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シベリア抑留について。

私の祖父は満州で終戦を迎えました。直接祖父から聞いた事はありませんが、父から祖父はシベリアに連れて行かれたと言う話を聞いた事があります。祖父はすでに他界していますので今となっては祖父に聞く事は出来ませんが、シベリアでどんな生活をしていたのでしょうか?叔父が昭和24年生まれなので、遅くとも23年頃には帰国していると思うのですが、大変だったのでしょうか?

みんなの回答

  • tetu2004
  • ベストアンサー率10% (17/162)
回答No.3

私の叔父もシベリア抑留だったそうです。まだ生存してます。 同じ時期に抑留された人は、ほとんど死亡されたそうです。 厳しい寒さと餓えのためで出そうです。生き残ったのはいまだに自分では信じられないそうです。奇跡だったと話を聞いてます

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  • hhhozaki
  • ベストアンサー率50% (60/120)
回答No.2

大変な生活だったようです。 ネット上でも「シベリア抑留」で検索すれば、多くの体験者の文章を 読むことが可能かと思います。 ただしシベリア各地に収容所があり、その場所、時代、各自の置かれた 立場によって異なることも事実です。 ですから、一人の経験談で全体を語るのは無理があると思います。 あえて一冊と言うのでしたら、第89回直木賞受賞作の 胡桃沢耕史「黒パン俘虜記」文春文庫はどうでしょうか。 現在 新刊は手に入らないようですから、ネット検索で中古を手に入れる必要があります。 ネット検索より 本でじっくり読んだほうがよく理解できると思いますよ。

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noname#25898
noname#25898
回答No.1

高校の先生がシベリア帰りで、よくシベリアの話をしました。 筆舌に尽くしがたいほど、大変な生活だったそうです。 隣りで寝ていた人が朝には、死んでいたとか、流行病で、ばたばたと人が倒れていったとかです。 真冬でも半そででした。 それ以来、寒さというものを感じたことがないのだとか。

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