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幕末の出雲国の国司って…

noname#24488の回答

noname#24488
noname#24488
回答No.8

 No.4、6です。  同時期に松江藩主以外に出雲守を名乗る人がいたかどうかの問題ですが、その可能性はあると思います。  たとえば幕末の志士で有名な真木和泉守ですが、もちろん和泉国の太守ではなく、出自は神主さんです。  神主さんは大層な官位官職をお持ちになっている場合があるようですが、ご自分のそのときの実力や勢威とはかなりかけ離れたものになっています。  神主さんに対する官位官職の乱発については、下のURLにその辺の経緯が出ています(このサイトの記述はまあ信用できそうです)。  ただ、神社の歴史は非常に古く、大昔は大豪族であったりする例もありますから、一概に頭からそれはヘンだと否定するわけにもいきません。 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Part/6305/page2.htm  また戦国時代には官位官職の私称などもありましたから、そういう人の末裔が、「実は先祖が出雲守であった」などという可能性はゼロではないと思います。  当時の大名旗本クラスに出雲守がダブって存在していたかというと、調べたわけではありませんが、いなかったんじゃないかと思います。  下のURLにもあるように、官位官職の名乗りについては幕府が交通整理をし、大名統制に使っていましたので、出雲守がダブっている可能性は少ないと思いますが。とくに出雲の松平家の家格から考えてそのように思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D     出雲の国内で、藩主以外の人が出雲守を名乗るってことは、畏れ多く、またこわくて出来ないんじゃないかな。  ですから、質問者さんのご先祖様のおっしゃる「コクシサマ」は、大殿様の第8代松江藩主松平斉恒公である可能性が強いように思います。  質問者さんのおうちの当時のお屋敷が、大きな長屋門を構えていて・・・ということであれば、まず間違いないような気がします。

noname#95153
質問者

補足

詳しく説明してくださってありがとうございます。実は、私は出雲人ではないんです。長州藩、長門国に住んでいます。もちろんその問題の家も長門国にあります。それで祖母にもう一度聞いてみたのですが、まとめると↓↓ ・出雲の国司(国守?国主?)様がうちに泊まりに来た ・泊まりに来るにあたって、風呂を作り直した(五右衛門風呂を作った) ・その人が入った風呂の湯を近所の人が一升瓶を持ってもらいに来た ・その人は天皇くらいに偉い人 ・その人にも苗字をもらった ・家の仏間に新しい苗字をもらった記念?みたいな金の文字の額がある(金は本物かはわかりません。) とのコトでした。「藩主」ということで解決…したのかもしれませんが、家が長門国にあるとなると領内見回りとは考えられないし、天皇くらいに偉い人というのは、昔の人が大げさに言っただけだと思いますが、その人の入った風呂の湯を近所の人がもらいに来るくらいの人ってどのくらい偉いんだろう…、という疑問が浮かんできたのですが…。 藩主様の入った風呂の水ってほしいものでしょうか。 ここまでくると、全てが実はウソだったような気さえしてきます…

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