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一神教と多神教を生み出す環境の違い

宗教には一神教と多神教があります。 高校のときの社会の先生は、それが生まれる背景を次のように説明してくれました。 「砂漠のように何もない世界では一神教が生まれる。日本のように四季があって自然が豊かな世界では多神教が生まれる」 当時はなるほどと納得したのですが、今考えると、そんな単純ではないと思います。 一神教と多神教が生まれる環境というか、背景というか、生まれる要因としてはどのようなものがあるのでしょうか? また、一神教の神は戒律が厳しいといわれますが、どうして厳しくなってしまうのでしょうか? 神についての概念は両者で大きく違うと思いますが、一緒に論じてよいものなのでしょうか? いろいろと疑問を書きましたが、神に関することなら何でもよいので書き込んでください。 よろしくお願いします。

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  • nacam
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回答No.9

宗教を、一神教と多神教だけで考えると、実際と異なるものになってしまいます。 一神教の世界でしばしば問題となった、二元論的考え方も、考慮すべきです。 二元論は、光と闇、知性と肉体、善と悪などの対立軸を考える考え方です。 有名なところでは、ゾロアスター教やマニ教ですが、キリスト教の中でも、グノーシス派、カタリ派、ボゴミール派、フス派などあります。 普通のキリスト教においても、神とサタンの対立が描かれており、完全な一神教とは言い切りません。 二元論的立場に立つ多神教として、ゲルマン神話(オーディンとロキ)、ヒンドゥー教(ビシャンヌとシバ)などがあります。 ギリシャ神話では、ゼウスの優位が描かれ、完全な多神教とはなっていません。 日本の神道においても、天照の優位が確立していますが、ギリシャ神話ほど、優位は確立していません。 仏教においても、南方仏教は、ブッダが中心で、一神教に近い形になっています。 それに対し、北方仏教は、多神教に近いかたちになっています。 イスラム教やユダヤ教においては、完全な一神教になっています。 逆に、ケルト神話は、完全な多神教の世界です。 このように、世界中の宗教は、色々な種類があり、単純に一神教、多神教と2分して述べる事は、各宗教の本質を見失う事になりえます。

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  • corpus
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回答No.8

神を一とか多とか数えることが、そしてそれを区別できることが私には理解できません。木は幹は一つですが、枝は多数あります。私は神のどこを見るかによって神の数が変わってしまうのです。神の属性に数というものは本来ないはずです。 それと、もし二神教や三神教があれば面白いのですが、それがないとしたら、それはなぜなのでしょうかね。

  • apple-man
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回答No.7

ユダヤ教が生まれた背景には、ユダヤ人の逃亡 生活からくる、不安定な日常という環境が あったからです。    出エジプト記にあるように、エジプト人の 奴隷だったユダヤ人はエジプトから 逃げ出し、砂漠地帯を逃亡していたわけです。  エジプトは今は砂漠化が進んでいますが、 当時はナイル川を中心としてもっと 豊かな地域だったわけです。  そこから草木もろくに生えない 荒れた砂漠地帯を逃げていったわけで、 みんなで強力に一致団結して生きて いく必要があったわけです。 こういった神もいるとか、こうゆう 考えもあるなどとみんなでばらばらの ことを考えて生きていく余裕なんて なかったため、その強烈な思想 統一が一神教という形で出てきた わけです。

  • yuhkoh
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回答No.6

 誤解されているようですが、信者数が多いだけで、一神教という宗教形態はユダヤ教その派生としてのキリスト教・イスラム教ぐらいです。信仰形態としては多神教の方が圧倒的多数です。  「砂漠だから一神教が生まれた」のであれば、なぜ古代エジプトが多神教なのでしょうか。世界各地の砂漠や荒地で発生する宗教も「一神教」でなければ上記の説明も整合性が付きませんね。それ以前にイスラエルでもさまざまな神が崇拝されていて、それらの神の要素を受け継ぎながら、「唯一にして絶対なる<神>」の信仰が生まれた、ある意味で「特異な信仰形態」です。  その「特異な信仰形態」である一神教と「普遍的信仰形態」である多神教とを同列にして、「生まれる環境というか、背景というか、生まれる要因」を論じること自体が難しいように思いますが。  ちなみに「神」という用語ですが、広く宗教上における、信仰・崇拝の対象(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教における「唯一にして絶対なる<神>」や仏教の「仏」、神道の「カミ」、道教の「天」など)を意味する用語として使用する場合と、実際の信仰の対象としての神とを混同してはいけません  つまりユダヤ教(キリスト教・イスラム教)の「唯一にして絶対なる<神>」に対しても、便宜上、神という訳語を与えていますが、この「唯一にして絶対なる<神>」と神道における「カミ」は異なるものです。神の概念は宗教によって異なり、また同じ宗教であっても教義・宗派によってまた変わってくるので、用語としてのとらえ方に気を付けてください。

  • kigurumi
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回答No.5

>一神教と多神教が生まれる環境というか、背景というか、生まれる要因としてはどのようなものがあるのでしょうか? 一概には言えないと思います。 ユダヤ教は1日の戒律が何百もあり、こなすのが大変らしいです。 どうしてそこまで戒律が厳しくなったかというと、人々の価値観の統一をしないと、外敵に一致団結して対抗できないと考えたからではないかと思います。 キリスト教のカソリックは戒律が非常に厳しいらしいです。 離婚は禁止ですが、弊害として結婚をせず同棲して子どもを産む人が続出しました。 合わなくても結婚していないので、離婚しないことになり、別れても戒律を破ったことにはならない。 プロテスタントは宗派によって違いがあるものの、カソリックより戒律は緩やかだと思います。 戒律は何のためにあるのかって考えると、支配者の都合がよくなるようになる為って気がします。 例えば兵士。 戒律が非常に厳しいらしいです。 敵が攻めてきたとき「撤退」といわれたら、「えっと撤退ってまだ大丈夫じゃない?」って考えていたらやられます。 思考をすっとばして、条件反射で行動を取る必要があります。 それで日頃 命令に瞬間反射するように慣らしておく。 プロテスタントの国アメリカは戒律がゆるやかです。 支配者が言っても聞きはしません。 それで9・11を使って目的達成をしたのではないかと思います。 これで国民が恐怖心でいっぱいになり、戦争を支持してしまった。 その後 又再選された理由はよくわかりません。 戒律でもないし、恐怖心をコントロールされたわけでもないし・・・。 武器が神の国アメリカ? 一神教ですね。 戒律無くても統率できるんだって思いました。 メディアと神の融合でしょうか。

回答No.4

去年ベストセラーになった「バカの壁」(養老孟司著)には、一神教は都市宗教で、多神教は自然宗教と書いてありました。都市宗教が一元論化する理由が、都市の人間は精神的に弱いので頼るものを求める。それに対して百姓は土地があるから強いと書いてありました。 確か、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教にしても、もともとはヘブライの信仰からの宗教であって、もともとは同じなのに争いあうなんて、おかしい話ですよね。 あと、日本のアニミズム(多神教)だと、この川にはこの川の神様がいて、その土地にはその土地の神様がいる信仰です。「千と千尋の神隠し」の世界ですね。一神教と違う点は、神や精霊なども人間と同じ世界に住んでいるという点です。一神教は、都会の神なので、多くの人をまとめるために好都合。いわば政治的な意味が強いです。そのためにも、われわれ人間よりも次元の高い、到底及ばない存在を神として、神は常に見ている、悪いことをしてはいけない、良いことをしよう、それで罪が償われるみたいなことになったんだと思います。 なので、神と一言に言ってもいろんな概念があります。宗教によりけりです。

  • sophy215a
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回答No.3

高校の時の先生が仰っていたのは和辻哲郎の「風土」では無いかと思います。私も高校時代の現社の担当教諭に同じような話しをされた記憶がありますw さて一神教と多神教という区分で考えた時にまずは一神教と多神教を大まかに分けたいと思います。 一般的に一神教なのはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教が有名です。 多神教ではヒンズー教や日本の神教などが有名です。 では一神教の背景や要因について考えてみたいと思います。 上記に書いた一神教というのは名前こそ違えど、 実は元々はみな同じ宗教でした。 原始ユダヤ教をムハンマドが解釈するとイスラム。 同じく原始ユダヤ教をキリストが解釈するとキリスト教となったのでした。 御幣があるかもしれませんが大まかに見たときに、 宗派が違う兄弟みたいな感じといえます。 つまり信じている神様は実は同一人物です。 その神様は自分たちの造物主で、全ての始まりの起因たる存在という形です。 さて多神教で一番有名なのはヒンズー教などですが、 実は世界中の原始宗教は殆どが多神教であるそうです。日本でもアメリカのインディアンにしても南米の奥地のインディオにしてもアフリカ原生民みしても、 環境はかなり違いますが実はみんな多神教です。 多神教というのは、自然の中にある存在つまり水や空気や木等々を神とみなす考え方です。 日本で言う所の八百万のなんちゃらでしょうか。 ちなみに仏教に本質的には神はいないそうです。 さて、結局何が言いたいのかと言いますと、 私が思うにですが一神教と多神教の環境的要因は実はそれほど無いのではないかと私は考えています。 一神教が今は世界中に広まってはいますが、 元々そういう考えを持ったのはイスラエル付近のごく一部の民族でしかなく、その他の環境も人種も違う大多数の地域の民族は多神教だったのですから。 閑話休題

  • pbf
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回答No.2

すみません、#1ですが書き損ねました。 言い換えれば、教祖がいるかいないか…… この違いだと思います。

  • pbf
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回答No.1

ヨーロッパやアラブのような陸続きの国々では、有史以来争いが絶えなかったんでしょうね。いや、今でもやってましたっけ?アメリカとイラク。 キリスト教にせよイスラム教にせよ、一神教なら異教徒を皆殺しにしても、自分の神様が許してくれるんだから、さぞかし力強い動機づけになることでしょうね。 一神教は、そんな環境のなか自分たちの都合に合わせて「人間」(特に狩猟民族)が作ったもの。 多神教は自然発生的に(農耕・遊牧民族のなかで)できあがったもの。 そんなふうに私は思います

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