• 締切済み

「挨拶」が使われる以前の大和言葉は?

 「挨拶」という言葉が前から気になっていました。まず第一に、漢字です。この語の中で以外は使われたのを見たことがありません。辞書で調べてみると、「挨」も「拶」も「押す」という意味のようです。  それで、禅宗で、師が弟子の修行の進み具合を試すために問を発し、弟子が答える、この繰り返し、つまり禅問答をすることを「挨拶」と言っていた様です。この禅宗のいわばテクニカルタームが、一般の人たちの中に取り入れられて、社会生活や人間関係を円滑にするために行っているあのやりとりを表現する言葉として使われるようになったらしいことが分かりました。  さて、私の教えていただきたいことは次のとおりです。こんな語が、幼稚園の子供でも知っている日常語として使われるようになったのが不思議でならないのです。この語が一般の人に使われるようになる以前は、あの行為をいったい何という言葉で表現していたのでしょうか。もしなかったのなら、「挨拶」がこのように広く普及したのは理解できます。もし何らかの言葉があったのなら、置き換わった理由として考えられることも、教えていただけると幸いです。  よろしくお願いします。

みんなの回答

  • bari_saku
  • ベストアンサー率17% (1827/10269)
回答No.2

100%推測で、自信はまるでないのですが・・・。 「挨拶」というのは身分の上下にかかわらず使える言葉ですよね? でも昔は身分制社会でしたから、 (1)身分が上の者が下の者に会った場合 (2)その逆 (3)同じような身分の者に会った場合 と「挨拶」に相当する言葉は最低3種類あったのではないでしょうか? たとえば(2)なら「謁見」「拝謁」がイコール「挨拶」になるとか・・・?

noboru127
質問者

お礼

ありがとうございました。しばらくコンピューターに触らなかったので、お礼が遅れました。 私も、身分制との関連を考えていました。だから、現在使っているような意味での「挨拶」という語を必要とする範囲も少なかったし、同じ身分同士であの行為が行われた場合でも、特にそれを表す語がなかったのかな、と考えていました。お答えをいただいて、さらにその思いを強くしました。 お礼代わりになぜこのような質問をしたのかを、別稿で回答の形をとった、「ありがとうございました」という回答をお読みください。

noboru127
質問者

補足

「回答の形をとって、なぜコンな質問をしたのかを別稿で書きます」と書いたのですが、ここに書きます。 ありがとうございました。 「挨拶」と言う言葉が普及して、こどもでも使う言葉になったのは、明治時代に学校が出来てからではないかと、同僚から指摘されました。きっとそうなのでしょう。しかし、私の疑問(一体あの行為は何という言葉で表現されていたのか?)は謎のままです。やはり私の推測通り、ぴったりする言葉がそれ以前はなかったのではないか。だから、こんな難しい言葉が、すっと浸透していったのではないか。 実は、今、存在すると便利な言葉がその言語にないために、思いも掛けないような外国語が使われる例をいろいろ集めています。発端は、なぜフランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、ルーマニア語などロマンス諸語で、英語の "east, west, south, north" が使われている(もちろん少しなまって)のかを考察したことでした。色々調べたり考えたりした結果、次の仮説を立てました。ラテン語以来、ロマンス語には東西南北を専用に表す語がなく、他の語を利用して表していた(「小熊座」で「北」を、「正午」で「南」を、等々)ためである。 それで、そうした例を日本語でも探してみようとしていたのでした。最初に見つけたのは、「洗濯」でした。この語は中国人でもほとんど知らない語のようです(なにか特殊な儀式に関する言葉のようです。)しかし、室町時代には普通の日常語として使われるようになっている。こんなとんでもない外国語が誰でも使う日常語として定着したのは、「衣類を洗う」という行為をぴったり表す語がそれまでなかったからではないか、というわけです。 そして、「挨拶」です。この禅宗の専門用語が今のように日常語として、定着したのも同じ理由ではないか。私の質問の背景はいじょうのとおりです。ご協力ありがとうございました。

noname#25358
noname#25358
回答No.1

 特になんとも言ってなかったと思いますよ。  たとえば、「パソコンに詳しい人が初心者に教える」という行為は、最近よく見られるようになりました。  でも、この行為自体を専門的に扱う単語ってないですよね。「パソコン指南」「パソコン指導」「パソコン教室」なんかも、どれもいまいちパッとしませんし。  でも、逆になくても別に困ってないですよね。  ですんで、「声をかける」とかそういう感じで言ってたんじゃないでしょうか。  母親が子供に「挨拶しなさい」と言うところを、「道で人に会ったら一言声をかけなさい」と言っても何ら不自由はないっちゅー寸法です。

noboru127
質問者

お礼

ありがとうございました。しばらくコンピューターに触らなかったので、お礼が遅れてしまいました。 私も,ぴったりした言葉はなかったのではないかと思っていました。お答えをいただいて、その意をさらに強くしました。 お礼代わりに、なぜこのような質問をしたのかを、別稿で、「ありがとうございました」のタイトルで、回答の形をとって、書きました。よろしければ、お読みください。

noboru127
質問者

補足

お礼の欄で「回答の形をとって、なぜこんな質問をしたのかを別稿で書きます」と書いたのですが、ここに書きます。 ありがとうございました。 「挨拶」と言う言葉が普及して、こどもでも使う言葉になったのは、明治時代に学校が出来てからではないかと、同僚から指摘されました。きっとそうなのでしょう。しかし、私の疑問(一体あの行為は何という言葉で表現されていたのか?)は謎のままです。やはり私の推測通り、ぴったりする言葉がそれ以前はなかったのではないか。だから、こんな難しい言葉が、すっと浸透していったのではないか。 実は、今、存在すると便利な言葉がその言語にないために、思いも掛けないような外国語が使われる例をいろいろ集めています。発端は、なぜフランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、ルーマニア語などロマンス諸語で、英語の "east, west, south, north" が使われている(もちろん少しなまって)のかを考察したことでした。色々調べたり考えたりした結果、次の仮説を立てました。ラテン語以来、ロマンス語には東西南北を専用に表す語がなく、他の語を利用して表していた(「小熊座」で「北」を、「正午」で「南」を、等々)ためである。 それで、そうした例を日本語でも探してみようとしていたのでした。最初に見つけたのは、「洗濯」でした。この語は中国人でもほとんど知らない語のようです(なにか特殊な儀式に関する言葉のようです。)しかし、室町時代には普通の日常語として使われるようになっている。こんなとんでもない外国語が誰でも使う日常語として定着したのは、「衣類を洗う」という行為をぴったり表す語がそれまでなかったからではないか、というわけです。 そして、「挨拶」です。この禅宗の専門用語が今のように日常語として、定着したのも同じ理由ではないか。私の質問の背景はいじょうのとおりです。ご協力ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 石の上にも3年という言葉の源を辿ると仏教に行き着い

    石の上にも3年という言葉の源を辿ると仏教に行き着いた。 で、なぜ石の上にも3年というどこから3年という数字が出て来たのか博学者は知ってますか? 私が思うに仏教では12年の修行という12という数字を好んでいたことが分かっている。 この12は多分、1年が12ヶ月だったので、どこかの高僧が弟子に先生、いつまで修行すれば良いのですか?と聞かれて、師もいつまでが修行なのか考えて一年が12なので適当に10倍にして12年じゃ。と行ったら、弟子たちがなるほど。と行って書に、仏教の修行は12年なりと書に記して、後世の人やその書だけが伝わった外国でなるほど。仏教は12年の修行が必要なのかとなり、12年は長い。6年にしよう。で、時代が流れてゆとり世代の僧が6年は長い。3年にしようとなって、そうだ。石の上にも三年という言葉を書に残そう。 で、我々は学校の先生に石の上にも3年。我慢が大切です。 と習った時点で修行期間が1/4になってて、石の上にも3年の時点で既に我慢出来てないというオチだった。 という話をはありますか? 石の上にも3年の3年はまじでこういうニュアンスを含んでいると思う。あながち間違っていないと思う。 禅の道元は日本にある全部の禅宗の宗派の教えまで体得したという。で、道元は俺は全ての禅に精通していると言っていたが、その修行をした寺に残されていた道元は「道元という者。10ヶ月滞在した」という記述が残っていたらしい。 要するに道元は修行した気でいたが、その禅宗は道元はただの泊まり客扱いだった。修行したじゃなくて滞在。 まるで日本の首相みたいに外国の留学じゃなくて外国の夏のオープンキャンパスに参加したことを留学って言ってた安倍さんみたいなものだった。 道元は石の上にも3年どころか10ヶ月滞在しただけで全てを精通したと言って当時の人を騙してた経歴詐称のコンサルタントのショーンKとあまり変わらない。 で、石の上にも3年は12年の修行が減っていった数字だと思っている。

  • 禅の世界について(臨済録)

    禅に興味をもち、人から薦めてもらった臨済録を読んでいます。 中身を読んでいて解らなかった点について教えてください。 禅問答の場面で「一喝した」はわかるのですが、 「棒で打った」とか「平手打ちをくらわした」とか頻繁に出てきます。 それも、目上や上席の人に対して突然の行為なんです。 修行中の身で、師に対して「一喝した」り、「棒で打った」り、 「平手打ち」したり、今では考えられないような場面ですよね。 どなたか、説明お願いします。

  • 禅問答について・・・。

    初めて質問させてもらいます。よろしくお願いします。 結構有名な禅問答で、こういうのがありますね。 僧「祖師西来の意は?」 師「庭の柏の樹」 僧「物で答えないで下さい」 師「物で答えてはいないよ」 僧「祖師西来の意とは何ですか?」 師「庭の柏の樹。」 一度は分かったつもりでいたのですが、最近やっぱり何だかわからなくなってきて、どうも気持ちが落ちつかなくなってきました。 今回一応、昔読んだ禅問答の本を読み直してみたり、趙州、無門関などの言葉でgoogle検索できるページは大体のぞいて見たりもしたのですが、どうも自分で納得ができません。 とてもモヤモヤとして鬱陶しく、是非皆さんに教えてもらいたいと思うのです。 質問:結局、師(趙州禅師)の答えはどう解釈すればいいのでしょうか!? 納得できるまで閉めずにおくつもりでいます。 どうか是非是非よろしくお願いします!

  • 「お世話」についての一連の挨拶言葉の使い分け

    日本語を勉強中の中国人です。ビジネス日本語の挨拶言葉についてお伺いします。「お世話になります」、「お世話になっております」、「いつもお世話になっております」は普通どのように使い分けておられますか。 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 葬式から帰ってきた知人へのあいさつ

     日本語を勉強している外国人です。今日本にいません。日本人の知人が葬式で日本に戻ってきました。この知人とこちらで再会する時に、普通どのようにあいさつをするべきなのでしょうか。  「○○さん、大丈夫ですか。いろいろ大変ですね。ご愁傷さまです。元気を出してください。」でいかがでしょうか。  私は「○○さん、大丈夫ですか。」と言われたら、心の中でたぶん「大丈夫じゃないですよ」と突っ込みたくなります。相手に傷をつけたくない慰める言い方をしたいので、自分の言葉遣いに非常に気になっています。何かアドバイスをいただけないでしょうか。こんな場合、一般的なあいさつの言葉を教えていただければ非常にありがたく思います。よろしくお願いします。  日本語を何年間も勉強していますが、まだまだ文章がうまく書けません。質問文の中で不自然な表現があれば、それも併せて指摘していただければ助かります。よろしくお願いします。

  • 新郎新婦挨拶でかたい言葉を使いたくないです。

    6月に結婚式を挙げる予定で謝辞やお礼の言葉の文面を考えているのですが、 参考の文面や挨拶はかしこまった言葉が多く、丁寧には聞こえるのですが、実際他の人の披露宴に行ったときに感じるのは、間違わないようにという緊張感がこっちにも伝わってきて、あまり内容を覚えていなかったりすることが多いです。 そこで 普段使うような言葉に変えて挨拶分を考えようと思いました。 ご多忙→お忙しい中 誠に→本当に 変わらぬご指導ご叱正を頂く→これからも宜しくお願いします。 上記のような言い回しに変えて、間に伝えたいメッセージをオリジナルで入れようと思っています。 目的としては”自分の気持ちを伝えやすくするため””聞く側にとっても気持ちが伝わりやすくするため” ですが、中には年配の方も多いので、日本語がなってない等感じる方もいるかもしれません。 そこで、挨拶の初めに 言葉づかい等未熟な部分があり、失礼をするかもしれませんが、気持ちを伝えたいので普段の言い回しで挨拶させて頂きます。 みたいなことを話したい(お礼の言葉には記載したい)のですが、 上記の文面通り、うまく日本語を構成できないので、どのような文面にしたらよいか アドバイスを頂けないでしょうか? 宜しくお願いします。

  • 差別用語と大和言葉

    めくら・つんぼ・おし・きちがい・・・などが差別用語だそうです。 しかし、これらは日本固有の大和言葉であって、これらの代わりに用いられる漢語表現である「盲目」「聾唖」「狂人」などがOKというのがイマイチ納得できません。 もちろん差別される側にとっては、自分や自分の家族、親友のハンディキャップに対して直接的表現を使ってほしくない、という気持ちはわかりますが。 極端に言えば「中国語はOKで日本語はダメ」ってことですか? 最近ではディズニー・アニメの「ノートルダム物語」。あれって昔の人だったら「ノートルダムのせむし男」だとすぐにわかるし、現にアニメの中でも「せむし男」が描かれていますよね。 また、英語圏ではblind, deaf, wordless, crazy といった言葉はよく使われていますよね。これらは彼らにとって「差別用語」にはならないのですか? テレビや映画の中では、殺人や詐欺や薬物濫用などの「悪いこと」が表現できるのに、これらの言葉が使用できないというのに不自然さを感じています。 これらのメディアの制作者側の人たちだって、差別しちゃいけないから使わないのではなく、使ったことで叩かれたくないから使わないのは見え見えですし。 私たち観客側から見ると、使わないことで不自然さを感じ、むしろそのことを目立たせてしまっているように感じるのですが。 私はどんなに無垢なことを言っていても誰しもが差別意識を持っていると思っていますので、めくら・つんぼ・おし・きちがい・・・などの言葉が最初から単なる事実の描写以外に差別的な意味合いを含んでいたと思います。 しかし、これらの大和言葉を比喩的に用いる場合にも「差別用語だからダメ。外国語ならOK。」というのに引っかかりを感じます。 皆さんのご意見をお聞きしたいのでよろしくお願いします。

  • 仏陀は禅問答をしなかった?

    仏陀の肉声に比較的近いとされる「ブッダの言葉」などの 原始仏教の本などを読んでいるのですが、清澄平明で論理的だと感じました。 これは後世の禅宗の「隻手の声」などの不条理で不透明な質問・答えとは だいぶ異なる世界だと思うのですが、なんでこんなに違うんでしょうか? いちおう拈華微笑という話もありますが、これは後世の創作として、 やっぱり仏陀本人は禅問答のようなことは決して言い出さないと思うのですが、 どうでしょうか?

  • お辞儀をしながらあいさつをしないのでしょうか

     日本語を勉強中の中国人です。日本のマナーの本を読んでおります。お辞儀のことについて言う時に、「お辞儀をしながらあいさつをすると、表情や言葉が相手に伝わりません。あいさつの言葉が終わってから、上体を曲げます」というポイントがあります。本当にそうでしょうか。なんだか日常で日本の方はお辞儀をしながらあいさつをしているような気がします。この本は間違っていることを教えているのでしょうか。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 卒啄同時ではなくて。。。

    弟子が優秀で師が殻を破る手伝いする必要がない といったニュアンスの諺だったか、慣用句か、表現があるような気がして、ネット検索をしているのですが検索の仕方が悪いのか、しっくりくるものにたどり着きません。 少し皮肉めいた言い方だったような気もするのですが。。。 どなたかしっくりくるお言葉いただけませんでしょうか。