• ベストアンサー

神様はいますかヽ(´ー`)/

神様がいるよ~って方は、 あなたがいるとする神様の定義(宗教名でもいいです)と 神様がいる理由(存在証明)を教えてください。 神様なんていないよっ~て方なら不在証明を。 私は一般的な宗教そのものに疑問を持っていたので 神様がいるとされる方の理由を知りたくて 質問しました。 回答内容に疑問が浮かんできたら お礼のなかで再度質問させてくださいね。 頭が悪いので分かりやすい言葉で お願いします。ヽ(´ー`)/

質問者が選んだベストアンサー

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.59

おっとり刀で参加させていただきます。 基本的には【神を信じる】ということは論理性放棄に過ぎないと考えています。 ◇ 人智の及ばぬ宇宙の摂理に基づき人間の言動も含めた森羅万象の起承転結は営まれています。 そして『人智の及ばぬこと』を怖れ、何とか『及ぶこと』にしたいという欲求を人間は持ちます。 これを論理的、あるいは科学的に解明するには時間が必要ですし、ひょっとすると永遠に不可能なことかもしれません。 不安のあまりそれを待ちきれず、論理的(科学的)解明を放棄して「人智の及ばぬ宇宙の摂理」を神と名付けることで納得しようとした、ということだろうと思います。 わからぬことは「神の御業」と言えば済むのですから安心できるわけです。 つまり、全てを理解する能力を未だ持たない人間が拙速に全てを理解(把握)したがる結果として神が捏造されたということです。 理解できないものを強引に理解した気になる、という点で宗教ほど傲慢なものはないだろうというのが私の見解でもあります。 それは、人間の精神の可能性をひたすら矮小化する結果をもたらしているように思います。 必要なのは 「わからないものはわからないものとして」 「全てをあるがままに」 見つめる勇気でしょう。 ただ、方便と割り切っての宗教は認めたいと思います。 宇宙の摂理という我々には理解不能なことがある、という大前提を認めた上で、それを便宜上「神」と呼ぶことに何の差支えもないからです。 似ているようですが、「神こそ宇宙の摂理」という思考手順とは正逆のものと言えるでしょう。 ◇ 「神様」と呼びたいような現象や人が存在した、あるいは存在する、ということはあるでしょう。 ただ、それも「宇宙の摂理」の一部にすぎないわけです。 この一部と全部を同一と見做す大きな論理破綻によって人間が生み出したものが宗教であり「神様」と言えるのかもしれません。 「不在証明」としては、 『大いなる未知を超えるものは存在し得ないから、「神」という名称が与えられた時点で最早「絶対的な存在」ということはできない。 しかし、その絶対性ゆえに名付けられたのが「神」という呼称であるはずだ。 結果として矛盾が生じ、「絶対的存在としての神」は存在しないことになる』 といったところになるでしょうか・・・。 「大いなる未知」自体を神と言うのだ、という声もありそうですが、なぜその未知に神という呼称を与えなければならないのかという疑問に対する答えは恐らくないと思われます。 まず最初に神がいた、という考え方もありそうですが、【「最初」の前】はやはり「未知(あるいは無)」であったはずですから、たとえ神と言えども未知の宇宙摂理を凌駕することはできないということになります。

mogurayama
質問者

お礼

こんにちは。 お仕事の関係でお返事が遅くなりました ごめんなさい。 久々の神様不在さんですね。 すっすごくわかりやすい!! 非常に分かりやすく教えていただいてありがたいです。 文章のまとめ方も圧巻ですね(゜Д゜;) 回答ありがとうございました。 そんなhakobuluさんに伺いたいです。 人は社会性のある生き物でコミニュティを 作って生きたがります。 圧倒的多くの人類が、今まで宗教を通して 善悪の基準や道徳を教わり受け継ぎます。 宗教に変わる道徳心を育むとしたら 何に求めるべきだと考えますか?

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その他の回答 (79)

  • deck123
  • ベストアンサー率8% (6/71)
回答No.60

賑わってるので参加させてください。 神はいないけどいてほしいに一票。 神と杯でも交わしてみたいですね。 やっぱり神もたまには愚痴でもこぼすのかな? なんて思います。

mogurayama
質問者

お礼

こんにちは~ヽ(´▽`)ノ そうですねえ。ぜひ愚痴を聞きたいです。 この質問と皆様の回答を神様は どんな気持ちでみるのでしょうか? やっぱ肴は下界の様子ですね。 これに勝るおつまみはありませんね♪ 回答ほんとにありがとうございます♪

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  • riehana
  • ベストアンサー率28% (14/50)
回答No.58

こんにちは。 お礼拝見させていただきました^^ 丁寧なお礼ありがとうございます。私が書き込んだことに、真剣に、そして素直に意見を書いて下さって感謝します** >>キリスト教を知ったという行為はあなたに帰するべきだと思います。私たちも平等にそのような体験(私たち自身を利用される)が与えられていませんから。 そのお気持ちすごく分かります^^ 私が神様を知ろうと踏み込んだ、その第一歩は、もちろん私の意志によるものでした。予定説という言葉を聞いたことがあるかと思います。“神様は私たちが存在するずっと前から救いの予定計画をすでにお持ちだ”という考えですが、“救う人と、救わない人をすでに決めているなんて神様は不公平だ!”と思われる方も多いですよね! でも、違うんです。神様は、この世の全ての人々を救うご計画を持っていらっしゃるんです。私や、すでに神様に出会った方々だけでなく、この世の全ての人を救うご計画です。 じゃあ、なんで今もノンクリスチャンがいっぱいいるんだ!と思われるかもしれません。 神様は、救いの予定説をお持ちです。ですが、同時に自由意志をも私たちに与えて下さっています。 例えば、あなたが友達数人にパーティの招待状を渡したとします。ある友達は、喜んでそのパーティに参加しました。また、ある友達はその招待状を無視し、参加しませんでした。あなたは、来てくれた友達をもてなすことができます*しかし、来てくれなかった友達をもてなすことは出来ないんです。 ちょうど、このような関係が、私たち一人一人と神様との関係です。招待者はイエス様。私たちは招待客です。イエス様は、招待状を出す人を選びません。この世の全ての人に招待状を出しているんです。あとは、それに気が付くか、気が付かないか。行くか、行かないか。ただそれだけの違いです。もちろんイエス様は全ての人に来てもらいたい、全ての人をもてなしたいと思っています。イエス様は無理やり人を引っ張ってくることをしません。私たちを尊重し、また、それが彼の愛だからです。 >>そして、信じることよりも理解することの大切さを歴史から学んでほしいです。 私は聖書にある全てを理解しているわけではありません。ハッキリ言ってちんぷんかんぷんの箇所もあります。でも、イエス様という存在は私なりに理解しています。神様が、どうしてイエス様をこの世に与えて下さったのかを理解しています。分かっているからこそ初めて信じられるんです。理解できないものを信じることは出来ないと思うんです。信じて初めて理解できることもあります。私にはこの信頼関係と愛こそが、この世で一番大切なものなんです^^ 歴史という言葉は、英語ではHistoryですが、この言葉はもともとHis Story からきていると言われています。HisとはもちろんJesus Christ。イエス・キリストご自身です。歴史はイエスキリストのお話、という意味なんですよね^^ とはいえ、昔は(今も!?)歴史が大の苦手科目でした。 歴史的に見て、聖書の信憑性はかなり高いと思います。世界的な古い文献と見比べると、その信憑性の高さが分かるかと思います。たとえばカエサルのガリア戦記。執筆されたのは紀元前58~50年。その最古の写本は紀元900年に作られました。つまり執筆から写本になるまで950年かかっています。現存する写本は9~10冊です。同じくリウィウスのローマ建国史は前59~後17年執筆。最古の写本は後900年。写本まで900年。現存する写本は20冊です。新約聖書が書かれたのは後40~100年。最古の写本は後130年(全文350年)。写本まで30~310年。現存する写本はギリシャ語で5000冊以上。ラテン語10000、その他の言語で9300です。 このように見ても、聖書の正確さ、信憑性の高さが分かるかと思います。 ずいぶん長くなってしまいました。スミマセン! 最後に一言。私は神様を一番愛しています。そして同時に私自身のこともとても愛しています。私は愚かな部分も、弱い部分も含めて自分を愛しています^^ mogurayamaさんの優しいお気遣い、とっても嬉しく思います^^ありがとうございました**

mogurayama
質問者

お礼

こんにちはヽ(´ー`)/ 御礼が遅くなりまして申し訳ないです。 再びの回答ありがとです。 やはり・・・お互いに思いを 理解しあうのは難しいですね。 パーティのお話です。 自由意志と予定説を同時に持つということは、 神は気づかない者を作っておきながら気づかない者は パーティに入れない・・・ という発想を持っていることになっちゃいませんか。 さて、 歴史と聖書の話がありましたが 聖書が一部ちんぷんかんぷんでどうして聖書の 正しさを証明できますか? あなたがおっしゃるように聖書の写本は 紀元後数世紀程度の間にたくさんのものが書かれました。 ではどうやってその中から正しい聖書を選んだのでしょう? それはヤムニア会議を始め二ケア会議などを通して 当時のユダヤ教ラビ、キリスト教の司教が 何を神の教えとするかを相談し決定したのです。 当然、外典になったものもありますし 歴史の中で多々選別されてますよね。 つまりあなたは、その当時の人々が考えて決めた判断を 信じているわけですよね。 そしてそれを正しいと判断していることになります。 なぜ当時の人達の判断が正しいと思えるのですか。 他の外典はお読みになりましたか? たとえばトマスの福音書はあなたにとって聖書ですか? 聖書は当然歴史書として非常に重要な書物です。 死海文書などは考古学上、重要な発見でした。 と同時に全てが真実ではありません。 残念ながら嘘も記載されております。 有名なノアの箱舟はギルガメッシュ叙事詩にも登場しますが 人類をノア一族以外全滅に追い込みましたよね。 紀元前2000~3000年頃の全世界的大洪水ですが そのころエジプトではナイル川のほとりで立派な 文明を築き上げていました。 バベルの塔の崩壊はご存知ですよね。 人類が言葉を持った最初の理由とされています。 古く見積もっても紀元前2000年程度の出来事でしょう。 ですがその当時、中国では最初の世襲王朝が始まっています。当然中国語の原型で会話をしていたでしょう。 聖書に限らず、無条件に宗教を信じることは 他の国の文化や歴史を軽視することになりませんか? そしてその姿勢が今日までの悲劇を産んでいませんか? 聖書の正確さや信憑性の高さを理解するなら・・・ そしてそれをもって神の存在を証明するなら・・・ ぜひ歴史の勉強をしてください。 私自身の戒めでもありますが♪

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  • 8942
  • ベストアンサー率13% (188/1414)
回答No.57

#48です。 >努力の結果は努力の行為と因果関係があるのです。 ごもっともです。 >そうおっしゃっている8942さんは ><普通の日常も神様の与えられる助けや罰の相互作用の >  結果今があるような気がしています。 >とも述べています。 >これと上記の文章は矛盾しているように感じてしまうのです。 矛盾はしていません。上の二つは別にシーソーの右と左の様に あちらをたてればこちらがたたずの様なものではありません。 どちらも結果に影響を与えるファクターの一つです。 例えばF1グランプリの成績はドライバーの腕だけによって支配されるものではありません。 車の性能。 その他スタッフのクオリティーなど全てのファクターの 掛け算のはずです。 それと同じ、努力がドライバーなら神は車のスペック、あるいはメカニックです。 >そして自分の短所で失敗したと考えてほしいです。 その謙虚な態度は好きです。 ただし、失敗とは自分の能力以上の負荷を負ったときに起こるもの、 負荷の内容は必ずしも選択権が自分にある訳ではありません。 自分に現れる天敵は、概して自分より強い場合多いです。 勝たなくてはいけない相手は自分自身だけです。 その他の相手は自分>相手の時のみ勝てます。 >祈りや神の存在が、人間の意志や行動に対する責任や >評価を価値の低いものにしませんか。 それは本人次第でしょう。結果を神の責任にすれば、それは本人はダメになるでしょう。 神に祈って結果が悪かったからといって神を攻めてはダメです。 正直私にとって神とはブラックボックスです。 その箱の中で何が行われているかはわからないです。 その箱の中には実は神だけでなく悪魔も、霊も、気も超能力も異次元も 宇宙の節理も入っているかもしれない。はっきり言って目に見えないものは一緒くたです。 ただ、五感で捉えられない影響力はあると信じてます。 それはモグラに見ない光が我々には見える、それを科学的に処理し何千光年も遠い世界を観察したりしている。 人間にも五感(科学)で感じられなくても私たちに影響を及ぼしている 原理が隠されていると思うのです。 そしてブラックボックスだからとりあえず 祈っとこうと思っているのが正直なところかも知れません。 だって、視線を感じるんだもん。多分神様の。

mogurayama
質問者

お礼

こんにちは♪ いつも回答ありがとうございます。 F1は昔、はまりましたよ! はたはたお疲れかと思いますが、やはり 矛盾を感じますね・・・ <車の性能。その他スタッフのクオリティーなど <全てのファクターの掛け算のはずです。 <それと同じ、努力がドライバーなら神は車の <スペック、あるいはメカニックです。 あれれと思います。 >努力の結果は努力の行為と因果関係があるのです。 <ごもっともです。 スペックやメカニックである神様が因果関係から 抜けてますのでごもっともではないはずです。 努力5 × 神への祈り =結果 ? 努力10× 神への罵り =結果 ? 努力の結果は努力の度合いによって作用されるのではなく F1のドライバーとメカニックの関係のように 努力と神への献身が相乗的に結果を決めるわけですね。 それほど人の努力と密接にかかわりながらも 結果を神の責任にしてはならないわけですね。 しかし、この構図ですと努力の結果に 神の責任(要素)は事実としては必ず存在します。 それを責めてはいけないけないというのは分かりますが 同一社会で暮らす人々がすべてがそのようには 考えてくれません。 物事への努力の因果関係に神様が大きくかかわるなら それを口述にしたり逆にそれを利用するものが 現れるのは歴史が証明しております。 そのような考え方は結果として人類が平穏に生きていくのに あまり良い結果を生まないと思うのです。 <正直私にとって神とはブラックボックスです。    そうだったのですね。私はてっきり  8942さんの神様は意志を持った一人の  神様だと思ってました。すみませぬ!! <だって、視線を感じるんだもん。多分神様の。 なるほど、神様の視線を感じるから神様がいる。 という帰結ですね。 わたしは神様の視線を感じない・・・ そして感じるとすれば異性の視線違いないと勘違いします。 ほんとに8942さん、お付き合いありがとうございます♪

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  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.56

僕は信じながらギャンブルに行っていた事がありますよ 何も考える必要はありません(笑)ただ信じてしまえば いいのです。することはただ2つ聖書を読むこと、神を信じることだけ 信じながら理解していくものだと思いますよ 最初からちゃんと歩ける人間がいないように 最初から完全(私は違います)なクリスチャンはいません。いい加減なクリスチャンですね >神様はいないと思います もしいたら 人間一人一人の願いを聞いていて 住みよい星になると思います。 神様は人間を信じ任せました。そして愛しなさいとだけ 私たちに教えました。もし愛し合えたら住みよい星になるとおもいます

mogurayama
質問者

お礼

たびたびの回答ありがとうございます♪ ぜひ前回のお礼に書かせていただいた ことについて教えてください!! <何も考える必要はありません(笑)ただ信じてしまえば <いいのです。することはただ2つ聖書を <読むこと、神を信じることだけ 知性や理性を無視した盲信の危険性は、 海の知識をまったく持たずに大海原に旅立つのと 同じだと思います。 もし、キリスト教や神様が信じて初めて理解できる ものだとするなら、信じることよりも理解することや 考えることを大事に考えている人には 永久に理解できないものであるとkatayanさんは 考えるわけですか? おおよその理解や研究を重ねた上で始めて物事を 信頼するという行為は ことキリスト教と神のことにおいて意味をなさない わけですか?

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回答No.55

NO.6,16です。 「神」の存在論が「霊」の話に変わっている みたいですが・・。 霊って存在するのでしょうか? 現在地球上に何十億もの人間が生存していますが 昔はそんなに人口がいませんでした。 今の何十億人分の霊はどこからやってきたのでしょうか? そういう風に考えると霊の存在は怪しくなってきます。 「神の存在論」とは切り離して考えるべきだと思います。

mogurayama
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます!! <霊って存在するのでしょうか? そうですね。私もそう思いますよ♪ この手の言葉は使う人によって定義が様々ですので 非常に扱うのが難しいですね。 ちまたに流れる霊のお話や情報はあやしさ抜群ですね。 ただ神様の存在を話されるのに霊の話をしないと 回答できないという方もいらっしゃるので 切り離せない人には切り離せないと思います。 神様の話をするときにイエスの話をしないと 回答できない方と同様だと思います。 それはそれで私は受け入れます。 また、 回答者の方々にも「自分の神様とどこが違うのかな」とか 「何処が共通するのかな」とかをぜひみてほしいとも思います。

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  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.54

No.34です。 (質問者様の疑問) >霊=精神=知性となるなら「霊」という言葉を 利用する必要はないのでは? そもそも「霊」を国語辞典で調べても出てきません。 英語訳すると、「the soul」「the spirit」となります。 やはり、精神というのが適当ではありませんか。 霊=精神に置き換えれば大体納得して読めますよ。< (回答) 霊と精神とは違います。 霊とは人の本体で人は生前も死後も本質的に霊です。 精神とは、霊が肉体をまとったときに、肉体によって自己を表現するために使用する司令塔のようなものです。 霊は精神より容量が大きく、前世の記憶も、自己の今生における使命や課題も、自分で選んで決定した運命とえわれるものも自覚しています。 肉体においては霊は活動範囲が狭められてしまい、精神が肉体における舵を握っているように一見、見えます。 このことは輪廻転生にかかわり、また複雑な話になってしまいますが、このことを言わずして霊の説明はできません。 精神をコントロールする精神安定剤は、肉体とそれをコントロールしている精神のバランスを整え、スムーズに自己を表現するためのこの世的、医学的手段でしょうね。 (質問者様の疑問) <神はおおいなる霊であり、生命であり、愛であり、 <又ありとあらゆる存在するもののすべてであり給う。 なるほど、tokytimeさんの神様にも精神と人格があるわけですね。 愛の定義は人の作り出した概念です。神様に愛があることを どのように証明できますか。  について (回答) 神の定義; 神とは宇宙を貫く法である。 神とはあらゆる生命の背後にある創造力である。神とは完全な愛であり、完全な英知である。 神とは宇宙のありとあらゆるところに瀰漫(びまん)した存在である。 神はあらゆる生命を満たし、あらゆるものの内部にあり給う。 神はおおいなる霊であり、生命であり、愛であり、又ありとあらゆる存在するもののすべてであり給う。< つまり、神は法則だと思うのです。 自然の摂理であり、輪廻転生、因果応報、科学全てを含めた法則だと思います。 又「愛」という言葉は人が作り出した言葉ですが、人は自然の中又は自己の中に愛の存在を感じ取り、それを「愛」という言葉で表現したのでしょう。 ただ、「神の愛」と人の意味する愛とが等しいとは思えません。 神の愛とは創造力だと思います。 創造し、慈しみ、生かすエネルギーが神の愛だと思います。 つまり神の愛とは人が理解できる範囲で定義するならば、奉仕の愛、他者への愛、許す愛に近いものでしょう。 それ以上の神の愛のエネルギーは偉大すぎて私にはとても表現できませんし、人の言葉の中に表現する手立てがあるかどうかわかりません。 もし、神に人格があるとすれば、それが人が神を理解するときの常套手段といえると思います。(いにしえからの) つまり、人は神を理解するときに自分たちと同じような人格をもった神しか想像できなかったということなのでしょう。 人が神の創造物ならば、当然、人は神の不完全な表現体として在り、完全(な愛)の表現体になるまで進化向上する存在といえると思います。(輪廻転生を通して) ですから神に人格があるというのは、人の狭い視野から見た場合、あながち間違いともいえないかもしれません。 ただ私は神は法則だというほうがしっくりし、理解できます。

mogurayama
質問者

お礼

たびたびありがとうございます。 霊については、 もはや感覚的概念のお話であり 結果から表現されているので ちょっとついていけません(T∇T) ウウウ できれば、その証明がほしいところです。 神の愛についてもやや抽象的です。 No31様の回答でカブトムシの例を書きましたが 神様に人格がある証拠もないです。 かりにあったとしてもそれが、 性格の悪いきまぐれやさんかもしれないのです。 我々の世界は、とてつもなく大きな人達の国の 大学の実験室のビーカーのなかであり その大きな大学生が我々の世界を作っているかも しれません。 それを否定する根拠は我々の内には無いと思います。 神が偉大かどうかは我々には分からないはずです。 いかがでしょうかヽ(´ー`)/

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  • hinode11
  • ベストアンサー率55% (2062/3741)
回答No.53

私の回答No.51に対するmogurayamaさんの質問にお答えします。 【質問】神様に人格はあるのでしょうか。 【回答】人に格があるように、神にも格があります。人の格を人格、神の格を神格と言います。 【質問】あるとしたらどんな人格ですか 【回答】この質問は「あるとしたらどんな神格ですか」と読み替えます。 回答No.51で、私は「神は宇宙の根源的な存在であり、宇宙の主宰者です。」と書きました。しかし、この書き方だけで済ませてしまうと、キリスト教のGODと同じで、神は唯一の絶対的存在である、という事になってしまいます。しかし実は、神は複数存在し、人に個別があるように、神にも個別があります。 人格に高低があるように、神格にも高低があります。人格は、その人の「人間性」、あるいは、その人の「人としての生き方」についての、人間社会での格付ですが、神格は、神の世界での神々の地位です。

mogurayama
質問者

お礼

たびたびのご回答ありがとうございます。 なるほど、神格があると考える方なのですね。 う~む。 <人格に高低があるように、神格にも高低があります。人格は、その人の「人間性」、あるいは、その人の「人としての生き方」についての、人間社会での格付ですが、神格は、神の世界での神々の地位です。 人格に高低があると判断するのは、 「人格に高低あると考える人」の主観的な判断です。 「神格の高低が神々の地位」を我々がどうやって 客観的に判断するのでしょうか。 その源は、結局のところ我々のうちにしか存在せず、 客観的な事実の認識が不可能に思えるのです。 hinode11さんが論理的にこの事実を突き止めたとするなら その筋道を知りたいですね♪ ありがとうございました!!

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  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.52

#41のチャネラーです。 質問へ回答です。 >はどう 【波動】 物質のある点での振動がそれに隣接する部分の運動を 引き起こし、その振動が次々に伝えられてゆく現象。 ちょっとにわかに信じられないのですが・・・ 媒質は何を利用されているのですか。 神様は波動が高いとありますが、縦波ですか横波ですか。波動は高さであらわすのですか。< 回答; この波動は物理的な波動ではないです。 霊的波動は感じるもので言葉に依らない情報の非物理的な流れです。 愛のバイブレーションは精妙で清らかな聖なる細かい波動。 粗野な未熟な人格のバイブレーションは荒い暗い波動。 媒質は霊的エネルギーです。 どのエネルギーの波長に合わせるかによってチャネルする存在が決まるのです。 自分の人格がチャネルする存在を決めます。 未熟な人は未熟な情報を、 聖人は聖なる情報を、 残虐な人は残虐な情報を、 慈悲深い人は慈愛の情報をうけとります。 >霊の意味もちょっとわかりませぬ。 霊的に高い・・・霊にはランクがあるわけですね。< 回答; 霊=人間ー肉体 人に人格があるように霊にも当然霊格があります。 それが霊のランクです。 波動については次の本はどうですか。 ;波動の法則 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9950878381

mogurayama
質問者

お礼

こんにちは♪ チャネラーさんですね。 [チャネラー]:「目に見えない存在とのコンタクトできる人」 なのですね。辞書にない言葉を捜すのは難しいですね♪ チャネラーさんの波動は非物理的すなはち精神的なものなのですね。 言語や聴覚などを使わずに精神を共有できるとは やはり信じられません。 わたしの低次元の妄想を読み取られているとしたら 大変恥ずかしいですね。 <霊=人間-肉体 =精神ですよね。 なるほど精神にランクがあるわけですね。 ですがその比較は人が示す基準ではありませんか。 それと回答中の「人格」って言葉と「霊」って言葉が 混同されているようですが・・・ 「人格」=「精神の格付け」 「霊格」=「精神の格付け」ならば <人に人格があるように霊にも当然霊格があります。 それが霊のランクです。 ちょっと意味がつながらなくなります。 回答ありがとうございました♪

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  • tokytime
  • ベストアンサー率37% (43/114)
回答No.51

No.34です。 お礼中の疑問に対する回答です。 >霊的なものの定義が難しいです。 霊的=精神的ではないと思います。 理性や客観性という言葉はどこに分類されますか。 物質を客観的に見るように 自分の心模様や世界を客観的にみる方々が抜けているように思えます。 <霊的なものを肯定しているか否定しているかによって二者分かれる <否定派=科学オンリー主義 <霊的活動=精神的活動 つまり、この三段論法からすると 霊的なものを否定する方は精神的活動を否定していることになります。 それだけではないと思いますので、 これはちょっと疑問でございまする。 <に対して 霊の定義を要求されているのですね。 私が「精神」、又は「精神的」といった言葉は確かにすべて「霊」、「霊的」という言葉に置き換えられます。 霊の定義まではしなかったので霊アレルギーの方への対処方として精神という言葉をつかいました。 この宇宙には二大要素があると思っています。 「物質的要素」と「霊的要素」です。 「物質」とは霊をつなぎ止めるための要素であり、霊に奉仕する道具であり、従って霊が活動し演じるための舞台です。 「霊」とは宇宙の知的原理であり、知性は霊の本質的な属性です。 霊(例えば魂)と物質(例えば肉体)は全く別物であり、霊と物質の結合があって初めて、物質に知的活動が与えられます。 霊の定義;霊とは被造物中の知的存在であり、これは物質世界の種ではなく宇宙的存在です。 宇宙に存在する二大要素;物質、知性のうち、肉体は物質的要素でつくられ、霊は知的要素によって作られています。 霊とは知的原理の個性化したものであり、肉体とは物質原理の個性化したものです。 精神とは肉体を統御しているものであり、精神を司っているのが霊だと思います。 さて神とは・・(シルバーバーチの霊訓より抜粋) 神とは宇宙を貫く法である。 神とはあらゆる生命の背後にある創造力である。神とは完全な愛であり、完全な英知である。 神とは宇宙のありとあらゆるところに瀰漫(びまん)した存在である。 神はあらゆる生命を満たし、あらゆるものの内部にあり給う。 神はおおいなる霊であり、生命であり、愛であり、又ありとあらゆる存在するもののすべてであり給う。 以上、神を再定義しました。 残りのご質問に関しましては又後日アドバイスさせて頂きます。 参考文献 「霊の書」上下 アラン・カーデック著 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980348836 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4806311758.html 「シルバーバーチの霊訓」全12巻 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4806313866.html

mogurayama
質問者

お礼

こんにちは♪ たびたびありがとうございます。 霊=精神=知性となるなら「霊」という言葉を 利用する必要はないのでは? そもそも「霊」を国語辞典で調べても出てきません。 英語訳すると、「the soul」「the spirit」となります。 やはり、精神というのが適当ではありませんか。 霊=精神に置き換えれば大体納得して読めますよ。 さて霊=精神なら <精神の定義;精神とは被造物中の知的存在であり、 <       これは物質世界の種ではなく宇宙的存在です。 うーむ。ココは分かりかねますね。 精神は、「人間の心」「心のはたらき」であり それが、宇宙的であるかどうかはわかりません。 もしかしたら科学である可能性もあります。 そうでなくては精神をコントロールする精神安定剤は、 完全なまがい物になってしまいます。 <神はおおいなる霊であり、生命であり、愛であり、 <又ありとあらゆる存在するもののすべてであり給う。 なるほど、tokytimeさんの神様にも精神と人格があるわけですね。 愛の定義は人の作り出した概念です。神様に愛があることを どのように証明できますか。

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noname#163144
noname#163144
回答No.50

私にとって神様は自分の中の深いところにある何かです。 神頼みというのは自分を信じるということ、そう考えています。 言っちゃえばこの世は自分を主人公にした物語なんだから。。

mogurayama
質問者

お礼

こんにちは 非常に良いセリフです。ぜひ頂きます。 <神頼みというのは自分を信じるということ、そう考えています。 なかなか言えないですね。 <言っちゃえばこの世は自分を主人公にした物語なんだから。。 たしかに、思いっきりナルシストに生きたくもなりますね。 それぞれの人にとって他の誰でもない私の物語ですもんね。 回答ありがとうヽ(´ー`)/

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    ふと疑問に思ったことがあるので質問させてください。 神様の存在についてです。 私は特に信仰している宗教はありませんが、ギリシャ正教会に属する方との交流が過去にあり、そこから沸いた疑問になります。 私は無宗教といえど、物心ついたころから神様という言葉を耳にし、ああ、もしかしたらいるのかもしれないなと思いながら育ち、今に至ります。 ただ、そういう認識に至るまでには言語習得であったり、教育であったり、何かのきっかけや、条件があったように感じられます。またそれらは神様を認識するにあたり必要不可欠なのではと思うようになりました。 そこで、です。 例えば特殊な環境で育った赤ん坊がいたとします。両親どころか、まったく人の手で育てられておらず、言葉も話せません。(例えなのでこういう環境で人間が生き延びることができるかは、問題にしません) そういった特殊な人間も、いずれは神様の存在について意識が芽生えるのでしょうか。ぼんやりとした概念のようなものが頭に浮かぶのでしょうか。 神様というのは、全知全能で普遍的だと聞いたことがあります。 ですが、もしその存在を私たちがある一定の条件のもとでしか認識できないのであれば、これは全知全能で普遍的といえるのでしょうか。 考えれば考えるほど、神様の存在は限定的に思えてしまいます。 神様の存在と、こちらからの認識や観測を結びつけてしまうのは、そもそも間違いでしょうか。

  • 自分が頭に描いている神で良いのでしょうか?

    皆さんこんにちは。 宗教、哲学、素人ゆえよろしくお願いいたします。 私は無宗教者なのですが、無神論者ではなく、 熱心ではないのですが、神の存在は信じています。 その理由は、以前、自分の周りで奇跡を感じたこと。 それと、自分を含めた、人の力ではどうしようもない 事に直面したときなど、必ず神頼みをしていること。 つまり神の存在を認めている。と、いうことです。 しかし、神の存在を信じるのはいいのでしょうが、 神様ってたくさんいるのではないでしょうか? 私の場合は無宗教のため、特定の神がいないので、 ただ漠然と自分が頭に描いてる神で良いのでしょうか? それとも教会でも行ったほうがよいのでしょうか? ちなみに私は聖書は持っていますが、エホバの証人 の知人から譲り受けたものです。 何卒よろしくお願いいたします。

  • 全知全能の神はいるのか??(2)

    どうも。 「全知全能の神はいるのか?」という質問があります。 これは宗教的な意味では無く、「全知全能の神は存在しえるのか?」という意味です。逆に言うと全知全能の神が存在し得ないなら宗教的な「全知全能の神」はいないということの証明にもなりますけども・・・。 ここでよくある話で自分の持ち上げられない山をつくったら全知ではないという話です。 ここらへんを中心に・・・さぁ存在できるのでしょうか?

  • あなたの中の神様?

    あなたの中の神様? 宗派に関係なく宗教に入っている方、宗教には入っていないけれど『神様』を信じている方に質問です。 あなたの中の『神様』とは、どんな存在ですか? あなたが信じている・感じている事をそのままお答え頂けると嬉しいです。 ・・・ちなみに私は無宗教ですが何となく「神様とか本当におったら面白いのに。」と思ってます。

  • 神は存在しない、神は「妄想」です!

    従来から、神の存在証明には、以下の3つがあります。 (1)自然神学的証明(一名、目的論的証明) これは生物の仕組みがものすごく精巧にできていることから、このような生物は神がいて、その神が設計図を引いて創ったに違いないと推論し、神の存在を証明しようとしたもの。 カントは確かに生物の仕組みが合理的に精妙にできているのは確かだが、だからと言って神が存在するとは言えない、と批判しました。 ダーウィンの進化論では、生物は長い歳月をかけて、現在の精密な仕組みを作り上げたことが分かっていますので、この証明は今では無効です。 (2)宇宙論的証明 これはアリストテレス、トマス・アクィナスの証明と言われるもので、以下のようなものです、 「この世には運動するものがあるが、それには原因がなければならない。そして原因があれば、その原因も結果であり、さらに原因の原因がなければならない。しかし、原因の原因も結果としたら、さらに原因の原因の原因もなければならない。かくて原因の系列は無限にさかのぼってゆく。しかし、人間は無限にさかのぼることはできないから、どこかで初動者とか、第一原因に突き当たらざるを得ない。その初動者とか、第一原因と言われるものが神である」と。 しかし、無限にさかのぼるということは、行けども行けども果てしがないということであり、どこにも行き着かない、ということです。 アリストテレス、トマスは初動者とか、第一原因に突き当たるというけれど、突き当たりません。 だから、この証明は間違いです。 (3)存在論的証明(一名、本体論的証明) これは一切の経験を除外して、ただ概念のみから最高存在者の存在を推論するもの。 以下のものがあります。 聖アンセルムスの証明。 「神は全知全能、完全無欠の存在である。全知全能・完全無欠の中には、存在も含む。もし、存在を含まなかったら、神の全知全能・完全無欠という定義に反する。よって神は存在する」 デカルトの証明。 「この世に存在するすべてのモノは偶然の存在である。偶然の観念があれば、必然の観念もなければならない。しかるに神は必然の存在である。よって神は存在する」と。 この証明に対しカントは「純粋理性批判」の「神の存在論的証明の不可能の理由について」で、以下のように批判しました。 「神の全知全能・完全無欠というのは、神の述語である。しかるに存在は述語ではない。だから、神がいかに全知全能・完全無欠と言ったからと言って、神が存在するとは限らない」と。 つまり述語とは、もともと主語に含まれた性質なり属性を外に展開したもの、いわば分析判断ですが、しかし存在は主語に含まれた性質でも属性でもない、主語に何ものも加えない、ということ、いわば総合判断です。 アンセルムスの証明は存在を主語に含まれると言っているが、それは分析判断と総合判断をごっちゃにするもので、間違い。 デカルトの証明は、観念としてあるものは実在してもある、と主張するもので、観念があるからと言って実在があるとは限らない、という意味で、間違い。 こうして神の存在証明には、従来3つしかありませんが、そのことごとくをカントは批判し、これをもって西欧の長い神の存在証明の歴史に終止符を打ったとされます。 現在、神は道徳的な行為の元に価値として、あるいは信仰の問題として残っているだけです。 みなさん、どう思いますか? 確認質問です。

  • 神とは何ですか?

    902さんの質問「神は死んだ。」のなかで神の定義が話題になっています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=75125 「神を信じますか」という問いは、よくもちだされますが、問う人も 問われる人も、神という言葉の意味・定義・解釈・語感が、まったく まちまちであるという感想を昔から持っていました。 皆さん、神とは何だと思われますか。 学問的な答え、個人的な考え、もちろん宗教的な教えも、 なんでもいいです。いろいろ聞かせてください。

  • 貴方にとって神とは何処のどの様な存在ですか?

    皆さんに質問です。クリスチャンの方、仏教徒の方、無宗教の方に限らず 皆さんに質問です。 貴方にとって神とは何処に存在するどんな存在ですか? 例えば宇宙にいる真理とか、そばに寄り添う優しい存在とか 簡単でいいので教えて下さい。 私は「神」の興味があります。よろしくお願いします。

  • 神は信じるのに霊を信じない人

    私の彼はクリスチャンで、イエスに深い信仰がありますが、幽霊は一切信じないそうです。私は、神よりもむしろ霊のほうが信じやすいのに、何故霊は信じないのかな~と疑問を感じております。霊の存在を証明するようなものって世界に沢山存在していますよね。でも神の存在を証明するものはありませんよね。 別に霊を信じなくてもいいのですけど 単にすごく疑問なんです。 私が彼に、みたこともないのにどうして神を信じられるのかと興味本位で聞いてみたところ、自分でもよくわからないがスピリチュアルな何か、だそうです。 神を見つけることができた、と言っています。 幽霊だってスピリチュアルな何かだよなーって思いながら聞いていました。 もちろん神と霊は全く別物であることは理解していますが。 愚問で恐縮ですが皆様のご意見お聞かせください。