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デカルトとマルブランシュとライプニッツ

nfhpt224の回答

  • nfhpt224
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回答No.9

久しぶりに帰ってきました。あなたが認識しているものは正しいと認識しますか?あなた自身はあなた自身の思考形式ですか?答えは自明性。あなた自身の考え及び私自身の考えは生まれてからインプリンティングされているので自分自身の答えではないのです。そういうとフィフテの立場は理解できるでしょう。自分自身とは何者かという問題につきあがりますが、私は自分自身がわかりません。目に見えるものが、真実というのはインプリングティングされているからディスクールできるのであって、本来的な自分とは果たして何者かと遡及的認識をすると、今ある「自分自身」との関係性が、パラドキシカルに見えてきます。その認識があるからこそ、「目に見えるものが真実かどうか疑わしい」と思考できるのではないでしょうか?超越的なものは哲学を専攻しているなら、自分でお調べになったほうがよろしいのではないでしょうか。プラトニズムから、パラフレーズするわけではないのですが、哲学のイストワールを探求してはどうでしょうか?

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  • デカルトの良さをおしえてください。

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