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「ている」の「歴史的なことがら・経歴・経験などを記録として述べる言い方」という使い方について

 日本語を勉強中の中国人です。編集者が日本人の本に書いた「ている」のある使い方に疑問を感じております。ネイティブの皆様に確認させてください。  本が曰く、「ている」の使い方には、「歴史的なことがら・経歴・経験などを記録として述べる言い方」というようなものもあるようです。そのような使い方は本当に存在しているのでしょうか。もし本当にありましたら、それはどういう使い方なのか、もう少し詳しく説明していただけないでしょうか。例文ももう少しいただければありがたく思います。  本に載っている例文は次の三文です。 1.アポロ11号【は】1969年に月に着陸している。 2.モーツァルト【は】12歳のときに、オペラを作曲している。 3.ひろし【は】3年前にも同じ病気をしている。  私なら上の三文はたぶん次のように書きます。 1.「~着陸した」 2.「~作曲した」 3.「~病気をしていた」か「~病気をした」  私の書き方はおかしいと思われますか。それから、三つの例文の主語の後ろはなぜ【が】でなく、全部【は】になっているのでしょうか。  また、質問文に不自然な日本語がありましたら、ご指摘いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • hakobulu
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回答No.4

◆ >「歴史的なことがら・経歴・経験などを記録として述べる言い方」 :記録という語句は、『動かし難いものとして認識できる事実』といったような意図で使われているのでしょう。 「アポロ11号【は】1969年に月に着陸した。(A)」 「アポロ11号【は】1969年に月に着陸している。(B)」 この2つの文は、意図する内容が微妙に違うというだけで、どちらも自然な表現です。 Aは、「過去の時点で着陸した」という『行為自体』について述べています。 Bは、 『着陸し(たという歴史を残し)ている』 『着陸し(たという事実を残し)ている』 といったような意味になります。 着陸したという動詞自体の意味よりも、それが行なわれたという歴史、あるいは事実に注目している表現です。 その歴史・事実は今でも残り続けていますから過去形にはならないわけです。 (ex1) 「彼は彼女を知らないと言うが、実際は一週間前にこの家で会っている。彼は明らかに嘘をついていると私は思う。」 【(一週間前に)会った、という行為自体】ではなく、 【(一週間前に)会った、という経験が事実として(現在も)存在している】 ということに重点が置かれてています。 「(会ったという)事実を考慮すれば、嘘をついている」という流れ(構文)が自然に表現できるわけです。 (ex2) 「毛沢東は1893年、中国の湖南省で生まれている。」 【生まれた】という出来事自体よりも、 【生まれた、という歴史的な事実が存在している】ということを意図している表現です。 ◆ 1、《○○が△△》の場合。 主格の[が]は、○○を【強調する意図】を持ちます。 「アポロ11号【が】1969年に月に着陸している。」 『他の宇宙船ではなくアポロ11号』というニュアンスです。 前後の文脈によっては、 『アポロ9号や10号ではなく11号』ということを強調しているかもしれませんし、 『ソ連の宇宙船ではなくアメリカの宇宙船』ということを強調する意図を持っている場合もあるでしょう。 誤解を怖れずに言えば、△△という述部よりも○○という主格が重視された表現と言えるかもしれません。 2、《○○は△△》の場合。 [は]は、○○を【主題として提示】あるいは【主題として宣言】する機能を持ちます。 主題として提示するので、通常は、読者も○○の存在を既知のものとして受け止めているシチュエーションが必要になります。 桃太郎という昔話の出だしですが、 「昔々おじいさんとおばあさん【が】いました。」と読者に紹介しておいてから、 「おじいさん【は】山に柴刈りに、おばあさん【は】川へ洗濯に出かけました。」 と主題提示によって述部をつないでいるわけです。 「アポロ11号【は】1969年に月に着陸している。」(原文) アポロ11号を主題としてこれから何か言いますよ、という宣言が含まれています。 『アポロ11号に関して述べてみれば・・・』というニュアンスです。 1とは逆に、「月に着陸した」という述部に重点を置いていることになります。 3、[は]と[が]を使い分けることによって、上のように異なる意図を表現できるわけです。 どちらが間違いということはありません。 全部【は】になっているのは、 「1.アポロ11号」 「2.モーツァルト」 「3.ひろし」 という主格よりも、 「1.着陸している」 「2.作曲している」 「3.病気をしている」 という述部に重点を置きたい意図があるからです。 4、【が】を使って述部よりも主格を強調しているシチュエーションの例を挙げてみます。 「1.アポロ11号【が】1969年に月に着陸して、アメリカの面目躍如となった。」 「2.このオペラは、モーツァルト【が】、12歳のときに作曲している。」 「3.○○さんのはあまり聞いたことの無い病名だが、ひろし【が】3年前に同じ病気をしている。」 など。 ◆ご質問文の添削 A.{編集者が日本人の本に書いた「ている」のある使い方に疑問を感じております} a.【編集者が日本人の本に書いた】ではなく、 『日本人の編集による本に書いていた』としたほうが良いでしょう。 b.【ある使い方】というのは、使い方の内容が特定できていない場合の表現です。 原文の場合は特定できているわけですから、 『使い方』で十分です。 c.まとめると、 『日本人の編集による本に書いていた「ている」の使い方に疑問を感じております。』 などとなります。 大幅に変更しても良ければ、 『「ている」という表現がありますが、日本人の編集による本を読んでいて、その解説に疑問を感じております。』 などとすることもできます。 B.{本が曰く} 難しい表現をよくご存知ですね。 ただ、間違いとは思いませんが、『本の曰く』としたほうが良いように思います。 この件に関しては自信はありませんが・・・。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 hakobuluさん、いつもお世話になります。ご回答ありがとうございます。だいぶ理解できるようになりました。「は」と「が」についてhakobuluさんがおっしゃることはぜんぶ理解できていると思います。よろしければ、私の考え方もご覧ください。質問文の添削にも感謝いたします。「曰く」はじっさい聞いた人に対して使う言葉なのですが、硬いのですね。失敗してしまいました。でも、また試してみます^^。今度は失敗しないようにがんばります。  本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

>記録という語句は、『動かし難いものとして認識できる事実』といったような意図で使われているのでしょう。 「動かし難いものとして認識できる事実」ということなのですね。だいぶ理解できるようになりました。でも、なぜ「動かし難いものとして認識できる事実」と表明する必要があるのでしょうか。つまり、書き手はこのような書き方にする意図は何でしょうか。読み手にいったい何を伝えたいのでしょうか。 文法本の三つの例文の過去の時点の「5年前に」、「1990年に」、「3年前に」を「もう」あるいは「すでに」に置き換えたら私はよく理解できると思います。 過去のことに対しては、どんな時に「動かし難いものとして認識できる事実」の「している」を使うのか、どんな時に、「した」だけを使うのか、判断が付き難くて慣れるしかないですね。何かコツのようなものがあれば、ありがたいのですが、そんなものなんてないですね(><)。 >「1.アポロ11号【が】1969年に月に着陸して、アメリカの面目躍如となった。」 「面目躍如」の読み方を教えてください。「面目」と「躍如」の間に「が」を入れる必要はないのでしょうか。「面目躍如となった」の区切り方も教えてください。 「は」と「が」についてですが、すでに前よりだいぶわかってきたように思います。私はその三つの例文の前にそれぞれ、「アポロ11号が~」、「モーツァルトが~」、「ひろしが~」という文が必ずあると思うのですが、こんな考え方はおかしいと思われますか。「月が出た。その月は大きい」のような感覚に似ていると思います。つまり、いまの三つの例文は「その月は大きい」のような地位だと思います。その前に、必ず、「月が出た」という「が」を使った文があるはずだと思えました。 >編集者が日本人の本に書いた「ている」のある使い方に疑問を感じております この文は私はいつも上手に書けません。いぜんも確かに間違っていましたね。もともとは「編集者が日本人である本」と書くつもりでした。バランスが悪いと思って「である」を「の」に変えました。「編集者が日本人」だけで「本」を修飾するのは、やはり無理でしょうか。

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  • hakobulu
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回答No.18

#9、#12です。 ご返事ありがとうございました。 1、 >【静的な事実(または経験)の確認】と【動的な動作完了時の再現】という違いと考えてみてはどうでしょうか。 この説明のほかのところは理解できましたが、「確認」というところがまだよくわかりません。なぜ確認する必要があるのでしょうか。「動かし難いものとして認識できる事実」なら、確認する必要がないのではないでしょうか。 a.この問いが、おそらく核心に迫る糸口になるでしょう。 今までは、「確認する必要性」がなぜあるのか、という肝心の点について触れていませんでしたね。 改めて「確認する必要性」について述べてみます。 b.まず、結論から先に述べておきます。 ≪『その事柄に関してはお互いに確認済だ』ということを前提にして、それ以降の会話を進展させるため≫です。 相手が元々その事柄を知っていれば確認済になりますが、知らなかった場合は周知させることによって確認済という結果を築く、という意図も当然含まれます。 ですから、ある局面においては、 ≪『その事柄に関してはお互いに周知している』ということを前提にして、それ以降の会話を進展させるため≫ と説明したほうが適当な場合もあるかもしれません。 この点は臨機応変に適用していただきたいと思います。 c.具体的には色々な状況が考えられますが、たとえば次のような会話が想定できるでしょう。 ●ーーーーー→ A:「アポロを冠した宇宙船は1号から17号まであるらしいが、私は11号という名前だけが何となく印象に強く残っている。これはなぜだろう? 」 B:「アポロ計画というのは月面探査を目的としたプロジェクトだった。その中で、アポロ11号は1969年、最初に月に着陸している。そのため大々的にテレビなどで何度も放映されただろうし、だから11号という名前が記憶に残っているんじゃないかな。」 A:「そういえば、アームストロングが『一人の人間には小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩だ。』などと言ったのはあの時だったかな。」 ーーーーー→● このような会話においては「着陸している」という表現は必須でしょう。 「着陸した」でも意味は通じますが、Aの発言意図、あるいはAの気持ちを適切に受け止めた応答とは言えなくなると思います。 「動かし難いものとして認識できる事実」であっても、誰もがそれを常に記憶しているわけではありません。 『それを事実として覚えているかどうか』を確認する必要があるということになります。 この場合、「着陸した」という動的場面は必要ありません。むしろ、この動性は邪魔になるでしょう。 なぜならば、確認したいのは「着陸した」ことではなく、それを「覚えているかどうか」あるいは「知っているかどうか」ということだからです。 d.日本人編集者の本で留意すべきは、 「歴史的なことがら・経歴・経験などを述べる言い方」ではなく、 「歴史的なことがら・経歴・経験などを【記録として】述べる言い方」 と説明している点でしょう。 「着陸している」は、『着陸したという記録(事実)がある、ということを(我々は)お互いに確認しておきます。』というニュアンスになるわけです。 「着陸した」と「着陸している」の、微妙ですが【厳然たる意味の違い】は、このような理由によるものと考えて良いと思います。 e.「富士山は日本の一番高い山だ」に関して、 『>話者の判断なども混入されている感じで、極端的な感覚にしたら、「~だ」は「富士山は日本の一番高い山なんだよ!!!知らないのか!!!」のような熱血系の叫びになってしまうでしょう。』 とおっしゃっているのは同感です。 また、「富士山は日本の一番高い山である」に関して、 「>富士山という現場から遠く離れているところに身を置いて、心を静かにしてその富士山という存在、その現場を客観的で冷静的に眺めながら淡々と述べるという感じでしょうか。」ともおっしゃっています。 これも良くわかります。 では、『なぜそのように感じるのか』を考えてみたいと思います。 それは、「富士山は日本の一番高い山である」という文が、 『「富士山は日本の一番高い山だ、という事実」を、知っていますよね。もし知らなければ、知っておいてくださいね。』という、(確認の)ニュアンスを含んでいるからだと私は思います。 「高い、という状態」を述べているのではなく、「高い山、という事実があること」を【確認する意図】を持つ表現なので、「客観的」「理性的」「冷静」に感じるのではないでしょうか。 そのために、 『>「ている」のこの使い方は「富士山は日本の一番高い山である」という文の語尾の「~である」の雰囲気に近い』 とお感じになったのではないでしょうか。 なぜ確認をする必要があるのかと言えば、 次に続く文で示そうとしている筆者の意図を、読者に正しく伝えたいからです。 「富士山は日本の一番高い山である。その頂上から昇る朝日を見るのは実に気持ちが良い。」という文があったとします。 この文には「富士山は日本一高い山だ、という事実を確認しながら、昇る朝日を見るのは気持ちが良い。」という筆者の意図が込められています。 これに比較した場合、 「富士山は日本の一番高い山だ。その頂上から昇る朝日を見るのは実に気持ちが良い。」 という表現では、前後の文の関連性(因果関係)は弱まるでしょう。 f.「>勝手な推測ですが、例文1と2のような書き方は文献資料、人物伝記、科学発見の紹介、歴史事件の紹介などの分野でよく見られる表現でしょうか。」 :【静的な事実(または経験)の確認】(あるいは【>記録として述べる言い方】でも良いですが)という機能を持っていますから、まさにそのような【場面でも】ふさわしい表現と言えるでしょう。 2、 a.ネットからの抜粋をそのまま記してしまいましたが、 「(A氏は)烈々たる気迫のこもった糾弾演説をされ満場の大喝采(だいかっさい)を浴びて演説を終えられ、かつての労働運動の闘士としての面目躍如たる姿を(私は)目の当たりにした」 という内容です。 「目の当たりにした」は『直接、すぐ近くで見た』という意味です。 b.「アメリカの面目躍如/となった」と区切れるでしょう。 「面目躍如」は、「名誉を挽回する」「長所を生き生きと発揮する」といったような意味です。 かつてのソ連とアメリカは、宇宙開発で先を越したり越されたりしていたわけですが、そのような時代を背景にして成立している表現です。 「○○は3連敗の後4連勝し、昨年優勝者(=○○)の面目躍如となった。」 などの四字熟語が殆んどですが、 「この逸話にも、彼女の面目が躍如としている」などという使い方もできます。 3、 >No.8さんへの補足もご覧ください。へりくつですが、~ :「へりくつ」は私の方が上だと思います。(^^;) 『>(自然)現象に対して「が」をまず考えましょう』について。 a.「が」は主格の強調と常々述べてきましたが、「海が青い」「雪が降っている」は単なる現象で、強調しているわけではないというお考えも良くわかります。 #12の補足で述べておられる、 『「海が青い」という文は読者に「海+青い」のイメージを伝えたい、「私【が】雪が好きです」という文は「私」というメッセッジを伝えたいと考えたわけです。』という内容も良く理解できます。 「アポロ11号【が】1969年に月に着陸している」のほうが、現象を表わす単独文として適しているのではないか、というお考えに至るのもご尤もでしょう。 しかし、これは明らかにアポロ11号を強調している、と私は言いたいと思います。 へりくつの上に頑固者と言われそうですね。(^^;) 「強調している」という言葉に納得がいかないようでしたら、『重点を置いている』と捉えていただいても結構です。 それにしても、 「海が青い」という文はひとつの現象を示しているのであって、 「海」「青い」を分けるのはおかしいのではないか、という疑問は解決されないようにも思います。 そこで、説明しやすいように既出の他例で検討してみます。 ・水が流れている。 ・雪が降っている。 ・風が吹いた。 ・花が咲いている。 ・月が出た。 ・ベルが鳴っている。 を、 ・水だ。 ・雪だ。 ・風だ。 ・花だ。 ・月だ。 ・ベルだ。 ように言い換えても意味は通じるはずです。 元々の文の骨子が主格部分にあるからしょう。 このようなことを基本的に、「主格が強調されている文」と私は捉えています。 b.「海が青い」という文では説明しづらいのですが、あえて述べてみます。 このような表現は【(海という)青いもの】を眼前にしている時に出る表現だ、ということです。 つまり、話し手にとって【「青い」という感動】は『(表現する前に)すでにあるもの』です。 そして、それはすでに話し手の心の中で完結している事柄(もの=感動=感覚)です。 言葉として発する場合、彼に取っては「海が」だけで90%ぐらいは表現したつもりになる、というのが本質でしょう。 「(文としての)海が青い」は「海」が強調された表現だ、というのはそういうことです。 これに倣えば、「アポロ11号【が】1969年に月に着陸している。」の場合、 「月に着陸している」ことよりも、「アポロ11号」という主格に重点が置かれて(強調されて)いる、ということができるでしょう。 これに対して、 「アポロ11号【は】1969年に月に着陸している。」という場合は、 「月に着陸している」という事実(の確認)の方に重点を置いているわけです。 単独文としてどちらが完結性が高いかと言えば、後者のほうでしょう。 【が】によって主格(アポロ11号、モーツァルト、ひろし)を強調する(重点を置く)よりも、 【は】によって述部(月に着陸している[月に着陸した]、作曲している[作曲した]、病気をしている[病気をした])という事実を伝える(あるいは事実の確認をする)ことにこそ、これらの内容を文章化する意味があるからです。 c.もう少しわかりやすい例を挙げてみます。 今日は、awayuki_chさんの家でパーティが開かれる日だとします。 ところがawayuki_chさんは予定を大きく遅れて帰宅しました。 お母さんが玄関まで出迎えて「Aさんが、」と言ったとします。 続く述語は色々あるしょうが、「来ているよ」という内容をawayuki_chさんは真っ先に推測するのではないでしょうか。 海の例で「青い」という感動がすでに心の中で完結していたように、 (パーティなのだから)「来ている」という状況については当然の事柄としてお母さんの心の中で完結していたはずです。 また、awayuki_chさんも同様だろう、という無意識の判断をお母さんはしていたでしょう。 その結果として、「Aさんが」という【Aさんを強調する】あるいは【Aさんに重点をおいた】表現にならざるを得なかったろうと思います。 awayuki_chさんとしては、お母さんが【が】によって「Aさんを強調している」ということは、続く熟語は「来ているよ」だろう、とすぐに(無意識的に)推測できたでしょう。 お母さんが「Aさんは」と言ったのであれば、 わざわざAさんを【主題として提示】したわけですから、パーティとしては当然の「来ている」ということ以外のことに関して言おうとしているのだと想像したと思います。 「遅れてくるよ」とか「来られなくなったらしい」とか。 4、 >「私は彼氏がアメリカ人である女性と会う」なら、どのように書くのでしょうか。 「私は彼氏がアメリカ人の女性と会う」はだめでしょうか。 :二文に分けるほうが良いと思いますが、一文にまとめる場合はこれでも良いと思います。 ただ、「彼氏がアメリカ人」ということを一文で伝える必要性があるというのは特殊な状況と思うので、 下点を打つとか、「」で囲うなどの方法でその特殊性を明確にしたほうが親切かもしれません。 『私は、アメリカ人の彼氏を持つ女性と会う』などとすることもできるでしょう。 前回は「探検活動」をさせてしまい申し訳ありません。 今回も道の舗装がうまくいっていないかもしれません。 密林になっていないことを願っています。 遭難しそうになったら、いつでも、何度でも笛を吹いてください。 可能な範囲での良い装備を整えてすぐに出動いたします。 ただ、助けに行ったつもりで逆に助けられることも良くある救助隊なので、あまり当てにはできないようですが・・・。(^^;)  

awayuki_ch
質問者

お礼

 hakobuluさん、お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。たびたびありがとうございます。「着陸した」と「着陸している」の【厳然たる意味の違い】はどんな理由によるのかよく理解できました。「歴史的なことがら・経歴・経験などを【記録として】述べる言い方」の【記録として】も確かに見過ごしてしまいました。「している」のご説明は大変助かりました。常に本質を問い続ける意識を持ちたいです。  いま参考書の例文にまだ不満が残っております。「単独文としてどちらが完結性が高いかと言えば、後者のほうでしょう」というご意見にまだ疑問を感じております。もう少し検討したいです。  道の舗装は本当にありがとうございました。素足でも歩いてみたい歩きやすい道になりました。気づいたら、雨がパラパラ降ってきました。万物を潤う雨に尊敬する気持ちを持っております。でも、風を引きやすい体質なので、傘がほしいです。救助隊は傘屋さんもやっていますか。魔笛を吹いてみます♪

awayuki_ch
質問者

補足

>「(A氏は)烈々たる気迫のこもった糾弾演説をされ満場の大喝采(だいかっさい)を浴びて演説を終えられ、かつての労働運動の闘士としての面目躍如たる姿を(私は)目の当たりにした」という内容です。 「糾弾演説をされ」、「終えられ」は尊敬語なのですね。「浴びて」は「浴びられて」という形ではないので、前の二つを受身だと判断してしまいました。やっとわかりました。 >「アメリカの面目躍如/となった」と区切れるでしょう。 「と」は「面目躍如」の付属成分だと思ってしまったので、「アメリカの面目躍如と/なった」のように区切ってしまいました。やっとわかりました。 >「この逸話にも、彼女の面目が躍如としている」などという使い方もできます。 でも、この文の区切り方は「彼女の面目が躍如と/している」でしょうか。「と」は「躍如」の付属成分の「と」でしょうか。 >「アポロ11号【が】1969年に月に着陸している」のほうが、現象を表わす単独文として適しているのではないか、というお考えに至るのもご尤もでしょう。しかし、これは明らかにアポロ11号を強調している、と私は言いたいと思います。へりくつの上に頑固者と言われそうですね。(^^;) 「へりくつの上に頑固者」大賞はやはり私に譲っていただけませんか(*^-^*)。おっしゃるとおり、「アポロ11号【が】1969年に月に着陸している」のほうが、現象を表わす単独文として適しているのではないか、と考えたわけです。 > ・水が流れている。 ・雪が降っている。 ・風が吹いた。 ・花が咲いている。 ・月が出た。 ・ベルが鳴っている。 を、 ・水だ。 ・雪だ。 ・風だ。 ・花だ。 ・月だ。 ・ベルだ。 ように言い換えても意味は通じるはずです。元々の文の骨子が主格部分にあるからしょう。 言い換えられないような気がします。「流れている」、「降っている」などの部分を意識しないと、どのような状態の主語は想像できないでしょう。「こぼれている」、「融けている」などの状態もおかしくはなくなるでしょう。私はやはり「~が~」の両側に集中してしまい、つまり、一つのものではなく、ある状態に伴うものは一つのシーンになって頭に出てくるのです。本質論に合わないように感じました。 >海の例で「青い」という感動がすでに心の中で完結していたように、(パーティなのだから)「来ている」という状況については当然の事柄としてお母さんの心の中で完結していたはずです。 上の二例ならわかったような気がします。私の挙げた(自然)現象は次のようなシチュエーションで使いたいと思います。もう少し説明していただけないでしょうか。 1.ある場所の訪問中。そこの小道を歩きながら、目に映っているものを頭の中で文章にする。「いま、私は歩いている。自然の懐にいる。……」は最初の文だとする。 2.その場所から帰ってから、日記を書く。「今日、素敵なところを訪問した。……」は最初の文だとする。 3.訪問日の何日後、また当時のことを思い出して日記にする。「またあそこを思い出した。もう一度行ってみたい。あそこの美しい景色が(は?)忘れられない。……」は最初の文だとする。 上の三つのシチュエーションで作文するなら、「……」の部分で列挙した(自然)現象にぜんぶ「が」を使ってあっているのでしょうか。また3の「美しい景色」の後ろに「が」と「は」のどちらを使うべきなのかも教えてください。

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  • kiwifruit
  • ベストアンサー率40% (14/35)
回答No.17

>湯気が立っているセイロから出したホカホカ状態の宿題 とっても美味しそうな宿題ですね! >あと、紫禁城にも(○行きました/○行っています)。 この問題を作ったときは、「行きました」が解答だと思ったのですが、「行っています」も不自然ではないですね。これ以外も全て正解です。 >焼けど 「やけど」は「火傷」と書くんです。『当て字・宛字(あてじ)』ですね。 #14のawayukiさんのコメントに対して返事を書きたいのですが、今日は時間がないので、申し訳ないのですが、この次にさせてくださいね。

awayuki_ch
質問者

お礼

 kiwifruit先生、何度もありがとうございます。お礼は一週間遅れてしまって申し訳ありませんでした。  前回のおいしい料理はkiwifruit先生に手伝っていただいたおかげで出来上がったのです。今度は自分でもおいしい料理が作られるようにがんばります。「火傷」の漢字も大変参考になりました。  本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

No.16の補足欄は使えなくなったので、No.17の補足欄を使わせていただきます。次は私の本の「ている」についての説明です。例文をそれぞれ一つ選ばせていただきます。二つの文法書を対照してみたら、わかりやすくなると思って転記いたします。 1.動作や作用が進行中・継続中であることを表す。 ・北海道では雪が降っています。 2.習慣や行為の反復を表す。 ・父は毎週2回テニスをしています。 3.動作・作用の結果の状態がそのまま続いていることを表す。 ・りんごが落ちています。 4.未完了を表す。 ・A:朝ご飯を食べましたか。B:いいえ、まだ食べていません。 5.初めからの外見や性質などの状態を表す。 ・この道は海の方までつづいています。 *6.歴史的なことがら・経歴・経験などを記録として述べる言い方。 ・アポロ11号は1969年に月に着陸している。 ・モーツァルトは12歳のときに、オペラを作曲している。 ・ひろしは3年前にも同じ病気をしている。

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  • kiwifruit
  • ベストアンサー率40% (14/35)
回答No.16

実は私は日本語を母語としない方に日本語を教える勉強をして、実際に外国の方に教えていた経験があります。その勉強をしていたときに買った本に「~ている」の説明を見つけたので、ご参考までに、そのまま転記いたします。お持ちの本と比べて見てください。 (長くなるので、awayukiさんが既にご存じだと思われる用法については、例文を少なくしておきます。) 1.進行の状態 花子は手紙を書いている。 雨が降っている。 2.結果の状態 部屋の窓が開いている。 山田さんはやせている。 私はそのことを知っている。 3.元からの状態 花子の部屋は南に面している。 山がそびえている。 この切手は丸い形をしている。 4.経験 花子は学生時代に富士山に登っている。 私は去年一度その話を聞いている。 5.くりかえし 花子は毎日日記を書いている。 その地域では今も戦争で毎日何人もの人が死んでいる。 【補足】これは日本人向けの本なので、あまり詳しい説明は書いてありません。1~3と5については説明は不要だと思います。 ご質問の「ている」は4番の例ですが、この本では「経験」と説明されています。 気がつかれたでしょうか。4だけ過去の話ですよね。この文には文脈がないので、「学生時代」や「去年」、「一度」といった言葉を省略してしまうと「花子は富士山に登っている。」や「私はその話を聞いている。」となり、「進行形の状態」と区別がつきません。「経験」を表す「ている」は、 (1)文脈で過去の事だと分かる場合、または (2)「学生時代」といった「過去を示す言葉」があるとき だけしか使えないのです。(「一度」は「過去を表す言葉」ではありませんが、「経験を表す言葉」と言えますね。) お持ちの本でも、「1969年」や「12歳のとき」という言葉があります。これによって、「経験」だと明示しているのです。             * * * #15に書いたことを少し補足します。 私は中国語が分からないので、英語の例で申し訳ありませんが、確かに英語なら、「am, is, are」のような『現在形』や「was, were」のような『過去形』、「(have) been」のような『完了形』と、動詞そのものが明確に形を変えますが、日本語には、そのような活用形がなく、例えば「ある」という動詞なら、過去を表す助詞「た」を使って、「あった」という形を作らなくてはなりません。(中国語は「了」を使うのではありませんか?間違っていたらごめんなさい。)このように考えたら、「日本語の動詞には英語のような『過去形』はない」と言っても間違いではないと思います。実際、日本人は「『ある』の過去形は『あった』だ。」などとは学校で学ばず、「『ある』の連用形『あっ』に『た』を付けて過去を表す」などと学ぶのですから。多分、#2さんは、このことをおっしゃっているのだと思います。

awayuki_ch
質問者

お礼

 kiwifruit先生、お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。お持ちの本の用例をたくさん書いていただき心より感謝いたします。「経験」という言い方は参考になりました。そのように覚えておきます。    「た」の補足にも感謝いたします。kiwifruit先生のおっしゃったとおり、中国語は「動詞+了」で済みます。感覚は似ていると思います。「た」を習う前に、すでに「て」の基礎があったので、苦労していませんでした。「て」を習った時、本当に大変でした。「て」を動詞の基本形の後ろにつける練習は先生に何度もさせられました。【「『ある』の『あっ』に『た』を付けて過去を表す」のように習いました。つまり、『「あっ」は「ある」の「連用形」』という概念は触れていなかったということです。    心より厚くお礼申し上げます。

awayuki_ch
質問者

補足

 皆さん、いつも私を応援していただき心より感謝しております。まず、論点が絞れない質問になったことをお詫びいたします。皆さんに大変なご迷惑をお掛けいたしました。本当に申し訳ありません。これから気をつけるようにします。  大変申し訳ありませんが、今週はとても忙しいです。たぶんお礼と補足を書く時間もありません。No.16から必ず丁寧に返事させていただくので、しばらくお待ちください。(たぶん来週の月曜日か火曜日あたり余裕が持てるようになります。)大変身勝手ですが、よろしくお願いいたしますm(_ _)m。  クラシックはよくわからないのですが、モーツァルトの「トルコ行進曲」が好きです。皆さんもきっと普段どこかで聴かれたことがある曲だと思います。よろしければ、モーツァルトの「トルコ行進曲」を聴きながら、ご一服いたしましょう♪(一服=お茶。禁煙席なので♪)次のページをクリックすると、音楽が流れるので、怖がらないでくださいね。 http://www.geocities.jp/manamana_net/main/dur_k_331.html

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  • kiwifruit
  • ベストアンサー率40% (14/35)
回答No.15

#13様 「曰く」の説明、ありがとうございました。私も勉強になりました。 >過去形も現在形も日本語にはありませんよ。 この件は、ここで議論をすべきことではないということは理解しています。 しかし、我々日本人が『学校文法』で過去形や現在形という言葉を使って動詞(述語)の活用を学ばなかったからといって、「過去形も現在形もない」と言い切ってしまうのはいかがでしょうか。   日本語を母語としている者は、「行く」という動詞を使って、 ・私は京都に行く。 ・私は京都に行くところです。 ・私は京都に行きました。/行った。 ・私は京都に行ったことがあります。 ・私は1度京都に行っています。 という文を簡単に作ることができます。これらの活用(正確には、活用形+助詞等の付属語〔文法用語ではムードと呼びます〕)によって、たとえ文法用語は知らなくても、「未来や過去」を表すことができます。これを、日本語を母語としない学習者は「未来形」や「現在形」、「過去形」といった文法用語を使って学習するのです。 そのような学習者に対して、『学校文法』を持ち出して、「過去形も現在形もない」と言ってしまうのは、不要な混乱を招くと思われませんか?

awayuki_ch
質問者

お礼

 kiwifruitさん、何度もありがとうございます。日本人勉強者の立場に立って考えていただき本当にありがとうございました。今後、機会がありましたら、日本語を母語とする日本の方の国語の習得過程についてこちらのサイトでお伺いしたいと思います。その時にまたご回答いただければありがたく思います。  本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

>日本人勉強者の立場に立って考えていただき本当にありがとうございました。 ごめんなさい。上の文には入力ミスがありました。訂正させていただきます。「日本人勉強者」ではなく、「日本語勉強者」でした。大変失礼しました(><)。

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  • kiwifruit
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回答No.14

●#8のご質問について >『(自然)現象に対して「が」をまず考えましょう』というルール >海が青い。/山が高い。/水が流れている。/雪が降っている。/風が吹いた。/花が咲いている。/月が出た。/車が走っている。/ベルが鳴っている。 などなど。 私が「海が青い」、「水が流れている」などという文からルールを作るとすれば、『(自然)現象を“発見”したときに「が」を考えましょう」と言います。 awayukiさんが山にハイキングに行き、そこで見たもの(=発見した現象)を次々に言葉に表すとします。こんな感じではないでしょうか。 「あ! 水が流れている。あそこに花が咲いている。山が高いなぁ!強い風が吹いている。」 また、バスを待っているとします。 「バスが来た!」  みんな「が」を使いますね。 一方、「富士山は日本の一番高い山である」の「は」は、「水は水素と酸素からできている。」「花はいつか枯れる。」等の「は」と同じです。 『事実や真理を客観的・主観的に述べる書き方』と言ってもいいかと思います。『主観的』と書いたのは、次のような「は」があるからです。 「ドイツ人はビールが好きだ。」、「日本人は勤勉だ。」 ビールを飲まないドイツ人もいるし、勤勉でない日本人もたくさんいますが、『まるで真理かのように述べる』ときには「は」を使います。 このように定義したら、1と2の文の「は」は解決するのではないでしょうか。(「ている」は別の問題なので「した」と書き直してみました。) 1.アポロ11号【は】1969年に月に着陸した。 2.モーツァルト【は】12歳のときに、オペラを作曲した。 別の例を1つだけ挙げておきます。 「孫文【は】1866年に広東省香山県(現中山市)の客家の農家に生まれた。」 #6のご質問について >もしかして、1、2はもっと理性的な書き方でしょうか。たとえば、「富士山は日本の一番高い山である」と「富士山は日本の一番高い山だ」と二つの書き方がありますね。 これは、「ている」の問題ではなく、「は」の問題ではないでしょうか? 上に書いた『事実や真理を客観的・主観的に述べる書き方』です。 なお、『である』と『だ』を比較して、『である』の方が理性的ということはありません。どちらも断定的な口調です。 >例文1、2は『過去に起こった出来事が、記録や記憶として現在も残っている』に属し、3は『その事実が、その後に続いて起こった事実に関係していたり、現在にもなんらかの影響を持っている』に属するでしょうか。 私を含めた回答者がそのように強調しすぎたので、複雑にしてしまいましたね。awayukiさんを混乱させてしまったことをお詫びします。 #10の回答をお読みください。この「ている」は過去の出来事を『経験』として語るときによく使われる形式の一つであり、必ずしも「ている」を使わなくてもいいのです。 「このような場合には『ている』を使わなければならない」という発想ではなく、「『ている』を使うこともできる」と考えたらいかがでしょうか。 「私は中国に5回行きました。」を『経験』として語れば、「私は中国に5回行ったことがあります。」や「私は5回中国旅行を経験しています。」ですね。これを別の表現で書くと「私は中国に5回行っています。」となるのです。 別の例では、「5歳の時、両親が離婚しました。」は『過去』の現象ですね。これを『経験』として語れば、『5歳の時、両親が離婚しています。」となります。これは「両親の離婚という出来事を経験しています。」と同じニュアンスです。 >勝手な推測ですが、1と2のような書き方はよく人物伝記、科学発見の紹介、歴史事件の紹介などの分野で見られる表現でしょうか。 その通りです。awayukiさんの本の「ている」の6つめの用法は『経験』なので、必ず過去に起きた事実でなくてはなりません。したがって、伝記や歴史事件の紹介の文章でよく使われる文型です。

awayuki_ch
質問者

お礼

 kiwifruitさん、度々ありがとうございます。「(自然)現象を“発見”したときに「が」を考えましょう」はとてもすばらしい説明ですね。逆に自然の立場に立って考えてみると、自然がこの人間の私を発見した時に、「あ! 人【が】歩いている!」ですね♪「ている」の例文1、2についてまだ難しいかもしれません。  何度もご親切に回答していただき本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

>『事実や真理を客観的・主観的に述べる書き方』 kiwifruitさんの上の言い方の中の「主観的に述べる」を外してお借りしたいと思います。私は『事実や真理を客観的に述べる時に、「が」を使う』と思ってしまいました。事実や真理を客観的に述べる時に、次の二つの文のどちらが正しいのでしょうか。私は1だと思いました。 1.地球が回っている。 2.地球は回っている。 また、私が挙げた(自然)現象は次のようなシチュエーションで使いたいと思います。 1.ある場所の訪問中。そこの小道を歩きながら、目に映っているものを頭の中で文章にする。(すごく変な癖ですみません^^)「いま、私は歩いている。自然の懐にいる……」は最初の文だとする。 2.その場所から帰ってから、日記を書く。「今日、素敵なところを訪問した……」は最初の文だとする。 3.訪問日の何日後、また当時のことを思い出して日記にする。「またあそこを思い出した。もう一度行ってみたい。あそこの美しい景色が(は?)忘れられない……」は最初の文だとする。 上の三つのシチュエーションで作文するなら、後ろの(自然)現象のところで「が」であっているのでしょうか。また3の「美しい景色」の後ろに「が」と「は」のどちらを使うべきなのか教えてください。 >>もしかして、1、2はもっと理性的な書き方でしょうか。たとえば、「富士山は日本の一番高い山である」と「富士山は日本の一番高い山だ」と二つの書き方がありますね。 >これは、「ている」の問題ではなく、「は」の問題ではないでしょうか? 上に書いた『事実や真理を客観的・主観的に述べる書き方』です。なお、『である』と『だ』を比較して、『である』の方が理性的ということはありません。どちらも断定的な口調です。 今回「は」と「が」も便乗して質問させていただくことは皆さんに大変なご迷惑をお掛けしたと思います。本当に申し訳ありません。富士山の例は「は」と「が」についての質問のつもりではなかったと思います。「ている」のことを言っておりました。特に、「ている」の例文1、2のような使い方。「ている」は「である」の意味に等しいとは言っておりません。「である」というスタイルが持つ雰囲気に近いかと思いました。「である」と「だ」は両方断定的な口調だとわかっておりますがが、「だ」に比べると、「である」のほうが冷静的な感じがします。ですから、例文1、2の「している」と「した」の違いも「である」と「だ」の違いに近いのではないかと考えたわけです。 いま私はまだ次の考え方を持っております。 >>例文1、2は『過去に起こった出来事が、記録や記憶として現在も残っている』に属し、3は『その事実が、その後に続いて起こった事実に関係していたり、現在にもなんらかの影響を持っている』に属するでしょうか。 今回kiwifruitさんは「経験している」と例文1、2、3を統一して説明してくださいました。「経験している」を表明することによって、「その後に続いて起こった事実に関係していたり、現在にもなんらかの影響を持っている」が表現できますね。ですから、例文3はすでに理解できました。No.10の宿題もぜんぶ例文3向けの宿題だと思いました。しかし、いま例文1、2のような書き方は「経験している」だけでまだ解決できないと思います。なぜ例文1、2は「経験している」と表す必要があるのでしょうか。 私は例文1、2については、いま「淡々と伝える」というご意見に賛成です。ですから、私は「である」と「だ」のスタイルが持つ雰囲気の違いに近いのではないかと思えたわけです。「である」は冷静的な、理性的な淡々と伝える書き方だと思っておりますから。

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回答No.13

#2です。ちょっとこれ↓を御覧なさい。 子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧時樂道、富而好禮者也、子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨、其斯之謂與、子曰、賜也、始可與言詩已矣、告諸往而知來者也、 子貢が曰わく、貧しくして諂(へつら)うこと無く、富みて驕(おご)ること無きは、何如(いかん)。子の曰わく、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若(し)かざるなり。子貢が曰わく、詩に云う、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如しとは、其れ斯れを謂うか。子の曰わく、賜(し)や、始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。諸(こ)れに往(おう)を告げて来を知る者なり。 子貢がいった、「貧乏であってもへつらわず、金持ちであってもいばらないというのは、いかがでしょうか。」先生は答えられた、「よろしい。だが、貧乏であっても道を楽しみ、金持ちであっても礼儀を好むというのには及ばない。」子貢がいった、「詩経に『切るが如く、磋るが如く、琢つが如く、磨くが如く、』と[いやがうえにも立派にすること]うたっているのは、ちょうどこのことでしょうね。」先生はいわれた「賜よ、それでこそ一緒に詩の話ができるね。前のことを話して聞かせるとまだ話さない後のことまで分かるのだから。」 「子貢曰」と「子曰」の読み方が異なっています。まず、「曰」という字の読み方が違う。前者はイハクで後者はノタマハクです。そもそも両者は「ク語法」と呼ばれる文語表現で、イフおよびノタマフという動詞を名詞化するものです。そしてノタマフはイフの尊敬語です。 子曰の子は言うまでもなく孔子様ですから、絶大なる敬意の対象となるので、訓読するとき、すなわち日本語化するときには原文にはない敬語表現が必要になります。 で、もう一つの違いも敬語に関わるものです。「が」は平叙もしくは卑下を含意し、それと対蹠的に「の」は敬意がこもる言い方なのです。これは現代語ではほとんどまったく区別されないのですが、なんとなく痕跡めいたものは残っているような気もします。 しかし「シノノタマハク」なんてのは耳に染み付いますけどねえ。でも「シ、イハク」と読む人もいます。それはきっと原文にない敬語を付けるのは余分だ、という考えだろうと推測できるし、そうなら一貫性があってそれなりに頷ける考え方です。「シガイハク」とも「シノイハク」とも言いたくないという理屈、わかりますね。無論「シガノタマハク」なんてのは問題外だってことも。 同じく、「子貢ノイハク」なんて言われたらそうとう耳障りなことでしょうな。そんなこと言う奴はいないはずだけど。 でようやく問題の「本が曰く」ですが、これは正しくは「本に曰く」となります。「論語に曰く」だの「バイブルに曰く」だの「憲法前文に曰く」だの「露伴の『風流仏』に曰く」だの、人間が影に隠れている事物が曰くに先行するなら、使用する助詞は「に」に古くから決まっていて今に至るも変化ははござらん。日本書紀に頻出する「一書曰」は「イッショニイハク」です。(たまに「アルフミニイハク」と読む人もいる。) >口を酸っぱくさせて申し訳ありません。 べつにあなたの一人のことを申したわけではないのでお詫びには及びません。 >過去形、現在形などの定義がないなら、外国人は日本語が勉強できないですね。 待ってください。定義もなにも、過去形も現在形も日本語にはありませんよ。ないんですったら。だからそんな言葉を使って国文法を教わった覚えは全くありません。文法も進歩しているから改正された部分も少なくないでしょうが、こんな基本的なところが動くはずはないと思います。 日本語を母語や第三の言語との対応において理解しようとするかぎり、今ぶつかっている壁を乗り越えるのは難しいでしょう。 日本人が英語をはじめとする外国語の習得を極端に苦手にするのは、日本語の時間把握が特異なせいもずいぶんあると思います。と言うか、日本人には英語の過去とか未来完了とか、ほんっとぜんぜん理解できないんですよ逆に。かいもく理解できないまま、日本語を考えるときに現在進行形だの過去形だのと英文法のために作られた用語を使うんだから笑止であります。なに、かく言う私も外国語は大の苦手ですけどね。

awayuki_ch
質問者

お礼

 お礼の字数オーバーになるので、補足欄も一緒に使わせていただきます。一昨日夜遅くにもかかわらず、ご親切に回答して頂きまして誠に有難う御座いました。私の質問は全部急がないものなので、これから遅い時間まで付き合わないように強くお願いいたします。お体にも気をつけてください。  孔子まで登場して頂いて感謝しております。日本の方は中学校から漢文の勉強をなさるそうですね。中国人にとっても大変難しい内容です。本当に感心されております。  「人が曰く」と「人の曰く」の違いは大変参考になりました。中日の言葉を対照してみたら、なかなか面白いものです。 中国語*日本語 人曰 |人が曰く 人の曰く 本曰 |本に曰く  挙げられた例から日本語らしい特徴が二つ窺えました。 1.敬語  とても厳しいようですね。昔からすでに意識されているようです。 2.「が」、「に」、「の」などの助詞(?文法がぜんぜんだめなので、「助詞」と呼ばないかもしれません。)  私にとって、こういうような成分は「のり」のようなイメージを受けております。二つの破片をノリを使うことによってつなぐのです。  「曰く」という日本語は現代日本語の口語で聞いたのです。現代中国語ではほとんど古人の言葉、古い本の言葉を引用する時しか使わないので、「曰く」という表現の新鮮さを覚えておりました。中国語は「が」、「の」、「は」などのノリのような成分がないので、中国人が日本語を勉強するときに、「が」、「の」、「は」などの壁によくぶつかるのです。  日本語の古文の文法を勉強しないと、日本語の本質がずっとわからないかもしれません。日本語の古文の文法もちゃんと勉強するつもりですが、古文の文法についての本を読むと、頭がものすごく痛くなりました。日本語がいやになるのも怖いかもしれません。結局、三日坊主の根性になってあの本はまだ本棚で寝ています。そんな自分はとても情けないと思います。でも、本当に読む気にはなりません。いつか心機一転でまた読むかもしれません……。ちなみに、今回読んでいる本は日本語の系統的な文法の本ではなく、日本人編集者による日本語表現文型のまとめの本です。

awayuki_ch
質問者

補足

 過去形と現代形の件ですが、以前も相談にのっていただいたことがありますね。あの時のコピーはきちんと預けております。いつかお考え方が理解できる日が訪れてくると信じております。以前も申し上げたように、「た」は中国語の「了」に近いように感じました。中日の言葉の共通点が多く、両方とも英語の文法ルールほど厳しくないように感じております。別に英文法と一つ一つ対応して勉強するつもりはありませんが、過去、現在、未来、進行などのことを表す時に、一般的には日本語はどのように表現するのかという外国人の日本語勉強者の立場に立っていただければ大変ありがたく思います。  実は、過去のことであっても、中国語でも「水面の波紋が広がってゆく」という余韻を出す表現方法をするのです。中日の言葉の共通点が多いと思います。でも、いくら共通点が多いと言っても、やはり違うところも相当たくさんあります。最近気づいたのですが、日本語の語尾の表現方法は難しいです。いまいろいろな文章を読んで味わいたいです。  何度も本当に有難う御座いました。勉強すればするほど、自分の無知を感じており、わからないものもどんどん増えてきたような気がします。ゆっくりと前へ進もうと思います。もう少し時間がほしいです。心より厚くお礼申し上げます。これからもよろしくお願いいたします。

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  • hakobulu
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回答No.12

#9です。 せっかくですから、この機会に「は」と「が」についてもう少し補足しておきましょう。 そのために、#9で例文をすでに用意してあります。 「劉翔は、2006/07/11に、 110mハードルで 12秒88 の世界記録を樹立している。(A)」 という例文をご覧になってどういう印象を受けたでしょうか。 もしawayuki_chさんが劉翔という人を知っていれば、自然な文として読まれたと思います。 しかし、もし知らなかった場合は、 「劉翔って誰? 何となく耳にした事はあるような気もするけれど・・・。 ともかく、その人が世界記録を持っているってことね。 でも、私は劉翔って人は殆んど知らないわけだから、いきなり世界記録を樹立している、と言われても何かしっくりこないなあ・・・。」 という印象を受けるのではないでしょうか。 つまり、「読者も○○の存在を既知のものとして受け止めているシチュエーション」が設定されていないことになるので不自然な印象を受けるわけです。 『劉翔(Liú Xiáng, りゅう しょう、1983年7月13日 - )は、中華人民共和国の上海出身のハードラー。「アジアの昇り龍」とも呼ばれる。父は劉学根、母は吉粉花。』(Wikipediaによる) などという【説明】が先に提示されていれば、全く違和感無く受け止めることが可能でしょう。 ここまで詳しくなくても、『中国に劉翔という陸上選手がいる。』だけでも良いでしょう。 また、#9でも述べましたが【唐突に提示しない】という条件が守られていれば良いのです。 ですから、 「中国には陸上競技の世界記録保持者が3人いる。女子では1500mと10000mの曲雲霞。3000mの王軍霞。 男子の劉翔は110mハードルで世界記録を持っている。」 などという表現も可能です。 筆者は世界記録保持者について述べようとしている、ということがわかる文章ですから、【出てくる名前は中国の世界記録保持者】だという認識を読者が予め持てます。 それで、「劉翔は」と述べた時点で、「あ、彼も世界記録保持者なんだ」ということがわかりますから不自然に感じないのです。 そして、「110mハードルの世界記録」という述部で、「ほ~、そうだったのか」と納得するわけです。 【は】を含んだ文だけでその用法を説明するよりも、このような説明文も併記してあったほうが親切な解説書ということは言えるかもしれません。 ただ、原文の場合は「ている」の解説なので止むを得ないでしょう。 いずれにしても、 ≪【は】によって提示される主題は、 「対話する両者ともに(わずかでも)知っている人物・事象」でなければならない。≫ ということが最低必要条件になります。 (小説などの書き出しで、最初からいきなり「太郎は思わず目を瞠った。」などという【は】を使った表現があります。 これは、「え? 太郎って誰? 」という当然湧いてくる疑問を逆に利用することによって、作中に引き込むための一種のテクニックと言ってよいでしょう。) しかし、【は】を使うための条件として、これだけでは十分ではありません。 ≪主題は、それに続く述部を強調する目的のために提示される。≫ という点が大事です。 端的に言うと、 「私は、・・・」と言い出した瞬間に、「私」という主格の重要性はすでに薄れている、ということです。 「私は雪が好きです。」と言った場合、「私」という主格は単に提示されたにすぎません。 本当に言いたいのは「雪が好きです」という述部です。 わかりやすくするために極端な(稀な)例を挙げますが、 では、「私が雪が好きです。」と言う表現の場合はどうなるでしょうか。 【が】は主格の強調を意味しますから、雪が好きなのは他の誰でもないこの私だ、ということを言っていることになります。 (このように言うシチュエーションはあまり考えられませんが) 「雪が好きです」という述部よりも、「私が」という主格を強調して表現したいわけです。 「みなさんの好きな自然現象を教えてください」という質問に対して、 「私が雪が好きです」という応答は不自然になります。 「誰が」ではなく、「何を」ということを聞かれたわけですから、「私」を【が】によって強調しようとするのは場違いだということになります。 【が】は、 使い手が意図するにせよしないにせよ『主格の強調』を意図しています。 「本が欲しい」などのように対象格として使われる場合も含め、【特定】と言ったほうが良い場合もあるでしょう。 【特定】も一種の強調と言えますが、どちらの意味であるかは、前後の文脈によって違ってくるでしょう。 また、最も重要なのは、 『【は】を使った時と比較した場合、述部よりも、【が】を伴なった主格の明示に重点が置かれている(強調されている)表現だ』という点です。 ただ、これらは本質論です。 慣れるのが一番ですが、大事な点ですから、疑問点がありましたらさらに補足してください。 別に急いでお礼を書いたり締め切る必要はありませんから、マイペースでゆっくりと対応してくださるようお願いしておきます。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 度々ありがとうございます。「は」と「が」をもっとしっかり身に付ける機会をいただいき大変嬉しいです。たくさんの親しみやすい例文も感謝しております。山で探検活動をしている気分になりました。急がないから、hakobuluさんもぜひごゆっくり歩いてください♪  本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

>また、#9でも述べましたが【唐突に提示しない】という条件が守られていれば良いのです。 この説明はすごく助かりました。もともとの考え方はまず「~が」という文があり、その文の次に「は~」が来ます。実は、「~が」は唐突に提示しない条件が守られていれば、直接に「は~」で始まっても問題がないということなのですね。また、小説などの書き出しで、最初からいきなり「太郎は思わず目を瞠った」というテクニックの働きもよく理解できました。 「私は雪が好きです」と「私が雪が好きです」の違いがよく理解できていると思います。「は」が来たら、「は~」の「~」に集中する、「~が」が来たら、「~」に集中するという片方に意識をもつわけですね。 でも、私の中にへりくつがあります。前も申し上げたように、「(自然)現象に対して「が」をまず考えましょう」と大学の先生はこのようにまとめてくださったのです。ですから、(自然)現象の場合、「~が~」の「が」の両側の「~」に集中してしまうかもしれません。たぶん、「~が~」の「~+~」を一つの事実として受け止めております。「海が青い」という文を見て、「海」に集中できなく、「海+青い」と両方に集中してしまいます。「海は青い」なら、「青い」に集中できます。「山が高い」も「山」に集中できなく、「山+高い」というシーンが思い浮かぶのです。「海【が】青い」の「が」と「私【が】雪が好きです」の「が」は違うように感じました。前者は人間が「空ではなく、湖ではなく…」はほとんど意識していないと思います。「私【が】雪が好きです」なら、「ほかのだれだれではなく、この私が」は人間が意識していると思います。ですから、「海が青い」という文は読者に「海+青い」のイメージを伝えたい、「私【が】雪が好きです」という文は「私」というメッセッジを伝えたいと考えたわけです。 1.アポロ11号【が】1969年に月に着陸している。 2.モーツァルト【が】12歳のときに、オペラを作曲している。 この二文もそうです。私は「海が青い」という「が」の使い方だと思いました。つまり、「アポロ11号+1969年に月に着陸している」、「モーツァルト+12歳のときに、オペラを作曲している」というたんなる現象を読者に伝えたかったので、「が」を使いたかったのです。 でも、皆さんはなぜか「私【が】雪が好きです」の【が】の解釈をしてくださったのです。「海が青い」の「が」のつもりだと理解してくれないようです。もちろん、文脈がないので、「は」と「が」を論じるどころではありませんが、こんな不思議な感覚を一応吐かせていただきました。

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  • kiwifruit
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回答No.11

#10です。 【例】A:昨日、何をしていたの?  ではなくて 【例】A:昨日、何をしたの? に訂正します。

awayuki_ch
質問者

お礼

 はい、わかりました。軽快かつパワフルな講義にもう一度お礼を申し上げます。

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  • kiwifruit
  • ベストアンサー率40% (14/35)
回答No.10

●「~している」 このように考えてもいいかと思います。 1.経歴や歴史を説明するときや、新聞記事などで過去の事実を淡々と伝えるときは現在形を使ってもよい。過去形の「~した」でも構わない。ただ、文末が「~した」、「~した」では単調になるので、「~する」や「~している」を使って変化を付ける。 【例】周恩来は1898年3月5日江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。(中略)1919年に帰国後、南開学校(南開大学)に戻る。この年に起こった五・四運動に参加し、逮捕されている。 この文では「南海学校に戻った。」や「逮捕された。」と書いても全く問題ありません。あくまでも書いた人の好みや文のスタイルの問題です。 私が前に書いた例文(#3)も「成功させた。」、「作曲した。」、「包丁を購入した。」と書いても何の問題もありません。 2.「~した」ではなく「~を経験している」や「もう(既に)~したことがある。」(経験)というニュアンスを伝えるときに、「~している」を使うことができる。(つまり、使わなくてもいいのです。) 【例】A:来週、一緒にロッキーを観に行かない? ※ロッキー:映画のタイトル    B:ごめん! 私、その映画は観たの。(○私、その映画は観ているの。) 【例】A:昨日、何をしていたの?    B:友達とテニスをしました。(×友達とテニスをしています。) ここで問題です。正しいのはどちらですか?(両方とも正しい場合があります) A:中国では何を見ましたか? B:まず、天安門広場に(行きました/行っています)。夜は京劇を(観ました/観ています)。翌日は友達と万里の長城に(行きました/行っています)。 でも、本当は、万里の長城へはあまり行きたくなかったんです。というのは、2年前にも(行ったからです/行っているからです)。 あと、紫禁城にも(行きました/行っています)。3年前にビデオでラスト・エンペラーを(観たので/観ているので)、初めて見た気がしませんでした。

awayuki_ch
質問者

お礼

 宿題までも用意していただき心より感謝いたします。宿題は例文3のような場合の「ている」ですね。1と2は周恩来の例を参考にさせていただきます。だいぶわかるようになりました。  何度も本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

>経歴や歴史を説明するときや、新聞記事などで過去の事実を淡々と伝えるときは現在形を使ってもよい。過去形の「~した」でも構わない。ただ、文末が「~した」、「~した」では単調になるので、「~する」や「~している」を使って変化を付ける。 >「~した」ではなく「~を経験している」や「もう(既に)~したことがある。」(経験)というニュアンスを伝えるときに、「~している」を使うことができる。(つまり、使わなくてもいいのです。) はい、このように理解するつもりです。昨日kiwifruit先生へ提出するべき宿題は一日遅くなって申し訳ありません。反省しながら、湯気が立っているセイロから出したホカホカ状態の宿題をkiwifruit先生に差し上げます。熱いので焼けどには十分ご注意ください。おいしくなかったら、ご遠慮なく「まずかったなぁ!」と教えてください♪ A:中国では何を見ましたか? B:まず、天安門広場に(○行きました/×行っています)。夜は京劇を(○観ました/×観ています)。翌日は友達と万里の長城に(○行きました/×行っています)。 でも、本当は、万里の長城へはあまり行きたくなかったんです。というのは、2年前にも(○行ったからです/○行っているからです)。 あと、紫禁城にも(○行きました/○行っています)。3年前にビデオでラスト・エンペラーを(○観たので/○観ているので)、初めて見た気がしませんでした。

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  • hakobulu
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回答No.9

#4です。ご返事ありがとうございました。 1、>どんな時に「動かし難いものとして認識できる事実」の「している」を使うのか、どんな時に、「した」だけを使うのか :【静的な事実(または経験)の確認】と【動的な動作完了時の再現】という違いと考えてみてはどうでしょうか。 a.「劉翔は、2006/07/11に、 110mハードルで 12秒88 の世界記録を樹立している。(A)」 という例について考えてみましょう。 「劉翔は、2006/07/11に、 110mハードルで 12秒88 の世界記録を樹立した。(B)」 という表現にしても不自然ではありません。 ただ、意図するニュアンスが違ってきます。 (B)は、「記録を樹立した」という、過去のある時点での動的内容を表現(再現)しようとしています。 (A)よりはゴールテープを切る瞬間を想像しやすいように思います。 (A)は、「記録を樹立したという事実」あるいは「記録を樹立したという経験があること」を確認しようとしていて、静的印象を受けます。 b.「モーツァルト【は】12歳のときに、オペラを作曲している。」は、 『オペラを作曲したという経験をしている』 『オペラを作曲したという歴史的事実がある』 ということを確認する意図があるでしょう。 「モーツァルト【は】12歳のときに、オペラを作曲した。」という表現からは、 彼がピアノの前に座って最後の音符を記入し終わった当時の動的瞬間を素直に想像することも可能でしょう。 【作曲したという事実があったこと】に言及しているのではなく、作曲という動作が再現されているように思われます。   2、四字熟語で「面目躍如(めんもくやくじょ)」です。 「オフロードを全く苦にしない仕上げは、BMWの面目躍如たる技術の現われである」 「アシモフの面目躍如たる傑作短篇集! 」 「烈々たる気迫のこもった糾弾演説をされ満場の大喝采を浴びて演説を終えられ、かつての労働運動の闘士としての面目躍如たる姿を目の当たりにした」 など、「面目躍如たる」という言い回しが一般的と言えるでしょう。 3、>その前に、必ず、「月が出た」という「が」を使った文があるはずだと思えました。 a.前回、「読者も○○の存在を既知のものとして受け止めているシチュエーションが必要」と述べたのは、そういう意味です。 ただ、必ずしも「が~」という文が明示されている必要はないでしょう。 「その月は大きい」の場合は、「その」という指示代名詞があるので、「月が出た」などの文が先に明示されていないと確かに不自然ですが。 b.「アポロ4号からアポロ6号までは無人でのテスト飛行であった。 アポロ9号とアポロ10号では月着陸船の試験が行なわれた。 そのような段階を踏んだ後、」→ 「アポロ11号【は】1969年に月に着陸している。」 などという表現は可能です。 つまり、「【唐突に】主題として提示する」のでなければ良い、ということになるでしょう。 例文としては前後の文を全て載せるわけではないでしょうから。不自然ということにはならないと思います。 「アポロ11号【が】1969年に月に着陸している。」 という例文であっても、単独文として唐突であるという点では同じことになるでしょう。 4、>「編集者が日本人」だけで「本」を修飾するのは、やはり無理でしょうか。 :『「編集者が日本人」の本に書いた』よりも、 『編集者が「日本人の本」に書いた』と解釈(誤解)される確率が高いでしょうね。 「~が日本人」という使い方は間違いではないのですが、 「(日本)人の~」という結びつきの方が一般的だからでしょう。 「彼がアメリカ人の女性と会う。」という文の場合も、 『「彼がアメリカ人」の女性と会う。』と解釈されることは少ないでしょう。 『彼が、「アメリカ人の女性」と会う。』と取られるのが普通だと思われます。 5、少し調べてみたのですが、「曰く」「が曰く」「の曰く」 どれでも使えそうですね。 ・彼曰く○○ →最も詠嘆調の宣言、 ・彼の曰く○○→○○の内容に重点が置かれた表現、 ・彼が曰く○○→○○の内容もさることながら、彼という主格に重点を置いた表現、 という印象を与えると思います。 本を主語にするのはユニークな擬人法で全く問題はありませんが、 「本が曰く」とすると擬人化の度合を強調しすぎた印象を与えるように思うので、 「本の曰く」として、述部の内容に重点を置いたほうが良いのではないかと思ったわけです。  

awayuki_ch
質問者

お礼

4. >「彼がアメリカ人の女性と会う。」という文の場合も、『「彼がアメリカ人」の女性と会う。』と解釈されることは少ないでしょう。『彼が、「アメリカ人の女性」と会う。』と取られるのが普通だと思われます。『「彼がアメリカ人」の女性と会う。』と解釈されることは少ないでしょう。 もし「私は彼氏がアメリカ人である女性と会う」なら、どのように書くのでしょうか。「私は彼氏がアメリカ人の女性と会う」はだめでしょうか。            *    また字数オーバーになってしまってごめんなさい。ご回答ありがとうございました。「確認」という意図はまだよく理解できていないと思います。「面目躍如」は四字熟語なのですね。でも、接続はまだよく理解できていないかもしれません。5は見事に解決できました。大変参考になりました。最近、中国の研究をしておられますか^^。それでは、またhakobuluさんのご回答を楽しみにしております♪

awayuki_ch
質問者

補足

1. >【静的な事実(または経験)の確認】と【動的な動作完了時の再現】という違いと考えてみてはどうでしょうか。 この説明のほかのところは理解できましたが、「確認」というところがまだよくわかりません。なぜ確認する必要があるのでしょうか。「動かし難いものとして認識できる事実」なら、確認する必要がないのではないでしょうか。 No.6さんへの補足にも書いたように、私は「~である」と「~だ」との雰囲気の違いを思い出しました。論文を書く時に、「~である」はより理性的な書き方でしょう。たとえば、富士山に関する論文。「富士山は日本の一番高い山である」と「富士山は日本の一番高い山だ」。おそらく、「富士山は日本の一番高い山である」のような書き方は望ましいほうでしょう。「ている」のこの使い方は「富士山は日本の一番高い山である」という文の語尾の「~である」の雰囲気に近いでしょうか。富士山という現場から遠く離れているところに身を置いて、心を静かにしてその富士山という存在、その現場を客観的で冷静的に眺めながら淡々と述べるという感じでしょうか。それに対して、「~だ」は話者の判断なども混入されている感じで、極端的な感覚にしたら、「~だ」は「富士山は日本の一番高い山なんだよ!!!知らないのか!!!」のような熱血系の叫びになってしまうでしょう。ですから、「ている」のこのような使い方は「~である」の雰囲気に近く、「~だ」の雰囲気に似ていない感じがします。なんとなく、いまのところ、こんな感じでした。 勝手な推測ですが、例文1と2のような書き方は文献資料、人物伝記、科学発見の紹介、歴史事件の紹介などの分野でよく見られる表現でしょうか。 >(A)は、「記録を樹立したという事実」あるいは「記録を樹立したという経験があること」を確認しようとしていて、静的印象を受けます。 「確認しよう」というところはやはり難しいです。「静的印象を受ける」はいまなんとなく感じております。ちなみに、劉翔はよ~く知っていますよ。いとこのあだ名です^^。大学で同級生に「劉翔」と呼ばれているそうです。 > 『オペラを作曲したという経験をしている』 『オペラを作曲したという歴史的事実がある』 ということを確認する意図があるでしょう。 なかなか「確認する」という意図が理解できませんでした。でも、「静的」、「動的」はなんとなくわかったような気がします。 2. >「烈々たる気迫のこもった糾弾演説をされ満場の大喝采を浴びて演説を終えられ、かつての労働運動の闘士としての面目躍如たる姿を目の当たりにした」 ああ、この例は大変難しいです(><)。人物関係がよくわかりません。誰が誰にどんなことをした、それからどんなことをされたのでしょうか。「糾弾演説をされた」のは誰でしょうか。「大喝采を浴びて」のは誰でしょうか。「演説を終えられ」のは誰でしょうか。「目の当たりにした」の意味もよくわかりません。「大喝采」の読み方も教えてください。 >「1.アポロ11号【が】1969年に月に着陸して、アメリカの面目躍如となった。」 No.4で書かれた例の「アメリカの面目躍如となった」という部分はまだよくわかりません。「アメリカの面目躍如となった」の区切り方を教えてください。できれば、「面目躍如たる+名詞」という構造の例文ではなく、上の文の「面目躍如」と同じ構造の「面目躍如」の例文を挙げてください。 3. >つまり、「【唐突に】主題として提示する」のでなければ良い、ということになるでしょう。 はい、助かりました。よくわかりました。 >「アポロ11号【が】1969年に月に着陸している。」という例文であっても、単独文として唐突であるという点では同じことになるでしょう。 No.8さんへの補足もご覧ください。へりくつですが、hakobuluさんのご意見も伺いたいと思います。 私はただ一種の現象だと考えました。現象だから、「が」です。おいしいと思われますか。「アポロ11号が」は本当は「アポロ9号」、「アポロ10号」などではなく、「アポロ11号なんだ」のように考えていないと思います。「海が青い」文も本当は「空ではなく、海なんだ」と考えていないと思います。自然に恵まれている性質のように「が」を使ったわけです。しかし、それらの現象のことと違って、「私が海が好きです」なら、Aではなく、Bではなく、「この私【が】海が好きなんだ」という意味が強調されていると思います。 「○○が△△」と「○○は△△」の理論はよく理解できていると思います。でも、私の中で、『(自然)現象に対して「が」をまず考えましょう』という大学時代から持っているルールもあります。この考え方で「が」を決めるのが心配です。やはり捨てるべきでしょうか。

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