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統一教会の原罪の解釈の仕方とキリスト教の原罪の解釈の仕方

統一教会の原罪の解釈の仕方(ネット上にある原理講論から引用しました) 罪を犯す前、アダムとエバは裸でいても恥ずかしく思はなかった。しかし、彼らが堕落した後には、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉を持って下部を覆ったのである(創3:7)もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかと言えば人間は恥ずかしい所を隠すのが本性だからである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったためで、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。 統一教会では裸を恥ずかしがるというより、下部をあらわにすることを恥ずかしがっており、キリスト教では裸であることを恥ずかしがっているように見えます。ここで質問です。統一教会では葉で下部を隠したということを上記のように詳しく説明していますが、キリスト教ではあの創世記にある「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」という部分で、なぜ恥ずかしがって先に腰の部分を隠したのですか?キリスト教の場合ではここはどう解釈しているのですか?

みんなの回答

  • vincero
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回答No.17

{No.10の補足} >アダムとエバが死を覚悟していたなどとは、聖書のどこにも書いていません。ただアダムとエバは神に従わず、ヘビに従ってしまったということです。アダムとエバは好奇心にもあおられ、ヘビの言葉をそのときに信じてしまったのです。  善悪の知識の木の実を食べる前から、『女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、…』(創世記 3:6) と聖書に書かれています。なぜ「おいしそう」と思えるのかは、その実と似たような物を食べた経験があるからです。経験がなければおいしそうとは思えません。  では「似たような経験は下部で行ったのか」という疑問ですが、その「下部による行為」に似た経験をしていたのでしたら、その時点ですでに羞恥心が起きていてもおかしくはありません。ですが、下部を隠すようなことはしていません。これは、堕落の原因が下部の問題ではないということです。  堕落の原因を、「下部による行為」とする原理講論の説は間違いです。二次的に罪となったものを、原理講論では原罪としているにすぎません。    聖書 創世記 3:1~3:6  主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」  女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。  でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」  蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。  それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」  女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

vovo2
質問者

補足

>善悪の知識の木の実を食べる前から、『女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、…』(創世記 3:6) と聖書に書かれています。なぜ「おいしそう」と思えるのかは、その実と似たような物を食べた経験があるからです。経験がなければおいしそうとは思えません。 >では「似たような経験は下部で行ったのか」という疑問ですが、その「下部による行為」に似た経験をしていたのでしたら、その時点ですでに羞恥心が起きていてもおかしくはありません。ですが、下部を隠すようなことはしていません。これは、堕落の原因が下部の問題ではないということです。 確かにちょっと納得しました。こうゆう回答を待ってました(笑) で、また疑問に思ったのですが、なぜ神の命令を破ったことで裸であることを恥ずかしがったのですか?

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  • vincero
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回答No.16

 No.2のkigurumiさんの回答には賛同できませんが、No.13の回答には共感できます。    ダビンチコードの話しはここで言っても無駄です。洗脳されている人達には逆効果になる書物です。  聖書やキリスト教に対する批判はいくらでもできるものですが、それでそのクリスチャン達が信仰を捨てるようなことはありません。  彼等は聖書を信じていたり原理講論を信じているので、ダビンチコードを正しいものとして信じることはありません。彼等はこの書物を偽物としか思っていないでしょう。問題は彼等にとって何が真理であるかを伝えることです。  彼等は原因があるから結果があると信じているわけです。堕落したことも原因があり、その結果として嘘を言ったりする罪が、血統的に生まれながらの人間に備わってしまったと考えているわけです。  そこで、私としては嘘を言うことそのものに罪はないと考えています。「嘘=罪」にはなりません。嘘には何種類かありますから、その種類によっては罪にならないものもあります。  相手を喜ばすためのお世辞は、嘘を言っていることになりますが、それを罪にすることのほうが罪ではないでしょうか。本当のことを言ったことで相手に深い傷を与え、その本当のことを言ったことが罪になることもありますよ。  確かに本当のことを言えば、原理講論は間違いだらけの書物です。それを信じている人へ伝えても、ただ傷つくだけですから難しいです。本当の真理を教えてあげるしか方法はありません。  真理はイエス・キリストの言葉だけです。それにつきます。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」これは多少訳が違うが、「本来は敵などはいないのだから、お互いの幸福のために祈ろう。」となるのです。   

vovo2
質問者

補足

質問の趣旨とは違いますが、vinceroさんの欄のところでまとめてみなさんに質問します。 食口の人は、人はなぜ「悪の心」があるのかということに対して、アダムとエバの問題があったからだと言います。こんなに乱れている世の中は人に「悪の心」があるからだ。全てのものを愛する神が人に悪の心を創るはずがない。アダムとエバが神の命令を破りサタンの誘惑に負けたから人に悪の心が芽生えた。 と、簡単ですがこのように「悪の心」について言ってます。キリスト教も似た感じですよね? みなさんはなぜ人に「悪の心」があると思いますか?できれば統一・キリスト教以外の考えが聞きたいです。 ちなみに私は、人に「悪の心」があるというより、人が「良いこと」と「悪いこと」という風に分けたから善悪ができたものだと思ってます。元から人に「悪の心」があったと思いません。なんだか上手く伝えられなくてスイマセン。

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  • kigurumi
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回答No.15

たびたびすいません。 No.2で >以前に「そもそも その思い込みは正しいのか」って事から >問いかけることが重要だと思うのです。 >間違ったものをいくら理論でやっても、意味ないし。 >「青は渡れ」はどうしてそうなったのかっていくら議論して >納得いくものを導き出そうとしても意味ないです。 >「青は渡れではありません。 渡ってもいい が正解です」って >一蹴されてしまうあやうい思い込みです。 って私は書きました。 で、今日、『ダビンチ・コードの「真実」』を読んでいて、こんな箇所に目が釘付けになりました。 ナグ・ハマディー写本の最初の一行にこう書かれているそうです。 「これは隠された言葉である。これをいけるイエスが語った。そして双子のユダ・トマスが書き記した」 トマスの福音書の中身。 「イエスが言った、『あなたがたがあなたがたの中にあるものを引き出すならば、それが、あなたがたを救うであろう。あなたがたの中にあるものを引き出さなければ、それは、あなたがたを破滅させるであろう。』」 で、ナグ・ハマディー文書を調査した結果、若干のテクストには「創世記」の従来の読み方と非常に違った言葉で人類の起源が語られていることを学者たちは発見したそうです。 『真理の証言』にはエデンの園の物語が蛇の観点から述べられている。 グノーシス派の文献では心的知恵の原理として登場することが古くから知られている蛇が、アダムとイヴに知恵の木の実を食べるように説得しており、他方で「主」は、彼らが知恵を獲得することを妬んでそれの妨害を謀り、知恵を得たならば楽園から追放すると、死をもって彼らを脅したのである。 また、『雷、全きノース』にはこういう詩が書かれている。   我は最初にして最後の者なるゆえ。   我は誉れある者にして侮られし者。   我は娼婦にして聖なる者。   我は妻にして処女・・・   我は石女にして多くの息子あり・・・   我は把握し得ざる沈黙・・・   我はわが名の言慈。 何故、このテクストは2000年近くの間、事実上世間に知らされていなかったのであろうか。 何故隠されたのであろうか。 何故 誰が どういう目的でvovo2さんの目から隠したのでしょうか。 グノーシス派は異端として迫害されました。 グノーシス主義のモノイモスは、こう述べています。 「神とか、創造とか、それに類似したことを捜し求めるのはやめなさい。 あなたがた自身を出発点として、彼(究極的存在)を求めなさい。あなたがたの中にあって、全てのことを思い通りになし、わが神よ、わが心よ、わが思いよ、わが魂よ、わが身体よ」と言うものは、誰であるかを知りなさい。悲しみ、喜び、愛、憎しみの原因を探りなさい。・・・あなたがたがこのようなことを注意深く吟味するなら、<あなたがた自身>の中に、彼を見出すだろう。 若干のグノーシス文章は、苦難、労働、士の全てが人間の罪に由来するこを疑問視しているが、正統派(と仮に呼ぶとして)はこの罪が、元来、完全のな被造物を損なったからってなっている。 ユングは正統派の思想を心の裏側と表現している。 「どの正統派もそれを信じる者たちに抑圧すること要求している」と。 正統的キリスト教は、今日我々が奇異と考える事を使徒信条を読ませて「はい 信じます」と言わせている。 驚くべき見解を正統派の信者は疑うことなくみな受容したのである。 その裏には自らを抑圧したがる心理が、無意識のうちにある人は自分をそうやって追い込むとユングは考えた。 プリンストン大学の宗教学の教授のエレーヌ・ペイゲルスはこう言いました。 「聖書は金色の雲に乗って天からおりてきたのではなく、数多くの人々が苦労してまとめた文章の集大成です。ゆるぎない真実がいくつも盛り込まれていますが、すべてを文字通り受け取る必要はありません。考え、議論してもかまわないです。イエスもこう言っています。"求める者には、見つけるまで求める事をやめさせてはならない。見つける時、彼は動揺するであろう。動揺するとき、彼は驚くであろう”。イエスは受け入れるか拒むのかのどちらかを求めているのではありません。納得できる部分は信じ、納得できない部分については、これは間違っているのではないかと言っていいのです。新しい証拠が見つかった今こそ、その好機なのではないでしょうか。 いいこといってますね~。 まずは、今普及している正統派が聖典として取り入れた創世記の下りが、一体どういう裏があるからそうなったのか探ってみてはどうでしょうか。 それから、他の解釈を「おかしいんじゃないか」って評価してみてはどうでしょうか。 今の正統派が取り入れ編集した聖書は、百科事典の1ページを切り取ったぐらいの量みたいです。 どうして大量の文章の中から、特定の文書だけ抜き出し編集して聖典としたのか探ってみるとおもしろいかも。

vovo2
質問者

補足

>まずは、今普及している正統派が聖典として取り入れた創世記の下りが、一体どういう裏があるからそうなったのか探ってみてはどうでしょうか。 正統派とはどこのことですか?

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  • vincero
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回答No.14

 ギリシャ語で的外れの意味を、「罪」と言います。ですが、kigurumiさんの言っていることは的を射ています。  私も以前、プロテスタント(日本イエス・キリスト教団)の信者でいたことのある者です。ですが、もともとのクリスチャンではなかったため、かなり差別を受けていました。  私は学歴もなく社会的に身分の低いものです。私が「なぜ差別をするのか?」と聞くと、もともとのクリスチャンは「差別をしているのではなく、区別をしているんだ。」と言ってきました。それに、「君の人格を認めない。」とまで言われました。ここでいう差別も区別も同じ意味になるのですが、とにかく私の意見にはすべて否定してしまうのです。人格を認めないということは、人間ではないと言われたということです。  私はどこの宗教団体にも属していませんが、私の意見は統一教会にとってもこのプロテスタントにとっても、否定されてしまう内容です。ですが、私の意見も間違いのない内容のはずです。  

vovo2
質問者

補足

統一教会も原理側・非原理側とか堕落した人とか言って私たちを区別してますね

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  • kigurumi
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回答No.13

えっとー >>つまり えっと、、、アダムが6日目に誕生したとはどこにも書いていないです。 >6日目は男と女が創造されたって書いてあるだけ。 >一週間で全てのモノを創ったよ、というこうとを説明したことだと読み取れます。 >なぜなら全てのモノを創り終わったあと、 結局、何千も宗派があるのは解釈の違いで、お互いこっちの解釈が正しいとしか思えないとして分離していったんだと思います。 創世記のくだりですら、いろんな解釈ができてしまうので、ましてやこの分厚い内容を端々をそれぞれ解釈すると、もはや誰一人として同じ解釈をする他人は存在しないと思えます。 >そして「人とは」といことで具体的な人の説明になったのがアダムだと考えられます。 はい、私も最初は後で具体的な説明をしていると読んでいました。 ある時、読み誤ったって思ったのです。 思い込みで、後で人間の一番最初をどうやって創造したのか説明していると読み誤ってしまったって。 この宗教は選民主義だって知って、自分達に民族以外を異邦人 つまり英語でいえばエイリアン って思っているってこと。 エイリアンは人間じゃあありませんよね。 さて、私たちはエイリアンでしょうか? 彼ら民族からみると、エイリアンです。 いくら私たちが同じ地球人だと言っても、異種だとされます。 そりゃそうでしょう。彼らの肌は浅黒くアングロサクソン人とは違います。 アングロサクソン人も目も鼻の位置も自分達とは同じで、神が自分に似せて創ったという認識でしょう。 でも、神が選んでアダムを創り、アダムの子孫は自分達だけだって認識なんじゃないでしょうか。 ユダヤ人だって国際結婚します。 でも父親がユダヤ人でなければ、ハーフの子はユダヤ人ではなく、その共同体から仲間と認められなかったと思います。 (母親じゃなく父親だったと思いますが、ここはちょっとあやふや) そんなこんなな情報を得た後で読むと、なるほど~ 人間ができた後、アダムを作ったって書いてあるんだって読めちゃうんです。 結局最初の通り、どうにでも解釈できてしまう本なんで、<正解は無い> が正解かと。 それぞれの宗派がどの路線を取るかによるのかと。 蛇足を書かせてもらうと、生物学とかでいけば、づっと女性しかいなかった状態が長く続き、突然変異で男性が誕生したって説の方を有力視しています。 確かこの宗教では数字は意味を持っていたと思います。 地球時間を表しているのではなく、なんといいましょうか、、、言葉の遊びといいましょうか。。。 例えば7。 数字の7のことじゃ無いことがあります。 7=完全。 これを知らずに7日と書いてあるから7日だと思ってしまうと理解不能におちいってしまいます。 神さまは全能だから地球時間で7日でこの世を造ったって書いてあるんだって鵜呑みにしたら駄目。 7=完全だと知っている人が読むと、「はあ はあ なるほど 完成したんだ」ってわかるんです。 「7日で完成したんだ」って読みはしないんです。 3日で完成したとしても7日って書くんです。 3時で完成したとしても7時って書くんです。 他にも4とか6とか意味があるんです。 13も重要な数字で、忌み嫌う数字ではなかったと思います。 それは数字という概念とは違うんです。 暗号みたいなもんでしょう。 http://religion.bbs.thebbs.jp/1108185543/ あれ~ 辻褄が合わない・・・ そうです。数字は数字として使われているのみじゃないので、数字として捕らえると理解不能に陥ることがあるんです。 この聖書の暗号をなんていったか忘れましたが、日本で事件が起こるたび、日付や年齢から起こるべきして起こった事件で偶然じゃあないって騒いでいました。 数字だけではなく図形にも意味があり、長崎で首を切られて死亡した事件がありましたが、その前の集合写真をみると、その図形と同じ配置でみんな写っていた。 そしてその配置から、誰が殺されるかわかる。 ぶるぶるぶる・・・ この世は法則でなりたっているとは思いますが、数字や図形にも法則があるとすれば、おちおち外歩いていられないです。苦笑 聖書ってこういう事で参考にすれば、結構おもしろいです。 さすが古代の賢者が考えた学問だって思います。

vovo2
質問者

補足

>結局、何千も宗派があるのは解釈の違いで、お互いこっちの解釈が正しいとしか思えないとして分離していったんだと思います。 私も思います。 >この宗教は選民主義だって知って、自分達に民族以外を異邦人 つまり英語でいえばエイリアン って思っているってこと。 この宗教とは統一教会のことですか?そうでしたら、彼らはそこまで思ってませんよ。私は少し思ってるんじゃないかなぁと思ったりしますけど(笑) 彼らから見れば私は間違った結婚をした両親から産まれたサタンの血統を持つ子ですからね(^^; 愛するとか何とか言っといて、堕落した人とか思われてたら同じ人として見られてないですよね?でも彼らは全然ヒドイ人たちじゃないんです。純粋に世界を良くしたいと思ってる、私たちにすごい優しいひとたちです。 食口の人たちが嫌なのではなく、食口の人たちにこんな教義を教える統一教会が嫌ですね。

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  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.12

no8番さんの補足が下のHPにありますので参考にしてください

参考URL:
http://www9.big.or.jp/~haro/a.htm
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  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.11

もし聖書が真実なら、「食べたら死ぬ」というなら もう死んでいるはず。なぜ死なないのでしょうか? そして、もし神の計画というものがあり、それから遠ざかった時、達成できない場合VOVO2様ならどうしますか? 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 神はエデンの園に人を置き、そして支配するために 人を創造した。しかし人は言いつけを守ることが出来なかった。無から有を創造できる神なら、彼らを殺しもう一度新しくエデンの園を支配するために新しく人を創造するでしょう。 神は彼らが間違った行動をしたが、彼らを殺さず生かし、そして神は彼らを愛し見守った。そこに神の愛というものがあるのではないでしょうか?

vovo2
質問者

補足

>もし聖書が真実なら、「食べたら死ぬ」というなら もう死んでいるはず。なぜ死なないのでしょうか? すぐその場で死ぬわけではなくて、人間に「死」というものが与えらたということではないでしょうか? >そして、もし神の計画というものがあり、それから遠ざかった時、達成できない場合VOVO2様ならどうしますか? なんとも言えませんね(^^; その時の状況による・・・かな?上手く言えなくてすいません。 >神は彼らが間違った行動をしたが、彼らを殺さず生かし、そして神は彼らを愛し見守った。そこに神の愛というものがあるのではないでしょうか? それはkatyanさんがそう思えばそれで良いと思います。それにキリスト教も統一教会もこの考えは一緒だと思います。

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  • vincero
  • ベストアンサー率35% (28/80)
回答No.10

No.4での回答が理解できないのですか? 原理講論の矛盾がわからないのは、あなたが洗脳されている証拠です。  アダムとエバが死を覚悟していたなどとは、聖書のどこにも書いていません。ただアダムとエバは神に従わず、ヘビに従ってしまったということです。アダムとエバは好奇心にもあおられ、ヘビの言葉をそのときに信じてしまったのです。  その実を食べたくなる要因としては、経験として似たような実を食べたことがあると推測できます。  その実を食べることがSEXと考えるのは、あまりにも単純で思慮の浅い人間の発想です。経験がなければわからないことなのですから、SEXと考えることには無理があります。 統一教会では実を食べて人が堕落するわけがないと言ってます。(↓原理講論より引用) 「ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない。アダムとエバは、彼らが善悪の果を取って食べる日には、必ず死ぬであろうと言われたみ言のように、それを食べるときには死ぬということを知っていたはずである。それにもかかわらず彼らはこれを取って食べたのである。飢えてもいなかったアダムとエバが食物などのために、死を覚悟してまで、かくも厳重な神のみ言を犯したとは到底考えられないのである。」

vovo2
質問者

補足

>原理講論の矛盾がわからないのは、あなたが洗脳されている証拠です 洗脳なんてされてないです。大丈夫ですよ(^-^:) ただ私は今のところキリスト教の原罪の説明より、統一教会の原罪の説明が分かりやすいなぁと思ってるだけです。だからと言って統一教会に納得しているわけではありません。 私はただの一般の者でキリスト教の教えも統一教会の教えもどうでも良いんです。ただ、私の友人が統一教会の二世ということで、少し統一教会のことについて調べているだけです。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.9

間違えました。 5日目じゃなくて6日目でした。 7日目はありえないですね。休息日だから。 クリスチャンならすぐその間違いに気づいて ん?って読み直すでしょうけど、なんせ一般人なので ^_^;  なんで前 「あれ? アダムとイヴの前に人間いたんだ」って思ったんだっけ??  えっと えっと 汗 >「地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。 >主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。」 えっと、、、、どう説明すればいいんだろう。 男と女は6日目に誕生した。 しかし砂漠の民族のこいつら いつまでたっても、放牧するけど農耕しませんね。 だって農耕するのに十分な水無いんだもん。 農耕文化発展しなくてあたりまえ。 で、エデンに連れてきても、農耕しやしない。 教えても それより狩猟していたいって言う。 だって、そういう遺伝子を継承しているから。 で、探し回って手先が器用で攻撃性の少ない穏やかな人間を選んでエデンに連れてきてみた。 お? 農耕してるし。 おっけー おっけー。 (なんかゲームのsim2みたい 笑) つまり えっと、、、アダムが6日目に誕生したとはどこにも書いていないです。 6日目は男と女が創造されたって書いてあるだけ。 つまり この神話を継承する民族は、それまで狩猟が主だった文化から別れ、農耕を始めた民族だったんじゃないかと。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4789717593/qid%3D1118199633/250-9116912-0588237 これ読むと大胆な推理だけど結構おもしろいです。 それと聖典から外れたみたいですが、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%82%B9 アダムの前の奥さんだそうです。

vovo2
質問者

補足

>つまり えっと、、、アダムが6日目に誕生したとはどこにも書いていないです。 6日目は男と女が創造されたって書いてあるだけ。 一週間で全てのモノを創ったよ、というこうとを説明したことだと読み取れます。なぜなら全てのモノを創り終わったあと、 02:04「これが天地創造の由来である。」 とあるからです。そして「人とは」といことで具体的な人の説明になったのがアダムだと考えられます。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.8

>統一教会的に考えるとサタンがエバを誘惑してセックスした、という風に考えられます。 その宗派の本ページは見つかりませんでしたけど、こんなページみつけました。 http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/unifiedchurch.html ずっと行って「教義」のくだり。 >イブ(統一教会ではエバと表記)が果実を食べたというのは実は象徴的な表現で、 >実際にはイブと蛇(悪魔の化身)が霊的に交わったとします(霊的堕落)。 >そしてイブはその実をアダムにも与えた、となってますがそれは >アダムとイブが肉体的に交わった(=セックスをした)、 >と解釈します(肉的堕落)。 >果実のやり取りは交わり(性行為)の象徴なのです。 >ということで、 >イブは悪魔と交わりアダムもまたイブと交わったことで2人は >霊的・肉的ともに堕落し、生まれた子供たちとその子孫、 >つまり我々は悪魔の血統となってしまったのです。 >悪魔の血統は生まれながらにして罪を背負っているのです。 これがこの宗派の正規な教義だとすれば、りんごを食べた時点で、エバはサタンとは<精神的>に交わり、その後アダムがりんごを食べたので、エバはアダムと<肉体的>に交わったことになっているみたいですね。 この時点でこの民族にはまだ自由意志があり、神は人間を人形として 作ったがプログラムミスを犯して、自由意志が誕生する生き物にしちゃった。 その後、人間には選ぶ権利は無いはずだと考えた いわばこの民族の哲学だと思えます。 >>もう一つ、聖書を読むと、アダムとイヴ以外にも人間はいたようです。 >聖書のどの部分ですか? http://jmission.com/doc/church_bibleread.asp?words=k1&language=j_easy&chapter=1&page=2&startpage=1 5日目 27です。 で、次のリンクを貼ろうとしたんですが、何故かそのページのアドレスが出てこないので、そちらで検索して欲しいのですが http://jmission.com/doc/church_bible_main.asp ここの左のウインドウで創世記の2状を検索してみてください。 7日目 7です。 ここから私の推理であすけど、神は団体の名称で、えっと、、、、わたしはこの登場する蛇はセラフィムだと思うのです。 セラフィムも団体名というか位名みたいなものだと思います。 こう考えると難解な創世記のエデンの下りは一見無秩序な言葉のパズルのようで、実はちゃんと順序だてて作られていたと確認でき、その順序通り、秩序通り読めば、人は他にもいたってなります。

vovo2
質問者

補足

創世記の02:05には 「地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。」 とあるので、やはりアダムとエバしかいなかったのでは?

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    プロテスタント系の教会に通い始めて約5年になり,聖書を初め,キリスト教関連の本は結構読んでいますが,キリスト教の教義というか,根本原理(精神)等が未だに理解出来ません。取り敢えず下記の疑問点に付いて教えて下さい。*キリスト教で云う贖罪(罪を贖う)と罪を償うとの基本的な違い。*又イエスは十字架で処刑される事により人類の罪(原罪)を贖ったと云われていますが,この場合の人類とはクリスチャン以外の人(例えば仏教徒・イスラム教徒等)も含まれるのか。*前に述べた「原罪」はキリスト教徒以外の者にも有るのか*「贖罪論」・「原罪」等は聖書のどこに記述されているのか。以上宜しくお願いします。

  • 聖書の原罪と贖罪とハルマゲドンのサタン性

    キリスト教の原罪と 贖罪について質問です。 まず2つの 聖句をあげると、 (創世記 1:28 ) 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 (創世紀9:1) それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ とあります。 神様は人を増やそうと命令していて、誰かを殺そうとは命令しておられないと思います。 人を減らすようなことはしない。 むしろ 生まれることを望んでおられる。 これを確認したいと思います。 一方で アダムとエバが蛇にそそのかされて、食べると死ぬことをになる 知恵の実を食べてしまった。 2人は神のようになるという言葉を受けて、食べてはいけないと言われた 知恵の実を食べて 神様に背き、罪をおかし、永遠に生きる見込みを失って死ぬことになった。 これが 原罪ということだったと思います。 そこへ、こ の原罪を贖うために 代償として イエスキリストの命を 十字架にかけた。 イエスキリストがその死を持って 原罪を償った贖ったということだと聞いています。 そうすると、現在によってアダムとイブが死ぬことになった この2つの命、まず2人がいなくなるわけです、そしてこの子孫 もう 原罪を引き継ぐので、これらはの命も失われたわけです。 これで 無数の命が失われることになります。 人が死んでいなくなるわけです。 言葉が直接 すぎたらごめんなさい。 それなのに贖罪によって、イエスキリストの命も失われます。 十字架にかけられて死んでしまうからです。 と考えると、人がひたすら失われていませんか? それはこの文章の冒頭であげた、創世記の2つの聖句「生めよ 増えよ 地に満ちよ」という神様の命令や意志に矛盾してるし 反してると思います。 神様は人を増やしたいわけです。 命を増やしたいわけです。 ところが この 原罪と 贖罪の考え方では、ひたすら 人が減っていきます。 一説によれば神様は 十字架にイエスをかけられることを計画にされ、イエスの前の時代に生まれてきた 預言者たちはイエスが十字架にかけられることをあらかじめ 述べていた。 イエスも十字架にかけられる前日に、ペテロによって 十字架にかけられるようなことがあってはなりませんと言われたけれども、イエスはペテロをあなたは人のことを思って 神のことを思っていないと退けて、十字架にかけられます。 もちろん イエスは様々な 奇跡を起こす力を与えられていたので、十字架を避けることもできたでしょう けれども、十字架にかけられる方を選んだ。 でもそれって本当に神様が望んだことなのかなと思います。 先ほども言った通り 神様は誰の死も望んではいなくて、むしろ人が増えていくようにと思っているわけであって、アダムや エヴァ それの子孫の死もイエスの死も望んでいないと思います。 では 何なんだろうと考えた時、サタンの思惑ということが浮かんできます。 永遠の命を見込まれていたアダムとエバをそそのかし 知恵の実を食べさせて、死に追いやり、原罪を贖う 目的でイエスキリストを十字架にかけ、死に追いやり、大勢の人を死に至らしめた。 例えば アダムとエバが原罪を負った贖いとして、イエスの死によらなくても あるいは、新たな命を誕生させることによって贖わせることもできたと思うんですよね。 アダムとエバの原罪を贖う方法として、もしあなたたちが新しい命を誕生させれば、赤ちゃんを生み出せば、あなたたちの原罪を取り払いましょうと全知全能の神様ならできたと思うんです。 ということは原罪による死、その子孫の死、 それを贖うための死、これらはとても サタン的だなと思います。 死ぬことでしか 何かを表現できないからです。 神様ならば 誕生させることで全てを表現してくれるんじゃないかと僕は思います。 イエスの贖罪後も 人は死んでいます。 本当に神様が望んだ贖罪であれば、それが神様的なものであれば、直ちに 永遠の命が与えられると思うんです。 それから 2000年経ったと言われる今も人は死んでいきます。それは 原罪と 食材がサタン的なものであり、神様の意志にそぐっていないからじゃないですかね。 例えば 子供がお腹を空かせて親に食べ物を求める時。親はできるだけ早く食べ物を与えたいと思うと思います。 ところが 永遠の命が与えられるのは ハルマゲドンの後。死を恐れ 苦しむ人もいるのに、ずっと先です。神様ならば 直ちに 永遠の命を与えてくれるんじゃないですか? 原罪、贖罪、 ハルマゲドン、 復活はサタンによる計画 じゃありませんか? ご読了に感謝します

  • 原罪について

    こんにちは.当方,哲学・宗教についてはまったくの素人です. どうかお教え下さい. アダムとエバが犯したとされる原罪についてですが,これを取り除ける(祝福できる)のはメシアのみとされています. イエス以降,現代に至るまで,メシアを称する宗教者があちらこちらで現れているようです. 各人が本物のメシアかどうかについての議論はともかく,果たして信仰心なき者は,メシアからの祝福を受けることはできないのでしょうか. そもそも原罪がない状態とは,宗教学的にいかなる状態を指すのでしょうか.理想的には神が創造した人間本来の状態を指すのでしょうが,正直想像できません. 迷いの無い,実に晴々しい状態なのでしょうか. サタン的思考で大変申し訳無いのですが, 原罪が無い状態というのは,実際のところ,メシアを称する宗教者による洗脳が完成された状態(宗教学的祝福=心理学的洗脳の完成)を指すのではないでしょうか. たとえば,Wikiによると,統一教会のトップである文氏はメシアを名乗っている様ですが,巷では祝福どころか詐欺者扱いです. 単に本物のメシアが未だ再臨していないだけのことなのでしょうか. また,メシアによって原罪を取り払われたとする男女の間に生まれた子は,理論上,先天的に原罪が無い状態にありますが,後天的に原罪が復活することもあるのでしょうか. 当方,原罪があるが故に分からなくなっている状態にあると思われます. 原罪の無い方,あるいは何かご存じの方,この迷える子羊(?)にどうか教えを説いて下さい. 万一,ご気分を悪くされた方がいらっしゃったならば,お許し下さい.悪気や批判の念は一切ございません.

  • キリスト教を信じておられる方に質問です。

    キリスト教を信じておられる方に質問です。 下のような疑問に対してどう考えられているのでしょうか。 (1)神とは何でしょうか。絶対唯一神がすべてを造った。そして神は全知全能、完全であり 愛であり、善である、等等いっておられますが、その存在の因果関係、神の実体は全く 明かされていません。もし本当に完全な神が私たちをつくったというならば何故、生まれながらの 不平等や一生、不幸の宿命に泣く人がいるのでしょうか。 (2)キリストの贖罪愛で地上の罪は消えたはずなのに、いっこうに減らずますます複雑多元化している 事実。 (3)キリスト教では、よう信仰が深まれば死に 直面しても驚かないとか、不安に耐えうるとかいってるが、それはすべて あきらめの結果であるのではないか。 (4)キリスト教には現実の生活を変える力がない。生活の 苦悩をいいわけする論理をくみ上げてあるだけである。 現世の宿命すら 転換することができないのだから、まして天国などという来世の保証など およびもつかぬ話である。というのに反論できるのでしょうか。 (5)宗教の究極である生命に関して、 紀元前4年に誕生したキリストの母は、処女マリア、 父は神であったという。 そして三十歳ではりつけになったキリストは、三日目に 復活し、1ヶ月後には昇天したとしている。 たんなる科学の常識から考えても、 まことにバカらしい話であるが、キリスト教では、これをそのまま信じている人も あれば、宗教上の一表現として、合理化した解釈をたてたりしている。 しかし どんな理屈をつけようと、宗教の教義は万人の納得する普遍妥当性のある哲学 でなければならない。仏法は生命とは何か、死後はどうなるか、原罪の幸、不幸はなにによって決ま ったのか。 こうしたらあらゆる生命の状態を、因果のうえから解き明かし、そのうえ で原罪の宿命を打開し未来の宿命を開いていこうとするものである。仏法に劣る教義ではないか。 (6)敵を愛せよというキリスト教が、教会に対立したガリレオ等、多くの科学者を迫害してきた事実。 (7)日本のキリスト教の町、長崎に、真っ先に原爆が投下されたこと。 (8)日蓮大聖人は竜の口で命におよぶ難に勝たれたが、キリストの死は悲惨きわまる横死であった。 (9)キリストの予言は1つよして実現していない。 (10)世界教会運動が提唱されているほどの内部不統一は、教義が無力だからではないか。 (11)清貧、精神愛を説きながら、ローマ法王庁が示してきた膨大の権力、圧政の歴史ついて。 (12)キリスト教各派中どれが正統主義のキリスト教か? 他派はみな邪義をかまえ、キリストに背く罪深き人になる道理だが・・・・。 (13)法の無力をカバーするために盛んに社会事業を行って民衆を迷わせているのではないか。 拙問ですが、おねがいします。

  • キリスト教改革は可能か?ここが変だよキリスト教?

    キリスト教は宗派は沢山有りますが信者も非常に多く、20億人を越えるそうです。 そして英語圏やヨーロッパ等に多いため、世界への影響力も大きいです。 しかしそのキリスト教の神は一つの筈なのに、もう信者は分派してバラバラです この宗教が一つに纏まれば相当大きな世界的改革が可能と思われます。 昔日本でも流行った世界基督教神霊統一協会(統一教会)もそれを実現しようと 文鮮明の元信者を増やしました。しかしその教えが妥当なものではなかった為 お金は集めましたが 日韓トンネルも実現しないまま 合同結婚式で色んな弊害を出し 霊感商法と呼ばれ、反社会的と言われついに教祖の文鮮明氏も達成を見ないまま 92歳で死去しています。他にもエホバの証人やモルモン教等のキリスト教新興宗教が 出ましたが飽くまで聖書的で 聖書自体から何を学び、何をどう解釈するかが定まらず イエスの復活 イエスの死 イエスの贖罪 三位一体説 進化論 言葉 永遠の命 神への愛 隣人愛 敵への愛  神の死 原罪 終わりの日 楽園追放 姦淫など 解釈が一定でなく 現実とも異なるためもはや現代にそぐわない所が出来て来て 日本の仏教と同じで 聖書もろくに読まない信者も多いと聞きます。 このキリスト教を改革しないとこの世界の精神状況は現実と乖離するばかりです。 キリスト教をどう活かし、どう改革すれば世界は変わるでしょうか? 日頃神について疑問に思うことなどお聞かせ下さると幸いです。

  • 原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは

     ・・・どうしてか?  原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  キリストによるそれの贖いもともに言われるのですが それでも なおまだ原罪がなくなったとは必ずしも聞けない場合があります。なぜでしょう?  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており しかもそれらは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪は 悪魔とともに 方便であり もともと無い。ということではないのですか?  ということで もう少したたき台をつづります。  1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように--なぜなら ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である-- 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治 また 共同自治》が なかなか思うようにならないこと(=《苦》)の説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に人びとのあいだで想像されていたもので そのような社会通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経つつシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり 初めからなかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  すでに問うたことがありますが なお問う必要を感じます。よろしくご教授ください。

  • プロテスタントと離婚(長文)

    こういう質問をここでしてよいのかどうか迷いましたが、適当な場が見つかりませんでしたので、質問させていただきます。 先日、キリスト教のホームページでインターネット放送(?)を聞いていて、ふと気持ちが軽くなったように感じました。 もっと接点を作るため、教会(プロテスタントの)に行ってみようかな、と思っています。でも、調べていて、キリスト教はどうやら離婚を認めていないか、認めていても消極的で良く思っていないらしいということ、再婚もよく思っていないらしいということがわかってきました。 私の婚約者は離婚経験者です。私は彼の離婚の直接の原因ではないものの、そのことも悩みの一つなんです(多分、私の考えすぎだと思うのですが)。クリスチャンではないものの、彼の状況を知った時、「これが原罪というものなんだろうか」と思いました。詳しく書けなくてごめんなさい。 離婚は罪だと自覚しているからどうしようもなく苦しくて、だからこそゆるしが欲しいのに、さらに「あなたは罪を犯しているのです、でもゆるしてあげます」と言われるのはさらに苦しく、セカンドレイプ的にも感じてしまいます。それならば、罪など感じず、開き直っている方がどんなに楽でしょうか。なんだか矛盾を感じずにいられません。 それで、プロテスタントで「離婚」ということから逃げずに、現実に即した解釈を行っている宗派、または教会がありましたら、教えていただきたいのです。よろしくお願いします。