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哲学はニセ科学か?

fishbowl66の回答

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回答No.7

補足拝見いたしましたが、どたばたで、遅れをとってしまったようで。 >ソーカル事件に対するみなさんの意見を教えて欲しい。 この件につきましては、すでに、お見事なご回答があり、 「お水からの伝言」同様、当方に付け加えるような、詳しい知識は御座いません。 今回は、少々、ご質問者様の意図と別の視点で考えてみたいことがあります。 結局、学問や科学が商品になってしまっている。 昔は、出来の良い物を市場に出して、出来損ないを自家消費に廻すと言う傾向が逆転あるいは自家消費が全く無ければ、出来不出来よりも、規格に合いさえすれば良いですし、規格もご都合により曖昧にされます。なんせ、自分のものではなく、他人のものですから。 もう一点、前にも書きましたが、 知識の分散 これは、一人の頭脳の中に、世界中の知識をすべて入れることは不可能なこと、シュレティンガーが50年程前に嘆いた問題ですが、最新の科学の検証が困難になるネガティブな捉え方ですね。 これに反して、知識の分散をポジティブに捉える方法も古くからあります。 例えば、カント、ヘーゲル、最近ではハイエク。少し特殊なベルクソン。 人間の知識・能力・生命が限られていること、諸個人に分散している故に諸個人は助け合って種としての発展を目指していく、と、肯定的に捕らえてしまう方法です。もちろん、助け合う仕方が「市場」なのか「計画・分配」なのかの違いにより、いろいろな立場にまたまた分散してしまう。 その結果、分散した知識は商品になり、商品はその定義上、品質を落としていく。 あら、最後の結論が、暗くなってしまった。 この辺り、私も本当の問題点が良く解っていないのです。 今回は、お役には立てませんが、独り言としてご笑納下さい。

anima-mundi
質問者

お礼

ありがとうございます。 するどいですね。大学で行われている学問の中には眉唾物の研究もたくさんあることでしょう。まさに飯のタネ。自己目的化した無用の長物。最近では独立行政法人化の影響もあり、産学連帯とかで応用研究にシフトし、基礎研究は廃れる一方。 共同研究のためには大風呂敷を広げたりして、どんどんトンデモに近い話が持て囃される。地道な研究よりも、派手な研究に心を奪われているのは、どこかホリエモン事件と同じ近視眼的なものの見方がはびこっているように思う。 「急がば回れ」そんな言葉が、もう一回、見直される風潮があってもいいかな。哲学や社会学の世界でも、奇をてらった発言が持て囃されているが、煽ってはいけない。群発自殺はマスコミや学者の不用意な発言が引き金にもなるのだから。テレビ化(ワイドショー化)した学問の典型が、社会学などに見られる知的退廃のよう。 ヒトラーは「今日の悲惨はすべてユダヤ人財閥のしわざである」 と嘯いたが、それと同じ事をしている学者がいる。丸山真男の亜インテリ理論に始まり、凶暴化する少年などと危機を煽る社会学者…。本来、社会学者はそういう集団ヒステリーを起こすような発言を控え、扇動者に対する警戒を説くべきだと思う。マスコミ芸者だの御用学者が多くては、ままならぬことか。

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