。しかしこの現象そのものは自然淘汰を否定するものではありません。自然淘汰とは、トラとライオンのうち、どちらか自然により適合できた方が生き残るという理論であって、別にトラとライオンが喧嘩してどちらかが淘汰されるわけではないのですから、これは住み分けとは全然違う考え方です。  たとえば、サッチーとミッチーが喧嘩したとして、両方とも反目しながら方や芸能界、方や政財界で生き残ればこれは住み分け。どちらかが社会から消えれば自然淘汰です。  これはたしかにどちらか片方しかないから、一見すると住み分けは自然淘汰の対語のように思われますが、世界は広いのですから、『ある生き物はうまいこと住み分けができたけど、ある生き物はそれができずに片方が自然淘汰された』という状況もありえます。

noname#74
質問者

補足

すばやい応答、ありがとうございます。deagleさんの考え方は私にも大変理解しやすいものです。私もほとんどこのように考えていました。でも素人でも反論を思いつくようなことを大学者が主張するんだろうか、と疑問になったのです。

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