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多神教は 一神教と違うと思っていませんか?
1. この問いは 個人にとっての信仰については ほとんど脇に措いておきます。 社会のナラハシとしての宗教を扱います。 2. だとすれば 商人がお稲荷さんを拝もうと その妻が極楽浄土の阿弥陀仏に帰依すると言おうと あるいは天国を夢見て教会でアーメンと唱えようと それぞれみな 一神教でしかない。 3. 狐や仏さんや神さんをいだくというその姿としては それぞれ一つの神を信じることでしかない。 4. 自身が経営の神様なる松下幸之助がどんな神を受け容れていたか知りませんが 仮りに自分がよいと思った神をみな信じていたとしましょう。すると だから 多神教となるか? 5. なりません。神さま仏さまお金さま等々すべての神々を おのれという一人の人間が人格全体として統覚するかたちで信じていると見る限りで それらはまとまって一つの神であるはずです。さもなければ 分裂状態か さぞうまく信じ分け使い分けていることになります。 6. 一つの社会ないし国として多神教を標榜しているという場合にも 実際の情況は 一神教の状態に同じです。 7. なぜなら その集団としてまとまって《一神教より多神教のほうがすぐれている》と宣言したそのとき その多神教社会は よそから見れば 一神教状態にほかならない。 8. 言いかえると 多神教社会は 一神教を自分たちの社会の中に輸入した場合には 多神教主義という一神教の中に従属するかたちでしか存続させないのだから。 9. もっと言えば 日本は 多神教ではなく 日本教という一神教であり その基にいろんな宗教・宗派が――マルクス教や反日教などをもふくめて――支部をつくっているというに過ぎない。 いかに?
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆☆(No.30お礼欄) ~~~~~~~~~ そうですよ。〔スクナヒコナとオホナムチ(≒オホクニヌシ)は〕別人だから 互いに違和もなく同じひとつの筋となるわけです。 言いかえると 和が成っている。うんぬん。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だから 無理なく普遍神のもとにおさまっている。という理論ですよ。おかしいですか? 神々が多くいる たくさんいるということと それらがただひとつなる普遍神の分身であるということとは 無理なく両立します。 ただし オホモノヌシ=ヒトコトヌシなる普遍神を立てた場合 アマテラスは オホヒルメ(自然現象としてのお日さん)としては いま上の場合と同じく そのまとまりと収まりが成り立ちますが 唯一絶対といった実質的な中身の最高神としては 無理です。 つまり 神道という同じ言葉で呼んでいても 中身の違うふたつの宗教とそのナラハシがあるという理解になります。 なお 普遍神の理論つまりそういう視点を持ち出さないで 神道をゆるく眺めるならば 単純に多神教と見るべき様相を呈している。ということは 初めから一貫して言って来ています。 哲学としての解釈・分析そして理論化をするかその以前にとどまるかで 違って来ます。 ★ 「日本書紀」にはオホナムチの事を「大己貴神」と表記しています ☆ アシハラ中つ国における登場者として捉えるならば 人間であるという解釈をほどこした。それだけのことです。解釈以前にはそれとしての認識があります。 ここ(この問い)では: ★ 質問者様が勝手に考えただけ ☆ の仮説について 問うています。《神社の教え》があるという理解と信念とにのみ立ってしか問い求めは出来ないというのであれば そのお立ち場はわかりましたから どうぞご自由にとすでに申しています。 ★ ~~~~~~~~~~~ 哲学する事は構いません。しかし、質問者様のやっておられる事は >社会のナラハシとしての宗教 に関する哲学ではなく、御自身が勝手に考えているだけに過ぎない事を、現実に存在している >社会のナラハシとしての宗教 の実際の中身とは「自分が解釈した通りのものである」と同一視する事で、 >社会のナラハシとしての宗教 の内容を捏造・歪曲しようとしているに過ぎません。 ~~~~~~~~~~~ ☆ その《ねつ造・歪曲》の中身をしっかりと 一つひとつ説明して来ています。それに対する反証は挙がって来ていません。 《神社の教え》とは違うということ。そして 解釈として違ってよいとしても その解釈は勝手なねつ造であるということ。ほとんど これだけの《批判》しか明らかにされていません。よ。 ★ ~~~~~~~~~~~ アマテラスを崇拝しない宗教で「神道」と呼ばれているものが >社会のナラハシとしての宗教 として社会に認められた宗教としてどこに存在しているというのですか? ~~~~~~~~~~~~ ☆ 伊勢の外宮は トヨウケヒメ(穀物)の神をまつっています。アマテラスとは関係ありません。 ★ 「神道」の事を論じるのに「神道」ではない宗教の話ばかりをしている ☆ トヨウケの神は 三輪山のオホモノヌシ信仰と同じく《もの(物・者・食料等)をとうとぶ》内容です。 これが 神道であると言っています。アマテラス崇拝は まかり間違えて神道であったとしても そのオホモノヌシ神道なる伝統の上に咲いたあだ花であると。――これは 解釈のほうの問題です。すでにかなりの数の例証を出していますよ。 ★ ならば、「最高神」という言葉を「特定の1柱の神」と言い換えても良いでしょう。 ☆ だめです。《特定》というのは 互いに並び立つ神々のあいだの一つを取り上げて指定すれば それだけで成り立ちます。 けっきょく どんぐりの背比べとしての神々であるか または 唯だひとつの神〔のもとに従属する神々を配する〕か いづれか一つであるはずです。 後者は むろん一神教です。ところが前者も ひとつ捻ってみれば多神はみな普遍神のもとにおさまる・つまり普遍神の分身であるというかたちにおいて捉えるなら 難なく一神教であることになります。 しかも これら一神教というのは 実際のナラハシとして あれも一神教 これも一神教というようにいくつあったとしても すべて普遍神の代わりとしてそれぞれが一神であると見ることが出来ます。 けっきょくはこのように普遍神のもとにすべての宗教が 整理されるという問題です。 最高神と言えども: ★ 唯一絶対ではないからこそ、他の神々と分業体制を採らねばならず、分業体制で神ごとに得意分野が異なっているからこそ、分野ごとに異なる神を信仰の対象としている訳ですから、質問者様が仰る様な話はそもそも成り立たない訳です。 ☆ このように もしその最高神が唯一絶対でないのならば いかにランクづけがされていると言ってもすべては どんぐりの背比べです。しかも分業体制であるとのこと。ならば その多神教体制としてまとまっているというものです。ひとまとまりとして 普遍神のもとにやはりおさまっている。 なんら窮屈な見方ではないのです。 普遍神の仮説は あらゆる宗教とそのナラハシにあてはまる正に普遍性をもった理論です。 そういう仮説についても 哲学はともに考えて行くというものです。 理論をめぐって 批判を繰り広げればよいだけのことです。 宗教というものは それだけで世界のすべてを 基礎となる領域において説明することが出来ると言うものです。 それについて考えた哲学が 世界のすべての〔宗教関連の〕事柄にあてはまると訴えていることは まったくふつうのことです。むしろそういう主張のないほうが おかしい。 はやく《神社の教え》といった決定版をあきらかにしてください。それがあれば 解釈以前の探究として互いに歩み寄りが出来るかも知れない。 そうして 解釈の分野としても 《事実の捏造・歪曲》ではない理論を述べてみてください。 そのための一つの事例を出しましょう。 アマテラスについて またの名をオホヒルメのムチと言います。 このふたつの名前にかかわったナラハシは 事実としてどういうものだと理解されているのか? 互いに異なるのかどうか。 わたしのほうはすでに 《異なる》説に立ち 後者を自然現象の神格化だとあきからにしていますから。