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人はそのままで完全だ

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回答No.5

僕の個人的な考えを書きます。 基本的な考えとしては、人間は内在的な可能性を持って生まれてくると思っています。僕がそうした本で、人間は完全だという言葉に触れる時には、求めるものはすでに内在していて決して自分の外にあるのではない、という意味で捕らえています。僕自身の体験から言うと、例えば自分の中に悪癖があったとします。僕はこれを嫌いこれとは全く別の人格になりたいと思いますが、どんな理想を描いていたとしてもこの悪癖を嫌ってそうしていたのではいつまで経ってもこの葛藤は終わりません。結局はそのままの自分として生きて行かなくては道は開けていかないと思うのです。そういうことに関しては、分かることが必要で努力が必要だとは僕は思いません。つまり、観念として作り上げた何かに敵対した土台の上に存在している理想は弊害があると考えています。この意味で言えば、僕も人間は変わる必要はないと思うし、変える必要があるのはすでにある認識についての誤解を紐解くことだと思います。つまり、自分が認識するあらゆることについてもっとよく見て、本当にそうなのかなと改めて考え直し、すでにあるものを崩していった時に人間の可能性は発現してくると思えるし、もしそれが本を読んでただそうなんだと思っただけでは、何も変わらないとも思います。そういう意味では、人間は自分を疑う、知る努力はしなければならないと思います。

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質問者

お礼

「求めるものはすでに内在していて決して自分の外にあるのではない」 ニール・ドナルドウェルシュもこう書いています。分かるようで、分からない。しかし、世の中の常識と言われるものは、時代、場所によって変わります。 価値観は移ろいやすいものかも知れませんね。 回答ありがとうございました。

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