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哲学はニセ科学か?

fishbowl66の回答

回答No.5

お怒りのご様子で。 補足を拝見してから、もう一度ご質問を確認したのですが、私は、フロイトの捏造も「水からの伝言」も、ましてやテレビ番組も見ていないので、どう回答しようか、困ってしまいました。 そこで検索しましたら「水からの伝言」あぁあぁこんな話、むかし、聞いたこと有るなぁ~ 正直、まだ生き残っているの、確かに、検証がずさんですが、検索したとき「水からの伝言・信じないで下さい」と言った、キーワードが並んでいましたから、その内に淘汰されるのでしょうね。 ブラウン運動、ご存知ですよね、水槽さんの真ん中に仕切りを入れて、両サイドの電子の密度を変えておいて仕切りをとります、電子は相変わらず、不規則に飛び回りますが、電子同士のぶつかる障害のないほうへ穏やかに移動します。電子の移動は不規則のままですよ、水槽さん全体に電子が均質になると、定常性を保ちますが、しかしこの間も、個々の電子は不規則に動き回ります。 以下、ほにゃらか御伽噺 1)「放射性廃棄物の処理にいくつかの疑点が残っているのであるなら、物理学者はなぜもっと原発の危険性について声を大にしてくださらないのですか」 「原子力についてはその管理の所在がなにより大切です。ところが、原発はいつの間にか国の手を離れて電力業界・・・それに問題はすでにあなた方経済学者の側へと移されたようにもみえる。エネルギーの供給のいかんが”経済成長”や”完全雇用”のいかんに影響するのだといわれては、物理学者としてはこれ以上なんともいいようがないではないか」1977年、経済学者と物理学者の対談 2)「東チモールにおける残虐行為をアメリカが支持するのを非難できるようになるのに、言語学の専門的なトレーニングは必要ないよね。話しているのは誰であるかや、その人の経歴、発言するための「資格」などは重要ではないんだ。重要なのは、『あなたのいうことは本当ですか』ということさ。」アメリカ言語学者の社会批判 さて、上記は引用ですが、個人名は伏せて、フィクションと仮定して話を進めます。 物理学者と言語学者の態度の違いは微妙でどちらが正しいかははっきりしません。しかし、例えばエコロジー経済や環境問題への関心、或いはある種の原発反対運動に関わる人から見れば、物理学者の態度に歯がゆい思いをするでしょう。 ただ、この時の物理学者への批判は、1986年の原発事故、エントロピー経済による原発の非効率性といった最近の知見による判断だとすると正当な批判とは言えないような気もします。 私たちは普通、現在から考えて過去へたどり着きますが、過去において現在はまだ未来だったことを忘れがちですね。現在と言う結果のほうから原因を探しに逆行をしてしまいます。事実は逆で、進化の過程のように、全てを試してみる、実際にできるかわかりませんが、その結果として生き残っているものが、現在なのでしょう。 要するに、知識もブラウン運動のように、色々なものがぶつかり合って生成していくのではないでしょうか。 丁度、今読んでいる本に、マンデヴィルの「蜂の寓話」の話が載っていました。 「全体のうち最悪のものでさえ 公益のため何かお役に立つようになった」 次にフロイトの捏造について、事実関係を知りませんが、お怒りを静めるべく、感想を書いてみます。 フロイトの研究の詳細はわかりません、なにやら検索すると、未公開だった研究データーが公開され、そのデーターを検証すると、希望的観測や捏造らしきものが・・・と言う事ですが、この場合の私たちの判断の仕方も、安易なもので、大切なことは、フロイトの何処から何処までが、捏造で、捏造でないものは何処か、で、捏造すなわち悪、と言う短絡した判断で全てを否定する。これは少しおかしくないでしょうか。 かのヒュームも人間の知識の狭さを嘆いておりますが、善悪の簡単な二元論に作り変えて、物事を処理するのは便利ですが、哲学的(私は哲学に関しても無知ですが)な思考としては、頂けませんね。 あれ、火に油を注いでしまったかな(笑。 長々書いてしまいましたが、最後に一言いわせてください。 知識が多すぎる、知識が専門的に分散しすぎている、知識と知識の繋がりに欠けている。 最新の研究で捏造が行われても、検証する知識が不足しているような気がします、ただ、捏造が発覚していると言うことは、何とか検証の機能は維持されているような気がしますが。 テレビ番組の捏造に関しては、話もしたくないですね。詰らない物を見て、詰らないと怒ってもしょうがないでしょう。最後まで読んでいただけたでしょうか、お怒りが少しでも収まれば幸いです。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 ブラウン運動からは、エントロピー増大の法則が必然的に導かれます。覆水盆に返らず。これが物理学の一番の基本法則になっている。マンドヴィルの言葉からは複雑系の経済学の萌芽があるように感じました。ただ、彼の本はプレミアが付いているようなので、しばらく未読になると思います。 自己組織化の駆動力はエントロピーです。北朝鮮のように、それまでの社会秩序を破壊して、一からつくることは容易なことではありません(覆水盆に返らず)。社会主義国のように、極めて人工的に建設された国家は、絶えず人為的なエントロピーの減少が求められます。市場経済の強みは、人の利己心とか弱さを駆動力として、自生的秩序に任せるところにあるのかもしれません。 不二家でも、一度失墜したブランドイメージを取り戻すのは大変なことです(覆水盆に返らず)。それは、ブラウン運動と同じく、不可逆過程になりましょう。捏造も同じことです。 私は、フロイトやマルクスらの業績を全否定するつもりはありません。全てを否定してしまったら「もったいない」という思いがあるからこそ、腑分け作業という面倒なことを主張しています。 「もったいない」の精神は、これからの社会のカギになると思います。資本主義による成長の限界は早晩来るでしょう。地球のパイには限界があります。地球は有限であり、いつまでも成長に耐えられるものではない。 だから、いつかは分捕り合戦をしなければならないときが来るかもしれない。そのときに「もったいない」の精神がみんなに行き渡っていなければ、戦争や餓死による人工調整からは逃れられないことなのかもしれません。捏造は信頼を裏切る行為だから、みったいないなあと思う。ただ、それだけです。怒りよりも、もったいなさですかね。

anima-mundi
質問者

補足

中途ですが所感を述べます。ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と号して、政治的反対者に弾圧を行いました。 腐った学問である哲学と社会学もまるごと捨てた方がいいのだろうか。腑分け作業を行うよりも、当たらしい学問分野で出直した方がいいのだろうか。 私の質問が分かりづらかったようなので質問を言い換えましょう。ソーカル事件について改めて問いたい。ソーカル事件に対するみなさんの意見を教えて欲しい。それだけです。

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