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末法思想の根拠・起源は?

無宗教ですが、仏教を勉強中のものです。 末法思想が浄土信仰(のちの浄土宗・浄土真宗)や日蓮宗の成立に大きくかかわっていますが、末法思想の根拠・起源は何ですか? 日本だけのものですか?外来のものですか? 布教のテクニックとして、末法とか世紀末とかの終末論で大衆の危機感を煽るのはわかるのですが、そういう意味ではなくて、どの経のどの記述が末法思想の根拠となっているということを知りたいです。 ある書籍では、正法=紀元前949年~、像法=52年~、末法=1052年~、と読んだのですが、こういった時期の根拠は何ですか? 法華経で示された釈迦の永遠性と、末法思想とは矛盾しているように思えるのですが、これはどう解釈したら良いのでしょうか? 「法華経入門」(菅野博史著)から該当箇所(P.70)を引用します。 『如来寿量品第十六では、弥勒菩薩の地涌の菩薩に関する質問を受けて、釈尊は自身が成仏したのは今世ではなく、五百塵点劫というはるか遠い過去においてであることを明かし、あわせて未来も不滅であるととく。つまり、「法華経」の中心思想の一つである「永遠の生命をもつ釈尊」の像が明らかにされる。』 お答えの際は、差し支えない範囲で、ご自身の宗教・宗派を書いていただけると助かります。

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noname#20467
noname#20467
回答No.21

論争の場所ではないので、できればお考えの押しつけはご遠慮いただきたいのですが、批判にだけは答えておきます。 曇鸞の記述は、当然知っています。 しかし、その記述と末法思想とは直接は関わりません。あくまでも法然・親鸞の文脈ですね。私は法然・親鸞の文脈を否定してないことを読み間違えないでください。 >、核心的な師資相承の関係があったということです。 批判をされる前に、よく読んでもらえませんでしょう か?  思想的に中国の諸家の系統を重視たことも否定はしていないはずです。親鸞に限って言えば、末法灯明記を引用しているでしょう。それにたしか慈恩大師も引用していますね。引用の分量からいえば、最澄の撰述と伝える灯明記の方が多いです。もちろん引用の量で決まるわけではありませんが、これが当時のオーソドックスとして引いているわけですね。 >浄土三部経が末法思想と無縁といわれれば非常な抵抗があるということです これも良く読んでくださいませんか? 私は無縁とまでは言ってないはずですし、「直接的には」と書いてますがね。 こういう押しつけや思い込みによる批判があるから、宗教の話はしたくないんですよね。私も19に一票入れるかな。

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回答No.20

No.15です。 せっかく面白い観点での問題提起の材料を削除の危機にさらすのは、もったいないことですので質問者の論旨に沿うように心がけます。 その前に私の記述の補説。 まず、禅や密教以外の一般の顕教においては前に申し上げたとおり立教開宗と受け取られる契機にはきちんと教相判釈を明示するとともに、所依の経典、師資相承等を明らかにしております。 道綽の師資相承の件ですが、口伝面授のみでなく典籍による相承は古くより行われています。第一次結集から始まったと言ってもよいでしょう。 特に、法然上人にいたっては読まれた経論の数は膨大であり、主著『選択本願念仏集』(選択集)の中で菩提流支、曇鸞、道綽、善導など六師の名を上げておられます。 また、親鸞聖人は主著『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)のなかで七高僧よりの師資相承を明記されておられます。 もちろん法然上人は偏依善導、親鸞聖人は偏依法然といわれるようにその濃淡の違いはありますが、法然上人と中国の諸師とは地域も時代の違いあったにしても、核心的な師資相承の関係があったということです。 道綽が、法然上人、親鸞聖人両者に共通の師資というのは上記のとおりの根拠によるものです。 次に曇鸞は一般には極めて個人的哲学的論主と受け止められていますが、その主著『無量寿経優婆提舎願生偈註』(往生論註)の出だしから 易行道難行道者謂於五濁之世於無 仏時求阿毘跋致為難此難乃有多途 「難行道」とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。この難にすなはち多途あり。 とあるように濁世の凡夫の機根を前提とした記述が展開されています。 天親しかり。 竜樹については反論はもっともです。しかし浄土教徒にとっては依用するのは膨大な著書のうちほぼ『十住毘婆沙論』の易行品の部分のみですが、この難易二道判が実に重要な役割を演じているのです。 話を本筋に戻しますと 前出の大無量寿経下巻の意訳 「私が入滅した後に私が示したさまざまな悟りへの道はみな失われてしまう(像末法滅)であろうが私は慈しみの心を持って哀れみ、特にこの教えだけをいつまでもとどめておこう。」 (他の経典での五百歳などもそうですが)ここでの百歳は形容詞的使用と思われます。 実は、言われるとおり釈尊入滅後のことを語られた部分は浄土三部経においてはこの部分と滅後を連想させる表現が観無量寿経と阿弥陀経にあと一箇所ずつくらいなのですが・・・・・・。 悪世の凡夫の往生という意味では、浄土三部経が末法思想と無縁といわれれば非常な抵抗があるということです。 単に、成仏(悟り)と離れた、没主体的、客観的な時代論述という意味合いならば、浄土教徒にとって無縁といわれても本質的にはたいした問題ではないだろう、ということです。 そうしてみると、末法をどういう視点で見るかということはきわめて重要です。 経論を検証する限り対象は悟りをめざす衆生であるわけですから、客観的といっても共感や納得という部分から逃れることはありえません。 次に『法華経』如来寿量品16の久遠の本仏に関しては 如来の常住性は他の大乗経典と同じく当然浄土教においても同じく説くところですが、釈尊は数限りない仏たちのなかでこの世に身をもって出現された応身仏であり、釈尊の出世本懐は「阿弥陀仏の教えを説くためである」と受け止めます。諸仏は阿弥陀仏の願成就を褒め称えます。 No.14氏のいわれるような『法華経』における釈尊への思慕、の香りは浄土三部経においてはあまり感じられません。 特に浄土教においては上座部の大乗非仏説の批判に対して無頓着ともいえます。 極端に言うと、仏説は釈尊直説にこだわらず釈尊の真意を受け継いだ覚者(仏)の説であれば仏説ということになるわけです。

shooooo
質問者

お礼

丁寧なご説明をありがとうございます。 浄土信仰の立場からは、浄土三部経と末法思想とは結びつきの強いものと考えていることがわかります。 末法思想の根拠が経にあるのかないのかを私なりに整理すると、次のようになります。 浄土三部経に言葉として「末法」は含んでいないが、意味としては内在しています。その根拠として、道綽および曇鸞の話を出していただきました。末法の期間については浄土三部経からは読み取れないので、大集月蔵経を根拠にしています。 曇鸞と末法思想の関係については、cyuubu-nさんから違う意見も出ておりますが、信仰にとってはどっちでもいいことかと思います。挙げていただいた往生論註の出だしだけを拝見する限りでは、それが末法思想を含むものなのかそうでないのか、曇鸞本人にしかわからないですね。

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  • lightgrid
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回答No.19

>釈尊の直の言葉であろうと、入滅後に創作されたものであろうと、内容が優れていればいいと思います。 質問者様は、なかなかよい見方をしていると思います。補足説明させていただきます。 仏教にとって優れた内容とは何でしょうか? 仏教は、仏陀になることを勧め、仏陀になるための実践的な修行方法を説く科学的な宗教なのです。それは、法則としての縁起の法、執着をなくすための瞑想法、因縁解脱するための瞑想法、仏陀になるための瞑想法、修行の進め方、心構え、などです。(それは、迷信や世俗的な信仰宗教とは異なります。)阿含経によれば、七科三十七道品の修行をすれば、本人が仏陀になりたいと願わなくても仏陀になれるのです。これこそが、阿含経の優れた点です。 大乗仏教の経典は、仏を信仰の対象にし、現世利益を祈願させ、日本ではお題目や念仏を唱えさせるものまでありますが、仏教とは関係ありません。大乗仏教を仏教と見るのは間違いです。大乗思想とでもいってください。大乗仏教をいくら信仰し勉強しても、仏陀になれません。 そもそも、お釈迦様が、仏を神様のような信仰の対象にしたり、仏に現世利益を祈願したりさせるわけがありません。阿含経典で、お釈迦様は、七科三十七道品の修行をしなければ、お坊さんといえども仏陀になれないと、説いています。大乗経典には、それに反することが説かれています。大乗仏教は内容的に劣っています。 仏教が、「上座部」と「大衆部」に分裂したとき、上座部は阿含経典を守り、大衆部は、依拠すべき経典がなかたので、新しく経典を創作し始めました。 法華経、無量寿経、末法思想を含む大乗経典は、阿含経に模して「如是我聞」ではじまる文章を創作したのです。それらの経典で、いくらお釈迦様がそう説いたと書かれていても、それは全て人が創作したフィクションです。フィクションの中に矛盾点や、一貫性に欠ける点があったとしても、その矛盾を解消する意味も価値もありません。フィクションはフィクションとして楽しむだけです。SFのタイムマシンの話は、よく考えると矛盾だらけですが、フィクションとして楽しむだけで充分です。 大乗仏教がどのように創作されたかについて次の本をご参照下さい。 バウッダ(中村・三枝著):http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4094600809.html 私が、第二法華経と称して、新しい経典を創作し、千年でも経過したら、古いありがたいお経として、皆さん、信仰してくれるでしょうか? お釈迦様が説いたのでないかぎり、仏典ではないですよね。私は、その第二法華経にこう書きます: 如是我聞。世尊は次のように仰った。法華経や無量寿経や末法思想は誤りである。法華経や無量寿経をいくら信仰しても仏陀になれない。仏をいくら拝んでも仏陀になれない。七科三十七道品を修行しなければ仏陀になれない。現世利益に執着していては(物欲、権力欲、名誉欲、金欲に執着していては)、因縁解脱はできなし、仏陀になれなれない。来世にも仏陀になれない。

shooooo
質問者

お礼

上座部vs大乗仏教などを含め、宗派の優劣をテーマにすると終わりのない議論になってしまうので、この場では止めておきます。 ここのテーマは末法思想(およびその対立概念かもしれない釈尊の永遠性)なので、上座部に末法思想が無いということがわかれば十分です。 新たに質問を立てて、大乗仏教への疑問をぶつけていただいたらいかがでしょうか? キリスト教やイスラム教と比べて、仏教の場合は教典(経)の量が多い・成立時期がまちまち・読むべき範囲もまちまちという理由で、教典に矛盾点を含むのもやむを得ないです。しかし、それは外部から見て矛盾に見えるだけであって、信じる立場においては矛盾をそのまま認めてるわけではなく、矛盾を解消する理論が何かあると想像されます。だから、それを聞くことは価値があると思います。

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noname#20467
noname#20467
回答No.18

>論理的にはまだすっきりしないのですが、矛盾点を突くのが目的ではないので、これで納得しました。 それと、質問者さん。これに答えてあげたいが、これこそ宗派で特有の学問になってきてしまいますし、もちろん大まかな共通理解はありますが、それとても納得していただけるような話ではないかもしれません。基本は、釈迦の永遠を「信じる」ことにあります。神様の実在を証明するような話ですので、万人が納得するのは無理です。でも、宗教哲学として、高度なものをもっているのも事実です。 もし、興味があるのでしたら、「仏身論」で検索するなり、本を借りて読んでみてください。 大まかに説明をつけておくと、真理と私達の関わりについての問題を考えたものと言えるかもしれません。(法華経の説く)永遠のダルマというものは、そのままでは私達に認識できません(できると考える人もある)。 という前提があるとして・・。法華経の如来不滅のシチュエーションを極論(私論)すると・・。 その時に、お釈迦様が出てきて法華経を説いているわけですね。この時、お釈迦様は、普通我々にはそのままでは認識できないダルマを悟っていらっしゃる(わけですね)。お釈迦様は、遙かなる昔から悟っておられてこれからも永遠である。 こういう問題をどう解釈するかということになってくると思います。真理と私達と、説法者としてのお釈迦様の関係です。 この時のお釈迦様を、真理そのものが真理の世界から出てきて、真理そのものの象徴と見るか、真理でありながら肉体をもった人間でもあると解釈するか、で説明や信仰が異なってきます。 質問者が書かれたように、「釈迦」の永遠性を本質ではないとしてしまうと、釈迦がこの三つからの外されてしまう可能性もあります。法華経信者の信仰としては、真理の体現者・説法者である釈迦を、真理と私達を結ぶものとして論理的に補完する傾向にもっていくのは当然の流れです。その論理的補完のために、仏にいくつかの段階や分類をもうけて、説明しようとしています。 大変、ややこしい議論がたくさんあります。

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noname#20467
noname#20467
回答No.17

意味不明につき、訂正します。 >法然・親鸞の根拠となる道綽との間には、何もつながりがありません。間になる師資と書かれていますが、 法然・親鸞の根拠となる道綽と、法然等との間には、何もつながりがありません。共通の師資と書かれていますが、・・

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noname#20467
noname#20467
回答No.16

私の回答への批判もあるようなので、補足しておこうと思います。 下の方はおそらく浄土系の信者の方だと思います。その路線で回答されていると思いますが、私は信仰の立場からは書いていません。 何が言いたいかと言うと、信仰の立場からの経典の読み方には「解釈学」というものがあるのです。それと信仰をともにしないものとの読み方は違う場合が多々あるのです。最大の違いは、宗教をしている方は特定の部分だけを重視されていますので、ある種のファクターがかかっている場合があることです。どちらが良いとは言えませんが、最初に質問者が信仰を名乗って欲しいと書かれたことはその意味では当を得ています。信じるもののぶつかりは、我のぶつかりあいですので、「宗教は難しい」のです。 まず、下の方の出された >道綽が末法の根拠としたことがうかがえます 浄土信者には非常に有名なところです。 そして、これは経典ではなく、「論師」つまり解釈者の出した説ですから、私が前に書いたことと別に矛盾しません。あえて「経典からは」と書いたのはそのためです。 また、15が書くように、法然・親鸞の根拠となる道綽との間には、何もつながりがありません。間になる師資と書かれていますが、これは浄土宗で伝える浄土祖師としてはそう数えられるだけのことで、歴史的にはつながりのない人たちです。また多くの年数を隔てています。法然は、末法の思想を、この方から教えてもらったのではないのです。 法然が、唐の時代の善導という高僧に、自らの指針を見いだしたことは認めますが、その前提に平安後期の末法思想があったことは、時宜に合う教えを探す前提になっていたことを否定できないでしょう。 その無量寿経ですが、釈迦がいなくなり、他の教えが滅んでいってもなお100年後まで教えが機能するというものです。経典には、付属(属は口へんをつける)といい、末文のようなものがあることも多いのですが、そこにこれは書かれています。でも、これは必ずしもいわゆる「末法」とはつながりません。仏教の教えがだんだん衰えていくという思想は経典には特定の経典に限ったものではありませんし、この浄土経典全体で末法思想が読み取れるというのも、私には分かりません。内容的にも、ここしか書いてないことです。濁世とは申しますので、それを念仏信者は末法思想と結びますが、これも時間論(機根論とも絡むことは知っています)とどう関係あるのか私には分かりません。基本的に、中国で末法思想が騒がれたのは、『大集経』の訳出以後です。そういう考えを知らない のですから。それ以前にも念仏信者はいましたが、思想としてさほど流行したわけではないのです。 たとえば、これも例に出された龍樹ですが、かれの書いた大智度論には、確かに像法のことが解釈されてきます。じつはこれも法華経が根拠になっています。では、ここをもって龍樹が末法思想をもっていたかというとそれはちょっと微妙な問題になってきます。言葉がないからと言って、無視しているのではなくて、言葉があっても重視されない、あるいは全体から見てさして意味がないという場合もあるのです。そうしたことは一応ふまえて書いています。 またインドでは、正法と像法、末法の区別は曖昧で、正像末の三時としてまとまっていないのです。インドでは、正法と像法の二つから始まりました。日本では像法というと、中くらいに良い時代という中国流の解釈がされますが、もとは偽の仏教の時代という意味で、もとの文脈では、末法というものを必要としないのです。これは、法華経の「後の500歳」についても、同様で、私はあえて、「これは普通には末法のことと解釈されます」と書きましたが、これも解釈から書かれたことで本来は違う意味なのです。末法を指していないと言われています。本来の経典の意味では、正法の次の500年ということで(不確かです)、ともかくも末法を意味していたわけではありません。正法と像法の用法は、阿含部の経典にも若干見いだせますので、阿含に類似思想がない、というのは正確ではありません。 まとまった時代の読み方で、経典に末法思想が見いだされるというのは、解釈になります。そのことは、下の回答者が >そのような視点で見ると、さらにさかのぼって と書かれているように、後世からの解釈が多分に購入したものの見方と、歴史全般、他の典籍との比較を通してその軽重を考える立場とは、やや回答が違うのは仕方のないことです。曇鸞には、末法思想はないと通常言われていますし、天親が末法思想の持ち主だとも、私は思っていません。

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回答No.15

はじめまして。 >末法思想の根拠・起源 >日本だけのものですか?外来のものですか? に関しては 国内的には鎌倉仏教の殆どは、当時の時代背景を強く反映したことは確かでしょう。 起源は外来です。 浄土三部経を中心に少し展開してみたいと思います。 祖師たちは、自らの私見を持って勝手に経を解釈したのではなく全体の経の中での自らの位置づけを律儀に明示してきました。(教相判釈) 法然上人、親鸞聖人共通の師資の道綽(562~645)が末法の世にあって阿弥陀仏の浄土の教えだけが末世の衆生の機にかなう教えである(聖浄二門判)を宣布しました。 この根拠に、大集経さらには無量寿経も引用しています。 例えば 『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。このゆゑに『大経』にのたまはく、・・・・・・ また例えば ・・・・・・第三に経の住滅を弁ずとは、いはく、「釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅す。如来痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経を留めて止住すること百年ならん」(大経・下意)と。・・・・・・ 無量寿経(大経)(曹魏天竺三蔵康僧鎧訳)の中には「末法」の語そのものは出てきませんが下巻の 滅度之後復生疑惑当来之世経道 滅尽我以慈悲哀愍特留此経止住 百歳其有衆生値斯経者随意所願 皆可得度 わが滅度ののちをもつてまた疑惑を生ずることを得ることなかれ。当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。それ衆生ありてこの経に値ふものは、意の所願に随ひてみな得度すべし」と。 あたりは明らかに道綽が末法の根拠としたことがうかがえます。 そもそも、仏教そのものが成仏道としてはじめて意味を持つものですから自らの成仏と無関係に客観的な時代としての正像末法滅を語っても殆ど意味を持たないということです。 末法は常に成仏の機根との関係で語られます。 西洋の終末論とは異質といえます。 そのような視点で見ると、さらにさかのぼって曇鸞や天親(400~)竜樹(150~250)の中にも数多く正像末の発想を窺うことができます。 さらに浄土三部経の中に末法の思想を内在しています。末法のことば(訳書)が見受けられないことをもって無縁とするのは、早計でしょう。 関連を語るにはそれくらいの読み込みが必要だということです。 誤解なきように申しますが、「成仏道であることをふまえて」ということは、仏教徒とでなければ経の研究ができないということではなく、経そのものがそのような性格を持つことを理解し、主体的動的な観点で見ることができなければまともな研究などできないということです。

shooooo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 浄土宗または浄土真宗のお立場からの説明とお見受けしました。 先の回答の「浄土三部経から直接末法思想を導くことができない」は表面的な話であって、浄土三部経の中に末法の思想を内在していると理解しました。 浄土宗・真宗の末法と日蓮宗の末法との違いも、まだ不十分ながら少しわかってきました。 >そもそも、仏教そのものが成仏道としてはじめて意味を持つものですから自らの成仏と無関係に客観的な時代としての正像末法滅を語っても殆ど意味を持たないということです。 についてですが、 いくつかの経に末法が説かれていることがわかった現時点でも、私は今の世の中が末法であるともないとも思っていません。 特定の宗派に入ることなく、いろんな宗派の教えを自由に学ぶことが、今の自分には為になると思っています。

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noname#20467
noname#20467
回答No.14

>派を聞いているのは、宗派によって末法思想の根拠が異なることが想像されたからです 違うとも言えますが、違わないとも言えます。 まず質問者さんは、法華経と末法思想がどう関わるのか?と聞かれましたので、法華経自体に論拠があると申しました。それを日蓮は信じていると書いたわけですね。年限などは別ですが、これも簡単に書きました。 では、浄土宗など念仏ですが。 末法と言えば、日蓮以上に、念仏系統の専売特許のようなイメージがあります。でも彼等が根本経典としておく浄土三部経には、末法にも触れませんし、法華経のようにそういう歴史観にも立っていません。経典の根拠に限って言えば、そういうことになります。 浄土三部経からは、直接末法思想を導くことは出来ません。末法思想の盛んになった平安中期からの時代背景の影響が大きいと思います。 これは法華経を信じる人でも同様のことです。日蓮は末法思想を重視してそれが時宜にあっていると見ています。これは当時の天台宗の末法思想を引き継いでます。しかし、天台宗の祖師が一様に末法思想を重視したかといえば、そんなこともありません。天台宗は中国で出来た宗派ですが、その祖師に智顗という人があります。この人は、末法思想を持っていないと言われています。しかし、智顗の師にあたる南岳大師は末法思想の持ち主です(彼は中国人ですが、日本の説より500年早く末法に入ったと思っていたので、6世紀の時点で末法になります)。師弟でかなり温度差があります。このように個人差が大きいです。一般的には、戦乱や社会不安の大きい時代の人は末法思想を重視し、安定期の人は末法をあまり重視しないと言われていますが、個人差もあり当てはまらない例もあります。最澄と空海では、同時代ですが、空海のような例もあれば、最澄のように比較的重んじた例もあります。もちろん彼が法華経の信者であったことは大きいとは思います。 >経の成立時期を考えると、末法は500年か1000年の未来の話なので、時期にしろ内容にしろ、記述はあまり精密でないという気がしてきました 像法・末法を厳密に峻別するという意味では、そういう言い方も可能かもしれませんね。彼等の信仰では、如来は不滅ですが、現実として不在であるという悪世という悪世の認識が述べられているということだと思います。このような悪世の認識は紹介したところなどにいくつも出てきます。 9のお礼欄に、疑問を呈しておられますが、確かに分かりにくいかもしれませんが、法華経は釈迦への強い思慕が中心にあります。現在も釈迦がいるという思慕が中心にありますので、釈尊の永遠性を付随としてしまうことは経典作成者の意図からは外れてしまいますし、多くの信者にとってもそうです。 釈迦の死と永遠性ということについては、仏教徒にとっては一つの課題であったようで、釈尊最後の旅という日本語訳で知られる、パリニッバーナ経でも如来が望めば長くこの世にとどまれるという説法が出てきます。でも、これはアーナンダが悪魔に邪魔されて実現しませんでした。このあたりは、あなたの挙げた本にも書いているかもしれません。こういった問題がどのような経緯をたどったのかはわかりませんが、いつか如来の不滅へと変わっていったと言われています。そして、大乗仏教の涅槃経では、もっと徹底した形で言われるようになるわけですね。法華経も、釈迦への思慕が経典作成の中心ですから、釈迦の実在を付随要素としてしまうことはできないわけです。 こうした釈迦の位置づけには、哲学的にはやや疑問点も残りますから、中国日本でさまざまな煩雑な議論が起きているという一面もああるようです。

shooooo
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 浄土三部経から直接末法思想を導くことができないという点は、また一つ知見を得ました。 法華経については次のとおり解釈しました。 (1) 久遠の釈尊は、釈尊への思慕によって書かれたものである。すなわち「巨人軍は永久に不滅です」というようなもので、厳密に言葉通りに釈尊の実在に結びつけるのは経典作成者の意図ではない。 (卑近な例えですいません。) (2) 像法や末法という話は、現実に釈尊が不在の世界(すなわち悪世)でも法華経の教えを説くべしと言うために持ち出しただけである。末法思想は天台宗の中でも温度差があるくらいなので、法華経の重要課題ではない。日蓮は時代背景から末法思想を強調した。 (空海は真言宗なので思想が違っても当然と思います。) 論理的にはまだすっきりしないのですが、矛盾点を突くのが目的ではないので、これで納得しました。

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  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.13

 法華経信仰が浄土信仰とも深くかかわりについてですが…  例えば「普賢菩薩勧発品」に 「読誦 解其義趣 是人命終 為千仏授手 令不恐怖 不墮悪趣 即往兜率天上弥勒菩薩所」 と弥勒菩薩の兜率天往生が説かれます。  また「法師功徳品」に 「若如来滅後後五百歲中 若有女人聞是経典 如說修行 於此命終 即往安楽世界 阿弥陀仏」 と阿弥陀如来の極楽往生が説かれます。  中世期の往生伝などには、法華経を信仰していたとの記述が多く見られるのもこれらの教えと同時に、特に仏教伝来時から法華経が滅罪経典として信仰されていたことともかかわるのでしょう。  山岳仏教の霊地では滅罪と往生を願い、法華経を埋経・奉納する事例が多くあります。修験道における葬送儀礼でも、法華経と阿弥陀・弥勒信仰は両立しています。  各地の残る廻国供養(全国各地の神社仏閣に法華経を奉納する修行)の石塔には、弥陀三尊の梵字が多く見られます(修験道の教義には密教以外にも法華経・浄土信仰は多くかかわります)。これら以外にも巡礼・遍路や鎮魂儀礼などの民間信仰において、法華経と浄土信仰の関係は深いものがあります。  現在の浄土宗・真宗や日蓮宗の教義からは、浄土信仰と法華経信仰は相容れないように感じ取れますが、日本人の信仰観・仏教観の成立においては、法華経の説く末法思想と浄土信仰との融合とその果たした役割は、無視しがたいものがあるでしょうね。  ご質問の趣旨から外れること、おわびします。

shooooo
質問者

お礼

主旨とは違いますが、興味深いお話でした。現在の浄土宗・真宗と日蓮宗との状況を考えると、意外な話ですね。

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noname#20467
noname#20467
回答No.12

質問者は、 >末法思想の根拠・起源は? を聞かれているのであって、その思想の説かれた根拠や歴史的な背景を事実に即して答えることを求めているのではないかと思います。回答者の宗教的信条を聞いているわけではありません。法華経の内容が、気に入らない、あるいは真理から背いていると思っても、その展開してきた歴史的事実や、それが説く内容とは別の問題です。 質問者が、回答者の宗派や信仰を聞かれているのは、回答者自身の立場を明らかにすることで、無節操・無軌道な自説や根拠のない言説を避け、節度のある回答を求めるなどの配慮をしたものであると思います。いくつからの理由から私はこれには応じていませんが(またあまりあてになりません、新興宗教の人が原始仏教だと名乗っています)。ただし、質問者の知りたいことであろうことを鑑みて、歴史的な立場や、法華経という経典の持つ内容そのものから、根拠を持って書いています。私自身が法華経を信じないからと言って、その内容を自分の信念に都合良くまとめるようなことはしていないのです。 また法華経という経典は、大乗を強く標榜する経典です。小乗は否定的、もしくはいつかは大乗に摂取されるという包括的立場です。大乗では救われないというのは、個人の信仰としては認めますし、また真理がどうであるかを考えると別の問題であることも認めますが、とりあえず法華経の内容そのものは、大乗でこそ救われるとし、小乗(誤解もあるようですが、ここで言う小乗はとくに上座仏教を意識したものではありません)を低く見ているものです。

shooooo
質問者

お礼

ありがとうございます。 宗派を聞いているのは、宗派によって末法思想の根拠が異なることが想像されたからです。cyuubu-nさんについては、客観的な事実として経の記述をお答えいただいてるので、宗派を明かさなくても結構です。 経の成立時期を考えると、末法は500年か1000年の未来の話なので、時期にしろ内容にしろ、記述はあまり精密でないという気がしてきました。まさにそれが末法ということかもしれませんが。

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    日蓮系(創価学会含む)の方たちはどうこれに非情緒的に反論なさるのでしょうか? 「日蓮は自分は釈迦死後2000年後の末法に生まれたとしていますが、釈迦は紀元前800年にはまだ生まれておらず、それから3~400年後の人物。日蓮はまだ2000年後の末法になっていない時に生まれたにもかかわらず、末法だと誤って断定的に語ってしまった。 また、末法思想は大集経からで、釈迦は生前、末法だの正法だの口にしたことは一度もない。彼の死後数百年後の一集団が作ったフィクションでしかない。あるいは、法華経も「釈尊が説いた法華経」と言うが、法華経は釈尊死後数百年もたったある集団が創作したフィクションであり、紀元1世紀ごろのシロモノ。釈尊生存中に法華経の内容を直接語ったことなんぞない。そもそも本来の釈迦は、未来を予想したり、死後を語ることは、一切話さないという態度をとっている。」 これは現代の文献学、歴史学その他で解明されている最新のものであり、これに反論するには科学的論拠が必要だと思います。 私は、大乗非仏説論者ではなく、知的欲求として聞きたいのです。 どなたかよろしくお願いします。

  • 『立正安国論』は正しいのでは?

    日蓮は、『立正安国論』の中で、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして諸宗を非難したが、現在はこれにに似ていないか。 当時は元の侵略、天変地異、現在は中国・北朝鮮の侵略、天変地異である。 確かに、浄土宗には明確な正義がない。もし、法華経が正法であればそれを信じる門徒が宗教を否定する中国共産党を礼賛することは間違いであろう、しかし、間違った宗教団体もある。 ただ、日蓮の『立正安国論』の趣旨自体は現代に照らし合わせても正しいのではないかと思われるが、どうだろうか? 信仰を忘れ、正法を忘れ、唯物論思想にまみれた国民国家は日蓮の指摘のように滅びに至るのだろうか。日蓮の『立正安国論』が正しければ、そのようになるはずであろうと思われるが、どうだろうか?

  • 浄土真宗はどんな教え?

    以下の動画を観て皆さんはどう思われますか? 感想を教えてください。 「浄土真宗破折(親鸞会・講師)」 1.「無量義経が偽経」説は浄土門系の学者の仮説に過ぎない(反論論文QRコードあり) https://www.youtube.com/watch?v=E1eTfYTKbUA&feature=youtu.be 2. 浄土三部経には「衆生が成仏できる」とは全く説かれていない  浄土門では今世この地で救われない(「往生」もただの方便) https://www.youtube.com/watch?v=NIYe1tmbn34&feature=youtu.be 3. 上行菩薩に付嘱された「末法の法華経」は末法万年にわたって流布  念仏門は末法で百年間だけの ”賞味期限” 付き https://www.youtube.com/watch?v=L-5KaIz9y3A&feature=youtu.be 4. 親鸞も法然も弘法も道元も全て  大局的に一切教典を見ず  釈尊の本意に背き  自分勝手に宗派を起こした邪師 https://www.youtube.com/watch?v=5Pr1UQrbuvg&feature=youtu.be 5. 末法では上行菩薩に付嘱された「法華経」しか衆生が救われる教法はない https://www.youtube.com/watch?v=NUPACFDTLY4&feature=youtu.be 6. 今世・この現実世界で一切衆生が「即身成仏」できることが仏の真の願い  浄土門では絶対に不可能 https://www.youtube.com/watch?v=4RqatGuZdZA&feature=youtu.be 7. 釈迦仏法を突き詰めれば 末法の一切衆生を救う仏法は 日蓮大聖人の仏法であることは明白 https://www.youtube.com/watch?v=PtGWgkF9hso&feature=youtu.be 8. 涅槃経にも「浄土三部経に依らず法華経を根本とせよ」との教えが遺されている https://www.youtube.com/watch?v=K6PUf44cOc0&feature=youtu.be 9. 法然も親鸞も法華経の経文に依れば間違いなく地獄に堕ちている https://www.youtube.com/watch?v=D9Hdc79yv8M&feature=youtu.be 10. 法華経以外で一切衆生が成仏できる教説と現証が説かれている教典はない https://www.youtube.com/watch?v=8EQNQlF5588&feature=youtu.be 11. 南無妙法蓮華経の十界文字曼荼羅本尊で「即身成仏」できるのならば 釈尊はなぜそれを説かなかったのか? https://www.youtube.com/watch?v=Qi8rfXxiQIs&feature=youtu.be 12. もはや既に過去の ”廃棄物” と成り果てた念仏門に執着していたら大変な不幸となる! https://www.youtube.com/watch?v=c38l3O27QvI&feature=youtu.be 13. 法華経による救済の境地は自ら正しい ”末法の法華経” 日蓮大聖人の仏法を修行しない限りは絶対に感得できない https://www.youtube.com/watch?v=BWlhjaGbI0U&feature=youtu.be 14. 今の時代では法華経を含めて釈迦仏法では救済されない  ましてや方便教の浄土門など論外 https://www.youtube.com/watch?v=golvyX3XjF4&feature=youtu.be 15. 法蔵比丘の四十八願は現在の我々とは全く無縁な誓願 https://www.youtube.com/watch?v=GCox9b7jkY4&feature=youtu.be 16. 大集経と法華経の経文を論理的に解釈すれば、末法では上行菩薩再誕の ”法華経” のみが衆生救済の唯一の教法であることが分かる https://www.youtube.com/watch?v=h3X4tz5tv-k&feature=youtu.be 17. 四十八願の「十方衆生」は十劫以上も前の遥か昔の衆生のこと  現在・この国土の衆生は阿弥陀仏では絶対に救われない https://www.youtube.com/watch?v=6C0zPy4b1Jw&feature=youtu.be 18. 法華経のみが釈尊の本意であることを論証する https://www.youtube.com/watch?v=TKJ1HzKr6tg&feature=youtu.be 19.「法華経を信受できない者には余の深法で示教利喜すべし」を解釈する https://www.youtube.com/watch?v=vWx0zlv44i4&feature=youtu.be 20. 法蔵比丘の十八願などでは 末法の衆生は絶対に救われない https://www.youtube.com/watch?v=bQGLRaro2H0&feature=youtu.be 21. 法華経は 順縁・逆縁 共に成仏できる https://www.youtube.com/watch?v=JN7Y0s5bnsM&feature=youtu.be 22. そもそも浄土三部経は釈尊が説かれたのに 釈尊を蔑ろにして方便の仮仏である阿弥陀仏に執着するのは大不知恩  師敵対の大罪 https://www.youtube.com/watch?v=ZRMKiMVaZRg&feature=youtu.be 23. 久遠の成仏の根源の本法は久遠元初の御本仏にしか説けない  それはインド応誕の釈尊ではない https://www.youtube.com/watch?v=hYTwhRNzIBc&feature=youtu.be 24. 釈尊の仏法は久遠本仏の仏法の光源から照らし出された映像のようなもの https://www.youtube.com/watch?v=vD1dCaXOZcE&feature=youtu.be 25. 浄土門はただの実体のない阿弥陀仏のイメージにすがっているだけ  成仏の実感など未来永劫に感得できない https://www.youtube.com/watch?v=VEsRRqzNFPA&feature=youtu.be 26. 経典を素直に読み込めば俄かには信じ難いけれど 末法御出現の御本仏は日蓮大聖人であることは明白 https://www.youtube.com/watch?v=lRBSNGpfKiI&feature=youtu.be 27. 阿弥陀仏も西方十万億土の極楽浄土も 全て現実の我々の絶対的幸福=即身成仏には全く関係ない イリュージョン https://www.youtube.com/watch?v=cInkdfKhYmc&feature=youtu.be 28. 親鸞会の本尊は パクリ・コピペのニセ本尊! https://www.youtube.com/watch?v=frfYdTFBaxw&feature=youtu.be 29. 親鸞上人の臨終は本当に美しかったのか? 少なくとも看取った実の娘が疑問を持った臨終だったことは確か https://www.youtube.com/watch?v=H2TUmpImKOg&feature=youtu.be

  • 『法華経』と末法

     お世話になります。  『妙法蓮華経』の解説を読んでいて思ったのですが、「薬王菩薩本事品」にある。 「我滅度後 後五百歳中 広宣流布於閻浮提 無令断絶」 てところの「後五百歳中」の所にカッコして「末法の事」と書いてあったんですね。けれども、お釈迦様滅後五百年は『大集経』を基にした日本における三時思想では「正法」の時代ってことになってますよね??  これって、何を基にしたどういう解釈なんですか??愚問であるのかもしれませんが、教えてください。よろしくお願いします。

  • 終末と末法はカルトの証か

      カルトとは人に恐怖や不安を与えマインドコントロールするものである。 そのためにカルトが利用するものが終末思想であり末法思想であると言われる。 とすると終末を説く聖書とキリスト教、末法を説く日蓮と法華経、これらはいずれもカルトなのか。  

  • 仏教に終末思想はあるのか?

    昨今の日本の集団的自衛権の解釈変更問題や、尖閣諸島や竹島の領土問題、シリアの内戦やウクライナ情勢を考えるにあたり、日本が本当に戦争せずに平和でいられるのかをかを考え、過去に学ぼうと、日本が愚かな第二次世界大戦に突入するきっかけをつくった、満州事変の首謀者である 石原莞爾の「最終戦争論」を読んでいるところです。 この著書の中で石原莞爾は自信の思想を正当化をすべく、「仏教の予言」という章を書いてます。 私は仏教については、ほとんど知識はありませんが、この哲学カテで仏教は口伝により伝達されたため、解釈がさまざまになり、多くの宗派が派生したことを知りました。 そのため、石原莞爾の言う「仏教の予言」たるものが、石原莞爾の勝手解釈あるいは、石原莞爾が所属した日蓮宗の分派の考えなのか、仏教の本質の考えか疑問になってきました。 この哲学カテには仏教の信者である、知識豊かな方々がたくさんいらしゃるようなので、下記の質問に回答をいただけると幸いです。 1)仏教の時代を「正法」「像法」「末法」に分けられるそうですが、末法の「闘じょう」の時代になると闘争が盛んになって普通の仏教の力はなくなるとお釈迦様は予言したと論じてますが、お釈迦様は本当にそんなことを言ったのでしょうか? 2)法華経には末法の闘争時代になったら節刀将軍を出すからその命令に従えとお釈迦様は言ったと論じてますが、節刀将軍なるものを検索しても出てきません。節刀将軍とは何者で、また、お釈迦様は本当にそのようなことを言ったのでしょうか? 3)「大集経」という経典にはお釈迦様がなくなられた仏滅後2500年の予言が書いてあり、それに従い2500年後に世界は統一するのだと石原莞爾は主張し、最終戦争を正当化してますが、「大集経」とはどの宗派の経典でそのようなことが書いてあるのでしょうか? 4)最後に石原莞爾ではなく私の疑問になりますが、キリスト教は初めがあり終わりがある「直線的」な世界観であるのに、仏教は「円的」な世界観であるとイメージしてます。お釈迦様の時代が終わったら、56億年後に弥勒菩薩が来るとのことですが、仏教には終末思想というものはないのでしょうか? 石原莞爾は頭が切れ、ある程度先を見通して「最終戦争論」を書いていると思いますが、現在において最終戦争など起こったら核で人類は滅亡し終末を向かえるのは必至と思います。 申し訳ありませんが、ご回答をいただければ幸いです。

  • 法華経について

    日蓮上人を祖とする仏教宗派は法華経を唯一絶対の経典と位置づけておりそれ以外の経典は方便の教えであるから正直に捨てなさいと教えます。それが出来ないのであれば法華経を誹謗している事になるので死後阿鼻地獄に落ちると脅します。そして現代を末法の時代であると迷信染みた事を強調し釈尊に次ぐ本仏日蓮大聖人の言葉を素直に受け入れなさい。本門戒壇之大御本尊を拝みなさい。それこそが唯一の成仏への道であると説きます。 非常に狭い物の見方であり危険だと思います。これではまるで釈尊は絶対神で日蓮上人は預言者、法華経は聖書みたいです。 これが中道を重んじられたお釈迦様のお言葉を綴った経典とはとても思えません。 お釈迦様は無宗教者で理論的思考の持ち主だったそうですが法華経を見る限りとてもそうは思えません。何やら分からない不思議な力や祟りがあると書かれており疑問に感じます。 それでは法華経を支持している天台宗や曹洞宗はその昔なぜ摂受だの折伏だのと騒がなかったのでしょうか?日蓮上人だけが暴走してしまったのでしょうか? 南岳大師や天台大師、日本の伝教大師は法華経至上主義を説かなかったのはなぜでしょうか? 弘法大師は法華経を第三位に位置づけて華厳経を理解する前に理解するように説かれたそうで尊んでいたことは間違いないですが最高の教えとまでは言っていません。 また仏典研究をよくしていた南都六宗は法華経をどのように解釈していたのでしょうか? 不思議でなりません。

  • 如来は寿命が尽きた後、どうなるのですか?

    合掌三拝 こんにちは。 諸経の王といわれる「法華経」には、釈尊が弟子達それぞれに「お前はあと~年後に成仏し、仏国土(浄土)を持ち、そして仏としての寿命は…年である」という記述が「授記品」にありますが、<仏としての寿命>とはどういう意味なのでしょうか?また、釈尊がお弟子にお示しになった成仏の年限は限りなく遠い未来です。およそこんなに長くては成仏しようとする意志も失せてしまいませんか? あるいは、「成仏」とは具体的にどうなることなのでしょうか? どなたかお教え下さい。 合掌三拝

  • 日蓮大聖人を信じている人に!末法に関して教えてください。

    日蓮大聖人を信じている人に!末法に関して教えてください。 「釈尊入滅の2000年後末法の世が訪れて、釈尊の教えが及ばなくなった。そこに日蓮大聖人が現れた」 ということでいいのでしょうか? ということは、、、  日蓮大聖人は西暦1222年に生まれたわけですので、少なくとも釈尊はそれよりも2000年前、紀元前778年以前に入滅していなければならない。しかし、インドの歴史から、少なくとも紀元前778年以前には存在していないことは現在明らかです。だいたい紀元前4~5世紀だと推定されていますが、すくなくとも紀元前778年以前の存在は完全否定されています。つまり、入滅後まだ2000年たってもいないのに日蓮大聖人は生まれてそして死んでいったことは確実なる事実となります。 この矛盾について矛盾ではないという意見、 日蓮大聖人は事実誤認をしていないという意見を教えて下さい。 もしもこの問いに答えられないのなら、日蓮大聖人は普通に像法に生まれ、普通に像法に死んでいったただの坊さんということになりますから。 御書もとんだ茶番になります。事実誤認の像法の坊さんの事実誤認の記述は、一見ありがたいことが書いてあるなあっていうスピリチャルな本ってだけになります。 参照例「正像二千年の間未だ広宣流布せざるに・・・」「如来滅後二千余年に・・・」(法華取要抄)

  • ひとつの宗教のみが正しい根拠とは

     数日前に、ひさびさにひとつの宗教にこり固まっている  人たちと話をしました(論戦?)  日蓮宗系の人たち(女性)で、日本人が全員、法華経に  帰依しなければ日本が滅ぶとのこと。  まあ、そうした信仰そのもは法華経の信者ならば、(過激かどうかの  違いはあるにしても)ありうる話で、目くじらを立てることもありません。    ただ、問題はその根拠です。  その方々にそう主張する根拠を問うと、  自分たちの教団の経典のここに書いてあると  「自分たちの経典」の一節を指し示すのです。  私が「世の中には色々な宗教があり、その数だけ  経典や聖書のたぐいがありますね。その人たちも  あなた方と同じように「自分らの経典」だけを根拠として  自分らが正しいと言い募るならば、その両者のあいだに  どうやって対話が成り立ちますか?  あなたがたは、ほかの人を説得したいんでしょう?  あるいは少なくとも理解してもらいたいんでしょう?  それならば、自分らの経典をいったん離れて  相手の立場にたって、相手にも分かるような  議論の進め方をしなければいけないんじゃないですか?  だからこそ釈迦は「たとえ話」を多用したんじゃないですか?」  と言うと、「いや、自分らの経典が正しいんだから」  とか、なんとか話がそれ以上、かみ合いません。  そこで質問です。  どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?  彼らは他人を説得したり納得させたり  さらには自宗に改宗させたりしようということを  放棄しているのでしょうか?  それぞれの経験と立場でご回答いただければ  幸いです。