• ベストアンサー

自己犠牲

自己犠牲とは? ひとは皆、自己犠牲の性質を宿しているのではないですか? 自己を犠牲にして、得られるものを、本能的に知っている気がします。 それは、今の自分にとって可能な範疇で行われる場合がほとんどでしょうが、あるときには、自己の器を越えた自己犠牲を発揮する場合もあります。 それによってなにかが得られると、ひとは知っているのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.14

犠牲とは選択であり、ある種取引ではないでしょうか。 ある人の犠牲により誰かが助かる。八百屋でお金を出して大根を買う。違いが無いようにおもいます。とても邪悪な言葉です。 ただ、hosiboshiさんが言っておられるのはそれではありませんね。この種の問いを自問するときいつも思うのですが、定義された言葉はそれ自体とはかけ離れてしまうということです。花と言う言葉は今目の前にあるそれとはまったく違うものではないかと思うのです。 犠牲という言葉を調べれば無数の関連する言葉がでてきます。時代、人、視点、により様々な答えが出てきます。しかし、今、目の前で誰かをかばい死んだ人を見れば恐らく言葉を失うでしょう。どこの図書館にもそれを表す言葉は見つからないと思います。 私が言いたいのは、いくら言葉を追いかけても言葉には表現できない、捕まえることができないものがある、と言うことです。言い換えれば思考によっては理解できないことがあると言うことです。 なんだか取り止めがなくなってきましたのでこれくらいにします。

hosiboshi
質問者

お礼

言葉は心を越えない。 歌にありました。 ありがとうございます。言葉にできないなにかを受け取ることができました。

その他の回答 (13)

  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.13

hosiboshiさま。 自己犠牲とは他者がそう判断したのであって、本人にとって自己犠牲かどうかは分からないと思います。 人は常に何かの欲求によって行動し、自己の感情を満たすために行動を決定していると思います。 ならば、他者が自己犠牲と判断したその行為も、本人にとっては何らかの意味、価値があったはずで、 本人が自己犠牲に快感を感じるタイプで無い限り、自己犠牲とはいえません。 自分の行為の意味づけは自分にしか出来ません。 逆に自分自身の観念、人生感、思想が変われば自分自身の行為の意味も180度変わってしまうかもしれません。 同じように、人の行為を自己犠牲・・と判断する場合はそう判断する人の観念、人生感、思想が反映されます。 ですから人によって違う判断もありえます。 >自己を犠牲にして、得られるものを、本能的に知っている気がします。 おっしゃるとおり、本人は何らかの目的のためにそのような行為(自己犠牲と判断される)を選択したのです。 家族を愛するためか・・・自己の高い理念のためか・・国家を愛するためか・・深い慈悲心から来るもののためか・・ 人によって種々様々でしょう。 中にはこの世的な喜びよりも精神(魂)の充実、喜び、至福のために自己犠牲と思われる行為をとる人もいることでしょう。 でもそれは自己犠牲とはいえません。 心(魂)の内に、真の幸福を得ている可能性があるからです。 >それによってなにかが得られると、ひとは知っているのでしょうか? おっしゃるとおり、人は自分の行為の目的を魂の奥底では知っているはずです。

hosiboshi
質問者

お礼

>おっしゃるとおり、人は自分の行為の目的を魂の奥底では知っているはずです。 すごい言葉ですね。 そうですね。 悪行には良心の呵責を、どんなに拭っても感じてしまいますし、なにかをすればなにが起こるか、頭の中ですら見当をつけていますからね。 人生の目的も、魂は知っているのでしょう。

  • konagoo
  • ベストアンサー率24% (67/276)
回答No.12

御質問は神風特攻隊のことじゃないですよね。 サービス残業のことでしょうか。 まぁ、会社が儲かればボーナスで返ってくると人は知っています。

hosiboshi
質問者

お礼

>神風特攻隊 思い浮かんだことの中のひとつには含まれていました。 私達のご先祖様は、皆、すごい人達だったのです。

noname#50219
noname#50219
回答No.11

それぞれの存在意義が遺憾なく発揮される信頼関係の完成において、人は自分自身を超える事ができると期待されえます。それは、自分も他人も損なわないという意味の、平等観、それに、慈悲観というものです。ちがうでしょうか。

hosiboshi
質問者

お礼

そうですね。 そういう人間関係において、人は、自らの力を超えたものを発揮できる。 それはとても未熟ですが味わったことがあるので、よくわかります。 >自分も他人も損なわないという意味の、平等観、それに、慈悲観 そうですね。 それが確かにありました。

hosiboshi
質問者

補足

何度でも、挑戦してでも味わってみたいものだとおもいます。

  • htx2005
  • ベストアンサー率25% (22/87)
回答No.10

自己犠牲で得られるものはありません。 自己を犠牲にして得られるものがない 純粋に利他的な行為を自己犠牲と呼びます。 自己犠牲で何かを得ようと画策することは 自己欺瞞です。 自己犠牲を行ったという、その傲慢さゆえに 得られる代償により多くを求める。 そのようなずるい行為を、事前に見抜くことが大切です

hosiboshi
質問者

お礼

自己犠牲でなにかを得ようとすること。 それは確かに、黒 とされることです。 しかしそれをも越えようと、人は、するものです。 人間には理解できないもの、頭ではわからないものがあります。 しかしそれでも、だからこそやろうとするような…

回答No.9

法則名 それもいうなら メンデル では?

hosiboshi
質問者

お礼

これでいいのかな? http://www1.kcn.ne.jp/~mituto/mat44.htm

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.8

No.5です。 法則名 思い出しました。 自然淘汰。

hosiboshi
質問者

お礼

自然淘汰 ですか。 すごい…ですね自然はやっぱり。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.7

>あるときには、自己の器を越えた自己犠牲を発揮する場合もあります。 >それによってなにかが得られると、ひとは知っているのでしょうか? 自己犠牲は他人へのやさしさを本質的に持っているから起こるのか? <アダムの呪い>に自己犠牲を何故やるのかについての考察が書いてあります。 http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%91%AA%E3%81%84-%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4789722791/sr=8-2/qid=1169164349/ref=sr_1_2/503-9517106-8947906?ie=UTF8&s=books それを要約して私なりの例えで話すと、、、、 銀行強盗にあい人質となった10人に対して犯人が「一人だけ殺して後は助けてやる。誰か立候補しろ」と言ったとします。 誰か進んで立候補するでしょうか? では、別の例。 家族全員が人質となり、一人だけ殺して後は助けてやると言われた場合、家族の長たる立場の人が「自分だけ殺せ」と申し出ないでしょうか。 前者は赤の他人、後者は遺伝子がある程度似ている人たちの集団。 鳥でも我が子を逃がすために、傷ついたふりをして、捕食側の標的が自分に向くよう演技したりします。 ミツバチの世界。 働き蜂はこの世にいる6週間の間づっと、女王蜂とその子供たちの世話してすごす。 子供がいない働き蜂はみな優しいので、他人の子供のために一生を犠牲にしているのか。 蜂の姉妹の間で共通する遺伝子は、人間のような50%ではなく、75%。 働き蜂にとって、女王蜂の姉妹は自分の子供より遺伝子的に近い。 自分の子だと自分と子では50%しか共通しないが、女王蜂が産んだ娘たちだと75%。 だから外敵が襲ってきたとき、自らが死に至る高熱を発して相手を焼き殺して自分も死んでも、自分の遺伝子の75%を持つの姉妹たち(女王蜂が産んだ娘たち)を助けるわけです。 つまり無意識というか備わっている種の保存の本能によって自己犠牲は行われている。 赤の他人より近い人と助けるようにできている。 つまり利己的遺伝子がそうさせている。 赤の他人を救う人。 います。 氷が張った湖に飛行機が墜落し、ヘリコプターが救助に向かい、浮き輪を投げると、それを他人に渡してばかりいて、とうとうその人は湖に沈んでしまいました。 これは他人より先に自分が助かるなんて英雄的ではない、と思ったのか、他人を助けることが喜びで、それを喪失するのは死よりつらいと思ったのか、いろいろ考えられますが、いずれにせよ利己欲により引き起こったことだと思います。 ただ、この利己欲は遺伝子が発しているのではないと考えられる。 従って持って生まれたとき備わったのではなく、生まれて人生を経験していくうち獲得した欲。 本質的に備わっていない。 本質的に持っていない欲望によって起こった自己犠牲をする人は増えるか? 「いや、本質的に備わっている他者への思いやりで自己犠牲をはらったのではないか 人間はすばらしい」という見解にわたしは賛成できません。 なぜなら、そういう人は自分の子供をそうでない人より多く残せないから。 事故にあうまえに、子供を残していたとしましょう。 その子供も同じ自己犠牲好きなので、やはり赤の他人に自己犠牲してしまいやすくなる。 その家系はあっという間に絶え、もう自己犠牲好きな遺伝子を持つ家系が21世紀に存続するはずがないから。 突然変異で遺伝子レベルで起こったとしましょう。 そうなるとその子孫はその遺伝子を伝えていくかもしれない。 ただ、絶滅も早いです。 なぜなら自殺とまではいかないが死に易い遺伝子なので、子孫を増やせない。  突然変異である日なったとしても、生存できない。子孫も絶滅する。 また突然変異が同様のことが起こっても、すぐ絶滅する。 そういう遺伝子を持っていない種が反映する。 だって自殺遺伝子を持っていないのだから当然繁殖しますから。 これをなんの法則と言うか忘れました。 すごくシンプルな中学生でも知っている名だったのですが。。。。 弱肉強食じゃあなかったような気が。。。。 だめだ 法則名を思い出せない。 すいません。 あと、他人の罪を背負って刑務所に入る人も同様。 拘束される期間が長いので、子孫を多く残せない。 従って他人に罪をかぶるのは自己犠牲のためではなく、自分の子供を助けようとする時引き起こる。 自分の遺伝子を持つ子供が、服役せず子孫を残してくれた方がいいから。

hosiboshi
質問者

お礼

親が自己犠牲のひとだから子供も同じ遺伝子を有するとは限らないのではないですか? 結局は本人の心次第ですから。 物の見方には様々あります。 他人を押しのけて栄えようとする者はそれ以上の力に負けてしまいます。 自己犠牲を有する家庭なら、人の目にはつかないところで、人の様々な助けを得られるようになるのかもしれません。 ただの想像です。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.6

わかりにくくてすいません 誰かが種をまとめて「超個体」と名付けました。あたかも種全体がひとりの人間として振る舞うからだと思います。 調和のとれたものが存在できる、無作為的に色々タイプのものが生まれるが「調和できるもの」と「調和できないもの」(結果的にだが)では無論、前者がサイクルの輪に留まることが出来る。 利他的行動するものが何かを知っているとは考え難い。あらゆるタイプの行動(我々に今備わっているタイプ以外でも)が誕生して試行錯誤し選抜された?

hosiboshi
質問者

お礼

超固体。 人間はそういう広大な視点でも考えることができる生き物なんですよね。 身内の仲間内のグループでもそうですよね。 選抜された… なるほど興味深い。

回答No.5

hosiboshiさん、こんばんは。 獅子身中の虫 サナダ虫 よっしゃ!グザイ材料はこれで、何かこさえてまます。 おなかイテッ、テテテテ…って? あっ!? 失礼しちゃう。 むしくだし、むしくだし クスリはどこじゃ~ はぁーい!コレどうぞ なんじゃ? このにゅるにゅる… 、、、コレは?おぉ、、、 ハイ!サナダ虫 ゴクッ。と、お飲み下さいませ。ご遠慮なさらずに。ぐぐぐいっーと、 …うぅ…、っ、…ゴックン。(清濁+のむ) おなかがいたくなるからムシって決めつけよくない。ムシにもいろんなタイプがいるんだよ。ムシが我が身を守ってくれる場合もあるしまたその逆もあり。 と、考えてみると… 自己犠牲、いつ何時どこで変なもん食べさせられるやもしれへんし、ここのとこの不況、食べるに困る状況にならんとも限らんし、そうなったら拾い喰いせんともいわれへん、何でも食べなあかん。好き嫌いいうてられへん。 おなかくださんように、ムシさんゴックン。 この時、のむ本人さんも辛ろおます。のまれるムシさんもこれまた辛ろおます。しばらくしますと、本人さん、たいがいのもん食べはっても少々のことではおなか痛うはなられへんとか、ようさん食べはってもそない激太りもしはらへん。本人さんだけがええ目におうてんのか?いえいえ、ムシさんもお宿ができたと外的に狙われることもなく体伸ばしておなかのなかでくつろがれておるそうな。共存共栄。危機意識が両者に芽生えはたらくからやないやろか?

hosiboshi
質問者

お礼

素晴らしいかたちですね。

  • luune21
  • ベストアンサー率45% (747/1633)
回答No.4

ヒトに限らずトムソンガゼルとかミツバチでもやっています。 既知情報かもしれませんが、利己的遺伝子が利他的行動を促すのだ、という考え方がありますよね。 要するに種の保存よりも遺伝子の保存のほうが重要だということなんでしょう。つまり、「得られるものは」の答えとしは、遺伝子の保存ということになるようです。 入口はこちら↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6 上記のページでなぜかリンクがはられていないのでこちらも↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%B7%B1%E7%9A%84%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90

関連するQ&A

  • 自己犠牲に対する強い嫌悪感は投影?

    自己犠牲に対する強い嫌悪感は投影? 自己犠牲に対して強い嫌悪感が有ります。 思い返せばそれは幼い頃からのようです。 「人魚姫」の物語を読んで、王子の為に泡になる人魚姫に、強い苛立ちを覚えました。 主人公が苛められる物語とかも嫌いでした。 全く、美しいだなんて思えません。 相手を傷つけてでも、自分を守るべきなのに、なんて少々攻撃的に考えてしまいます。 (現実には気弱な方ですが。そんな自分にまた強い嫌悪感なのですが。) 自ら犠牲になって人を救ったような素晴らしい人達には、苛立ちなどは全く感じません。 素直に尊敬します。 少しでも自己犠牲を強いられたり、侵害されるような事を、強く憎んでしまいます。 嫌悪感は投影だと言いますが、自己犠牲を嫌悪するというのは、私自身が自分を犠牲にしているということなのでしょうか? 幼い頃から無意識にそうせざるを得ない状況にあったとゆうことなのでしょうか? そもそも自己犠牲とはどうゆうことなのでしょう。 そんなものはこの世に必要ないものだ、位思うのに、どちらかの自己犠牲無しには他人との関係は成り立たないような気がします。 散文すみませんが、心理学にお詳しい方、考えられる原因と、考えの改め方を教えて頂きたいです。 私が自己主張することは相手の権利を侵害するような気がしてしまうんです。 だけど、自己主張出来ないと非常に強いストレスがたまり、相手を嫌いになってしまったりします。

  • 他の種のために自己犠牲で死ぬような種はありますか?

    カマキリのオスがメスに食べられてしまうのは有名です。 (必ずではないそうですが) 種存続のための自己犠牲の本能でしょうか。 人間にも、我が子のため、愛する者のため、人類全体のための 自己犠牲はあります。博愛に寄ればそれは種存続というよりも 精神的な何かに殉じたという感が強いですが。 ところで、他の種のために自己犠牲で死ぬ種はあるのでしょうか? そんな説明のつかない行動をとる種があるとは思えないのですが (あったとしてもとうに滅んでる?)、世の中なにがあるか分からない ので質問してみました。よろしくお願いします。

  • 自己犠牲や手間をかけたくなるのが愛情?

    自己犠牲ってほどではないかもですが、忙しい中時間を空けたり、眠くても我慢して起きて待ってくれているとか、私の誕生日プレゼントのために、お昼ご飯を少し節約して貯めてくれるとか、友達と遊んでいても、私が会いたいと言うと早く切り上げてくれる。 例えですが、そう言う自己犠牲?手間をかけてくれる?行為に愛情を感じます。 しかし今の彼は無理をしない人です。 普段仕事がとても忙しい人なのですが、週に一度は必ず会いに来てくれますが、自分の時間も大事にし、会いたいと言うと、友達と遊び終わってから来てくれたり、会いたくても彼が眠かったら、また近々会おうと言われたり、私に会う前にDVDとかを見てから来たり(その為会う時間が遅くなったり) 私は一緒にいても彼の時間を壊したりしません。 携帯を触られてても気にならないですし、DVDに集中されても気になりません。 なのにわざわざ家で見てから来る彼、、 私の事は好きだと言ってくれますが、なかなかそれを感じません。 自分の世界を大切にする?彼なので、私に対しての接し方に波は無く、いつも同じ接し方です。安定はしていますが、なんと言うか、、愛情を感じません。 無理をしない人でも彼女を愛しているのでしょうか? やはり本当に愛していると、自然と手間をかけたり、無理(無理を無理と感じない)したくなるものでしょうか?

  • 自己犠牲癖を治すには

    こんにちは。 アラフォーの女性です。 母と私は自己犠牲をするのが日常の癖になっています。 何か少しでも相手に不利益や迷惑にとなりそうだと知ると、相手を気遣うあまり自分の負担を省みずに対応してしまうので、しんどくなることが多いです。 現在は海外に住んでおり、こちらでは「できないものは、できない」「したくないものは、したくない」と、皆さん意外にあっさり主張します。 私もぜひ見習ってそうなりたいのですが、なかなか容易でないので相談させていただきました。 何かアドバイスがありましたら、ぜひよろしくお願いします。

  • 僕ですが好きな人がいたら、会社すら顧みず、自己犠牲

    僕ですが好きな人がいたら、会社すら顧みず、自己犠牲しているのどう思いますか?なんか言い回し辛いですね😅まっいいか。

  • ぎせい

    私は女です。 自分を犠牲にするか、男友達を犠牲にするか。 みなさんだったらどうしますか? あなたが男だったら、女友達を犠牲にするか。 その異性の友達はおもしろくて、OT(おんなったらし・おとこったらし)です。 私はその人の事、すきかどうかもわかりません。でも何人かで映画行ったりしています。 そういう仲です。 コメントよろしくお願いします。

  • 他人のために命を捧げるのは優しい人?自己犠牲の利点

    他人のために命を捧げるのは優しい人?自己犠牲の利点欠点限界盲点とは? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。

  • 英語で【自己犠牲の精神】は?

    (他者の為にする)自己犠牲(の精神)を英語で書くと[(spirit of)self-sacrifice』などになると思うのですが、以前何かの番組?Youtube?で、『アメリカでは〇〇〇〇と言って、それができる人は尊敬の対象だった』などと話していたのを聞いた記憶があるのですが、その言葉を忘れてしまいました。 【オートクチュール】だか【クメール・ルージュ】だか【オブリビゲーション】だかそんな雰囲気の言葉だった気がします。 ヒロイック~とかではなかったと思うのですが、どなたかご存じありませんでしょうか?

  • 母のために生きる(自己犠牲)という選択

    お付き合いしていた方と別れました。 理由は、お互いに思い描いている家庭像に隔たりがあり、私も彼もどうしても譲れない部分があったからです。 私は彼と新たな家庭を築き、授かれるものであれば子供を産み、育てたいと思っていました。 一方彼は、自分より先に亡くなってしまうであろう母との時間を共有したい気持ちが強く、母親を第一に考えて生きていきたい気持ちが強かったのです。 彼は「僕だって、普通に結婚して家庭を持ちたい。でも、今まで育ててくれた母親を最優先しないという選択はどうしてもできない。恩返しがしたい。母を最優先しなければ後悔する。」との事で、今後の人生は母親と共に、母のために生きていくという選択をしました。 仮に今君と結婚して家庭を持ったとしても、君や子供をないがしろにしてでも母親を取るだろうとの事でした。 自分がどれだけ苦労しても、体にガタがきても、結婚も子供も諦めて母のために自分の人生を使いたい、と・・・。 彼がそれで後悔のない人生を送れるのであれば何も言うことはありません。 ただ、私にはとてもできない選択だと感じました。 私にも母親がいて、大切には思っています、ただ、ここまでの自己犠牲を払ってまで尽くしたいとも尽くされたいとも互いに思ってはいません。「自分の人生を大切に、健康に生きる。」私たち親子の間にあるのはこの一言です。彼にとっては「あまりにもドライすぎる親子関係」だそうです。 人の価値観は人それぞれ、批判する権利は誰にもありません。 ただ、彼のような選択をする方が世の中にはどれほどいるものかは気になりました。 自分や家族、友人や周囲の方で、彼のような選択をした人はおられますでしょうか? もしもいたとすれば、その方は幸せに生きているでしょうか?その選択を振り返った時に、自分の人生をどのように感じられているでしょうか? また、おられない場合でも、私の質問を読んでどのように感じられたかでも構いません。

  • 自己犠牲を払いすぎなんでしょうか…

     お世話になります。  来春から東京の大学へ通うため、実家を離れます。 最近どうも友人関係(男女両方)がうまくいかないのです。  私には非常に仲のいい友達が2人います。 一人は男(Aくん)、一人は中学時代から友達の女の子(Eちゃん)です。 秋口から特に結びつきを強めていったのですが、今は一方的に私が遠ざかっています。  なぜなら、私がAくんと仲良くしていると、Eちゃんが嫉妬するからです。(Eには彼氏がいます) Aくんと私はもともと両思いだったのですが、私が東京に行ってしまうということもあり、お互いタイミングを逃してしまった感じです。    EちゃんとAくんはどちらも地元の大学に通うので、私は二人と距離をおくことにしました。 本当の理由は、私とAくんが一緒にいると、手にとるようにEちゃんの機嫌が悪くなるのを見ているのが嫌だからです。 Aくんはやはり私が東京に行くのにEを見捨てることはできないということで、同意してくれました。(半ば私が説得したのですが) なので、冬休み中は私たちが5ヶ月通っていた図書館には一度も行きませんでした。 Eちゃんはおそらく、私は大学が決まったから来ないんだ、と思っていると思います。  しかし、やはり腑に落ちません。 Aくんは、言い方を悪くすればEちゃんに利用されているだけです。「あくまで私たちは友達だ」と、面と向かってAくんに言ったようですし…。 なのになぜ、私は友達としてAくんと話すこともできないのでしょうか。 それどころか、EちゃんはAくんにべったりで、私を見向きもしません。  自己犠牲を自ら選んだとはいえ、さすがにむなしいです。 ここでは書ききれないこともあるので、質問があればしてください。 みなさんは、どう思われますか?