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越前松平家と会津松平家
ajihiraの回答
難しい質問です。他の方も仰っていますが一概には言えません。 両家とも徳川家の家門大名として扱われていますが、家康との血縁の近さでは、No.2の方が指摘されているように、越前松平家が上と考えるべきです。 極位極官(例外もありますが、その藩の藩主がもらえる最高官位)では、会津越前家は「正四位下近衛中将」越前松平家は「従四位下近衛少将」ですので、会津松平家が上とも考えられます。 また、江戸城に登城した際に控える部屋「伺候席」で考えると、越前松平家は「大廊下下の間」(ちなみに上の間は御三家、下の間には加賀前田家)です。会津松平家は「黒書院溜間」(この部屋の定席大名彦根井伊家、会津松平家、高松松平家)です。 「伺候席」は、将軍家との親疎の差、武家官位、石高などで決められ、多分に名誉的なものでした。将軍家との親疎の差で考えれば「大廊下」が最高格式とも考えられますが、一方、「黒書院溜間」は特別な存在でした。「黒書院溜間」大名は、 ・将軍や老中の諮問を受け直接幕政に参与する。 ・将軍家の名代として、天皇や上皇に拝謁する。 ・将軍家の名代として、紅葉山霊廟や日光東照宮へ参拝。 ・将軍家代替後の武家諸法度発布の際に、御三家に続き将軍家から直接頒布される。 ・月次御礼の拝謁は御三家とともに黒書院でした。(他の大名は白書院) と、特権が与えられています。これらの点から考えると、「黒書院溜間」の格式の方が高かったとも考えられます。 以上から考えると、家康との血縁の近さから考えると越前松平家とも考えられますが、実際の待遇を考えると会津松平家の格式が上とも考えられます。 私の私見としては、実際の待遇を手厚く受けていた会津松平家を上と考えたいところですが…
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