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唐代の年号

学生の頃、中国の歴史にちょっと興味を持ったのですが、今になって「なぜ?」と思ったことがあります。 安禄山の乱のころ、天宝3~至徳の末まで、年の単位を「年」ではなく「載」にしていたと記憶しています。 (例:「天宝五年」「至徳元年」ではなく、「天宝五載」「至徳元載」) なぜそのようなことをしたのでしょうか? 最初避諱かなと思ったのですが、諱を避けられるべき人物も思い当たらないし、まして唐代は李世民のように、一般的によく使われる文字を避諱から免除したという話も聞きます。 理由をご存知の方、私のもやもやを解消してくださいませ。

みんなの回答

  • jinchanda
  • ベストアンサー率30% (6/20)
回答No.1

私の勝手な推測で、もやもやの解消は、出来無いと思いますが・・・・ 玄宗皇帝の気まぐれかもしれません。 あるいは、千載一遇という言葉があります。 この千載とは千年という意味です。 もしたしたら、天宝3年(載)に玄宗皇帝が千載一遇的な出来事に出くわし、「年」を「載」に替えさせたのかもしれませんね。 (-o-)/

orkney
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ただ、玄宗は武則天のムチャクチャな制度改革(年号をしょっちゅう変えたり、「照」→「曌」・「国」→「圀」など文字を変えさせたりした)を直近に見ています。 いくら晩年に老耄甚だしい玄宗とはいえど、思いつきや気まぐれで武則天のような真似するかなぁ?それともまさに老耄のなせる業でやっちゃったのかなぁ?というのが感想です。

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