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キリスト教に興味のある方お願いします。

piccassoの回答

  • piccasso
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回答No.11

 すでに色々な方が詳しく述べられていますし、わたしなりの推測ですが、ご質問されている引用文が問題にしているのは「信仰の本質とは何か?」という事ではないかと思います。  一文が長いので、ちょっと切ってみます。 1) 科学的知識において知ることは科学的検証が伴い、検証可能なものが真理として受け止められるが  ここで言われていることは、要は「科学的真理」で、方法として、実験・検証という手段を通して、この世界に隠れている(直接目で見ることのできない)真理を明らかにすることができるのだが、という事ですね。  これは、すでにお分かりの通りだと思いますが、この事を前提として、以下の点が問題となっています。 2)経験世界を超えた存在や現象を信じる宗教的心理は主体的真実であり、科学的検証を超えている。  経験世界を超えた存在や現象:1)を受けるので、恐らく[経験世界を超えた存在]神や、[経験世界を超えた現象]神の奇跡といった(実験・検証不可能な)現象について、宗教的心理(「真理」ではないでしょうか?)は、実験・検証といった客観的な真実ではなくて、神や神の奇跡といったもの、つまりそれを信じる人(主体的)にとっての真実であり、実験・検証によって確認できないゆえに、科学的検証を超えている、という事を後半部分で言っています。 3)言葉を変えて言えば、信じることは実証を越える側面を持ち、信仰は飛躍の契機を内包している。  信仰は飛躍の契機(ヘーゲル哲学でいう所の「物事の変化や発展を決める本質的な要素」)を内に含んでいる。  つまり、信仰の本質(信仰における真理)とは、実験・検証といった科学的検証を超えているという点において、飛躍(実験・検証を超えている)である。 前述の事から、この世の真理は二つに分類できる。  →実験・検証可能な真理(一般的な真理)  →実験・検証不可能な真理(宗教的な真理)  [信仰という手段によってとらえる事ができる]    →加えて、信仰という手段は「飛躍」(科学的実証を超えているという意味において)という本質的な要素を持つ。       という事ではないでしょうか?  

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