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「ただ現在を生きろ」?

※このカテゴリでよいのか自分では判断がつきかねますので、もし何かお気づきでしたらご指摘ください。   「覚えていられないようなものは価値がない。どんどん忘れなさい。」 これは某ベストセラー本にある一節です。(文面は変えてありますが。) これが私には至極ひっかかってしまうのです。 ―「忘れてしまった、または忘れてしまっている、ようなもの」は自分の人生という大きなものさしの上では(長期的にみれば)価値がないものだ― 私はこのように解釈しました。つまり自分の記憶というものにも重要度に応じて 淘汰が起こりうるということでしょう。実際脳内神経のしくみからも、使われない回路(シナプス)はだんだんと消えていくのだそうですが。 しかし私は、単に電気信号が伝わらなくなったニューロン=自分にとって全く無価値であるが為、というのは当てはまらないと思うのです。本当は自分の求めている真理に触れているような大事な記憶であるのに、ただそれを永久保持するのが機能的に不可能なだけであって、一時期他のことに傾倒したばっかりに忘れてしまったことというのもあるはずではないのでしょうか?もしくはそういうことを考慮にいれてもやはり忘れたものはしかたがない、のでしょうか? それは個々の意思次第ともいえるでしょう。しかし、例えば義務的強迫的に覚えさせられたものの割合が高い人はこれに当てはまらないでしょう。 長文で申し訳ありませんが私にとってとても大きな命題なので意識してまわりくどく表してみたつもりです。こんな私の疑問にじっくり付き合ってくれる方の意見ぜひおまちしています。

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  • starflora
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回答No.7

    「現在を生きる」というこの意味が、どうもわたしの考えていることとはかなり違っているように思えます。また、貴方が若いからかも知れませんが、何を問題にして、何を問いかけているのか、どうも明確に分かりません。大脳の記憶のメカニズムなど、極端に言えば、この場合、どうでもよいことだとも言えます。      西欧中世のような世界であると、或る特殊な場や人々、時期を除いて、概ね、社会の変動は非常に緩慢で、文化や技術や知識や流通情報や流通物品なども、ほとんど数十年とか、数世紀という単位で緩やかに変化はしたが、あまり急激な変動というものはなかったのです。このような世界では、何を学ぶべきか、何を習得すべきか、何を覚えるべきか、何を心に刻めばよいか、何を価値あるものとすべきか、こう言ったことは、ほぼ自明的で、人生の生き方の技術というものは、大体、定まっていたと言うか、有効なモデルがあって、それに準拠して生きていればよかったのです。      しかし、現代のように、社会も文化も技術も流通物品も、流通情報も、知識も、世界観も価値観も倫理観も、何もかもが急速に変動し、状況が時々刻々変わって行く世界になると、良く生きるための技術とか智慧とか、モデルとかいうものは有効なものがなくなってしまうとも言えるのです。というより、実は、本質的に重要なものは、時代の状況や変動を超えて存在しているのですが、それが何か、見えなくなるし、分からなくなるのです。こういう世界では、処世の術は、くるくる変化し変動する状況に合わせて、次々に自分のありようを変えて行くというのが一つの方法としてあるでしょう。昨日有効であった知識や技術は、今日もう有効ではない。昨日そのやりかたでうまく商取引できたやりかたが、一夜にして崩れ、会社は倒産する。製造メーカーもどこにバグがあるのか分からない、というより、欠陥だらけのOSが、何百万と販売される。マニュアルを読みつつ覚えた操作方法や、機能や手順の名称が、新商品が発売になると、あっというまに別のものに変わり、また、新しいマニュアルを読まねばならないし、新しい用語や機能を覚えねばならない。印刷すると、千ページを越すマニュアルでも説明しきれない機能が付いたソフトが、多数販売され、それらが数年の内に別のものに次々に変化して行く。これはコンピュータの話ですが、ことはコンピュータのOSやアプリケーションだけではなく、大衆消費社会のなかで、作為的に過剰な情報を捏造し、商品を差別化と称して、くるくると入れ替わり立ち替わり消費者の前に提示し、欲望をかき立て、社会・経済・政治・技術・科学・情報の世界において、無数の明日になればすぐ別のものと取り替えられる物品や知識で溢れかえっているのです。そもそもこんな情報や物品、システムの氾濫などに人間は適用するようにはできていないのです。このような「空しい変化の氾濫する世界」で生きようとすれば、新しい情報や状況を受け入れるため、次々に過去の知識やスキルや規準や対応指針を絶え間なく変更させ、状況に空しくも追随し順応しなければならないでしょう。しかも、その順応も適応もすでに述べたように、一夜明けると通用しなくなって行くのです。従前の知識やノウハウでは把握できない新商品・新状況が、意図的に操作して作り出されているからです。      このような状況では、有効な知識は記憶に残っている、そうでない過去のものは、どんどん忘れて行くべきだ、ともなるでしょう。      人が自己の人生にとって何が重要か、生きる智慧とは何か、それらを、冷静に緩やかな過程で反省し、自己の心の課題とするのは、何か夢のような話にもなってしまっているのです。「人生の教訓」「生きる智慧」「何を支えとするか」「幸福を得るにはどうするか」「いま見直される仏法の真理」とか、出版社の営利目的としか思えない、それらしき低俗な本がまた氾濫し、「生きることの真の真実」の光を、氾濫する情報のなかに埋もれさせているとも言えるでしょう。      真に重要な価値ある「生の宝石の智慧」はどこにあるのか。それは限りなく探し求める「今の過程」のそのなかにあるのです。真に重要な、実存を生きる智慧は、暗黒の悩みと光への憧憬のあいだで、人の心の奥底に常に存在して消えることはないのです。それは、忘れるというより、未だ知っていないし、永遠に知ることもない知識・智慧であるのです。ソークラテースは「魂を気遣え」と言いました。また「汝自身を知れ」という言葉をいまに伝えました。人の実存にとって、真に重要なこと・生きる智慧・人生の宝石の結晶は、そんな簡単に忘却できたりするものではないのです。それは、暗黒の意識・無意識のなかで燦然と輝いているのです。その光は、時折のなにかの感動や、発見や、驚異において垣間見られるでしょう。そしてそのような「垣間見た」経験を忘却するとしても、また違う形で、あるいは記憶の想起という形で、心に甦って来るでしょう。そしてまた「現在に生きる」とは、最高次元の生き方であるという智慧もまた理解されるでしょう。「現在に生きる」とは、作為的営利的ランダムに絶え間なく変動してやまない状況に刻々と順応して、不要なものは棄てるという生き方ではなく、人生の過去も未来も、貴方自身も他者も、無数の異国の人々も、地球上の生き物も、そしてこの銀河なる宇宙がすべて、いまこの時、貴方において、生成し生き、躍動しているといういま=現在の生の謂いなのです。このような「現在に生きる」とは、何なのか、人は見出せないし、見失っているでしょう。しかし、このような「いま現在の生の全体性・充熟性」というものは、日々の多忙さや、変転してやまない状況のなかでも、心のなかに、ある時は微かな光を発する星として、ある時は、華麗なる宝石の花として、貴方の魂に生きてあるのです。貴方は、この星・宝石の花の或る意味で、かりそめの夢でもあるのです。人は遂に自己の心の星=宝石の光を実感しないままに、空しくも死んで行く存在かも知れないでしょう。しかし、だからこそ、「魂を気遣え」とソークラテースは言ったのです。多くの人は、複雑な修辞や難しい議論や、あきれるような膨大な知識を誇っている、情報や社会の変動は、それに順応できない人間を進歩の敗者として扱う。されども、そのようなプラグマティックな有益性・利益性・社会順応のための知識や技術とは、所詮、「知」を僭称する人間の傲慢に過ぎない。いま、生きてあることは驚異ではないか。この銀河の宇宙は神秘であり驚異ではないか。誰か、世界の創造の真実を知るのか、誰が我々がいずこより来たりいずこに行くのか知るのか。わたしは「故郷」を忘却した「無知」なる者にしかない。されど、空しき情報と風のごとき消え去るこの現代の喧噪と無意味の氾濫は、「知」にもっとも縁遠いものであろう。「永遠」そして「真理」というのは、この「いま」に生成しているものなのです。それに気づくか、気づかないかの違いでしょう。また気づいたとて、人は幸福を得るものではないのです。      わたしは、なお迷妄の世界を彷徨っている空しき旅人であるでしょう。わたしの旅は、心の、そして魂の旅でもあったと言えるでしょう。そしてなお迷妄にあるのです。『旧約聖書』伝道の書で、コーヘレトは言いました。「若者よ、汝の若い時に神を知れ」。そう、「神を知る」とは、貴方が「無知」であるということを知るということでしょう。そして「魂への気遣い」が心にある限り、何を忘れようと、真に重要なことは、幾らでも、この永遠のいまにあって、泉のように甦って来るでしょう。「求めよ」とイエスは言ったのです。「求めよ」、そうその時、永遠の命の泉の扉は、いつでも、このいまに開かれるでしょう。   

O-jiro
質問者

お礼

正直どんなに言葉を慎重に宛がおうと努力しても、これを書いている時点での私の気持ちは表現に窮してしまいます。伝えられるか分かりませんが、ただ、現在の私はこれを読んで衝撃を受けている、ということだけが唯一確からしいです。 starfloraさんの考えに触れたのち、私はただ単に情報過多な世の中を要領よく生きる処方上であがきそしておどらされていただけなのかもしれない…そのように疑うようになった自分がいました。 そして、決して大げさな表現などではなく、たとえるなら「私が必死に探していた行方知れずの人の後ろ姿」をとらえられたように思います。(その人こそがstarfloraさんであるなどというおこがましい意味ではありません。) というのも、以前私はまさしくstarfloraさんの考えを、感覚的にではありますが体現できていた時期があったのです。それは8ヶ月ほど前までのことで、その期間自体は、ほんの2か月間かそこらというすずめの涙ほどの時間でしたが、20歳の私にとっても、ひときわ光り輝いていたといえるのです。毎日生きるのが楽しかった、などという陳腐なイメージではなく、もっと自分の中のもの―脳然り、血液然り、筋肉然り、五感然り―が鋭利に研ぎ澄まされ、私という実存を駆り立て、どこからか全てを見つめている見えない何か、を内にも外にも感じることができていたのです。 もう少し私のことについて語るのを許してください。(何度も書きますがけして自分のことを劇画チックに伝えようとしているのではありません。あくまで一番近い表現を模索した結果です。) 私が、そういう考えを体現できたのは、あるきっかけがありました。それは物理的刺激などではなくその逆、いわばお告げのようなものなんです。それは誰かといえば前述した私の父です。(私の父は私が高一のとき癌で他界しています。) 彼は何もいいませんでした。けれどなぜか怒って私を諭すかのような眼をしていたようです。その画は現在でこそ歪んでいるかもしれませんが、とにかく怒っていたということだけは覚えています。 因果関係はわかりませんがそれ以後しばらく私は、上述のような感覚を「捉まえて」いることができたのです。 こうしてstarfloraさんのような思慮深い他人を知ることができたことをとりあえず感謝したいです。私が恐れ、同時に憬れていたもの、それをこそ私が「忘れて」いたものだった気がします。 ※質問の内容からとことん外れてしまったこと、そして自己顕示欲丸出しのつまらない私的閉塞的なlong taleになってしまったことを詫びます。しかしここまで赤裸々に綴ったのは私なりのstarfloraさんへの精一杯の礼の形だと思ってください

O-jiro
質問者

補足

すみません。個人的に詮索したいというわけではないのです。 文面から察するにstarfloraさんはかなり成熟した大人の方だとうかがえるのですが、なにか特別な環境にいる(あるいは、いた)方なのでしょうか。便宜的処世術としての「生きること」と真理を純粋に追い求めようとするスタンスとをここまで言葉で表現でき、そして両方わきまえているような貴方のアイデンティティーが、その節々に見受けられます。 よろしければこの場をつかって、あなたがこれまで考えてきたことや勉強したことなど貴方が許す範囲で構わないのでいろいろ深い考えをご提示いただけませんか? ※質問―回答という構図を脱しているし、その必要も義務もないといわれればそれまでですが…。

その他の回答 (11)

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.12

NO.7の回答に対するあなたのお礼は素晴らしいです。僕の回答の前にOーjiroさんの引っかかりは取れていたようですね。  ただ、あなたの精神が上向きのままでいられるかということですが、あなたの文面には信心のようなものを感じます。ですから、病によって下向きになったとしても、以前の下向きとは違うと思います。というより、本当に鬱の人の言葉なのかって思います。もう治っているんじゃないですか?って思います。 >「割り切るところ」というのをつかんだように思えます。たんなる失望でないことを自分で自分に言い聞かせてます。  バイオリズムが上向きか、下向きか、両方、然りって思えているんじゃないですか。上向きとか下向きとか、気にしなくていいほどなのではないかと思います。  いい話をありがとうございます。

O-jiro
質問者

お礼

よそ様に私などの文面を褒めていただいて、単純ですが非常にうれしい限りです。 悪いときの私は、他人の評価や視線というものに過敏になってしまいます。このこと自体はいまだ完全に「治って」はいないと自覚しています。 しかしcaballeroさんやこの質問にご回答いただいたすべての人たちのおかげで、自分と向き合うのに焦る必要はないということを再確認できました。 いま私が欲しているのは、私にとっての自他のバランスをとるためにも、いい意味でシンプルな自分本位の姿勢をとることです。付き合いと称した自分への我慢や、友人が集まる場の雰囲気に流されたり、甘えたりということを、すべて排せずともこのことをそのときその場できちんと自覚していたい。 迷ったら、ここで皆さんに教授いただいたことに立ち返ればいいのですからね。

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.11

>一時期他のことに傾倒したばっかりに忘れてしまったことというのもあるはずではないのでしょうか?  すごくありますよ。  思い出したいのにそうはいかないっていうこと、すごくたくさんあるとおもいます。大事なものと分からずに、、。  一度だけ出会って、一目ぼれして、二度と会わなかったら、その人の顔は思い出せません。綺麗だったなぁということぐらいです。「綺麗」という言葉によりギリギリその人のイメージが保たれている?のです。  又、ミュージシャンはテレコを重宝します。「Hey Jude」だってポールマッカートニーが車でドライブ中に思いついたものを、その場ですぐにテレコで録音したから、忘れられずにこの世に残される名曲のひとつになれたわけです。録音していなかったら別の曲になっています。つまり、思いついた時のメロディは忘れられ、消えているのです。テレコがないばっかりに消えていった珠玉のメロディたちも数限りなくあるのです。ブランド主義によって世に出る事の無いまま消えていった「無名の名画」達がいるのです。そのものたちが無価値であったなどと誰が言えるのでしょう。民謡などとして「生き残ったもの」だけに価値があるなどと、これらの事実を前に誰が言えるでしょう。 >「覚えていられないようなものは価値がない。どんどん忘れなさい。」 この一文は一概に解釈するとめちゃめちゃいってる、、、となりますが、その著書の中のものとして解釈すれば、何か言いたいことがあってそう書いたんだなぁと理解できるのではないでしょうか。この一文だけ本の外に持ち出しても、著者の意見を反映する事は出来ないと思います。まさに、「本の一節」として捕らえるべきだと思います。すると、この一文があなたに引っかかる事も無いのではないでしょうか?  

O-jiro
質問者

お礼

こんにちわ。レスありがとうございます。(やや遅れてしまってすみません。) 下でstarfloraさんという方からの回答をいただいて以来少しずつですが私のバイオリズムのほうも上向きになってきたか、という今日この頃です。 そもそもわたしがこの質問をさせていただいたのは下の回答や補足にもありますが 少し前まで自分の中にカンジたこともないジブン、(ニヒルに表現すれば単なる躁状態だっただけ?)を発見できたことと、原因不明の鬱状態がその後すぐにやってきたという主観的事実をなんとか打開しようと、自分の中で多分に感覚的試行錯誤を繰り返してきたその中の1つの試みでした。 わたしは(主観的なことなので他人と比較考察はできませんが、)自分の気分や情緒、感情、性格、理論、自己評価、行動といったものがあまり極端に変わるので、このことが私の人生にとって最大のネックであり、日和見的にいえば私の魅力でもあると自負しています。二重人格とかではないんです。ある不定の周期をもって、ある一時私は同じ悩み、行動を繰り返し自己評価を宙ぶらりんにしたかと思えば、だんだん感覚的に自分のバイオリズムが上向きになり、曲線の頂点では自己評価が少なからず肯定的になります。そしてこういう状態をなんとか持続できないかとその最中あれこれ考えをめぐらせます。しかしだんだんと再びバイオリズムが下がっていくのかどうかはわかりませんが、全てがどうでもよくなります。 このため私は同じ人との交友関係のギャップが激しく、激しい気まぐれというかムラがありすぎる私のこの性をみずから恐れて、他人とのつきあいは結局とても浅いものでしかなくなってしまいます。人を信用できないというのはあまり当てはまらないんです。ほんとはもっとひとりひとりその数は少なくとも深い付き合いをしてみたいんです。 そう思って私は自分の「過去」―「感覚的記憶」についてぼんやり考えをめぐらせてきました。意思でなんとか変えられるところがあるのなら変えたい。忘れていた感覚があるのならもういちどそれを知覚したい… 私は典型的躁鬱病なのかもしれません。けれど最近はおかげさまで「割り切るところ」というのをつかんだように思えます。たんなる失望でないことを自分で自分に言い聞かせてます。 長くなってしまってすみません。ほんとありがとうございました。

  • tale
  • ベストアンサー率43% (7/16)
回答No.10

ここは議論をする場所ではないので、O-jiroさんに補足説明を しておきたいと思います。というよりも、もうすこしあなたと 話したいからです。 そもそもなぜ「現在を生きろ?」という疑問を抱えられたのかは O-jiroさんがおかきになられた補足でわずかばかり知ることができました。 それは亡くなられた父上はなぜ怒った目をしていたのだろうということだと おもいます。その疑問に向かうために、O-jiroさんの言葉で 記憶の問題をきっと語ろうとしたのでしょう。 私はその問題から、浅い知識をフル回転させて、すべてが 可能であるかもしれない道をさぐってみました。もう一度 読んでみてください。O-jiroさんが問題に立ち向かうとき 記憶の問題はもう邪魔にはならないのかもしれません。 なぜならそれは神秘的な力など必要もなく、今わかっている だけの不完全な科学ですら、手続きとして解決できることだからです。 人はそれぞれの固有の問題をもつものです。その問題は不器用で 回り道かもしれないけれど、一足づつ進むしかないのです。 別の崇高さを大げさに語るのでなく、まず頭の中にある問題に 向き合ってみることが大切なのかもしれません。 性急に、魂の世界だけで答えをおしつけて宗教団体に参加するような 方法もまちがいではないとおもいますが、それは精神の多様性を みつめたことにはならないのかもしれません。なぜなら物だけ信頼するのと 同じくらい、観念だけを大切するのはバランスをうしなっているから です。我々の価値がイデア界にあるのなら、影なる我々はそれこそ現在など 生きる必要さえなくなるからです。この与えられた肉体にできる術を、 あらゆる知見と勇気をもちえて、私も探って見たいと思います。 答えではなく、問題を探していけたらと思います。 それにしても、私の父もいまだに怒った顔で私の夢に現れます。 きっとO-jiroさんの父上も、諭すように怖い顔であなたを 見守ってくれていますよ。

O-jiro
質問者

お礼

そうですね。ちょっとはなしを大げさに膨らませすぎました。 でもtaleさんはこんな私に3回もレスしていただいてほんとありがとうございました。今後も自分なりに、一喜一憂することを恐れずアイデンティティーを練っていきたいと思います。

  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.9

    機能の大脳における器質的機構などどうでもよいというのは、「わたしは、或る嫌な記憶あるいは、覚えていたくない記憶を持っていますが、この記憶をできるだけ忘れるようにするにはどうしたらよいでしょうか」とか、逆に「わたしは、ある記憶しにくい事柄あり、しかし、是非絶対忘れないように、記憶に刻印したいのですが、どうやればよいでしょうか」というの質問内容、または問題であるなら、記憶の現在分かっているメカニズムについての知見や、トラウマの解消の技法なども、論じる意味があるでしょうが、しかし、問題が違っているのではないかと言うことです。     つまり、「実存の問題」を或る意味で尋ねている訳で、その場合、記憶の問題が絡んでいるとしても、人格全体として連関する記憶問題で、その場合、「記憶」「思考」「知能」「言語」「知覚・認識」「判断」「感情・情動」「意志」「統覚自我」「主体意識」「意識一般」「自覚意識ヴィジランス」「精神と物質の二元論問題」「無意識・前意識」「論理」等々の構造機構問題が密接に関連し合っているのだと言うべきです。科学は、以上の問題について、例えば「記憶」「思考」「知能」「言語」「情動」等について、大脳生理学的アプローチを行っていますが、これらは、統覚自我意識を軸として、いわば、多面立方体である、人間実存の存在立体の、それぞれの特定の機能構造解析のようなもので、それぞれが、特徴的な或る「面」についてのモデルを、実験と生理学的事実・知見から築いている訳で、実存や人の生き方と関係して、「記憶」の問題が提示されている時、「記憶」の機構モデルを出してきても、それだけでは仕方ないと言えるからです。     総合的な、統覚意識・精神の構造モデル乃至その展望が必要なのでしょうが、そういう問題は、個別的実証的な現在の科学の知見水準では、構成も展望も、未だまったくというか、ほとんど未完成な不明な状態なのです。例えば、記憶と忘れるという問題については、大脳生理学的な記憶のメカニズムだけではなく、精神分析の意識・無意識のモデルも重要な意味を持ちますし、トラウマの問題にあるような、臨床心理学的な知見も必要になるのです。「心の悩み」について、精神分析や臨床心理学や、向精神薬や、カウンセリングなどは、実は、科学的に有効だと確言できるようなソリューションは持っていないのです。海馬が、一時的記憶を、短期的記憶に移すための媒介機構であるというらしいことが分かっても、それは、一時的記憶のなかでしか生きられない病気の人の病因の説明になっても、人間精神のあまりな多様性と複雑さについて、この程度の知見では、どうしようもないと言うことがあるとも言えるのでしょう。言語と論理、思考と判断、情動と規範倫理などは、確かに何かの密接な連関構造のなかにあり、先に立体構造体と言ったように、これらは、分離してモデルを造って、それらを、単純加算すれば、構造が記述できるというようなものではないということです。     人によって考え方が違うかも知れませんが、少なくともわたしは、唯物論のような単純な世界構造論を認める訳ではなく、「精神」や「イデアー」や「普遍理性」のこの世を超越した実在を構想するのです。科学的知見に無知であるからと言うより、科学が、どこまで行っても、人間の統覚意識主体性や、普遍理性性について、答えを出せないことが分かっているからだとも言えます。人間の統覚主体意識あるいは精神は、上に列挙した多様な機能や作用面を備え、心身構造性も更にあるのであり、コンピュータのモデルによる人工知能研究などは、或る意味、高次抽象アルゴリズムを前提にして構築しているのであって、それでは、人間の多元性・多実体性・多機能・多様性は、モデル化できないと言うことです。(ところで、婉曲的な話として、ホットメイルに、わたしのハンドルと同じ名のアカウントのものがあるようです。GOOにもフリーメールがあるようですが、わたしは使ったことがありません。ネット上メールというのは、一々ログインしてパスワードを入れなければならず、パスワードを記憶できるのは、せいぜい、十個ぐらいがわたしの場合限界なのです。また、使っていないとすぐ忘れますし、こういうことについて、忘れないようにするには、どうすればよいのか、その記憶の秘訣などを知りたいものですね)。  

  • tale
  • ベストアンサー率43% (7/16)
回答No.8

O-jiroさんの言葉に応えてさせていただきます。 今度の問題は「意識的に忘却できるか」ということですね。これはさらに難しい問題です。意識的であるということはそれだけで、すでに記憶を明示化してしまいますから、先の論点でいえば、意識してしまうと様々な情報に関連づけやすくなり、記憶はさらに強化されてしまうというジレンマがおきます。では意識的に忘却はできないのでしょうか?そんなことはありません。できます。それを今から照査してみましょう。 O-jiroさんは二つの忘れる方法について考えられました。 別のことを考えて忘れるということ。そしてもう一つは意識的に忘れること。まず別のことを考えて忘れるメカニズムを簡単にみてみます。記憶はたったひとつの脳細胞がうけもっているわけではないですよね。一つの記憶には、その記憶を成り立てるための複数のニューロンの連合野があります。これはよく星座にたとえられるのですがある記憶を思い出すとき記憶の部位の特定の箇所が、いくつか選択されて同時に亢進状態になるのです。プラネタリウムの星座の星の場所がチカチカと点滅することをイメージしてください。この明滅する星を線で結んだものが一つの記憶のかたちになるのです。他のことを考えて忘れるという方法は、まったく違うニューロンの連合野を反復して使うことで、忘れたい記憶のニューロンのつながりを弱いものにするということです。脳の中の新しい星座が古い星座を消してしまうわけです。 では意識的に忘却するにはどうすればいいのか。 たいてい意識的に忘れようとすると、忘れたいことを堂堂巡りに繰り返してしまいます。それでは記憶を強化してしまうのです。そこで意識的にこの記憶を別のものにしてみましょう。それは脳の中の古い星座に新しい星をくわえることでべつの星座にしようという方法です。つまり原因や結果を省察して、さらにこの記憶に関する様々な情報を送り込みます。悪しきものの再演ではなくて、この記憶のかたちそのものを変えてしまうのです。ニューロンの連合野の構成を変質させてしまうのです。新しいニューロンの参加は、この連合野全体を刺戟して、この記憶そのものをべつの形に変貌させ、古い連合野を忘却させます。このように意識的に忘却することもできるのです。つらい記憶があるとして、この記憶に逃げ道をたくさん張り巡らす作業のようなものです。トラウマに対する治療は上のような方法をもっと精密化したものです。 たとえば崇高な教えや、美しい言葉はそれを信じている人だけに効果があるものです。別のことを考えて忘れる方法に似ていますね。しかし回り道でも何かの仕組みや手順をもちいてたどる道は、意識的に忘れる方法と似たものがあるといえます。

O-jiro
質問者

補足

私の、あれほど曖昧模糊とした仮説をこれほどまで説明いただいて、何か背筋が「熱く」なるのを感じました。(大げさじゃないですよー)ほんとon demandです ―大脳の記憶メカニズムは、極端に言えば、この際どうでもよいのかも― これは下のstarfloraさんの回答でご指摘を受けた内容なのですがこれについて皆さんはどう考えられますか。 私が質問の中で大脳神経について取り上げたのは、内容は哲学に沿ったものでも、意思と記憶についてのきちんとした客観的事実を踏まえねばと思ったからです。 (まあ私が最終的に求めていたものに最も近かったのがstarfloraさんの回答にあったわけですけど、私は認知的アプローチにも事実大いに興味があるので。) これはここで補足することじゃないのかもしれませんが、私はもうちょっとだけここでみなさんの回答を待ち続けるつもりなので、よろしければまた暇なときにでも考えてください。

  • pco1633
  • ベストアンサー率21% (199/925)
回答No.6

>忘れるって意識的に出来ない 出来るんでしょうか?少なくとも「忘れたい」と思った瞬間に私は忘れられない んですが・・・(^-^? 「思い出す」かぎりデリートされてない記憶って事ですよね? そうか、忘れたことすら忘れるからかな? 回答になってなくてすいません。また良かったらお返事ください。 他の方の回答もとても参考になります。

O-jiro
質問者

お礼

taleさんという方が上でこの問いに、ありがたくも答えてくださっていますね。 ほんと心底勉強になります。私自身こういう場で皆さんの考えに触れることができ非常にうれしいです。 よろしければそのtaleさんのとこに書いた補足についてまた考えてみてください。 一緒に勉強しましょう。pco1633さんの回答にも期待してるんです(^^)

回答No.5

こんにちは。なんか「捨てる技術」の記憶版みたいな本ですね。taleさんが脳について解説されてるので迷いましたが、僕も某著作から記憶に関するわかりやすい説明を紹介しますと・・・。 「記憶というのはまず短期記憶ボックスに仮入れされる。のちに記憶の価値を検討した後、少しずつ記憶レベルをあげて長期記憶ボックスに移すか潜在意識(深層意識)に移して表面的に忘れてしまう。これらは脳が勝手にやるので本人は悩む必要がない。価値決定も長短期決定も脳がやる。メモリーが不足してきたら重要でないものから忘れさせ空きを作ってくれる。」 「他の事に没頭する」「原因を特定する」もケースバイケースであって最終的には自分の脳が判断することですね。忘れたいのに忘れられないと悩む必要はなく、その必要に迫られるまで放っておきましょうということです。 当然罪悪感を感じる必要もないわけです。 「同じことを長く続けない」というお父上のお言葉はよくわかります。 僕は個人的にはこれは「生活のコツ」だと思います。何かに義務的になるというのは毎日インプットされる記憶のほとんどが「価値なし」と脳が判断しているのでしょう。そういうのはさっさと忘れてしまいます。いわば空白の時間が生まれるので「今自分は何をやってるのだろう?」と思うことになるのでしょうね。個人的にはこれと正直に生きるは少し違うように思います。 僕はイデオロギーなどではなく、これが脳のシステムであると思います。それでは、補足があればまたお答えします。

  • jun95
  • ベストアンサー率26% (519/1946)
回答No.4

たとえば、座禅会などに行きますと、悟りというものは、悟ったと思ったとたん忘れてしまうので、禅の修行は一生続けないといけないのだといった講話を聞くことがあります。 この場合だと「悟り」ですが、真理といものは、なかなかつかみにくいものだから、記憶として残らないものなのかもしれません。しかし、真理は重要なので、忘れないために不断の努力をするわけです。 だとすれば、覚えておかねばならないものがある場合は、それなりの努力が必要なのだと考えることができます。

O-jiro
質問者

補足

禅を引き合いにだしてくれたjun95さんの意見には大変説得力があります。ちなみに私の住んでいるのは京都なのですが、近くのお寺で毎月座禅ができるのでちょうど最近、来月あたり行ってみようかなと考えていたところなんです。 般若心経や悟りについての説教にも興味があるので、認知科学的に自分で考えてみることを「忘れない」ようにする一方で禅にもまじめに取り組んでみたいです。 ぜひ下記の補足についても意見をおねがいします。

  • tale
  • ベストアンサー率43% (7/16)
回答No.3

とても本質的な問題なので、どうかお話をさせて下さい。 まずO-jiroさんの問いかけは、「忘れてしまった記憶は 自分にとって無価値だからではない」ということでした。 これはすぐに論証できます。アトランダムな20桁の数字を すべていえたら賞金がもらえると仮定して、この 20桁の数字は価値あるはずなのに、人は簡単に忘れて しまうからです。価値ある情報でさえ忘却するのですから 価値の有無は忘れることとは関係ないことになります。 さて脳科学では一時的な記憶と長期記憶の二つの記憶を振り分ける 機能があるそうです。これは価値の度合いによって振り分けられている のではなく、繰り返し反復されることで、他の保存された記憶との 関係が複数関連付けられ(複数のニューロン接合がおこなわれ) 長期記憶になるとのことです。つまり 消えてしまう記憶というのは無価値だからではなく、単に 他の記憶との関係が見出せなかったに過ぎないということになります。 逆にいうとトラウマのような個人にとっては価値の否定的な 記憶も、さまざまな記憶と結びついて保存されてしまうのです。 このようにもし、O-jiroさんが何かを忘れてしまっても それは、価値がないからではありません。たんに情報が 他の情報とうまく接続できなかっただけなのです。 また付け足せば潜在記憶という分野もあります。 個人の心的なバランスのために抑圧されて 忘れたような状態になっているだけだという説です。 O-jiroさんの心のバランスのために一時的に忘れられた 記憶である場合もあるということなのです。 長文で失礼しました。

O-jiro
質問者

補足

正直taleさんの意見、すごく勝手にシンパシーを感じるというか、私の仮定を見事証明してくれて大変気持ちがいいです(笑)。 >価値ある情報でさえ忘却するのですから 価値の有無は忘れることとは関係ないことになります。 >心のバランスのために一時的に忘れられた 記憶である場合もあるということなのです。 この2つをなんとか長期記憶に残しておきたいものです。 あ、自分のことばかり書いて何を補足したかったのか忘れてしまいました(^^ゞ taleさんとぜひ談義を交わしたいという「意欲」ばかりが優先してしまいました。よろしければ下の補足への相談にものっていただけると幸いです。

  • ball225
  • ベストアンサー率50% (8/16)
回答No.2

全くの私見を言わせてもらえば >覚えていられないようなものは価値がない。どんどん忘れなさい。 というのはかなり正しいように思います。 記憶というのは大きな外傷がない限りはカケラぐらいは残っているものです。 自己の人生に少しでも必要性があるものならば、その記憶は必ずいつか蘇り(様々な方法で…時には自分の発想として)、自分の中で血となり肉となると思います。 そして、その通り自分の人生にさほど意味を持たないものは消えていく…そういったものだと僕は判断しています。 …と、いった簡単な答えを出してしまいましたがあなたにとっての何らかの答えになれば幸いです。 もし、お役に立てなかったらごめんなさい

O-jiro
質問者

補足

いえいえとんでもないです。とてもポジティブな意見ありがとうございます。   補足というか、もしよろしければ考えていただきたいことがあります。ちなみに私は現在大学2年生、ついこのあいだハタチになったばかりの青二才です(笑)。 たった20年という、私の人との交流を例にあげて意見するということ自体、恐縮で勘違いしているかもしれませんが、私の見地からはっきりいって最近では「忘れる」ということを肯定している人の方が大勢を占めている気がします。これは必ずしも適切な仮定でないかもしれませんが、こうしてネットも普及して人との交流機会や、やりとりされる情報量が爆発的に大きくなってくると、直接現在の自分に利害関係のないことをわざわざ思い出そうとする人も少なくなってくるのではないでしょうか。そうなるとよりいっそう、「自分の現在」にばかり目が向けられ、忘れたものはしかたない、という割り切った結論をもつことこそが処世術だということになってこないでしょうか。私は確かにそういうイデオロギーの浸透が進行していると思います。 皆さんぜひ意見を聞かせてください。

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  • 脳のニューロンやシナプスは丸ごとコピーできる?

    将来、例えば自分のクローンを作って、そのクローンに自分の脳内のニューロン配列(記憶)とそっくり同じ状態にして、自分の未来を託して安楽死する。 上記の様な記憶だけの延命措置をする事は、近い将来、技術的に可能なものでしょうか? 例えば、クローンの倫理的な問題はオリジナルが命を託す側になる事で解決したり、脳のコピーはスキャナーで脳内のシナプスを画像記録して、コピーにはその画像を元にしたりします。 IPS等の再生医療によりニューロン生成したり破壊できる小型の機械を脳内にて働かせて、脳のコピーを実現するみたいな・・・ 20年以内に実現する見込みはあると思いますか?

  • 【脳】人間の脳のニューロンの電位変位をデータベース

    【脳】人間の脳のニューロンの電位変位をデータベース化すると人間がいま何を考えているのか分かるという。人間に犬の写真を見せるとデータベース化された関連文字が表示されて1万ポイントから脳のニューロンの電位変位から名詞と動詞だけで抽出して1番関連性が高いワードが画面に表示される。 このデータベースを拡大させればいずれ人間が考えている思いが文字化される。 自分が思っていることが他人に読み取られるようになる。 UFOに乗った宇宙人も声を発することなく相手に思いを伝えている。 人間より科学が進んでいるので、相手の脳内の情報を読み取れるということは相手の思いを打ち消せる技術は保有していると考えられる。 よって、UFOに乗った宇宙人を見たとしてもその記憶は宇宙人によって消されるはず。 相手に情報を上書き出来る科学を持つ宇宙人がわざわざ人間に自分たちの存在を見せても脳内に残すメリットは何があるのだろう? 映画のメンインブラックの記憶を消すガジェット。 この相手の記憶を消すことが出来る科学技術が実現された未来では、相手の記憶を視覚化出来るようになっているはず。 脳の情報を読み取るなという法律が出来ても、中国製品でヤフオクやAmazonで売られるだろう。 脳の記憶を書き換えることは催眠術で出来ているのだから相手の記憶を読み書き可能な未来は10年以内に実現される。

  • 価値観と生き方について

    22歳の女です。 なかなか自分の考えたことに自信を持てない私の考えたことで、 これは時代が悪いのか?それとも自己の確立が出来ていないのか?(妄念にとらわれてはいないか?) と疑問を抱くようになり、他の方の意見が聞きたく質問させていただきました。 私は以前まで近所のおばあさんの煮物のおすそわけが食べられませんでした。 他人が握ったおにぎりを食べることが出来ませんでした。 口にするものに対して強迫観念的なものを感じていました。 (これは個人的な事で、異常な部分は多いにあると思いますが) しかし、最近ではさまざまなニュースなどを観て、 それに対する色んな方の意見を聞き、 様々な年齢層の方と交流を重ねる中で、 自分の中で食に対する自惚れみたいなものを感じまして、 それを発端に この便利すぎる世の中で、食のみならず 自身が自惚れによる誤った価値観を抱いてしまっているのではないかと考え始めました。 そして価値観の多様化というのは広義的には謝った解釈による 価値観や古典的な考えの喪失に繋がることもあるのでは? と考え始めました。 しかし、その一方で 価値観を持つ生き方に対して自身が傾倒しすぎているようにも感じています。 (というのは、周囲の価値にとらわれすぎてはいないか?と思うことです) これらの考え方に対する意見を聞かせてください。 お願い致します。

  • 消したい記憶

    体の関係はあったけど付き合えなかった人に、最後に私のことなんて好きじゃなかったし、彼女じゃないから大切にされないなってずっと思ってた。 突き放したらいいのにどうして私のこと相手するの?ただのキープ? 私はあなたのセフレだったから、今までの彼女とはちがって彼女にするほどじゃない価値がない女と言われたみたい。 いい歳して遊び人。最低男。やっぱりその歳で独身ってことはろくでもないってことだよね。 (行為についても、自分本位だったと責め立てました。生だしアフターケアがない) (好きにならなければよかった。関わらなければよかった。などとLINEで言ってしまいました。 すると彼には、「俺のこと、体目的とか言って罵倒してバカにして…もう無理です。もう会わないし連絡も取らない。人を傷つけるってそういうことじゃないんですかね。」って言われました。 でも彼は、私に好きって言ってくれたことないし、愛情というか彼も私を好きでいてくれてるなーって感じたことはありませんでした。「お気に入り」だろうなーくらい。彼を信用していなかった。 自分に自信がなかったからでしょうか。 そもそも、彼は私のことなんてなんとも思っていないから、痛くも痒くも無いし傷つきもしないんだろうなって思ってました。それが悔しいと思って。 付き合ってない=セフレだと私は思うのです。 守られることもなく、大切にされるわけもなく 自分の人生には必要ない、そんな女だとされたんだと。 自分の物差しでことを考えすぎでしょうか。 このこと以来ものすごく卑屈になりました。本当に出会わなければよかった。 関わらなければよかったと思う毎日です。この記憶を消したい。

  • 【心の病】過去を後悔せずこれからを生きる為に・・・

    23歳、男です。 自分は中学の時にいじめに受けたことがあります。 それがきっかけでトラウマができ、強迫性障害を患うようになりました。 (当時自分は、自分が強迫性障害だなんてこと全く知りません。最近になってネットで自分の症状を調べてみてみると、強迫性障害と同じ症状であったことを知りました) いじめてきた同級生。 いじめられている僕を見てかなり横柄な態度を取ってバカにしてきた下級生数人。 理不尽な暴力を延々と繰り返して来たとある上級生。 僕は中学3年以降、彼ら(6名程)のことを延々と考えてしまっていたのです。 いわゆる強迫観念です。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/griffin/method/trauma001.html このサイトの 【トラウマの持つ『反復性・侵入性・強迫性』】 の部分や http://ocd-net.jp/column/c_75.html で説明されている様な状況に陥っていました。 中学3年以降、高校とずっと強迫観念に囚われて苦しんでいたんです。 大学ではとある同回生の人に嫌がらせを受けたことがあるのですが、 以来その人に対しても強迫観念を抱くようになりました。 そんなことになったのも、確実に一度強迫観念になっていることが原因です。 つまり、上述した6名、そして大学で嫌がらせしてきた輩の計7名のことを 美味しいご飯を食べている時も・・・ 面白いテレビを見ている時も・・・ 感動的な映画を見ている時も・・・ 試験勉強中も・・・ 実際に受験をしている最中も・・・ 倒れそうになるぐらいまで走って、もう息も出来ないぐらいしんどい時も・・・ 何をしていても考えていたんです。 街へ遊びに行っている時も、 「奴らの誰かにあって馬鹿にされたりしないだろうか・・・暴力を振るって来ないだろうか」 こんなことを考えていたんです。 「考えていた」というより、何をしていても「勝手に」自分の思考の中に彼らが侵入してきていました。 まるで脳内に湧き出る温泉のように、もう異常なレベルで。 おかげで、本当に考えたいことはほとんど考えられてこれませんでした。 全ては「強迫観念」。  心の病気が原因です。 しかしながら、中学の時も高校の時も大学の時も、それが「強迫観念」だったなんて知る由もありません。 ずっと1人で抱え込んで苦しんでいました。 この強迫観念により、僕はここ8年間ほとんどやりたいことができず、 そして考えたいことが考えられませんでした。。。 文章ではほんの数行で済みますが、本当に苦しくて苦しくて、 辛くて辛くて仕方なかった8年間です。 残念ながら、まだこの強迫観念に苦しんでいるのですが、 とにかくこれまでの8年間が本当に悔しい。 こんなに強迫観念に苦しむのは、僕じゃなくてもよかった筈。 その他大勢の様に、僕も普通に楽しんで、毎日考えたいことを考えて青春時代を過ごしてもよかった筈。 でも僕はそれができなかった。 自分が「心の病気」だなんて、知る由も無かった。 そう思うと本当に悔しい。 悔しいとは思うものの、もう過ぎた過去など戻らない。 悔やみたくなかったら、「死ぬ」ことでこの記憶を消すしかない。 もちろんそんなことは、生んでくれた親の為にもできない。。。 だから僕はもう過去のことは思い返さず、 前だけを向いて生きて行かないといけないんです。 そこで1つ至った結論があります。 世の中には、交通事故等に遭って障害を持ち、何年も寝たきりで10代20代を過ごした人。 僕よりも重い精神障害で何年も病院に入院していた人。 こういった人が、少なからずいます。 彼らは、残念ながらそういう「運命」にあったのだと思います。 彼らじゃなくてもよかった。 でも「彼ら」だった。 僕も同じ様に、心の病で8年間もの長い期間潰れてしまうという人生を過ごすことになったのは、 もう「運命」だったんだ。 そう思って、もう割り切ろうと思うんです。 じゃないと、もう辛過ぎて哀れ過ぎて自殺という行為に及んでしまうかもしれません。 俺は残念ながらこの様な運命にあった。 だからもう仕方無い。 過去は割り切って、今自分の病気が何なのかを知れたのだから、 これから治して、新たな気持ちで人生を生きて行こう。 そう思って生きて行こうと思うんです。 そこで皆さんに質問なのですが、 僕のこの考え方について、どう思われますでしょうか? 自分で決めたこととは言え、第三者の方からの意見をお聞きしたいなと思い、 今回質問させて頂きました。

  • 心の病が原因で苦しんで過ごした過去を後悔しない為に

    23歳、男です。 自分は中学の時にいじめに受けたことがあります。 それがきっかけでトラウマができ、強迫性障害を患うようになりました。 (当時自分は、自分が強迫性障害だなんてこと全く知りません。最近になってネットで自分の症状を調べてみてみると、強迫性障害と同じ症状であったことを知りました。カウンセラーの方に診断された訳ではないですが、以下を読み進めて貰えると、確実に強迫性障害だと断言できると思います。) いじめてきた同級生。 いじめられている僕を見てかなり横柄な態度を取ってバカにしてきた下級生数人。 理不尽な暴力を延々と繰り返して来たとある上級生。 僕は中学3年以降、彼ら(6名程)のことを延々と考えてしまっていたのです。 いわゆる強迫観念です。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/griffin/method/trauma001.html このサイトの 【トラウマの持つ『反復性・侵入性・強迫性』】 の部分や http://ocd-net.jp/column/c_75.html で説明されている様な状況に陥っていました。 中学3年以降、高校とずっと強迫観念に囚われて苦しんでいたんです。 大学ではとある同回生の人に嫌がらせを受けたことがあるのですが、 以来その人に対しても強迫観念を抱くようになりました。 そんなことになったのも、確実に一度強迫観念になっていることが原因です。 つまり、上述した6名、そして大学で嫌がらせしてきた輩の計7名のことを 美味しいご飯を食べている時も・・・ 面白いテレビを見ている時も・・・ 感動的な映画を見ている時も・・・ 試験勉強中も・・・ 実際に受験をしている最中も・・・ 倒れそうになるぐらいまで走って、もう息も出来ないぐらいしんどい時も・・・ 何をしていても考えていたんです。 街へ遊びに行っている時も、 「奴らの誰かにあって馬鹿にされたりしないだろうか・・・暴力を振るって来ないだろうか」 こんなことを考えていたんです。 「考えていた」というより、何をしていても「勝手に」自分の思考の中に彼らが侵入してきていました。 まるで脳内に湧き出る温泉のように、もう異常なレベルで。 おかげで、本当に考えたいことはほとんど考えられてこれませんでした。 全ては「強迫観念」。 心の病気が原因です。 しかしながら、中学の時も高校の時も大学の時も、それが「強迫観念」だったなんて知る由もありません。 ずっと1人で抱え込んで苦しんでいました。 この強迫観念により、僕はここ8年間ほとんどやりたいことができず、 そして考えたいことが考えられませんでした。。。 文章ではほんの数行で済みますが、本当に苦しくて苦しくて、 辛くて辛くて仕方なかった8年間です。 残念ながら、まだこの強迫観念に苦しんでいるのですが、 とにかくこれまでの8年間が本当に悔しい。 こんなに強迫観念に苦しむのは、僕じゃなくてもよかった筈。 その他大勢の様に、僕も普通に楽しんで、毎日考えたいことを考えて青春時代を過ごしてもよかった筈。 でも僕はそれができなかった。 自分が「心の病気」だなんて、知る由も無かった。 そう思うと本当に悔しい。 悔しいとは思うものの、もう過ぎた過去など戻らない。 悔やみたくなかったら、「死ぬ」ことでこの記憶を消すしかない。 もちろんそんなことは、生んでくれた親の為にもできない。。。 だから僕はもう過去のことは思い返さず、 前だけを向いて生きて行かないといけないんです。 そこで1つ至った結論があります。 世の中には、交通事故等に遭って障害を持ち、何年も寝たきりで10代20代を過ごした人。 僕よりも重い精神障害で何年も病院に入院していた人。 こういった人が、少なからずいます。 彼らは、残念ながらそういう「運命」にあったのだと思います。 彼らじゃなくてもよかった。 でも「彼ら」だった。 僕も同じ様に、心の病で8年間もの長い期間潰れてしまうという人生を過ごすことになったのは、 もう「運命」だったんだ。 そう思って、もう割り切ろうと思うんです。 じゃないと、もう辛過ぎて哀れ過ぎて自殺という行為に及んでしまうかもしれません。 俺は残念ながらこの様な運命にあった。 だからもう仕方無い。 過去は割り切って、今自分の病気が何なのかを知れたのだから、 これから治して、新たな気持ちで人生を生きて行こう。 そう思って生きて行こうと思うんです。 そこで皆さんに質問なのですが、 僕のこの考え方について、どう思われますでしょうか? 自分で決めたこととは言え、第三者の方からの意見をお聞きしたいなと思い、 今回質問させて頂きました。

  • 皆様のご意見をお聞きしたいです。

    近々24歳になる者です。 私は15歳の頃から今までずっと強迫観念に苦しめられて来ました。 その強迫観念に苛まれるようになったきっかけというのは、中学時代の部活(バスケ)で受けたいじめです。 数名にかなり陰湿ないじめをされて、本当に精神的に苦しめられました。 以来、そのいじめの加害者達のことが何をしていても思考に介入するようになったんです。 目の前に彼らがいなくても、常に彼らを警戒している状態になってしまったんです。 「もう当時の様な屈辱は受けたくない!」 という過剰防衛の一種で、強迫観念に苦しむようになったのでしょう。 こちらのサイト↓ http://kyou89.fc2web.com/sei/o_PTSD.htm (「症状」の項目と「トラウマへの対応」を参照) や、こちらのサイト↓ http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/griffin/method/trauma005.html で、今の僕の脳内の状態がまさにそのまんま説明されています。 15歳以降、僕は ・学校で授業を受けている最中 ・期末テスト中 ・テレビを見ている時 ・読書をしている時 ・漫画を読んでいる時 ・映画を見ている時 ・音楽を聴いている時 ・勉強したくてやっている勉強中 ・趣味をしている時 などなど、もう本当に何をやっても彼らの存在が脳内に表れて、満足に思考できなくなってしまったんですね。 これだけでも十分辛いです。 しかし、僕はこれ以外にも ・友達と遊び青春すること ・恋愛すること ・気持ちよく毎日寝ること という、普通の人が普通にすることもできなくなりました。 常に、 「街へ行ったら奴らに会うかもしれない・・・」 「誰かと付き合ったら奴らに笑われるかもしれない・・・」 みたいなこと考えていたためです。 異常なまでに警戒していたので、このようなことを思ってしまっていたのでしょう。 要は、僕は思考が彼らで支配されていたので、結果的に行動が異常なまでに制限されるようになってしまったのです。 ここまできたら、もう僕は脳内で彼らの「奴隷」と化していると言っても過言ではないでしょう。 15歳以降満足に物事を考えたり覚えたりできなくなってしまった僕は、今までほとんど思考停止状態で生きてきました。 ここ9年間の記憶がほとんどありません。 「同じ」ことを「ただひたすら、取り付かれたように」考えていたんですから、当たり前と言えば当たり前です。 「15歳の時にどこか牢獄に閉じ込められて、そこから未だに出られていない」 僕の気持ちとしては、この表現がピッタリくると感じています。 本来ならば強迫観念に苦しめられるようになった15歳の時に、カウンセリング等を受けるべきでした。 残念ながら、当時の僕は自分が病気だなんて気付いていません。 そして、ここ1ヶ月ぐらいまでずっと気付かずに生きてきました。 ずっと苦しんで生きてきた僕が、なぜ今自分が「病気だと」気付くことができたのか。 それは、1ヶ月前に小学校時代の友人と会ったことがきっかけです。 とある縁でその友人と10数年ぶりに会うことになり、色々お互いのことを話し合ったんですね。 そしてその時に、人生経験的に変化がほとんど無い僕にその友人は違和感を感じたのか、色々込み入ったことまで聞いてきたんです。 そこで僕は思い切って、これまで僕がどう生きてきたかについて本音の部分を話しました。 「中学でいじめられて、そこからその加害者達の存在が頭から離れなくなって、やりたいことのほとんどができなくなって、常に家で過ごしてきて、強迫観念が原因で何かを考えたり覚えたりすることが満足にできないから仕事は単純作業系の中学生でもできるような仕事をしていて、中学卒業以来思考力や語彙力が全く増えてなくて・・・」 などなど、ずっと抱えてきた悩み、そして今も継続して抱えている悩みを話しました。 そしたらその友人が、 「それって確実に病気だよ。 そこまで異常に無意識レベルで脳内に出てくるのって、普通じゃないもん。 もしかしたら、強迫性障害の一種だと思うよ」 と言ってきました。 その彼は大学時代心理学を専攻していたらしく、心の病などに非常に詳しいので分かったのだそう。 それがきっかけで、なけなしのお金を払って専門家のカウンセリングを受けてみました。 すると、本当に彼の言う通りでした。 冒頭で紹介したサイトに載っている病に冒されていたんですね。 以来、週に1回ぐらいのペースで通っています。 カウンセリングに通うようになって以来、自分の強迫観念の中身が明確になってきました。 僕は、「屈辱を受けること、精神的苦痛をうけること」を避ける為に、ひたすら普通の人なら考えないようなことを考えているみたいなんです。 例えば・・・ ・俺が目標達成とか言ってるのをあいつらが聞いたら笑ったりしないかなぁ・・・ ・真剣に何かに情熱持ってやったりしているところを奴らに見られたら馬鹿にしてくるかなぁ・・・ ・自分の熱い想いとかを語ってるところとか見られたら馬鹿にしてくるかなぁ・・・ ・バスケについて語っているとこ見られたら馬鹿にしてくるかなぁ・・・ ・Facebookに写真とか載せて、それを奴らが見たら馬鹿にするかなぁ・・・ ・何か夢について話しているところを見られたら何か言ってくるかなぁ・・・ ・自分の信条とか確固たる考えとかをもし奴らが知ったら馬鹿にするかなぁ・・・ ・どこかでバッタリ出くわしたら馬鹿にしてくるかなぁ・・・ ・自分が友達とか誰かと楽しんで騒いでいるのを当時の奴らが見たら・・・ ・僕が自分の成長を望んで努力したりしているのを知ったら、当時の奴らは笑うかな・・・ ・僕が楽しそうに写真に写っているところを奴らに見られたら馬鹿にされるかなぁ・・・ ・ファッションなどについて語っているのを彼らが知ったら、馬鹿にするかな・・・ ・何かに一生懸命挑戦しようとしている姿をもし当時の輩達が見たら、馬鹿にするかなぁ・・・ ・頑張って努力している姿を彼らが見たら、また馬鹿にしたり何かするだろうか・・・ ・一生懸命勉強して、知識をつけているところを見たら馬鹿にしてくるだろうか・・・     ・     ・     ・     ・ こんなことを、何をやっていても考えているみたいなんですね。 冒頭でも少し触れましたが、過剰防衛をしているのです。 常に警戒して、「受けるかもしれない屈辱」を前もって考えているみたいなんです。 こうやって考えていることが明確になった今、この強迫観念を頭から取り除く術が分かってきました。 それは、多くの人に上記の項目のことなんて、一秒も考えなくていい!と言ってもらうことです。 僕は、未だに屈辱を味わっていた当時の映像が脳内に残っています。 だから、非常に恐れてしまう。。。 その恐れを取り除くには、 「そんなこと全く考える必要が無い!」 「当時のいじめの加害者達が何をどう思うかなんて、全くもってどうでもいい!」 「誰かに馬鹿にされるかな・・・なんて全く考えなくていい!」 ということを具体的な理由と共に説明してもらうこと以外ないと考えます。 前置きが長くなりまして大変申し訳ありません。 質問です。 上述した14点などの事柄は全く考えなくていいんだ!と、具体的な理由も添えて説明して頂けませんか? 質問文が本当に冗長で稚拙な感じになってしまったことをお許し下さい。 それでは、多くの方に回答して頂けることを切に願っています。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 本を読んでも"自分"を保てますか?

    哲学や学問は世界を探求した結果がまとめられたようなものですよね。 それを自分に取り込めば、世界への理解がインスタントに得られ、 生活に役立ったり、よりよく生きることが出来るようになったりします。 しかし、そういった哲学や学術の本を読んでしまったら、 読まなかった以前とは思考や思想が変わってしまったり、 もし同調などしてしまったら、"自分らしさ"なんて消えてしまうのではないでしょうか? 例え上手く付き合ったとしても一度読んだものは忘れることは出来ないわけで、 『影響されなかった』と言い切ることはできないですよね。 哲学の本などは特に価値観や思考に直接関係するようなものばかりで、 もし影響されやすい人なら、本の内容そのままの思想に乗っ取られ、 作者のレプリカみたいなモノになってしまったりするんじゃないのでしょうか? もちろん、内容すべてに同調することは殆どないと思いますが、 その本の一部でも吸収してしまったら、もう読んだ人は"天然もの"じゃないですよね。 色々な本を読んで、自分が最も共感できる者を択一する…。 一見、オリジナリティ・個性をを保持したままのような感じがしますが、 実際はただの寄せ集め…ちぐはぐな存在でしかないのではないでしょうか。 彼が後に本を出したとして、その内容はしょせん過去の本からの引用…。 何百年後に評価されるような事はあるのでしょうか? 古今東西の哲学書を読んだ哲学者より、 森の中で生まれ育った人間の方が、よっぽど斬新で有意義な本を書くのではないでしょうか? 科学の分野で古い理論や最新の理論を読んだとしても、 それは過去、或いは直近での「事実」を読んだに過ぎず、 今や未来での「真実」を追求するのに何か役に立つことはあっても、 それ自体が「真実」に影響を与えることはないと思います。 (世界は平らだといっていた時代があったから、いま地球が丸い、というわけでないように) ところが哲学…思想や思考に関するものには「真実」がないですよね。 あるとしても個人のセンスに依存しているわけで…。 そうすると過去の本を読むことは、いたずらに自分を汚すようなものじゃないんですか? 科学が研究して真理を求めるように、人は経験し自らの思想思考を育む。 なのに本を読んで、こりゃあいいやって傾倒したら、 それは真実が変わってしまったかも知れないってことですよね。 20世紀には沢山いい哲学者がいたようですが、 21世紀にも、後世で「すごい人だね」と言われるような人は現れるでしょうか? 哲学-学者は哲学者になりうるのか…。 オリジナリティに溢れる哲学者はどこから来るのか…。 どうお考えになりますか?

  • 35年前に読んだ本の書名・著者名を探しています

    35年前に読んだ本の書名・著者名がわからず、気になっているので、 「もしやこれでは?」というものをご存知でしたらお教えください。 丸山眞男氏の本、『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社 1964年)の中に 非常に有名な「超国家主義の論理と心理」という論文があります。 この中に有名な一節があります。 --------------------------------- 天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て 万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、 その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。 そうして中心からの価値の無限の流出は、 縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。 ----------------------------------- これと同じような発想で書かれていた本を35年前に読んだ気がします。 「日本人は、円筒形の筒の、外側にいて、そこから筒を覗き、 自分より上の位置にいるか、下の位置にいるかという 相手との相対的位置関係を確認する。」 遠い記憶なので不正確ですが、 日本人の「長いものにはまかれろ」的な習性、権威主義について 分析した論文だったかと思います。 昔読んだであろう本を図書館などで見つけては 探しているのですが見つからず困っています。 よろしくお願いします。