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平氏への不満

平氏政権の衰退とともに、源氏が蜂起しますが、その前の段階で、平氏政権に対する朝廷や寺社勢力をの不満は具体的にどのようなかたちで現れてたのか教えてください。 院が平氏に対して不満を拡大させたのは、平氏一門が政権を掌握していたからだと思うのですが、なぜ興福寺・東大寺といった寺社勢力が平氏に反感を抱くのかぜんぜんわからないのです。明確に知りたいです。お願いします。

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  • milkbin
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回答No.2

反平家的な公家をすべて解任し、親平家の公家を登用し、後白河法皇を幽閉し、高倉天皇を退位させ、清盛の孫の安徳を即位させた治承のクーデター等により、平家への不満は徐々に高まりつつありました。 治承四年四月、後白河法皇の第三皇子以仁王は、源頼政と共謀して平家追討の「令旨」を全国の源氏に発し、挙兵をうながしました。しかし、ただちに平家の耳に入ってしまいます。この令旨に対し、すぐさま平氏は頼政・以仁王追討のために、兵をやります。その動きを知った頼政は、以仁王とともに三井寺に逃れ、延暦寺と興福寺に援助を求めます。しかし延暦寺には拒絶されたため奈良の興福寺に向かいますが、平等院についたところで平知盛(清盛の4男)らに追撃され、宇治川を挟んでの合戦の末頼政は討死。以仁王も光明山鳥居の前で朽ち果てます。このクーデターにより、以仁王に荷担した三井寺は清盛の命を受けた、平重衡によって焼き払われ、同時に、反平家勢力であった東大寺・興福寺ともに、焼き討ちにあいます。その際に、東大寺の大仏までも焼け落ちたため、寺社・世論の厳しい非難を浴びる事になります。 平家への不満が極端に高まる最中、清盛は三井寺と同じ天台宗の延暦寺、また反平家の公家たちの不穏な動きを察し、平家体制を万全にするため、桓武天皇が都を平安京に定めて以来三百八十余年、天皇さえなしえなかった遷都を、人臣の身である清盛主導により行います。これにより、平家への不満は頂点へと達します。 前々から「都うつり」の噂はあったことは事実のようですが、突然、清盛主導により治承四年六月二日に安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇は福原に行幸し、清盛や平頼盛・教盛の第宅を御所としました。 しかし、ここまで横暴を極めた平家一門も、富士川の戦いで水鳥の羽音に驚いて撤退するという醜態を晒します。さらに清盛は、以仁王に協力的だった興福寺の動きを察し、11月、京都に遷都。そして、12月には南都に平家の大群を派兵・焼き討ちにし、都周辺の反平家勢力の動きは鎮静化させたが、南都焼き討ちは清盛にさらなる仏敵の汚名を着せる一方、平氏一門が追い詰められていく様が露呈される結果となります。 以後、弱体化の一途を辿る平家をよそに、源頼朝は鎌倉で武家政権の設立をはじめ、平家方との戦いは弟の源義経らが行う。 以上が、一連の平氏一門に対する不満の推移です。 ご参考になれば幸いです。

senta2003
質問者

補足

理解しやすい説明、ありがとうございました。ひとつ疑問ですが、「さらに清盛は、以仁王に協力的だった興福寺の動きを察し、11月、京都に遷都」の部分の興福寺の動きとは、どのようなものだったのでしょうか?

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その他の回答 (1)

  • Bird1979
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回答No.1

>なぜ興福寺・東大寺といった寺社勢力が平氏に反感を抱くのか 明確な答えになるかどうかわかりませんが、 清盛と後白河法皇の関係は、大変微妙で、時には連携し時には対立します。もともと清盛は後白河院政の軍事責任者として台頭してきます。 そのため、院への南都・北嶺の強訴を鎮圧する責任者でもありました。したがって南都・北嶺とはしばしば衝突します。(長子、平重衡も院近臣として僧兵の乱暴狼藉を取り締まる任にあり、興福寺の強訴の際には郎党が春日大社の神輿に矢を放ち、この処分を巡ってもトラブルが発生します。) 以仁王の平家追討院宣に際しては、以仁王は園城寺に入り、延暦寺との連携を模索しますが、準備不足で画餅に帰します。 しかし、反平氏の流れに決定的だったのは「福原遷都」でしょう。南都・北嶺は奈良時代よりこのかた「王城鎮護」「鎮護国家」の寺として 、朝廷・貴族によってあつく保護されてきました。平安京は寺院にとっても「侵してはならない」地でした。それが、清盛によって福原遷都という形で無視・破壊されてしまったわけです。数百年にわたって維持されてきた権威に、いわば「唾をかけた」ということで、寺院勢力の反発は相当のものであったといえます。 一般的に、旧勢力は新興勢力の台頭に危機感・敵対心を持ちますが、平氏と寺院勢力の間にも、同様な関係があったと思われます。(また、これは推測ですが、大寺院の管主・門跡には皇族や貴族から入ることも多かったので、院・朝廷との距離が近かったため、基本的に反平氏ということもあるかもしれません。)

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