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統一教会の原罪の解釈の仕方とキリスト教の原罪の解釈の仕方

tanita530の回答

  • tanita530
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回答No.6

キリスト教では、神の命令を破って善悪を知る木の実を食べてしまったということが原罪の始まりで、裸を隠したのは原罪が生じた証拠です。ここで重要なのは神の命令を破ったということです。これが原罪のもととなったのです。 この原罪というのは罪を犯す性質といってもいいかもしれません。確かに生まれたての赤ちゃんは罪は犯さないかもしれませんが、罪を犯す性質を持ち合わせていると言うことです。ですから、子どもにウソのつき方を教えなくても自然にウソをつくようになります。もし罪を犯すことが後天的なものであるなら教育や道徳によって罪を全く犯すことのない人間に育て上げることが可能だと思いますが、それは不可能です。なぜなら人間が生まれたときから罪を犯す性質を持ち合わせているからなのです。 ここでいう罪というのは、人を殺すとかお金を盗むなどの警察に捕まってしまうような罪だけをいうのではなく、心の中で「あいつなんていなければいい」とか、「あいつなんて死んでしまえばいい」などど思うこともその罪に含まれます。うそをつくことも罪です。つまり、人間として生まれたならばすべての人間が罪人であると宣告されているのです。 では、どうして人間は生まれながらに原罪をもって生まれてくるようになってしまったのでしょうか。 神様は最初にアダムという男性を創造し、次にエバという女性を造りました。その時は人間に罪は全くありませんでした。 神様は、最初アダムとエバをエデンの園という庭に住まわせていました。どんなことをしてもよかったのですが、たった一つだけ「この園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはならない」という命令をだしました。それは、人間をロボットに造らなかったという証拠でもありました。つまり、人間に自由意志を与え、人間との間に愛を存在させたかったのです。 しかし、悪魔に化けたへびに誘惑されたアダムとエバはその命令を破り、その木の実を取って食べてしまいました。そのために人間は罪人となりエデンの園を追放され、人間は必ず死ななければならなくなってしまいました。 これがキリスト教でいう人間が原罪をもって生まれてくる理由です。 さてキリスト教でいう神について説明します。 日本には八百万(やおよろず)の神といってたくさんの神々があるといわれていますが、日本人が神ということばを使ったときには、あまりにも神という概念がばらばらです。 もし、神が本当に存在するならそれは人間が造った神ではなく、もともと存在し(だれかが造ったものならそれは神ではありません。)天地万物を創造し、無から有を作り出せるからこそ神なのです。神は唯一(ただひとり)であり何でも出来る方ですからたくさん存在する必要はなく、すべてのことを知っておられ、どこにでも存在され、正しいお方で、完全な聖さをもっておられ、義なるお方で永遠から永遠に存在される愛なるお方です。 しかし神様は、きよい正しいお方であり義なるお方ですから、その人間の罪を罪として罰しなければならないのです。 その結果、すべての人間は地獄に投げ入れられてしまうはずでした。 しかし、人間を愛している神はその地獄に投げ入れてしまう人間を救う道を開いたのです。 その方法は人間に「いい人間になりなさい」「修行をして罪のない人間になりなさい」 「いいことをたくさんしなさい」という命令を出すことではありませんでした。そんな命令を出したところで人間は修行やいい行いをたくさんすることによっては罪のない人間になることは不可能だということを知っていたからです。 そこで、神は自分のひとり子であるイエスキリストをこの地上に誕生させ、全人類のすべての人間の罪の刑罰を負わせて十字架にかけて死なせ3日後に復活させることにより人間のすべての罪を完全に赦し天国へ連れて行く道を開いたのです。 イエスキリストは何の罪も犯さず一回もウソを言ったこともありませんでした。 十字架にかかって殺されようとしたときにイエスキリストは自分が無実であることを叫びませんでした。 ほふり場に引かれていく子羊のように何も言わず、自分がかかる十字架をかついで処刑されるべき場所へと歩いていき、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈りました。 私たち人間は無実で十字架にかけられているときに、自分を殺そうとしている人に対してこのように言うことはできません。 しかしイエスキリストはそのように言って十字架の上で息を引き取りました。しかし3日目に復活しました。 それは、イエスキリストが神のひとり子であったという証拠です。3日後に復活したのも彼が神のひとり子であったからできたことなのです。 イエスキリストは私たちを命をかけて愛し私たち人間の罪の刑罰を身に受けて十字架にかかって死に天国への道を開いてくださったのです。 そのことを自分のこととして信じる者はすべての罪を赦され天国へ行けます。しかし信じないものはその罪が裁かれ地獄へ行かなければなりません。クリスチャンはイエスキリストの道徳的な教えを信じているのではなく、十字架と復活を信じているのです。 イエスキリストの十字架と復活がなければキリスト教は存在しませんでした。

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質問者

補足

>キリスト教では、神の命令を破って善悪を知る木の実を食べてしまったということが原罪の始まりで、裸を隠したのは原罪が生じた証拠です。 統一教会ではこのように言ってます(原理講論より引用) 「多くのキリスト教信徒たちは今日に至るまで、アダムとエバが取って食べて堕落したという善悪を知る木の果が、文字どおり何かの木の果実であると信じてきた。しかし、そうであるなら、人間の父母としていまし給う神が、何故その子女たちが取って食べて堕落する可能性のある果実を、このように「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好まし」くおつくりになり(創三・6)、彼らがたやすく取って食べられる所に置かれたのであろうか。  かつてイエスは、「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」(マタイ一五・11)と言われた。まして、食物がいかにして人間を堕落させることができるであろうか。人間の原罪は、あくまで人間の祖先から遺伝されてきたものであって、食物が原罪を遺伝するその要因とはなり得ないのである。 なぜなら遺伝は、ただその血統を通じてのみなされるからである。ゆえに、ある一人の人間が、何か物を食べたなどということによって、その結果が子孫代々にまで遺伝されるはずはない。ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない。」

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