• 締切済み

多神教は 一神教と違うと思っていませんか?

 1. この問いは 個人にとっての信仰については ほとんど脇に措いておきます。  社会のナラハシとしての宗教を扱います。  2. だとすれば 商人がお稲荷さんを拝もうと その妻が極楽浄土の阿弥陀仏に帰依すると言おうと あるいは天国を夢見て教会でアーメンと唱えようと それぞれみな 一神教でしかない。  3. 狐や仏さんや神さんをいだくというその姿としては それぞれ一つの神を信じることでしかない。  4. 自身が経営の神様なる松下幸之助がどんな神を受け容れていたか知りませんが 仮りに自分がよいと思った神をみな信じていたとしましょう。すると だから 多神教となるか?  5. なりません。神さま仏さまお金さま等々すべての神々を おのれという一人の人間が人格全体として統覚するかたちで信じていると見る限りで それらはまとまって一つの神であるはずです。さもなければ 分裂状態か さぞうまく信じ分け使い分けていることになります。  6. 一つの社会ないし国として多神教を標榜しているという場合にも 実際の情況は 一神教の状態に同じです。  7. なぜなら その集団としてまとまって《一神教より多神教のほうがすぐれている》と宣言したそのとき その多神教社会は よそから見れば 一神教状態にほかならない。  8. 言いかえると 多神教社会は 一神教を自分たちの社会の中に輸入した場合には 多神教主義という一神教の中に従属するかたちでしか存続させないのだから。  9. もっと言えば 日本は 多神教ではなく 日本教という一神教であり その基にいろんな宗教・宗派が――マルクス教や反日教などをもふくめて――支部をつくっているというに過ぎない。  いかに?

みんなの回答

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.42

no.41のお礼コメントの指摘にて誤読が一つ明らかになり ました。質問者様の主張について下記のように認識が旧 から新に変わりました。 質問者様の主張  旧)日本教をこしらえたい。(それは良いことだ。)  新)誰かが作った、日本教がある。(日本教がある現状   を知ってほしい。日本教がある現状は悪いことだ。) 悪いのは社会現実である。かどうかわかりません。でも 、誤読にもとづいて質問者様をno.40の回答第3段落にて 誹謗中傷をしたことは確かです。不当で愚かな行為です 。no.40の回答の第3段落を削除したいです。本当に申し 訳ありませんでした。 no41の回答の時点で理解できてなかったことも恥ずかし いです。no.41のお礼コメントにて2度手間をかけさせて しまいました。ご指摘ありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ごていねいに恐れ入ります。誰にもあやまちはありますので ご心配なく。  そろそろ閉めようかと思います。あと一日としましょうか。明日夜中に閉めます。  ご回答をありがとうございます。おつかれさまでした。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.41

no.40のお礼コメントにていただきました問 《どちらとも言える。多神教であると同時に 一神教の ようでもある》と言えませんか? について回答いたします。 no.40の回答の第1段落について、だいたいこんな感じだ ったかというところからご説明します。質問本文の7.と 9.が前提です。質問本文の9.について、集合と集合の要素 を区別する考えを当てはめます。日本教を集合と見ます。 no.30での例1と同様です。 例1 {マルクス教,反日教,いろんな宗派,いろんな宗教,支部    }=日本教=多神教 質問本文の7.からよそからみた場合、一神教になるので{と }が日本教につくと考えました。no.30での例2と同様です。 例2 {日本教}=一神教 もやーんとよそからみた場合と内の立場をあいまいにして 例1と例2を=でつなぎます。 日本教=多神教={日本教}=一神教 右辺の{と}の間の日本教に{日本教}を代入します。 日本教=多神教={日本教}={{日本教}}=一神教 代入がとまりません。 日本教=多神教={日本教}={{日本教}}={{{日本教}}}=… 考えるのをやめました。 no.40の回答第2段落最後にて、一神教とも多神教ともどち らともいえない。が正しいと思います。と書いてます。こ れは誤りです。どちらともいえないので、正しいといえな いです。下記のように訂正し、が正しいと思います。を削 除したいです。 誤)一神教とも多神教ともどちらともいえない。が正しい   と思います。 正)一神教とも多神教ともどちらともいえない。 誤りました。ごめんなさい。 多神教と一神教が違わない結論になるはずなのでおそらく、 質問本文を誤読しています。ですが、どう誤読しているのか わからないです。誤読してごめんなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~  誤) 一神教とも多神教ともどちらともいえない。が正しいと思います。  正) 一神教とも多神教ともどちらともいえない。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは やっぱり同じく 《どちらとも言える。多神教であると同時に 一神教のようでもある》と言えると考えます。  前回において 大事なところは そのあとの部分です。  あなたは わたしが日本教をこしらえる悪人だという意味のことを言っていますので いやいや そうではない そうではなく すでに過去から作られて来ているのだ わたしはただ分析して自分の結論を述べたまでであると言いました。  次のようです。  ☆☆(No.40お礼欄) ~~~~~~~~~~~  もしそうだとすれば そのように日本の社会における宗教の成り立ちや仕組みを 作って来た勢力がいる。のであって その状態・情況を わたしは分析しただけであり  ★ こんな悪には出会ったことがねえほどなァ────ッ環境で悪人になっただと? ちがうねッ!! こいつは生まれついての悪だッ! と感じるからです。  ☆ というのは そういう社会現実のほうです。  ★ 他の人の考えを洗脳して質問者様の考えにすることができそうです。  ☆ なのではなく そうではなく すでに知らず知らずのうちに 日本社会に住む人びとは そのようにあたまの思考回路が《洗脳》されて来ている。ということを意味します。  意識はしていなかったでしょう。わたしが指摘するまでは 気づいていなかったでしょう。  わたしは 分析し解剖しただけのことです。その《洗脳》をたくらみ 意識してかせずにか 実行に移して来た人たちは 別にいるとなります。  ~~~~~~~~~~~~~~

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.40

あーわかったー。 集合と集合の要素を区別した後があるんだー。 よそから見たり、中からみたりを行ったり来たりするとー その区別がもやーんしてーさせるんだー、 もやーんとして論理がゆるんでー、あーどちらともいえんなー 質問者様が自分の立場を持たない感じがするのもわかるなー って感じですね。これ、油断してないと、うまくいきま せん。もう日本教が多神教になっちゃいました。自分で パラドックス作って自分でハマる感じです。論理にしが みつかない感じって面白いです。自分の立場がもやーん するのも面白いです。一神教とも多神教ともどちらとも いえない。が正しいと思います。 第1段落の6行は質問者様の主張を理解できてた感じしま すか❓って聞いちゃうとまづいですか❓これ危なくない ですか❓危ないっていうのは、質問者様について人格的 にダメだ。こいつはくせえッー!ゲロ以下のにおいがプ ンプンするぜッ─────ッ!!こんな悪には出会ったこ とがねえほどなァ────ッ環境で悪人になっただと?ち がうねッ!!こいつは生まれついての悪だッ!と感じる からです。他の人の考えを洗脳して質問者様の考えにす ることができそうです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ もう日本教が多神教になっちゃいました。  ☆ というとき その状態は いいえ むしろ論理がすっきりとして その要素=各支部がそれぞれはっきりと区別されている。のではないのですか?  つまり 神道はそれ自体でいくつもの神々をかかえていて一つの多神教です。  そして 日本教としては この神道を漠然としたかたちでベースとして ほかにキリスト教なり仏教なり大日本平和教憲法死守派なり何なりの支店をゆるやかなかたちにおいて従えている。  こういうイメージです。  つまり 各支店をそれぞれ別々に出しているけれど 全体として本社のもとにまとまっているとしたら その姿は――内から見ても外から見ても―― あたかも一神教のごとくである。と。  ★ 一神教とも多神教ともどちらともいえない。が正しいと思います。  ☆ ということは 《どちらとも言える。多神教であると同時に 一神教のようでもある》と言えませんか?  もしそうだとすれば そのように日本の社会における宗教の成り立ちや仕組みを 作って来た勢力がいる。のであって その状態・情況を わたしは分析しただけであり  ★ こんな悪には出会ったことがねえほどなァ────ッ環境で悪人になっただと? ちがうねッ!! こいつは生まれついての悪だッ! と感じるからです。  ☆ というのは そういう社会現実のほうです。  ★ 他の人の考えを洗脳して質問者様の考えにすることができそうです。  ☆ なのではなく そうではなく すでに知らず知らずのうちに 日本社会に住む人びとは そのようにあたまの思考回路が《洗脳》されて来ている。ということを意味します。  意識はしていなかったでしょう。わたしが指摘するまでは 気づいていなかったでしょう。  わたしは 分析し解剖しただけのことです。その《洗脳》をたくらみ 意識してかせずにか 実行に移して来た人たちは 別にいるとなります。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.39

no.30お礼コメントにて質問を2ついただきました。回答 いたします。 no.30お礼コメントより >☆ つまり ずばり申しますが 要素はすべて《一神 >教と成っている日本教》に従属しています。そういう >ことでは まづいでしょうか? 要素はすべてというのがどういう意味か分かりません。 従属というのがどういう意味か分かりません。《一神教 と成っている日本教》に属する要素は一つですか❓それ とも複数ですか❓ 集合と集合の要素を区別する考え方で質問本文の7.を下 記のように一神教と多神教が違うようにつじつまを合わ せることができます。集団としてまとまった日本が《一 神教より多神教のほうがすぐれている》と宣言したとし て、よそから日本をみた場合、と、日本が日本をみた場 合があります。よそからみた場合は{日本教}=一神教です。 日本が見た場合は{マルクス教,反日教,いろんな宗派,いろ んな宗教,支部}⁼日本教=多神教です。 no.30お礼コメントより >それは 例の《クウキ》教とよぶべき状態が 実際 >の生活上のあり方に現われているところから推察さ >れるのですが どうでしょう? 質問本文の1.にて個人にとっての信仰についてはほとん どわきに置くとあります。実際の生活上のあり方に現わ れているところから推察されるというのは、個人にとっ ての信仰をほとんどわきに置いてどうやって推察された のでしょうか❓ 質問者様は、ご自分の言っていることを捻じ曲げていま す。また、現実を捻じ曲げているようにも感じます。ご 自分の考えを押し付ける意図を感じます。 質問本文を仮説として受け入れて、話のつながりがおか しいなと感じる点を1.と7.と9.について指摘しています。 no.30でいただいた2つの質問を質問で返す結果になりま した。質問を質問で返すのは失礼に当たります。ごめん なさい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 要素はすべてというのがどういう意味か分かりません。 / 従属というのがどういう意味か分かりません。  ☆ これについては そのあとにかなり長く説明していると思うのですが。つまり要素=各支部は みな 日本教というひとまとまりに従属しているように思われます。  ☆☆(No.30お礼欄) ~~~~~~  マルクス教や反日教は 日本教に対していわゆる異端分子であるように思われます。政権をうばって日本教体制をくつがえそうとしているかとも疑われるほどです。  けれども この一神教たる日本教は これら異端分子をもあたかも母親が子を抱擁するかのように みづからの社会の仕組みの中に組み込んでいると見られます。  言いかえると ほかの国では・つまりたとえばアメリカでは 一神教たるキリスト教があって ほかにユダヤ教やイスラームやブディズムなどなどがそれぞれ〔相対的にですが〕独立して存続している。のではないでしょうか。  つまり 内部の情況はかなり違っていると思われます。  組み込まれているかどうかです。  もちろん 日本教の要素となっているいくつかの宗教が 《正式に・公式に・明示的に》組み込まれているわけではないのですが あたかもその実際の状態は あたかも国民精神総動員といった様相を呈している。のではないでしょうか。  それは 例の《クウキ》教とよぶべき状態が 実際の生活上のあり方に現われているところから推察されるのですが どうでしょう?  クリスチャンもマルクシストもブディストもみんな 漠然としたお上あるいはその場のクウキに従うといったあり方のことです。  このところは 異端分子の抵抗や反抗が大きく強くなって来ているとは 見られます。  ですが まだまだ 昔からの《伝統》は根強いものがある。のではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち おっしゃるように:  ★ 日本が見た場合は{マルクス教,反日教,いろんな宗派,いろんな宗教,支部}⁼日本教=多神教です。  ☆ なのですが しかもこの内部の各宗教・宗派なる要素は 《多神教》の様相を呈していると同時に すでにひとまとまりと成った日本教に従属している。と見ることは出来ませんか?    つまり それほど内部から見ても まとまりを持って――互いにほかの宗教・宗派を批判し時には排除さえしつつ けれども全体としてはまとまりを持って―― あたかも一神教のごとく振る舞っている。のではないでしょうか。  沖縄が もし日本から独立しようとしているとするならば そのように完全なる分離を志向しているまでに到っていることは もう全体としての一神教からも離れて行くものと思われるのですが。  そうでない限りは 全体としての日本教があたかも各要素に対して求心力を持つ。のではないかと。    ★ 質問本文の1.にて個人にとっての信仰についてはほとんどわきに置くとあります。  ☆ この疑いについてすでにどなたかから指摘されたと思います。舌足らずだったと思っています。  こういうふうにご理解ください。  つまり 一方でわたしが《個人の信仰》を取り上げると言った場合には 集団としての宗教は 二の次であり むしろほとんどどうでもよいものとして扱います。  他方で ナラハシとしての宗教を取り扱うと言うとき その際《個人にとっての信仰》はどうするのか? という問題ですが これはけっきょく宗教を扱いその集団の中に個人もいると捉える限りで 個人の信仰も視野に入れずにはいられない。――こういうことだと考えていましたし ずっとそのような方針のもとにすすめて来ました。  具体的に言うなら オホモノヌシの信仰があります。ただし ここでは 神道という・一般に多神教と見なされている宗教の中におけるその個人信仰を扱う。というかたちです。集団と切り離さないようにして 個人をも扱うと。  ご批判は つねに歓迎です。まったく自由にすすめて行ってください。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.38

>☆ 応答は無しです。  既に応答済みです。 >あなたが自分勝手に解釈を加える事を良しとした事により、この質問を考える意味が失われたというのに、その後で >>積み残しの課題をひとつだけですが 掲げておきました。 >などという事をしても何の意味もありません。 >本件を考える意味自体が存在しないというのに、本件に関係する(とあなたが主張しているだけの)話など何故今更しなければならないのです?  それに対するあなたからの反論は無しです。  既に、 >あなたの「普遍神教」に解釈を加える事で、 >「『普遍神』は男神なので女神であるアマテラスやトヨウケビメは『普遍神』の分身ではないが、神道においてどちらも信仰の対象になっている。従って、神道は『普遍神教』に内包されるものではなく、神道は多神教である」 >何故「普遍神」が男神だと言えるのか→それが《無根拠なる根拠》だから。 >何故「普遍神」が男神の分身が女神ではいけないのか→それが《無根拠なる根拠》だから。 >という解釈も成り立ちますので、 >>多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽 >は「偽(誤り)」と言う事も出来ますね。 >それがあなたの仰った >>ほかにも説や理論は 自由にあり得ます。 >というものです。 >然るにあなたはあなたの「普遍神教」を一神教だとする事で、神道の事を一神教だとしている。 >この様にあなたが尋ねている事柄は、解釈次第でいくらでも答えが変わってしまうのですから、正解など存在しない質問という事になります。 >それは最初から答えが存在しないのですから、命題と言える様な代物などでもなければ、哲学と言える様な代物などでもない事は明らかです。 >あなたのやっている事は、答えのない事柄について、無駄に労力と時間を消費して言葉遊びを繰り返しているという無意味な行為に過ぎません。 という結論が出ています。  それに対するあなたからの反論は無しです。  反論が無いのは、あなたにはもうこの結論を覆す材料が無いからでしょう。  以下の内容のコピペを繰り返している事が、その何よりの証です。 >☆☆(No.32お礼欄) >解釈の分野としても 《事実の捏造・歪曲》ではない理論を述べてみてください。 >そのための一つの事例を出しましょう。 >アマテラスについて またの名をオホヒルメのムチと言います。 >このふたつの名前にかかわったナラハシは 事実としてどういうものだと理解されているのか? 互いに異なるのかどうか。 >わたしのほうはすでに 《異なる》説に立ち 後者を自然現象の神格化だとあきからにしていますから。 >☆ 応答は無しです。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.37お礼欄) ____________________________   ☆☆(No.36お礼欄) ======================    ☆☆(No.35補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~        ☆☆(No.32お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     解釈の分野としても 《事実の捏造・歪曲》ではない理論を述べてみてください。     そのための一つの事例を出しましょう。       アマテラスについて またの名をオホヒルメのムチと言います。       このふたつの名前にかかわったナラハシは 事実としてどういうものだと理解されているのか? 互いに異なるのかどうか。     わたしのほうはすでに 《異なる》説に立ち 後者を自然現象の神格化だとあきからにしていますから。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     ☆ 応答は無しです。     ~~~~~~~~~~~~~~~~   ===================  _________________________________  ご投稿をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.37

>☆☆(No.32お礼欄 >解釈の分野としても 《事実の捏造・歪曲》ではない理論を述べてみてください。 >そのための一つの事例を出しましょう。 >アマテラスについて またの名をオホヒルメのムチと言います。 >このふたつの名前にかかわったナラハシは 事実としてどういうものだと理解されているのか? 互いに異なるのかどうか。 >わたしのほうはすでに 《異なる》説に立ち 後者を自然現象の神格化だとあきからにしていますから。 >☆ 応答は無しです。  それはその直上に書かれている >はやく《神社の教え》といった決定版をあきらかにしてください。 という話の一部ではありませんか。  そして、その要求は回答No.31の御礼欄で出された >★ 神道におけるオホナムチの概念 >☆ って何ですか? 定まった内容があるのですか? を繰り返しているだけのものに過ぎません。  つまり、それに対しては回答No.32内において、 >神道の基礎になっているのは「古事記」と「日本書紀」であり、「日本書紀」にはオホナムチの事を「大己貴神」と表記していますから、「オホナムチは人間ではなく『神』である」という概念が定まっています。 と既に回答済みの事です。  既に回答済みであるにもかかわらず、同じ事を繰り返しているのですから、それは単に私が述べた事をあなたが無視しているだけの事に過ぎません。  回答済みの事柄なのですから、既に反論はなされており、同じ事を何度も応答する必要はありません。  あなたがこちらの答えを勝手に無視しているというのに、それを持ち出して >☆ 応答は無しです。 と称しているのですから、あなたがいかに卑劣な事しかおこなっていないかという証拠でしょう。  応答は無しというのであれば、 >回答No.35で既に出された >>あなたはあなたが加える解釈次第でどうにでも変わってしまう事柄に関して尋ねている訳であり、その様なものはいくらでも答えが変わってしまうのですから、正解など存在しない質問という事になります。 >>それは最初から答えが存在しないのですから、命題と言える様な代物などでもなければ、哲学と言える様な代物などでもない事は明らかです。 >という結論に対して、あなたからは何も反論がない事からも明らかです。 という結論に対するあなたからの応答は無しです。  あなたが自分勝手に解釈を加える事を良しとした事により、この質問を考える意味が失われたというのに、その後で >積み残しの課題をひとつだけですが 掲げておきました。 などという事をしても何の意味もありません。  本件を考える意味自体が存在しないというのに、本件に関係する(とあなたが主張しているだけの)話など何故今更しなければならないのです?(笑) >今後同じ堂々巡りのやり取りを繰り返す愚をさけるために  いいえ、あなたは全ての回答者の回答内容を無視して、勝手に自分が考えているだけの個人的な考えに過ぎない話を勝手に延々と繰り返しているだけです。  堂々巡りなのではなく、あなたが勝手に同じ事を繰り返しているだけの事に過ぎません。  それに、あなたは回答No.35において私が出した結論に対して一切を無視して、相も変わらず自分考えを主張することを目的とした投稿を締め切らずにいるという規約違反を犯し続けています。  そのあなたの規約違反の方がよほど重大な問題です。 >ほとばしる痴性 ゆるぎない痴呆。の現実をみました。  これこそ、 >言いがかりを言いイチャモンをつけ というものですね。  そんなあなたに送るにはこの言葉が相応しいでしょう。 >このご自身の姿をよく見つめ 哲学カテにふさわしい態度と >内容を投稿できるように つとめてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.36お礼欄) ======================   ☆☆(No.35補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~       ☆☆(No.32お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    解釈の分野としても 《事実の捏造・歪曲》ではない理論を述べてみてください。    そのための一つの事例を出しましょう。      アマテラスについて またの名をオホヒルメのムチと言います。      このふたつの名前にかかわったナラハシは 事実としてどういうものだと理解されているのか? 互いに異なるのかどうか。    わたしのほうはすでに 《異なる》説に立ち 後者を自然現象の神格化だとあきからにしていますから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 応答は無しです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ===================  ご投稿をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.36

>ここは 情報交換の場です。  だから何をやっても許されるとでも?  何か勘違いをしていますね。ここにはここのルールがあるのですよ。 【参考URL】  OKWAVE > はじめてガイド > 関連ガイド(禁止事項ガイドライン)   http://guide.okwave.jp/guide/prohibition.html  あなたは、私も含めたこの質問に回答して来た回答者達の話を全て無視し、単に自分の考えを公表しているだけなのですから、それは「自身の意見を表明することを目的とした投稿」をしているに過ぎません。  このサイトでは「自身の意見を表明することを目的とした内容」や「議論喚起を目的として議題を掲げる内容」を投稿するのは規約違反で禁じられている行為ですので、あなたは速やかにこの質問を締め切らなければなりません。  そしてこの様なあなたの解釈次第で答えが変わるような事柄に関して二度と質問してはなりません。 >また 反論・批判が成し得なくなっても  反論は十分に成されています。その反論に抗し切れなくなっても、それが御自身の望む答えではないが故に >言いがかりを言いイチャモンをつけ などという言いがかりをつけて誤魔化すばかりで、未だに自説を取り下げ様としないのはあなたの方です。  その事は、回答No.35で既に出された >あなたはあなたが加える解釈次第でどうにでも変わってしまう事柄に関して尋ねている訳であり、その様なものはいくらでも答えが変わってしまうのですから、正解など存在しない質問という事になります。 >それは最初から答えが存在しないのですから、命題と言える様な代物などでもなければ、哲学と言える様な代物などでもない事は明らかです。 という結論に対して、あなたからは何も反論がない事からも明らかです。 >哲学は・あるいはつまり学問は 誇張して言えば 常識をうたがい定説について検証しつづけて行くいとなみです。  では、あなたの「普遍神教」に解釈を加える事で、 「『普遍神』は男神なので女神であるアマテラスやトヨウケビメは『普遍神』の分身ではないが、神道においてどちらも信仰の対象になっている。従って、神道は『普遍神教』に内包されるものではなく、神道は多神教である」 何故「普遍神」が男神だと言えるのか→それが《無根拠なる根拠》だから。 何故「普遍神」が男神の分身が女神ではいけないのか→それが《無根拠なる根拠》だから。 という解釈も成り立ちますので、 >多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽 は「偽(誤り)」と言う事も出来ますね。  それがあなたの仰った >ほかにも説や理論は 自由にあり得ます。 というものです。  然るにあなたはあなたの「普遍神教」を一神教だとする事で、神道の事を一神教だとしている。  この様にあなたが尋ねている事柄は、解釈次第でいくらでも答えが変わってしまうのですから、正解など存在しない質問という事になります。  それは最初から答えが存在しないのですから、命題と言える様な代物などでもなければ、哲学と言える様な代物などでもない事は明らかです。  あなたのやっている事は、答えのない事柄について、無駄に労力と時間を消費して言葉遊びを繰り返しているという無意味な行為に過ぎません。  ここは、Q&Aサイトです。あなたの言葉遊びをするための場などではありません。  雑談をする事を目的とした投稿をする事もまた規約違反で禁じられている行為ですので、あなたは速やかにこの質問を締め切らなければなりません。  独り善がりの考えを公表し、雑談に興じたいのであれば、ここではなく2ch等の何を話しても良いところへ行かれるべきです。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.35補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~      ☆☆(No.32お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   解釈の分野としても 《事実の捏造・歪曲》ではない理論を述べてみてください。   そのための一つの事例を出しましょう。   アマテラスについて またの名をオホヒルメのムチと言います。   このふたつの名前にかかわったナラハシは 事実としてどういうものだと理解されているのか? 互いに異なるのかどうか。   わたしのほうはすでに 《異なる》説に立ち 後者を自然現象の神格化だとあきからにしていますから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 応答は無しです。   今後同じ堂々巡りのやり取りを繰り返す愚をさけるために 積み残しの課題をひとつだけですが 掲げておきました。   教科書あるいは百科事典に書かれていることをコピペ―するだけであって 人びとよ きみたちもそのわが流儀に従えと叫び続けている。のみ。《科学好き》の本性が これです。   いかに卑劣な推論しかおこなっていないかという証拠でしょう。   この哲学カテの水準を落とさないために。邪魔されないために。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ほとばしる痴性 ゆるぎない痴呆。の現実をみました。  ご投稿をありがとうございます。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.35

>☆ もちろん 解釈を通しての話です。 >☆ これも 《解釈をとおして》という意味  要するに、あなたの >解釈を通して >社会のナラハシ とは異なる考え方をするという事ですね。  つまり、あなたの質問は >社会のナラハシとしての宗教 の >多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽を問う ものではなかったという事なのですね?  質問をする時には、質問したい事に反する説明をしてはいけませんよ。  つまるところ、あなたはあなたが加える解釈次第でどうにでも変わってしまう事柄に関して尋ねている訳であり、その様なものはいくらでも答えが変わってしまうのですから、正解など存在しない質問という事になります。  それは最初から答えが存在しないのですから、命題と言える様な代物などでもなければ、哲学と言える様な代物などでもない事は明らかです。  あなたのやっている事は、答えのない事柄について、無駄に労力と時間を消費して言葉遊びを繰り返しているという無意味な行為に過ぎません。  あなたが話題にしている事に正解が存在しない以上、 >第二段落 以下の話など何の意味もありません。考えるに値しない事柄です。  あなたは正解のない事柄に関して個人的な考えを主張しているだけなのですから、それは「自身の意見を表明することを目的とした投稿」をしているに過ぎません。  このサイトでは「自身の意見を表明することを目的とした内容」や「議論喚起を目的として議題を掲げる内容」を投稿するのは規約違反で禁じられている行為ですので、あなたは速やかにこの質問を締め切らなければなりません。  そしてこの様なあなたの解釈次第で答えが変わるような事柄に関して二度と質問してはなりません。

bragelonne
質問者

お礼

 ここは 情報交換の場です。  哲学は・あるいはつまり学問は 誇張して言えば 常識をうたがい定説について検証しつづけて行くいとなみです。  その道筋にそって情報をかかげ みなで問い求めて行く場になっています。  あなたは こちらの示す根拠や例証をことごとくと言ってよいほど無視し 文献の中の言葉もしくは文字と違うことを言っているということだけを取り上げ それがいけないの一点張りで 言いがかりを言いイチャモンをつけ続けています。  最初から最後まで一貫しています。  また 反論・批判が成し得なくなっても ストーカー振りを発揮することをやめなかった。  このご自身の姿をよく見つめ 哲学カテにふさわしい態度と回答内容を投稿できるように つとめてください。  ご回答をありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆(No.32お礼欄) ~~~~~~~~~~  解釈の分野としても 《事実の捏造・歪曲》ではない理論を述べてみてください。  そのための一つの事例を出しましょう。  アマテラスについて またの名をオホヒルメのムチと言います。  このふたつの名前にかかわったナラハシは 事実としてどういうものだと理解されているのか? 互いに異なるのかどうか。  わたしのほうはすでに 《異なる》説に立ち 後者を自然現象の神格化だとあきからにしていますから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 応答は無しです。  今後同じ堂々巡りのやり取りを繰り返す愚をさけるために 積み残しの課題をひとつだけですが 掲げておきました。  教科書あるいは百科事典に書かれていることをコピペ―するだけであって 人びとよ きみたちもそのわが流儀に従えと叫び続けている。のみ。《科学好き》の本性が これです。  いかに卑劣な推論しかおこなっていないかという証拠でしょう。  この哲学カテの水準を落とさないために。邪魔されないために。

  • kagakusuki
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回答No.34

>というのは 解釈を加える前の段階で 神々を一つひとつ拾い上げ その内容および全体の中における位置づけなどを捉えるというときの結論です。  何か勘違いをしておられませんか?  一神教や多神教というのは、神々を一つひとつ拾い上げ その内容および全体の中における位置づけなどを捉えた際に、その中の特定の1柱の神のみを信仰の対象としているのか、それとも特定の1柱の神以外の神も信仰の対象とする事が許されているのか、という点での違いに注目して宗教を分類した際の分類の名称です。  それに対し、質問者様は >そのあと 解釈を加え この素朴な一次資料としてのごとき《多神教》は 実はこれこれこのように理論づけたり という事をしているのですから、質問者様のやっている事は >多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽を問う ものではなくなっているのです。  従って、 >多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽を問う のであれば、 >そのあと 解釈を加え この素朴な一次資料としてのごとき《多神教》は 実はこれこれこのように理論づけたり ~ >それをあらためてナラハシ事実に当てはめてみるなら かなりシンプルな整理 は全く不要で意味のない行為に過ぎず、質問者様は無駄な話を繰り返す事で結論を出す事を拒否しているだけに過ぎません。 >☆ だと言うのなら その根拠や理由を 例証を取り上げつつ のべてください。 >記紀神話をめぐる神道の決定版を はやく明らかにしてください。それについて みなで問い求めて行くことが出来ます。  その様な事は記紀神話を読めば全て書かれている事です。  質問者様の仰る「普遍神論」が記紀のどこに書かれているというのですか?  記紀神話において天照大神と須佐之男命と大国主が同一人物(同一神物?)であるとどこかに書かれているとでも言うのですか?  質問者様の仰っておられる事は、反論ではなく、只単に現実が質問者様の望み通りの形になっていないのでごねているだけに過ぎません。 >それは >★ 神道と同一の宗教などではない >☆ というご批判のようですが その根拠は何ですか?  「bragelonne限定版普遍神教」が神道と同一の宗教だと仰るのですか?  もしもその話が正しいものだとすれば、神道はギリシャ神話の宗教や北欧神話の宗教ではないので、「bragelonne限定版普遍神教」にはギリシャ神話や北欧神話は内包していないという事になります。  然るに質問者様は、 >>普遍神ひとはしらが存在し そのもとにいくつもの分身が神々となっている。 >という、 >>社会のナラハシとしての宗教 >のパンテオンでは認められていない、或はそのパンテオンにおける考え方・捉え方に反する考えをもって、多神教の事を一神教であると主張しています。 として、神道だけではなく全て多神教の事を「bragelonne限定版普遍神教」と同一視しています。  こんな事は言うまでもありませんが神道は神道以外の宗教と同一の宗教などではありません。  その神道以外の宗教を神道と同一視しているのが「bragelonne限定版普遍神教」なのですから、「bragelonne限定版普遍神教」などというものは明らかに神道ではありません。 >★ 神道の神話には「オホモノヌシ=ヒトコトヌシを普遍神と見做している事を示す様な話」など存在していません >☆ 雄略ワカタケルのエピソードをも交えて・また モノ=コト( e = mc^2 )という根拠を示して その可能性を証拠づけています。どうして無視するのですか? >「タカマノハラをも超えた場」と書かれている事からも明らかな様に、それはあくまで質問者様個人が勝手に生み出した概念に過ぎず、 >>社会のナラハシとしての宗教 >である神道におけるオホモノヌシの概念などではありません。 と既に述べております。  神道の神話の中の話を問題にしているのですから、神道ではない考えに基づいた話を無視するのは当然です。 >★ 質問者様は神道と「神道ではない宗教」の概念を質問者様個人の能力では区別出来ずにごちゃまぜにしている >☆ この命題を述べるについても その根拠を明らかにしてください。 >このとき 一次資料にもとづく神道(民俗学)と解釈を交えて理論化した神道(哲学)との区別に注意しつつ それぞれご自分の説とわたしのそれとを比べ照らし合わせる作業を ぜひお願いしたいものです。  御自身で >「オホモノヌシ=ヒトコトヌシなる普遍神を立てた場合」 >中身の違うふたつの宗教 と仰っているではありませんか。  中身の違う宗教のどこが既知の「神道」と同一の宗教だというのですか?  しかもその一方は、 >「オホモノヌシ=ヒトコトヌシなる普遍神を立てた場合」 という、記紀の神話には書かれていない内容を付け加えているのですから、それは解釈ではなく改変というものです。  質問者様が勝手に改変を加えたものなど、質問者様が勝手に新設した架空の新興宗教に過ぎませんから、 >社会のナラハシとしての宗教 である神道と同一の宗教などではない事は論を待ちません。 >★ それなら「多神教は存在する」という結論が始めから出ている訳ですから、それ以上の話は蛇足に過ぎず、続ける事はむしろ害悪にしかなりません。 >☆ いいえ。次のご見解を確認ください。 >★★(回答No.32) ~~~~~~~~ >>けれども《部外者》が哲学してはならないのですか? >哲学する事は構いません。  いいえ。次の回答を確認ください。 >★★(回答No.32) >しかし、質問者様のやっておられる事は >>社会のナラハシとしての宗教 >の実際の中身とは「自分が解釈した通りのものである」と同一視する事で、 >>社会のナラハシとしての宗教 >の内容を捏造・歪曲しようとしているに過ぎません。  質問者様のやっておられる事は害悪にしかなりません。 >★ >☆ アシハラ中つ国における登場者として捉えるならば >☆ この視点が成り立たないと仰せのようです。が いくら天孫ホノ二ニギにかんがみて 神々の住むタカマノハラとこの地上のアシハラにおける生活とは あたかも無理なくつながっているかに見えようとも そうだとしても おそらくアシハラに住む人間は もはやタカマノハラに戻って行くことは叶わないのではないか。  神道の神は高天原にだけ存在するものではありません。  海や山、川森、田畑、等々いたる所に存在するとされています。当然、アシハラ中つ国にも神は存在しているとされています。  従って、質問者様のその話は、「神道」の「大己貴神は人間ではなく『神』である」という捉え方を否定する根拠には全くなっておりません。 >★ それは質問者様が勝手に考えただけのものに過ぎない以上、質問者様の考え次第でどうにでも変わってしまうものなのですから、そのような問いには答えというものがそもそも存在しておりません >☆ だったら そのあなたの考えも まったく同様である。となりますよ。  いいえ違います。私が述べているのは私個人の考えなどではなく >記紀のこの部分では こう書いてある。 という"事実"です。  質問者様は、私が考え方を変えると記紀の記述が変わってしまうと仰っていますが、そんな事が起こりえる筈もありません。  あなたの論法は、世界のどこにも根拠となる様なものなどないが自分はこう考えた、だから世界は自分が考えた通りのものであるのが当然の事だ、という根拠もない決めつけを行っているだけであり、それは現実から目を背けて妄想の世界に閉じ籠ってだだをこねているだけの事に過ぎません。  その様なものは哲学などと呼べる様な代物ではありません。 >普遍神を持ち出して整理するかしないかの違いだけです。  その違いがあるが故に質問者様の話は >多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽を問う ているものではない訳です。  その「普遍神」とは「bragelonne限定版普遍神教」の「普遍神」に過ぎず、その様な >社会のナラハシとしての宗教 には存在していないものを持ち出して改変を加えたものなど >社会のナラハシとしての宗教 ではありません。  一神教や多神教という概念は、単純に「その宗教の内部の捉え方考え方によってのみ決まる特定の神、即ち、最高神のみを信仰の対象としているのか否か」という事によって区別するための分類方法に過ぎませんから、一神教か多神教かを問う際には宗教に改変を加える余地などなく、単純にあるがままの宗教の特徴に関してのみ考えなければなりません。  あるがままの宗教の特徴を一切無視している質問者様の話は >多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽を問う ものなどでは決してありません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  第一段落  ☆☆ 多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽を問う  ☆ もちろん 解釈を通しての話です。  第二段落  わたしの書いた内容を読み取っていないようです。すでに何度も書いていることですので このように述べるにとどめます。  第三段落  ★ 「bragelonne限定版普遍神教」が神道と同一の宗教だと仰るのですか?  ☆ これも 《解釈をとおして》という意味であるのは 自明です。  また 多神教が 実質的に一神教と同じかたちになるというのは その神々がハタラキを分担し互いに全体として分業=したがって協業していると いみじくもそちらのほうから出された見方に沿っても言えることでしょう。  ★ 神道だけではなく全て多神教の事を「bragelonne限定版普遍神教」と同一視しています。  ☆ 《同一視》というのは 多神教の言わば体制が全体としてはたらくときに あたかも〔そこには 決して明示的に語られていないところの〕普遍神のもとにそのハタラキがおさまると考えられる。この解釈を通して 類型として同一だと見られるという意味ですので 重ねて確認したいと思います。  ギリシャ神話であろうとほかのどの神話体系であろうと みな同じ類型において理解することができる。こういう理論です。  このような普遍神のもとにおさまるという一つの類型を言っているのに 理解しようとしないのが 次の対話の仕方です。:  ★  神道の神話の中の話を問題にしているのですから、神道ではない考えに基づいた話を無視するのは当然です。  ☆ 普遍神なる概念は 神道やほかの神話にも 登場していないのは 当然です。一次資料としてのナラハシ宗教そのものを基礎として そこに解釈や成り立ちの分析をおこなうと言っているのですから それを聞こえていない振りをするのは どうでしょうか。  第四段落  ★ ~~~~~~~~~~~   >「オホモノヌシ=ヒトコトヌシなる普遍神を立てた場合」   >中身の違うふたつの宗教  と仰っているではありませんか。  中身の違う宗教のどこが既知の「神道」と同一の宗教だというのですか?  ~~~~~~~~~~~~  ☆ この分析は 普遍神によってすべての宗教を同じ類型として整理したそのあとさらに 特殊に神道についておこなった分析です。  かんたんに言えば オホモノヌシ=ヒトコトヌシ信仰〔そしてそこに同類の神々をおさめているかたち〕なる結局は一神教形態の神道が ひとつ取り出されて来る。  そして もうひとつは このオホモノヌシ信仰としての宗教の上に――文字通りその上部に―― あたかも唯一絶対の神としてアマテラスを据えたメタ一神教としての神道が 乗っかっている。  アマテラス崇拝は けっきょくアマテラスが 人間(具体的にはスサノヲ)を人間と思わない人格の破綻をきたしている存在であるゆえ その一神教状態は あだ花であるに過ぎない。  こういう分析結果を提出しているということです。  第五段落  やはりここでも 《同一視》という捉え方が おかしいのです。  解釈を介せずにナラハシを受け留めよと言う。伝承や文献に必ず明示的に表現されているのでないなら 同一視など出来ないといった論理の一点張りによる批判のようなものが 展開されています。  第六段落  オホナムチが 人であり神である。といった見方について 何も問題ないのでは?  第七段落  ★ あなたの論法は、世界のどこにも根拠となる様なものなどないが自分はこう考えた、だから世界は自分が考えた通りのものであるのが当然の事だ、という根拠もない決めつけを行っているだけであ  ☆ ります。  ただあなたが その提出された仮説を仮説としては認めたがらない 受け取りたくない。と言い続けているというのが この長いやり取りです。  第八  普遍神については ヘーゲルの持ち出した普遍神の例もすでに 紹介しています。  あなたは ただただわたしの仮説を 仮説であるとすら受け留めることなどないのだ。と言い続けているという状態です。  第九  ★  一神教や多神教という概念は、単純に「その宗教の内部の捉え方考え方によってのみ決まる特定の神、即ち、最高神のみを信仰の対象としているのか否か」という事によって区別するための分類方法に過ぎません  ☆ この規定も いただけないということは じゅうぶんていねいな批判が済んでいます。  あるいはまた 《宗教の内部》とか《部内者》といった立ち場のみに限定して宗教を捉えていますが それは 一次資料としてのナラハシのことであり この質問では そこからさらに《部外者》であっても解釈を加え理論的に整理して この多神教および一神教についての一般理論を問い求めている。と何度も説明して来ています。  門は開いていますが その門から中へは入ろうとしない。伝承や文献に書いてあるかどうかで すべてが決まるといった態度をとり続けています。もうそれは分かりましたよとお伝えしています。  ★ 一神教か多神教かを問う際には宗教に改変を加える余地などなく、単純にあるがままの宗教の特徴に関してのみ考えなければなりません。  ☆ このわたしの質問は そこからさらに哲学として扱い直すのだと言っています。この見解の相違は すでに了解しましたとも お伝えしています。  もう何も問題はないはずです。  おれの見解に従え。とでも言っていますか?  

  • kagakusuki
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回答No.33

>☆☆(No.30お礼欄) >そうですよ。〔スクナヒコナとオホナムチ(≒オホクニヌシ)は〕別人だから 互いに違和もなく同じひとつの筋となるわけです。 >言いかえると 和が成っている。うんぬん。 >☆ だから 無理なく普遍神のもとにおさまっている。という理論ですよ。おかしいですか?  はい、おかしいです。理論云々ではなく、そんな方向へ話を進める事自体がおかしいのです。 >〔スクナヒコナとオホナムチ(≒オホクニヌシ)は〕別人  この時点で、 >その様な天照大神でもなければ大物主大神でもない神を信仰しても構わないとされている以上、 >奈良の三輪山の大神神社が多神教の神社である事は間違いのない事なのです。 という結論が出ているのですから、「質問者様がおっしゃる普遍神」など全く無用の存在に過ぎず、そのような無用なものの話をする事は只の無駄話をしているに過ぎず、蛇足というものです。 >神々が多くいる たくさんいるということと それらがただひとつなる普遍神の分身であるということとは 無理なく両立します。  両立しているのは質問者様が勝手に考え出した架空の宗教である「bragelonne限定版普遍神教」の中だけの話に過ぎず、「bragelonne限定版普遍神教」は >社会のナラハシとしての宗教 である神道と同一の宗教などではないのですから、神道にとっては「普遍神」の話など何の意味もありません。 >オホモノヌシ=ヒトコトヌシなる普遍神を立てた場合 アマテラスは オホヒルメ(自然現象としてのお日さん)としては いま上の場合と同じく そのまとまりと収まりが成り立ちますが 唯一絶対といった実質的な中身の最高神としては 無理です。 >つまり 神道という同じ言葉で呼んでいても 中身の違うふたつの宗教とそのナラハシがあるという理解になります。  はい、ダウト! 神道の神話には「オホモノヌシ=ヒトコトヌシを普遍神と見做している事を示す様な話」など存在していませんから「オホモノヌシ=ヒトコトヌシなる普遍神を立てた場合」、それは神道ではない別の宗教に過ぎず、質問者様は神道と「神道ではない宗教」の概念を質問者様個人の能力では区別出来ずにごちゃまぜにしているだけの話に過ぎません。  それは単に質問者様個人が混乱をきたしているというだけの事に過ぎないのですから、逆立ちしたところで >つまり 神道という同じ言葉で呼んでいても 中身の違うふたつの宗教とそのナラハシがあるという理解 にはなりません。 >神道をゆるく眺めるならば 単純に多神教と見るべき様相を呈している。ということは 初めから一貫して言って来ています。  それなら「多神教は存在する」という結論が始めから出ている訳ですから、それ以上の話は蛇足に過ぎず、続ける事はむしろ害悪にしかなりません。 >☆ アシハラ中つ国における登場者として捉えるならば  それは質問者様個人が勝手にその様な捉え方をしているという事しか意味しておらず、 >社会のナラハシとしての宗教 である「神道」の「大己貴神は人間ではなく『神』である」という捉え方を無視しているだけの事に過ぎないのですから、質問者様の話は >社会のナラハシとしての宗教を扱います。 という本件から道を踏み外しているだけの、無意味な話に過ぎません。 >★ 質問者様が勝手に考えただけ >☆ の仮説について 問うています。  それは質問者様が勝手に考えただけのものに過ぎない以上、質問者様の考え次第でどうにでも変わってしまうものなのですから、そのような問いには答えというものがそもそも存在しておりませんので、質問者様のこの話は >この命題の真偽を問うている 訳では全くなく、只々、延々と無意味な話を繰り返しているだけに過ぎません。  その様な無意味な事を考え続けるのは害悪にしかなりませんので、すぐに止めるべきです。  よって 次の推論は 筋が違っていましょう。(なぜなら、それらは答えが定まり様もない考えから生まれたものに過ぎないのですから) >分身はすべて 普遍神のもとに収まるかたちを言います。 >《神々が互いに争うから〈神々は普遍神のもとに収まる〉という見方が誤っている》というのは どういう根拠であるのか。これは 分からないということでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~    >〔スクナヒコナとオホナムチ(≒オホクニヌシ)は〕別人  この時点で、  ・・・  結論が出ている  ~~~~~~~~~~~~  ☆ というのは 解釈を加える前の段階で 神々を一つひとつ拾い上げ その内容および全体の中における位置づけなどを捉えるというときの結論です。  そのあと 解釈を加え この素朴な一次資料としてのごとき《多神教》は 実はこれこれこのように理論づけたりすることができる。と言っているだけです。  図式化すれば 民俗学は まづ一次資料を拾います。そこから歴史学は 歴史の広い視野に立ち それらのあらたな位置づけや意義づけをおこなって行きます。    そしてさらに宗教学あるいは哲学は それらのナラハシとしての基礎に立って 人間の生活と社会についての人間の思想や哲学がどのようであったか。これについて探究します。(歴史学は 歴史的な出来事との関連などを重視すると見られます)。  交通整理だけによっても 初めの事実認識はかなり理論化の方向へ変容します。さらに 大きな世界観がそこから導き出され それをあらためてナラハシ事実に当てはめてみるなら かなりシンプルな整理が出来ることさえあります。  ★ 無用・無駄話 ねつ造・でっち上げ  ☆ だと言うのなら その根拠や理由を 例証を取り上げつつ のべてください。  記紀神話をめぐる神道の決定版を はやく明らかにしてください。それについて みなで問い求めて行くことが出来ます。  こちらは 解釈のあとの:  ★ 質問者様が勝手に考え出した架空の宗教である「bragelonne限定版普遍神教」  ☆ について詳しく述べて来ています。  それは  ★ 神道と同一の宗教などではない  ☆ というご批判のようですが その根拠は何ですか?  ★ 神道の神話には「オホモノヌシ=ヒトコトヌシを普遍神と見做している事を示す様な話」など存在していません  ☆ 雄略ワカタケルのエピソードをも交えて・また モノ=コト( e = mc^2 )という根拠を示して その可能性を証拠づけています。どうして無視するのですか?  ★ 質問者様は神道と「神道ではない宗教」の概念を質問者様個人の能力では区別出来ずにごちゃまぜにしている  ☆ この命題を述べるについても その根拠を明らかにしてください。  このとき 一次資料にもとづく神道(民俗学)と解釈を交えて理論化した神道(哲学)との区別に注意しつつ それぞれご自分の説とわたしのそれとを比べ照らし合わせる作業を ぜひお願いしたいものです。  哲学することはあり得ると確認出来ていますので 少なくともここでは わたしの仮設した理論が どこで一次資料神道とは あやまちを侵しつつ 違うのか。などなどについて しっかりと明らかになさってください。  ★ それなら「多神教は存在する」という結論が始めから出ている訳ですから、それ以上の話は蛇足に過ぎず、続ける事はむしろ害悪にしかなりません。  ☆ いいえ。次のご見解を確認ください。  ★★(回答No.32) ~~~~~~~~    >けれども《部外者》が哲学してはならないのですか?  哲学する事は構いません。  ~~~~~~~~~~  ★ >☆ アシハラ中つ国における登場者として捉えるならば  ☆ この視点が成り立たないと仰せのようです。が いくら天孫ホノ二ニギにかんがみて 神々の住むタカマノハラとこの地上のアシハラにおける生活とは あたかも無理なくつながっているかに見えようとも そうだとしても おそらくアシハラに住む人間は もはやタカマノハラに戻って行くことは叶わないのではないか。  推測ですが もしそうなら アシハラにおける登場者であることは それなりに独自の意義があります。神代における登場者とは 違った生活者としての特徴を持つはずです。そういう視点をほどこしている・・・ということです。  これは:  ★ 「神道」の「大己貴神は人間ではなく『神』である」という捉え方を無視している  ☆ 一般にアシハラなる地上のクニでは ひとはとうとい存在の場合には 《みこと》となりますが 《かみ》となるのは稀です。と同時に スサノヲは イヅモというアシハラに来て ミコトでもあるけれど 神でもあります。  そこのところは それほど杓子定規に神と人とのあいだが峻別されているとも思えません。  オホナムチを 人間と捉えていても 神でもあると同時に捉えることは 難儀ではありません。人間である側面に重きを置いて捉えるといった見方は 成り立つものと考えます。  それに この地上における捉え方として人間を 例の《天つ神》と《国つ神》とに分けています。神と呼んでいます。問題ないでしょう。  ★ それは質問者様が勝手に考えただけのものに過ぎない以上、質問者様の考え次第でどうにでも変わってしまうものなのですから、そのような問いには答えというものがそもそも存在しておりません  ☆ だったら そのあなたの考えも まったく同様である。となりますよ。  記紀のこの部分では こう書いてある。よって すべてそれに従うべきだ。というような論法が しばしば見られます。  単なるその部分における記述であり規定であるに過ぎない。ということもあり得ます。そのような半ばねつ造に近いご議論では こちらが困るというものです。それとまったく同じことです。  つまり 仮説は仮説とし互いに受け容れ 批判し合いつつその内容を問い求め合って行けばよいのです。  あなたの論法は 神道はそもそもそうではない よってわたし(= ぶらじゅ)の仮説は 取り上げることがならないといった門前払いです。これでは批判になりません。だだをこねているだけのことになります。  ☆☆ 分身はすべて 普遍神のもとに収まるかたちを言います。  ☆ あなたの言う多神教体制は神々が 機能をそれぞれ分担して全体として分業体制を敷いているという。ならばそれを 《分身たる神々はそれぞれ 普遍神のもとに収まるというかたち》だと見ても 同じことを言っています。  普遍神を持ち出して整理するかしないかの違いだけです。  

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    自然環境は人類活動によって破壊されています。その原因は、無軌道な大量消費による物質循環の乱れです。 現在の世界の経済活動を動かしているのは一神教の国々です。日本は明治時代からこのかた、それに流されているにすぎません。 宗教観というものには、自分達の生活している自然環境の中で、いかに生き残っていくかということが含まれますから、宗教はその地域の自然環境と切っても切り離せないものであり、本来は地域ごとに柔軟に変化していくものです。 キリスト教やユダヤ教、イスラム教はいずれも砂漠の地で生まれた一神教の宗教です。 自然の恵みが豊かな日本は多神教と言われますが、人々の自然に対するイメージというものは母性的であり、敬っていさえすれば、「最終的には助けてくれる」というイメージです。 一方砂漠の国々は自然が貧しく、天候を操る神はその子である人類に対して、様々な難題を突きつけてきます。過剰に与えることはなく、人々はいつも不足に悩まされ、不満は解消されることはありません。そこには禁止が付きまといます。そして禁止というものは欲望を肥大させるものです。 今日のグローバル社会は、無尽蔵に自然を消費していく社会です。それは少なからず一神教の負の性質を反映したものだと感じるのですが、いかがでしょうか? 砂漠で生まれ、その厳しい環境で生きる術を示した宗教というものが、それが生まれ育った地域を飛び越えて、(これもまた一神教の性質によるものですが)、世界全体を支配しているとことに対してどう思われますか?私のように、それを現在の地球環境の破壊と結びつけて考えることは全くの見当違いでしょうか? もちろん、それだけで環境破壊が説明できるとも思いません。 また、キリスト教は歴史を重ねるにしたがって変化してきたのでしょうが、一神教というものはその性質として、始めの教えから大きく変化するものではないと思います。 どうか回答の方、よろしくお願いしますm(_ _)m

  • 死んだ人間を神に格上げする、靖国の思想

    死んだ人を仏と言いますが、仏は神様ではないし、一神教では到底、死んだ人間を神にはしません。 靖国では戦士した軍人軍属を軍神として祀っていますが、死んだ人間を柱という神の単位で数えるなど、死んだ人間を神とする思想は、神道の思想なのでしょうか。靖国独自の思想ですか。戦前は天皇が神様だったので、死んでも神として祀られることは無かったと思いますが。多神教ゆえですか。

  • 仏教の基本について教えて下さい。

    これまで私は、仏教とは、仏(ほとけ)=おシャカ様(釈迦如来)=ゴータマ・シッタータといいう、「三位一体説」の一神教だと思ってきました。 ところが、うちの宗派(真宗大谷派)の本尊は釈迦如来じゃなくて阿弥陀如来だと聞いて、よく分からなくなってきました。 しかし、うちの菩提寺のお坊さんは、葬祭の時の説教でお釈迦様がどうのこうのって話をしますが、阿弥陀様がどうしたとかって話は聞きません。 他にも釈迦には、生まれてすぐ立ち上がって唯我独尊と言ったとか、極楽から蜘蛛の糸をたらして悪人を救済しようとしたとか、逸話がいろいろありますが、阿弥陀の逸話は聞いたことがありません。 如来になる前の釈迦がシッタータであったように、如来になる前の阿弥陀はどんな人だったのでしょう? そもそも、如来って「悟りを開いた仏」のことだと聞いたことがありますが、このほかにも大日如来、薬師如来などいろんな如来があるようです。 また修行中の仏が菩薩で、こちらも弥勒菩薩や地蔵菩薩など何人もいるようです。 つまり、シッタータを初め様々な「仏」がいて、修行してある者は如来になり、ある者は未だ菩薩だということでしょうか? そうなると、結局仏教って多神教なのでしょうか? あるいは如来や菩薩という称号、それを併せた仏という称号も、キリスト教の聖者(セイント)にあたり、どれも人間である、つまり仏教は無神哲学ということになるのでしょうか?

  • なぜ神と仏を分ける必要があったのですか?

    元々日本人は神も仏も自然も動物も全て尊い存在としてごちゃまぜにして信仰してたと思いますが、何でわざわざ神と仏を明確に分ける必要があったのですか? 一神教のような厳格さはありませんが、何でも許容してしまうその適度な緩さが日本宗教の良い所でもあったと思うのですが…。

  • 宗教の意味

    いわゆる「宗教」Religion は、神との契約、という意味なのでしょうか? それでいくと 一神教の絶対神との個人の契約であり、ギリシャ・ローマ教などのいわゆる多神教は「宗教」とは言えないのでしょうか? また仏教も、釈迦は「目覚めた人」の意味であり、お釈迦様は絶対神ではなく、契約もないので、本当の意味では「宗教」ではなくて「哲学」なのではないのでしょうか???? Religionの語源、「宗教」という言葉の正確な意味・解釈が知りたいです。 よろしくお願いいたします。