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織田信長の2番目の部下は誰ですか?
信長の2番目の部下は誰か?で意見が分かれています。 側近たちもいるけど、その辺はおいといて、武将の中でです もちろん1番は光秀(謀反起こしたけど^^;) じゃぁ2番目は?秀吉か家康か・・?どちらかで意見分かれています まさか柴田・・? 軍は家康の方が大きかったと聞くけど、城を与えられたのは秀吉。。 ちょっと歴史の教科書読んだだけではわかりません。説得力のある説明とともにどちらか?おしえてくれませんか?
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部下を縦の線で織田が一番上。 武田など敵を横の線で始点を織田と考えると、 家康は斜めしたくらいのポジションだったんじゃないですか? 直接の部下ではないが、力を貸してくれる仲間。 だが、仲間のように同等ではなく上下関係は織田が上。 こんな関係だと歴史初心者の私は考えます。
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- imp-dsc
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個人的には信長とその軍団の関係は通常の物差しでは計れないのではないのでしょうか? 良く例えに出される「腹心の部下」がありますが、これは権力や軍への指揮序列もさることながら主君への影響力が大きいからでしょう。 では信長にそんな人物はいるのか? 良く引き合いに出されるのが秀吉や光秀といった今で言う軍団長クラスの人材はあくまでも全国に拡大した各戦線の指揮官といった意味合いが大きいように思います。彼らは信長に助言できる立場とは思えませんし。 光秀に至っては武田家攻略後に「我々(家臣)も骨をおった甲斐がありました」と言う意味の発言をして激昂した信長に足蹴にされたエピソードがあるくらいです。勝家らであればそこまでの扱いでは無かったかもしれませんが内部の感情は光秀へのそれと大差は無かったかもしれません。 となると後継者の信忠でしょうか? 彼は暗愚ではなかったように思いますが明らかに信長のような才能とカリスマ性は見出せません。ただ、個人的には天下統一後の地盤の固まった際の後継者としてならば適切だったと想像しています。歴史はそれを許さなかった為確認する術はありませんが・・・ 話は逸れましたが彼が父信長の立てた戦略に助言した形跡も余り無いのではないのでしょうか? そこで私の出した結論は該当者無しです。
- Willyt
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>でもそうなると、いくら仇うったとはいえ、織田の実権を秀吉が握れたのはなぜなんでしょう?孫に取り入ったからか? 今週の一豊は清洲会議を巧く演出していましたね。三法師を確保し、これに跡目を継がせるということを丹羽長秀の助けを借りて押し通し、近江を柴田勝家に割譲するということで手を打った秀吉の手際は見事としかいいようがありません。 その後、徳川家康と戦うと見せてまたまた大返しで柴田勢を賎ケ岳で壊滅させたのも作戦の妙でした。この一連の見事な動きは多分黒田勘兵衛の助けがあったに違いないでしょう。 これで勝負ありで、家康の抵抗も懐柔政策で丸め込まれてしまったのは当然の成行きですね。たぶん来週はこのあたりのシーンが見られることでしょう。 秀吉は秀長が死ぬまでは着々と政権の地盤を固めて行くのですが、彼の死後はハチャメチャになってしまいますね(^_-)
- koon1600
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ちょっと補足がてらに・・・ 織田家の家臣団の位置づけを考える際、彼らの出自、境遇、扱いなどを考える必要が出てきます。 額面上の筆頭は柴田となっていますが、彼は長期にわたって越前方面にて上杉と対峙している上、こちらにとどまってる期間が長いため、実際には中央政権での発言力があまり高くないのです。 丹羽は、羽柴という苗字が示すように、織田の二本柱の一人なのですが、彼は軍団長を任されていません。知行量といった面でも、柴田、明智、羽柴といった人物からは水をあけられています。彼はとある本で「何でもそつなくこなすが、柴田や羽柴のように軍団長の器量はなく、またそれを自覚して生きた人物」としています。実際にこの評価は当を得ていると思います。ただし信長の信は非常に厚かったです。 佐久間は、ひとえに尾張統一までの細かい功績で生きていた人です。特に信行謀反時に相手方に付かなかったのが大きい。また、彼が追放されたさいにことさら明智と羽柴の2人との功績の違いを強調されているのは、信長が明智と羽柴を、(少なくともあの時期においては)彼よりも買っていたのがよくわかるかと思います。 また、信長の彼への扱いなのですが、三方原に彼を援軍として送っているのも見逃せません。あのとき織田は援軍を3000しか差し向けておらず、27000の武田とマトモにぶつかれば、徳川とあわせても11000しかいないため、討ち死にと相成る可能性が高いことは容易に予想がつきます(実際、逃げ帰らなかったもう一人の指揮官である平手汎秀は討死)。このあたりからも、明らかに佐久間を信長は軽く見始めていることがわかってきますね。結局そのしわ寄せが、追放という形で一気に来たのかと思われます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/佐久間信盛 上のURLは、後ろの漢字も一緒に貼り付けてください。そうしないとトップに飛びます・・・ 佐々や前田は、赤黒母衣の所属なので、織田の重臣というよりは、織田信長の親衛隊に近いため、ちょっと別枠ですね。 林は、正直後見人であったからあの地位にいられたという感じが強いです。堅実ではあったようなのですが、目立った功績がありません。そのしわ寄せが追放という形のリストラになったのはほぼ間違いはないです。 羽柴は、いわずとしれた出頭人です。手取川の戦いに援軍という位置づけであることからも、柴田よりは額面上は下なのですが、中央においての発言力は距離の面もあるのですが、柴田よりも明らかに上です。ただし、格付けとしてはあくまで軍団長の一人なので3,4番手です。 明智ですが、彼が中央においての発言力では最上位となります。彼の勢力範囲は畿内であり、京や安土などと非常に近い位置に常にいました。つまり中央での発言力が非常に強い(朝廷や幕府などといったのとのパイプが太いのも、彼の発言力が高い要因)。これは常に遠くにいたため中央での発言力があまり高くない柴田とは好対照でしょう。また、惟任姓を与えられるなど、織田家の中での位置は高いです。といっても、額面上の位置づけは丹羽よりも下ですので、羽柴と同程度。ただし本能寺の直前では羽柴の「援軍」となっていますから、羽柴に少し水を開けられてはいます。 滝川は、あまり地位が高くないのですが、実質的な軍団長にはなっていますので、ある程度の地位はあります。ただし中央での発言力は低く、あくまで武将ですね。 こうやって見ていくと、額面上は 柴田-佐久間-丹羽-林(ただし彼は後見人という立場のおかげなので位置的には少々斜め横にある)-羽柴-明智 で、信長の重用具合では 羽柴、明智、柴田3人-丹羽-滝川-佐久間-林 という具合になり、中央政権での発言力では 明智-丹羽-柴田-羽柴-佐久間と林(ただしこの二人は前述のように惰性的に位置が高いだけなので、斜め横にいる)-滝川(彼はあくまで武将) 補足のわりに以上に長いですが・・・こんな感じでしょうか・・・
- teccrt
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織田信長の場合は本人がかなり急進的な実力主義だったので、家臣の序列をはっきりさせるのは難しいですね。 既に出ているように、まず家康は(対等というよりは従属的ですが)同盟者ですので家臣ではありません。 家柄でみれば、林、佐久間、柴田が有力でした。信長も、織田家の規律保持のために当初は彼らを無視できませんでした。ただ、織田の勢力が大きくなると信長が不要と判断した林や佐久間は切られます。 その後は、信長の代になって仕え始めた実力者が幅を利かせます。本能寺直前で軍団長となっていた、柴田、秀吉、光秀、丹羽長秀、滝川一益の5人がトップ5です。 その中で、家臣の中では、織田家との関わりの深さと家柄から、柴田を筆頭と捕らえる人も多かったようですが、信長自身が評価していたのは、やはり光秀、秀吉だったようです。 もっとも、光秀は朝廷や足利幕府とのパイプがありましたから、信長が京都まで勢力を伸ばしたことで、相対的に武の柴田に比べて文の光秀の必要度が増した点はあったと思います。 信長の最終拠点である安土城を守るように、琵琶湖の東・長浜城には秀吉を、西の坂本城には光秀を配しました。 この点をみても、北陸や関東をまかせた柴田、滝川に比べて、光秀・秀吉を側近として重用していたことは間違いないと思います。
- caesar-x2
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有名な言葉ですが 「木綿藤吉(=羽柴)、米五郎左(=丹羽)、掛かれ柴田に、退き佐久間」 というのがあります。 信長家臣団は、基本的には4~5軍団あって、 重臣がそのトップに座ってます。 信長の家臣団のナンバーワンは、柴田勝家、 ナンバーツーは、改易される前なら佐久間信盛、 佐久間がいなくなってからは丹羽長秀、 ナンバースリーが羽柴秀吉、 明智光秀はランク外でしょうな。 信長は能力主義で知られますが 有能な部下と、信頼できる部下を使い分けていて 織田家を支える重臣には 代々仕えていた人を決して軽んじてはいません。 事実上の幹部候補である赤母衣衆なんか 譜代の家臣の親族ばかり。 だから柴田、佐久間、林、丹羽なんていう重臣の方が 家臣団の序列は高いのです。 羽柴秀吉も信長の子供を養子にもらったりして 主人の信頼度を増し、 家臣団の序列を上げようと苦心してます。 明智光秀がなんでナンバーツーだと思っているのか 知りませんが、 光秀はもともとは他所の家の陪臣だったばかりか 丹波攻めの失敗後は 近畿の留守居軍団を任されているのみで 重臣のなかでは一番下でしょう。 もともとは京都の宮中や将軍家との折衝役として 雇われたわけで 重臣のなかでも伸び悩みが一番顕著な人物。 佐久間のように改易されるのではないかという 恐怖感が本能寺の変につながったのでは という話はあながち間違いではないでしょうし、 要するにあまりパッとしない地位にいたわけです。 あと滝川や佐々ら軍団長もランク外で、 徳川家康は家臣ではなく外交上は対等関係にある、あるいは”あった”同盟者。 信長と家康の関係は、次第に上下関係になりますが 転機は、信康の切腹と、武田家の滅亡。 家康が世継ぎ候補の信康を信長の指示で切腹させたのは 明らかに織田家に屈服した証ですし、 武田家の滅亡後は、同盟関係の必要性がなくなり 徳川家はより従属的立場になります。 信長がもっと生きていればもっと明確な臣下になったでしょうが 本能寺の変の前後も家康は信長に接待されていたわけで 臣下ではないですね。
- koon1600
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まず、徳川は三河の大名ですので、あくまで同盟という間柄であり、清洲同盟での取り決めでは、対等という立場です。 しかし、長篠の後(1574年ごろ)からこの立場が明らかに変わっていまして、ほとんど主従の関係となっています。 とくに顕著な例として挙げられるものは、駿河の処遇についてでして、家康は信長より駿河を「給与」されています。これは明らかに主従の関係となっていることが伺えます。 まあ、彼は位置づけとしては織田一門大名なので、家臣団の中では、となればどっちにしてもはずさなければなりません。 織田家の中でも一門衆はやはり普通の家臣とは一線を画しています。 で、織田家臣のみでとなりますと、格式では柴田、丹羽、林あたりが筆頭となります。林は父の代よりの信長付きの筆頭家老。柴田も父の代からの譜代。佐久間も同様です。丹羽は15のときより信長に仕えていた旧知の家臣なので、ほかの3家とは少々毛色が違います。 織田は実力主義的な色が強く、多くの新参者、つまり自身の代になってから入ってきた新入りを重用しています。 羽柴、明智がその筆頭で、扱い的には彼らがほぼ同列で最高位です。ほかにも滝川、蜂須賀、蒲生(ただしこれは一門に近い)、村井などが、新参として地位を築いています。 丹羽も実際には長秀が一代で築いた地位ではあるので、こちらに近いです。柴田も謀反後に戻ってきたので、実質的にはこちらに近いです。 織田家の内部構造は、主に2つに分かれています。 林、佐久間を筆頭とする、譜代系の家臣。ただし、こちらは上2つが途中で追放されたので、本能寺前後では柴田が筆頭となります。 もう一つが明智、羽柴を筆頭とする、新参系の家臣。 つまり誰が1番で2番か、とかは答えられないのですね。尺度によって大きく変わりますから。 発言力で言えば、明智が強いといえば強いのですが、信長はあくまで自力の人なので・・・この尺度はあまり意味を成しません。 格式で言えば林や佐久間なのですが、追放されていることからも信長本人はあまり重要視していないので、この尺度も当てにはなりません。 領地についても、明智の例を見ればわかるように尺度としてはあまりあてになりません。信長の一存が大きいので。 実力は、家臣団でのパワーバランスでは必ずしも一致しません。実力がなくても高い地位にいた人は織田家でもいますから。 信長本人が一番信用していた家臣となると・・・これはやはり本人しかわからないでしょうね。 斜め横から見ると、案外、森蘭丸辺りかもしれません。男色も勤めていますし・・・
- moritan2
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> 柴田が筆頭ですか~でもなぜお城を与えられなかったのでしょう? 北ノ庄城がありますが。 信長存命中は明らかに柴田勝家がトップです。でも、明智光秀を秀吉に先に討たれてしまったので、清州会議で立場を逆転されました。
お礼
あ!お城ありましたかw 大河とか歴史ドラマ見ても柴田って目立たないですもん^^;よく知らないんですよね~でも筆頭だったのねw 家康&秀吉みたいに天下取らなかったからですかね~? ありがとうございます
- char2nd
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光秀と家康では家康の方が格上です。光秀は家臣ですが、家康は同盟者ですね。 実際、信長は光秀に家康の接待を命じています。このときの不備が信長の不興を買ったとも云われています。 あくまでも家臣の中で優劣を付けるとすれば、光秀と秀吉はほぼ同格でしょう。信長存命の時であれば、筆頭は勝家だと思います。かれは、秀吉や光秀と違って譜代(信長が家督を継いだときから)の家臣です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6
お礼
柴田が筆頭ですか~でもなぜお城を与えられなかったのでしょう? ありがとうございます
- damejan3988
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家康は信長の家臣ではないですよね。同盟国の領主ですから。 信長亡き後後継者争いで羽柴秀吉と柴田勝家が対立しているので、この辺が妥当な線ではないのでしょうか?
お礼
柴田、、偉かったんですねw 功名が辻みてたら、秀吉の方が上か?と勘違いしてました ありがとうございます
- Willyt
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家康は信長の家来ではありません。同盟者です。 織田家での格で言えば、1番が柴田勝家、2番が丹羽長秀です。 光秀、秀吉は譜代ではないので、格は下がります。追放した佐久間、林も格は二人より上でした。信長が誰を一番で誰を二番だと思っていたかとなると、これは誰にも分からないのではないかと思います。だから光秀も村重も叛いたのではないかなと思います。秀吉も薄氷を踏む思いだったでしょう。
お礼
2人とも部下ではなかったんですか!? 大河見ると家臣のようにみえます。。。同盟者だったんですね~ でもそうなると、いくら仇うったとはいえ、織田の実権を秀吉が握れたのはなぜなんでしょう?孫に取り入ったからか? ありがとうございます
お礼
家康は部下ではなかったんですね^^; はじめてしりましたww ありがとうございます