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平氏への不満

Bird1979の回答

  • Bird1979
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回答No.1

>なぜ興福寺・東大寺といった寺社勢力が平氏に反感を抱くのか 明確な答えになるかどうかわかりませんが、 清盛と後白河法皇の関係は、大変微妙で、時には連携し時には対立します。もともと清盛は後白河院政の軍事責任者として台頭してきます。 そのため、院への南都・北嶺の強訴を鎮圧する責任者でもありました。したがって南都・北嶺とはしばしば衝突します。(長子、平重衡も院近臣として僧兵の乱暴狼藉を取り締まる任にあり、興福寺の強訴の際には郎党が春日大社の神輿に矢を放ち、この処分を巡ってもトラブルが発生します。) 以仁王の平家追討院宣に際しては、以仁王は園城寺に入り、延暦寺との連携を模索しますが、準備不足で画餅に帰します。 しかし、反平氏の流れに決定的だったのは「福原遷都」でしょう。南都・北嶺は奈良時代よりこのかた「王城鎮護」「鎮護国家」の寺として 、朝廷・貴族によってあつく保護されてきました。平安京は寺院にとっても「侵してはならない」地でした。それが、清盛によって福原遷都という形で無視・破壊されてしまったわけです。数百年にわたって維持されてきた権威に、いわば「唾をかけた」ということで、寺院勢力の反発は相当のものであったといえます。 一般的に、旧勢力は新興勢力の台頭に危機感・敵対心を持ちますが、平氏と寺院勢力の間にも、同様な関係があったと思われます。(また、これは推測ですが、大寺院の管主・門跡には皇族や貴族から入ることも多かったので、院・朝廷との距離が近かったため、基本的に反平氏ということもあるかもしれません。)

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