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第二次世界大戦の参戦国と終戦日
第二次世界大戦で戦勝国は英米仏で、敗戦国は日独伊なのは知っています。 しかしフィリピンの島が戦闘地になっていたという話しを聞いた事があります。 フィリピンも参戦国ですか? フィリピン以外でもドコの国が参戦していて、勝敗はどうなっているのでしょうか? この第二次世界大戦の終戦は日本以外でも原爆を落とされた日が終戦日なのでしょうか?
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- flashprim
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真珠湾攻撃によって空軍力を失ったマッカーサーはマニラを非武装地帯に宣言して、日本軍は無血上陸しました。フィリピン守備兵力は3万6000人、日本軍兵力は25万人の大差により、フィリピンは陥落しました。フィリピン人軍属8000人は武装解除されました。植民地人は植民地主義国になつきます。生活理由が大半です。終戦日本の人々、特に子供たちがGHQになついたように。 日本から観ると盲点ですが、米国の参戦理由の大半はドイツに蹂躙される英国を援助するためでした。これは英国の高関税で苦しんでいた貿易を有利にするためです。米国の兵力のほとんどは南洋諸島ではなく、欧州に向けられていました。英国、仏国、オランダ、しかりです。日本はそれら「軍事力的弱小国」に対して「破竹の勢い」で攻略していきました。世界大戦を経験したのは米国一国でしょう。米国は太平洋戦争、日本にとっては大東亜戦争がしっくり来る呼び名です。 終戦後、米国は日本を手中に収めるために米国が持つ軍事力、資源力(あめとムチ)を背景に、連合軍諸国に対して戦時法によって規定される戦後賠償を「自発的に」放棄するよう迫りました。戦後賠償の代わりに二国間協定による「講和」をもって、すなわち(戦時法規則に縛られない)外交によって解決するようサンフランシスコ講和条約によって規定したのです。これに対して異議をとなえ、SF条約に参加・調印しなかったのが、インド、ビルマ、ユーゴスラビアで、これらの国は日本の主権を蝕むGHQの日本からの撤退を要求するために参加しなかった。ソ連、チェコスロバキア、ポーランドはSF条約を米国の帝国主義として非承認・調印しなかった。 政権未承認交戦国である中国に関しては、毛沢東の中国共産党が支配する中華人民共和国を呼ぶか、蒋介石の国民党が支配する中華民国(重慶政権)を呼ぶかで、イギリスとアメリカの間で意見が割れたため、招請状がどちらにも出されなかった。終戦しばらくして、日本は中国市場に対して経済的興味があったが、米国が中国に対して敵視政策(レッドパージ)をとるのでそれに習い、中国(現中国)と国交を樹立せず、蒋介石政権である中華民国(台湾)と国交、経済関係を米国と共に継続した。もともと1853年、1854年の米国のペリー来航は中国との貿易のために日本を中継基地にするのが目的のためであり、米国の資本家がしびれを切らし、議会に働きかけて、当時、大統領であったニクソンは1972年に中国に訪中し、「ピンポン外交」を足がかりにして、米中平和五原則を締結した。これを聞いてあわてたのが寝耳に水の日本政府で、同年の9月に田中角栄、大平外相が急遽、訪中し、台湾との国交を切り捨て、日中共同声明を発表した。中国は当時も貧困国で餓死者が相継いでおり、貿易によらなければ国を存続させることが出来なかった背景にある。賠償問題がつまずきになると日中国交が締結されえないために、賠償を放棄する旨を共同声明に盛り込むことを認めた。日本政府は賠償を放棄した中国に対して恩義報いるのが筋であると内閣閣僚間で討議し、中国に対して「経済協力」を申し出たのが、対中ODA(政府開発援助)の発端である。中国が日本が行っている対中ODAと謝罪回数を、中国国民に故意に知らせていないのは、日本政府にとっては周知のことであり、長らく放置しているのは、中国政府に対して「刺激」ない方法が立案できない理由による。これは古来からの日本民族の特有の「欠陥」であり、例えば、1268年の元寇時にフビライ・ハーンは国書(一説には親善友好の親書)を日本政府に送りつけたが、「放置・無視」、1853年のペリー来航時に国書を日本政府に受領迫るが、日本幕府は返答を翌年にのばし、1858年には、大老・井伊直弼は、直接アメリカの初代総領事ハリスとの交渉に当たっていた海防係に「なるべく延期を申し入れ、それが受け入れられない場合には調印しても良い」という指示を与えた。幕府はハリスとの通商条約調印を延期し続け、幕府側の事情を知るハリスも延期に応じていたが、「この国の責任者は誰なのか」と言ってハリスが怒るほど決断できず、1945年の終戦間近では、米国からのポツダム宣言を日本は仲介国模索を理由に「黙殺」を決め、原爆が投下された。日本は外交が下手というより出来ないのである。常任理事国入り問題にしても、日本は、1993年6月に宮沢首相は「求められれば常任理事国の任務を全力ではたす」と外国報道のインタビューに答えておきながら、1993年7月に米国と英国は日本とドイツの常任理事国入りを正式に提案したにもかかわらず、1993年8月に発足した細川連立政権は大国に翻弄されることを懸念し、「日本から積極的に手を挙げない」と避ける有様である。ODA(政府開発援助)は日本国の対外戦略として継続されており、その戦略とは諸外国からの日本イニシアチブに対する「国際的支援(同意)」を取り付けるためである。常任理事国入りの支援を取り付けなかった外交能力は憂慮すべきことなのである。(島国ゆえに、歴史が「外交感覚」の醸成を許さなかったのか。) 戦後賠償の色合い大きいODAであるが、あくまでも「経済協力」として、ODAを二国間は締結している事を忘れてはならない。 日本は他国個人からの賠償請求を「決着済み」として撥ね付けている。米国は世界からの日本国とドイツに対する個人的賠償請求をカリフォルニア州裁判所にて窓口を設けて、今なお撥ね付けている。米国退役軍人からの日本に対する賠償訴訟が起こされた今年、ブッシュはイラク戦争からみで慌ててこれを「揉み消した」。 戦時国際法は法科学において照らしてみれば、国対個人の賠償を認めて、その請求権利を認めている。SF条約はあくまでも米国の威圧によって成立し得るものであり、双子の赤字を抱える米国(米連邦準備制度理事会議長は今年9月に「米財政赤字は制御不能」発言をする)がその「米国の栄光」が凋落した場合、国際世論の必然的・道理的な社会法則により、賠償問題が噴出し、SF条約は無効・破棄され、日本は賠償問題で破滅する、または破滅的打撃をこうむることを、予言して私の発言を終えることにする。 ※蒋介石は、8月15日、重慶放送を通じて、負けた気がせずに激昂する日本軍に降伏を呼びかけました。このとき彼は、でまかせに「徳を以て怨に報いる」と諭し、それが「以徳報怨」演説として有名になり、蒋介石の聖人伝説が生まれ、「天皇救済」、「日本分割阻止」、「賠償放棄」を捏造し、日本のメディアはこぞってこの「美談」を書き連ね、日本国民を惑わしました。 ※当該戦時国際法は国対国の賠償がしかるべきのものであり、国対個人ではないとの主張が通説であるが、法科学はそれを否定する。 ※「北朝鮮に対する戦後補償は未決着」は、日本政府公式の見解でもある。私と議論するよりは、政府に問い合わせるほうが、早道である。
- tatsumi01
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No. 1 へのお礼に書かれている中国の件。 ABCD包囲網はご存じですね(映画「パッチギ」で「Aはアメリカ、Bはイギリス、Cは・・・静岡」と笑いを取る場面がありました)。 でも戦争した相手(C)は中華民国です。もちろん、戦勝国です。蒋介石が「罪を憎んで人を憎まず(?)」のような名文句を述べて賠償を放棄しました。現在の中華人民共和国の建国は戦後ですし、賠償放棄宣言の関係からか賠償は正式には持ち出しませんが、戦勝国の立場は堅持しています。
- nourider
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みなさんおっしゃる通りです、フィリピンは当時アメリカの植民地でしたから独立国ではありません。 しかしフィリピン国民の戦死者の殆どはアメリカ軍の攻撃で死にました、マニラ市街には世界史上最大の艦砲射撃が行われ、実に100万人が死んだと言われていますが、いかに領土を取り戻すためとはいえ、アメリカ人の住む街だったらそんな無茶な攻撃はしなかったであろうことは容易に想像できます。 アメリカ人はフィリピンの権益を取り戻すためにフィリピン人の命など頭に無かったのです。
- k99
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http://mltr.e-city.tv/faq08h.html#02383 より。 【質問】日本が米国に布告したのを見て、他の国が日本に宣戦布告ということってあったのでしょうか? 【回答】あった. 対日宣戦布告の流れ 1941年 アメリカ,イギリス,オーストラリア,ニュージーランド,カナダ,南ア連邦,コロンビア,エルサルバドル,コスタリカ,ドミニカ,ニカラグア,ハイチ,グァテマラ,ホンジュラス,パナマ,オランダ,キューバ,ベルギー 1942年 メキシコ 1943年 イラク,ノルウェー,ボリビア 1944年 リベリア,フィンランド,ルーマニア,ブルガリア 1945年 エクアドル,ペルー,パラグアイ,ベネズエラ,ウルグアイ,トルコ,エジプト,シリア,レバノン,イラン,サウジアラビア,アルゼンチン,スペイン,チリ,デンマーク,ブラジル,ギリシャ,ソビエト連邦,モンゴル 以上引用。 ただし、上記宣戦布告国でも実際の対日戦に参加していない国も沢山あります(トルコなど。リベリアとか、サウジアラビアとかレバノンとかも多分実際の交戦行為には及んでいないと思われます) 時期別に見れば、戦争初期には実際の交戦国と既に独と戦闘状態に入っていた国、米国と防衛上密接な関係のある中南米の国家群が多く 末期には枢軸から離脱・脱落した国や中立から旗幟を改めた国が多くなります。 また、フィリピンは41年の段階ですでに46年に独立することが日程化しており、独自の軍もありました。フィリピンに於ける日米戦では、米軍と一体化して戦火を交え「米比軍」と呼ばれることがあります(日本載せ占領後も一部がゲリラとして武力による抵抗を行っています)。が、当時の地位はあくまで自治領でした。 各国の対日戦勝記念日は正確には各国によって異なるでしょうが、日本が降伏文書に署名した9月2日とする国が多いようです。原爆の投下日は依然として戦争状態が続いており、いわゆる「終戦記念日」は玉音放送が行われ、日本国民に対し降伏の旨が伝達された日です。 玉音放送は当時の国民にとってはインパクトの大きい「イベント」であったため、本来の降伏文書署名日より終戦した印象が強かったため、この日が日本における終戦記念日になりました。しかし、この日から2週間近くソビエトによる日本攻撃が続いています。
- flashprim
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8月15日が終戦日と思われていますが、戦時法的かつ史実としては、ポツダム宣言を受領した1945年8月14日深夜が「停戦日(降伏日)」で、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約調印日が「終戦(日」)となります(調印に参加した国々)。 では1951年9月8日までは何なのかと言いますと、ポツダム宣言の規約の本の戦勝国代表による「統治期間」となります。一部では日本は無条件降伏ではなく条件降伏したのだと言うわけの分からない論をもってそう主張するものがいますが、戦時法では降伏下による「統治」を認めています。興味があれば「無条件降伏」を調べてみてください。 日本に対して宣戦布告した国は、参戦したその日を問うことは、無謀な日本をかんがみれば無意味ですので、ただ列記すれば、 アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、南ア連邦、コロンビア、エルサルバドル、コスタリカ、ドミニカ、ニカラグア、ハイチ、グァテマラ、ホンジュラス、パナマ、オランダ、キューバ、ベルギー、メキシコ、イラク、ノルウェー、ボリビア 、リベリア、フィンランド、ルーマニア、ブルガリア、エクアドル、ペルー、パラグアイ、ベネズエラ、ウルグアイ、トルコ、エジプト、シリア、レバノン、イラン、サウジアラビア、アルゼンチン、スペイン、チリ、デンマーク、ブラジル、ギリシャ、ソビエト連邦、モンゴル となります。 フィリピンには1941年12月8日の真珠湾攻撃の日に東南アジアの資源地帯であるフィリピンのダバオにも爆撃をしたことから端を発します。日本とフィリピンとの間の賠償協定は1956年7月23日に締結されます。フィリピンは1898年に米国の米西戦争によりスペインより2千万ドルと引き換えにキューバ,プエルトリコ,フィリピン,マリアナと奪取した植民地のひとつです。植民地ゆえにフィリピンは参戦国となりえませんでした。フィリピンはマッカーサーの管轄で、日本軍が奪取する寸前に、「早逃げのマック」と陰口を聞きながらマッカーサーはオーストラリアーへ逃げています。死者数は昔のことゆえ賛否両論ありますが100万人以上となっています。1943年、日本占領下においても米国の認可の本、独立宣言をしています。1944年10月に米軍が上陸を開始しました。このときマッカーサーと新米フィリピン大統領が駆逐艦上において戦況を見守っています。 戦勝国とは参戦国、あるいは参戦した国となります。賠償対象国とは違うことにご注意ください。賠償は日本(当時、国連の常任理事国)も批准していた戦時法によりその義務が発生します。サンフランシスコ講和条約では戦勝国が日本に対して賠償要求することを保証していません。米国は戦勝国に対して賠償権を放棄することを求めました。これはあくまで米国の国益が理由でした。もちろん第一次世界大戦後のドイツの振る舞いを反省したことが表向きの理由です。イラク戦争を見れば分かることです。 現在、ロシアに対して平和(講和)条約を締結しておらず、狭い観点から見れば日本は今なお、ロシアからすれば「降伏状態」であることに注意しなければなりません。これを知っている日本人の少なさに驚愕します。そして賠償が今なお終了していない国は北朝鮮があげられます。これを知っている人も少ない。これら政治に関する無知の批判はここでしてもしょうがないことです。
お礼
こんなにも多くの国が参戦していたんですね。 日本やドイツが戦争していた風景は想像出来るのですが 南米や中東が参戦していたのは全く想像出来ません。 回答ありがとうございました。
- tatsumi01
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No. 1 ですが補足しておきます。 日本が降伏を決定し、連合国に通達したのは1945年8月14日です。 アメリカの戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印したのが9月2日です。 8月15日は国際的には何の意味もありません。日本国民(朝鮮半島や台湾も含む)が降伏を知った日です。
- Zozomu
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>この第二次世界大戦の終戦は日本以外でも原爆を落とされた日が終戦日なのでしょうか? 日本でも終戦日と原爆投下日は別ですよ 広島原爆投下 1945年8月6日 長崎原爆投下 1945年8月9日 日本降伏 1945年8月15日(この日が終戦とされています。) 第二次大戦参戦国は日独伊英米仏のほかにオーストラリア・ネーデルラント(オランダ)・ソ連・中国があります。 フィリピン等は、当時イギリスの植民地だったはずなので国としては扱われていません。 基本的には枢軸軍3ヶ国最後の国である日本が降伏した1945年8月15日を持って終戦でよいと思います。 ヨーロッパはドイツの降伏で戦火は下火になっているのでドイツの降伏をもって終戦と言う考え方もあるようです。 また、ポツダム宣言の受入・調印をもって終戦と言う考えもあるようです。
お礼
フィリピン等の植民地だった国も含めた場合 参戦国というか戦闘地域はドコなんでしょう? 回答ありがとうございました。
- tatsumi01
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参戦国は識者の回答を待つとして。でもフィリピンは独立国ではなかったので参戦していなかったでしょう。サンフランシスコ講和会議で署名国が山のようにあり、こんな国と戦ったの?という感じでした。 終戦日は日独伊でそれぞれ違うと思います。日本の場合は1945年9月2日です(8月15日ではありません)。 時差の関係その他で外国では違うかも知れません。中国では9月3日を戦勝記念日(名称は違うかも知れません)として祝うようです。
お礼
米が勝って日独が負けたのは分かりますが 中国は何をもって戦勝国となったのでしょう? 回答ありがとうございました。
お礼
対日宣戦布告という事はこれらの国々は日本とは敵対関係にあったのでしょうか? そんな時代もあったんですね。 回答ありがとうございました。