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多神教は 一神教と違うと思っていませんか?

 1. この問いは 個人にとっての信仰については ほとんど脇に措いておきます。  社会のナラハシとしての宗教を扱います。  2. だとすれば 商人がお稲荷さんを拝もうと その妻が極楽浄土の阿弥陀仏に帰依すると言おうと あるいは天国を夢見て教会でアーメンと唱えようと それぞれみな 一神教でしかない。  3. 狐や仏さんや神さんをいだくというその姿としては それぞれ一つの神を信じることでしかない。  4. 自身が経営の神様なる松下幸之助がどんな神を受け容れていたか知りませんが 仮りに自分がよいと思った神をみな信じていたとしましょう。すると だから 多神教となるか?  5. なりません。神さま仏さまお金さま等々すべての神々を おのれという一人の人間が人格全体として統覚するかたちで信じていると見る限りで それらはまとまって一つの神であるはずです。さもなければ 分裂状態か さぞうまく信じ分け使い分けていることになります。  6. 一つの社会ないし国として多神教を標榜しているという場合にも 実際の情況は 一神教の状態に同じです。  7. なぜなら その集団としてまとまって《一神教より多神教のほうがすぐれている》と宣言したそのとき その多神教社会は よそから見れば 一神教状態にほかならない。  8. 言いかえると 多神教社会は 一神教を自分たちの社会の中に輸入した場合には 多神教主義という一神教の中に従属するかたちでしか存続させないのだから。  9. もっと言えば 日本は 多神教ではなく 日本教という一神教であり その基にいろんな宗教・宗派が――マルクス教や反日教などをもふくめて――支部をつくっているというに過ぎない。  いかに?

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  • kagakusuki
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回答No.32

>★ それはつまりスクナヒコナとオホナムチ(≒オホクニヌシ)は別人(別神?)だと言っているのに他ならないではありませんか。 >☆ そうですよ。別人だから  あなたは一体何を言いたいのです?  別人の神がいて、それを信仰しても良いのであればそれは >その様な天照大神でもなければ大物主大神でもない神を信仰しても構わないとされている以上、 >奈良の三輪山の大神神社が多神教の神社である事は間違いのない事なのです。 という私が既に述べていた事そのものではありませんか。  何の反論にもなっていませんから、多神教が存在するという事を認めるという事ですね。 >★ 神道におけるオホナムチの概念 >☆ って何ですか? 定まった内容があるのですか?  神道の基礎になっているのは「古事記」と「日本書紀」であり、「日本書紀」にはオホナムチの事を「大己貴神」と表記していますから、「オホナムチは人間ではなく『神』である」という概念が定まっています。 >☆ ぢゃあ そのことも――どうしても従わなければならない定説があるのでない限り―― ひとつの解釈説であるとなるはずです。  それは只の個人の解釈に過ぎず、 >社会のナラハシとしての宗教 の >社会のナラハシ の外で勝手に考えている事に過ぎないのですから、 >★ オホナムチが実際には人間であったかどうかなど本件には何の関係もない話に過ぎません。 >何かゆがめてはならない金科玉条があるのだとおっしゃっていますか?  当然ありますよ。それは >社会のナラハシ などをはじめとする"事実"です。  質問者様が勝手に考えただけで >社会のナラハシ が質問者様が考えた通りの形に変わるとでも思っているのですか?そんな馬鹿な話はありませんね。 >けれども《部外者》が哲学してはならないのですか?  哲学する事は構いません。しかし、質問者様のやっておられる事は >社会のナラハシとしての宗教 に関する哲学ではなく、御自身が勝手に考えているだけに過ぎない事を、現実に存在している >社会のナラハシとしての宗教 の実際の中身とは「自分が解釈した通りのものである」と同一視する事で、 >社会のナラハシとしての宗教 の内容を捏造・歪曲しようとしているに過ぎません。  だから、質問者様の考えは間違っていると言っているのです。  つまり、何か考え違いをなさっているのは質問者様の方なのです。 >☆ は 明らかにマツリゴトとしてつくりあげた言わば第二次派生物としての神道です。それとは別に・もともとの神道が根付いているというお話です。  「それとは別に・もともとの神道」とは何ですか?アマテラスを崇拝しない宗教で「神道」と呼ばれているものが >社会のナラハシとしての宗教 として社会に認められた宗教としてどこに存在しているというのですか?  もし仮に質問者様が仰る様なものが存在していたとしても、現実にアマテラスを崇拝している「神道」が >社会のナラハシとしての宗教 として実在している以上、その様なものは「神道」ではない宗教に過ぎないのですから、屁でもありません。  「神道」の事を論じるのに「神道」ではない宗教の話ばかりをしているのですから、質問者様は何の関係もない話を無駄に繰り返しているに過ぎず、 >つまりあなたの仰る事は毎回、概念が錯綜している訳です。 としか言い様がありません。 >☆ いまごろ言うのもヘンですが そういう規定は ありません。特に一神教にとって《最高神》という捉え方は いただけません。  ならば、「最高神」という言葉を「特定の1柱の神」と言い換えても良いでしょう。  それなら、一神教においても存在していますから、何の問題もありません。 >その最高神と言っても 唯一絶対であるとなれば すでに一神教にほかならない。  そこが質問者様が考え違いをしている点です。唯一絶対ではないからこそ、他の神々と分業体制を採らねばならず、分業体制で神ごとに得意分野が異なっているからこそ、分野ごとに異なる神を信仰の対象としている訳ですから、質問者様が仰る様な話はそもそも成り立たない訳です。  例えば水不足で雨乞いをする際に、太陽神にお願いしてどうするというのですか?洪水が起こりそうな時は? >何かご自分の考えがすでに世界の定説であるといった堅い信念のもとに 宗教なら宗教についてその定説を枠組みを嵌めるようにして当てはめ これに従えとおっしゃっている。 のは、「普遍神」の存在を唱え、 >社会のナラハシとしての宗教 の内容は >社会のナラハシ によって決まるのではなく、自分(質問者)が考え方を変えれば、それに従って >社会のナラハシとしての宗教 の内容もまた変わるのだ、としている質問者様の方です。 >どういう部内者であるか知りませんが その自説の適用をしないならば それは部外者の勝手な考えだと叫び続けておられる。  何か考え違いをしておられませんか?そんな事を私がいつしたというのです?  私は、キリスト教や、ゾロアスター教、それに古事記や日本書紀の記述にある神道という実例を出しているだけなのですから、自説などではなく単純な事実を示しているに過ぎません。  それに対して質問者様の話の殆どは、「(質問者様が作り上げた)普遍神」や「(質問者様が作り上げた)神道とは別のもともとの神道」などといった架空の世界の話・質問者様が根拠もなく勝手に考え出した話を繰り返すばかりで、 >社会のナラハシとしての宗教 の内容は一切無視してばかりです。  それは >多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽を問う 事を頑なに避けているだけの事に過ぎません。 >ですが そうだとしたら ほかにも説や理論は 自由にあり得ます。  質問者様のやっている事は、多神教や一神教の"言葉の定義"や >社会のナラハシとしての宗教 の内容を自分の解釈に従って改変する行為であり、それは事実の捏造・歪曲に他ならず、説や理論の構築などではありません。  既に、定まって存在している事実を捏造したのでは論など成り立ちません。  こんなことは イロハのイだというのにそんな事も解らないとは いったいぜんたい どうなってるんでしょうかね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ☆☆(No.30お礼欄) ~~~~~~~~~  そうですよ。〔スクナヒコナとオホナムチ(≒オホクニヌシ)は〕別人だから 互いに違和もなく同じひとつの筋となるわけです。  言いかえると 和が成っている。うんぬん。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だから 無理なく普遍神のもとにおさまっている。という理論ですよ。おかしいですか?  神々が多くいる たくさんいるということと それらがただひとつなる普遍神の分身であるということとは 無理なく両立します。  ただし オホモノヌシ=ヒトコトヌシなる普遍神を立てた場合 アマテラスは オホヒルメ(自然現象としてのお日さん)としては いま上の場合と同じく そのまとまりと収まりが成り立ちますが 唯一絶対といった実質的な中身の最高神としては 無理です。  つまり 神道という同じ言葉で呼んでいても 中身の違うふたつの宗教とそのナラハシがあるという理解になります。  なお 普遍神の理論つまりそういう視点を持ち出さないで 神道をゆるく眺めるならば 単純に多神教と見るべき様相を呈している。ということは 初めから一貫して言って来ています。  哲学としての解釈・分析そして理論化をするかその以前にとどまるかで 違って来ます。  ★ 「日本書紀」にはオホナムチの事を「大己貴神」と表記しています  ☆ アシハラ中つ国における登場者として捉えるならば 人間であるという解釈をほどこした。それだけのことです。解釈以前にはそれとしての認識があります。  ここ(この問い)では:  ★ 質問者様が勝手に考えただけ  ☆ の仮説について 問うています。《神社の教え》があるという理解と信念とにのみ立ってしか問い求めは出来ないというのであれば そのお立ち場はわかりましたから どうぞご自由にとすでに申しています。  ★  ~~~~~~~~~~~  哲学する事は構いません。しかし、質問者様のやっておられる事は    >社会のナラハシとしての宗教  に関する哲学ではなく、御自身が勝手に考えているだけに過ぎない事を、現実に存在している    >社会のナラハシとしての宗教  の実際の中身とは「自分が解釈した通りのものである」と同一視する事で、    >社会のナラハシとしての宗教  の内容を捏造・歪曲しようとしているに過ぎません。  ~~~~~~~~~~~  ☆ その《ねつ造・歪曲》の中身をしっかりと 一つひとつ説明して来ています。それに対する反証は挙がって来ていません。    《神社の教え》とは違うということ。そして 解釈として違ってよいとしても その解釈は勝手なねつ造であるということ。ほとんど これだけの《批判》しか明らかにされていません。よ。  ★ ~~~~~~~~~~~  アマテラスを崇拝しない宗教で「神道」と呼ばれているものが    >社会のナラハシとしての宗教     として社会に認められた宗教としてどこに存在しているというのですか?  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 伊勢の外宮は トヨウケヒメ(穀物)の神をまつっています。アマテラスとは関係ありません。  ★ 「神道」の事を論じるのに「神道」ではない宗教の話ばかりをしている  ☆ トヨウケの神は 三輪山のオホモノヌシ信仰と同じく《もの(物・者・食料等)をとうとぶ》内容です。  これが 神道であると言っています。アマテラス崇拝は まかり間違えて神道であったとしても そのオホモノヌシ神道なる伝統の上に咲いたあだ花であると。――これは 解釈のほうの問題です。すでにかなりの数の例証を出していますよ。  ★ ならば、「最高神」という言葉を「特定の1柱の神」と言い換えても良いでしょう。  ☆ だめです。《特定》というのは 互いに並び立つ神々のあいだの一つを取り上げて指定すれば それだけで成り立ちます。  けっきょく どんぐりの背比べとしての神々であるか または 唯だひとつの神〔のもとに従属する神々を配する〕か いづれか一つであるはずです。  後者は むろん一神教です。ところが前者も ひとつ捻ってみれば多神はみな普遍神のもとにおさまる・つまり普遍神の分身であるというかたちにおいて捉えるなら 難なく一神教であることになります。  しかも これら一神教というのは 実際のナラハシとして あれも一神教 これも一神教というようにいくつあったとしても すべて普遍神の代わりとしてそれぞれが一神であると見ることが出来ます。  けっきょくはこのように普遍神のもとにすべての宗教が 整理されるという問題です。  最高神と言えども:  ★ 唯一絶対ではないからこそ、他の神々と分業体制を採らねばならず、分業体制で神ごとに得意分野が異なっているからこそ、分野ごとに異なる神を信仰の対象としている訳ですから、質問者様が仰る様な話はそもそも成り立たない訳です。  ☆ このように もしその最高神が唯一絶対でないのならば いかにランクづけがされていると言ってもすべては どんぐりの背比べです。しかも分業体制であるとのこと。ならば その多神教体制としてまとまっているというものです。ひとまとまりとして 普遍神のもとにやはりおさまっている。  なんら窮屈な見方ではないのです。  普遍神の仮説は あらゆる宗教とそのナラハシにあてはまる正に普遍性をもった理論です。  そういう仮説についても 哲学はともに考えて行くというものです。  理論をめぐって 批判を繰り広げればよいだけのことです。  宗教というものは それだけで世界のすべてを 基礎となる領域において説明することが出来ると言うものです。  それについて考えた哲学が 世界のすべての〔宗教関連の〕事柄にあてはまると訴えていることは まったくふつうのことです。むしろそういう主張のないほうが おかしい。  はやく《神社の教え》といった決定版をあきらかにしてください。それがあれば 解釈以前の探究として互いに歩み寄りが出来るかも知れない。  そうして 解釈の分野としても 《事実の捏造・歪曲》ではない理論を述べてみてください。  そのための一つの事例を出しましょう。  アマテラスについて またの名をオホヒルメのムチと言います。  このふたつの名前にかかわったナラハシは 事実としてどういうものだと理解されているのか? 互いに異なるのかどうか。  わたしのほうはすでに 《異なる》説に立ち 後者を自然現象の神格化だとあきからにしていますから。      

  • kagakusuki
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回答No.31

>言わばスクナヒコナからオホナムチ(≒オホクニヌシ)へとバトンタッチが成った。  その話の信憑性は疑わしいものですが、あなたは、前任者から後継者へと担当者が変わったと仰る訳ですね。  前任者が役割を果たせなくなり、後継者がその役割を代わりにやる様になったという事なのですから、それはつまりスクナヒコナとオホナムチ(≒オホクニヌシ)は別人(別神?)だと言っているのに他ならないではありませんか。  加えて、古事記などにおいては少彦名神は神皇産霊神の子供だとされているのに対し、大国主(=大己貴神)は須佐乃袁尊の子孫とされていますから、明らかに別の神です。  それを同じ神だと見做してしまうという事は、古事記の内容に反する捉え方であり、その様な捉え方をする以上は同じく古事記の内容に従った大物主=大己貴という捉え方をする事が出来ないという事になりますので、結局、奈良の三輪山の大神神社に大物主とは別の神も祭られているという事に変わりはない事になるのですから、 >その様な天照大神でもなければ大物主大神でもない神を信仰しても構わないとされている以上、 >奈良の三輪山の大神神社が多神教の神社である事は間違いのない事なのです。 という事に変わりはありませんね。 >1. オホナムチ≒オホクニヌシとオホモノヌシとは >2. オホナムチのほうは ほかにもアシハラシコヲでしたか 何たらかんたらのいくつかの名前を持っています。つまり これは 人間です。アシハラ中つ国における話です。  概念が錯綜しています。  それはあくまで質問者様個人の捉え方に過ぎず、 >社会のナラハシとしての宗教 である神道におけるオホナムチの概念などではありません。  オホナムチが実際には人間であったかどうかなど本件には何の関係もない話に過ぎません。 >社会のナラハシとしての宗教 である神道においては、オホナムチは明確に神であるとされているのですから、質問者様が何を考え何を主張しようと、神道のオホナムチが神であることは動かしようのない事実なのです。   >3. しかるに オホモノヌシは あくまで神の問題です。もっと言えば タカマノハラをも超えた場(ないしチカラ)の問題です。総合的にそのように推し測れるでしょう。 >4. それは モノ=コト( e = mc^2 )において オホモノヌシ=ヒトコトヌシ(一言主)だと見られ このヒトコトヌシは のちに雄略ワカタケルの前に葛城山で目に見える姿で現われた。雄略ワカタケルに喝を入れています。そのように タカマノハラからの血筋のスメラミコトに対してもそれを超えた場にあります。  概念が錯綜しています。  「タカマノハラをも超えた場」と書かれている事からも明らかな様に、それはあくまで質問者様個人が勝手に生み出した概念に過ぎず、 >社会のナラハシとしての宗教 である神道におけるオホモノヌシの概念などではありません。  従って、 >社会のナラハシとしての宗教を扱います。 という本件には何の関係もない話に過ぎません。 >★ 大物主よりも天照大神の方が格上という事になり >☆ ましょう。  それ故、天照大神より格下の神である大物主を信仰の対象としても構わないとされている神道は明らかに多神教だという事になります。 >12. 哲学は このように考えます。人間性の危機について目をつぶっているわけには行かないからです。 >普遍神にとっては 最高か最低かの序列は屁でもありません。そういう相対の世界ではなく それを超えている場(または チカラ)だからです。 などという話は >社会のナラハシとしての宗教 にとっては屁でもありません。  何故なら、その様な話は >社会のナラハシとしての宗教 の概念でもなければ、考え方でも、捉え方でもないからです。  その様なものは >社会のナラハシとしての宗教 にとっては質問者様という何の関係もない全くの部外者が >社会のナラハシとしての宗教 の >社会のナラハシ の外で勝手に喚いているだけの世迷言に過ぎないのです。  一神教や多神教という概念は、単純に「その宗教の内部の捉え方考え方によってのみ決まる最高神のみを信仰の対象としているのか否か」という事によって区別するための分類方法に過ぎないのですから、 >社会のナラハシとしての宗教 の外の話ばかりを繰り返している質問者様は、 >多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽を問う 事を拒否しているに過ぎないのです。  あなたは毎度毎度、御自身が勝手に考え出したに過ぎない独り善がりな考えを >社会のナラハシとしての宗教 と同一視しているだけです。  つまりあなたの仰る事は毎回、概念が錯綜している訳です。  その様な事では論理的な思考のもとに論を展開する事など不可能な話ですから、あなたには哲学は無理です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ それはつまりスクナヒコナとオホナムチ(≒オホクニヌシ)は別人(別神?)だと言っているのに他ならないではありませんか。  ☆ そうですよ。別人だから 互いに違和もなく同じひとつの筋となるわけです。  言いかえると 和が成っている。共に互いを活かすかたちで それぞれが自分らしく生きる。これが オホモノヌシの神のもとに生きる人びとの精神です。  社会に息づくナラハシとして・あるいはそこに基づく人びとの精神として 理論づけたものです。  粟のクニ(阿波)がありました(あります)し 黍のクニ(吉備)もあります。つまり 米が作られるようになっても まだまだ共存していたし 一般的に言って他を排除するものではないという意味があります。  それは 崇神ミマキイリヒコイニヱがムラヲサ(市長)のとき(300年ごろ)に オホモノヌシの子であるオホタタネコとともに国づくりに励んだ歴史に現われています。  これは スサノヲとその子孫であるオホクニヌシの物語と軌を一にしています。後世の歴史が 神代の話にもあとから差し込まれ反映させられていると見られます。  それは あたらしいナラハシを上から形づくろうとするまったくあたらしいアマテラス崇拝なる人びとの勢力が のちに天下を取ったときに その自分たちの宗教と歴史を 神話ないし日本の歴史の中に差し込んだところ もうひとつの・昔からの勢力であった三輪イリ政権の歴史あるいは互いのやり取りの歴史をも差し入れることになった。  付け加えるなら 第十代天皇とされしかも初国知らししスメラミコト(つまり 初代天皇)と呼ばれる崇神イリヒコの血筋としても同じ系譜に そのアマテラス崇拝派(つまり 河内ワケ(ないし タラシ)政権)も つらなっています。まあ 政略結婚が成ったのでしょう。  天皇家に もともとも三輪イリ系と河内(または近江)ワケ・タラシ系とがあるという意味です。それと呼応して 宗教にも オホモノヌシ系とアマテラス系とがある。こういう構図でしょう。  その神道は その後 ふたつの系譜がごっちゃになっているかも知れませんが やはりきちんと分かれているとも見られます。三輪山の大神神社は あくまでオホモノヌシの神をまつる。そのいくつかある摂社のひとつに檜原神社がもうけられてそこにアマテラスなる神はまつられている。こういう構図です。  三輪イリ系は クニユヅリをするほどに和をおもんじます。  それに倣って アマテラス・河内タラシ系も じつに《大和》を標榜しています。上から目線で イリ日子とオホタタ根子との共生社会なる和をパクったのです。  和を以て貴しと為し さからふこと無きをむねとすべしと。おれたちが天下を取ったんだ 文句あっか! と叫んでいらっしゃる。  その後忘れられたかのようなもう一方の側は 日から日へに生活世界を地道に生きている。叫ぶことなく 和をとうとんで生きている。  それから千五百年が経ちました。ふたつの毛色の異なる系譜が ナラハシとして宗教としてそして政権としてある。という問題ではないでしょうか。(まだまだ 簡略すぎましょうが)。  ★ 神道におけるオホナムチの概念  ☆ って何ですか? 定まった内容があるのですか?  ★ オホナムチが実際には人間であったかどうかなど本件には何の関係もない話に過ぎません。  ☆ ぢゃあ そのことも――どうしても従わなければならない定説があるのでない限り―― ひとつの解釈説であるとなるはずです。というより 定説があっても 学問は つねにそれに挑戦するがごとく その検証をすすめます。  回答者様個人の捉え方にすぎないものではなく 何かゆがめてはならない金科玉条があるのだとおっしゃっていますか?  あなたは 神道にとって《部内者》なのですか? けれども《部外者》が哲学してはならないのですか? 日本人であるなら ナラハシとしてすでに誰もが部内者ですし その意味で部外者となる外国人であっても まったく哲学する自由は保証されています。  何か考え違いをなさっているようです。  オホモノヌシが タカマノハラをも超えた場ないしチカラだと見るのは 社会におけるナラハシとしての言い伝えないしその宗教から推理したものです。本件の核心です。  ★ ~~~~~~~~~   >★ 大物主よりも天照大神の方が格上という事になり   >☆ ましょう。  それ故、天照大神より格下の神である大物主を信仰の対象としても構わないとされている神道  ~~~~~~~~~~~  ☆ は 明らかにマツリゴトとしてつくりあげた言わば第二次派生物としての神道です。それとは別に・もともとの神道が根付いているというお話です。  アマテラス崇拝は あだ花であるという意味です。  ★ 一神教や多神教という概念は、単純に「その宗教の内部の捉え方考え方によってのみ決まる最高神のみを信仰の対象としているのか否か」という事によって区別するための分類方法に過ぎない  ☆ いまごろ言うのもヘンですが そういう規定は ありません。特に一神教にとって《最高神》という捉え方は いただけません。《ひとつの神と そして何ならその配下にあるおまけの付随物》です。  多神教にとっては 多神ないし汎神が互いに対等に並び立っている場合とそこに多少の序列づけがおこなわれている場合とがあります。  ですが その最高神と言っても 唯一絶対であるとなれば すでに一神教にほかならない。  何か考え違いをしておられますか?  何かご自分の考えがすでに世界の定説であるといった堅い信念のもとに 宗教なら宗教についてその定説を枠組みを嵌めるようにして当てはめ これに従えとおっしゃっている。    どういう部内者であるか知りませんが その自説の適用をしないならば それは部外者の勝手な考えだと叫び続けておられる。  よしんばそういう宗教観が ひとつの学説を成すとしましょう。ですが そうだとしたら ほかにも説や理論は 自由にあり得ます。そこのところを どう思ったのか 閑却しておられる。  こんなことは イロハのイですから 言って来ませんでしたが いったいぜんたい どうなってるんでしょうかね。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.30

集合と集合の要素を区別する考えを当てはめます。日本 教について、集合とみるときと、集合の要素とみるとき を区別します。 例1 {マルクス教,反日教,いろんな宗派,いろんな宗教,支 部}=日本教=多神教 例2 {日本教}=一神教 例1では日本教は集合です。例2では日本教は集合の要素 です。上の2つの例は{}に挟まれるものごとの数が、例1は たくさん、例2は一つです。多神教と一神教が区別できま す。多神教は一神教と違います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  もっともなように思われますが 次のようにわたしは考えます。  ★ 例1では日本教は集合です。例2では日本教は集合の要素です。  ☆ これは 例1 と 例2 とが逆ではないかと思うのですが そのことは取りあえず措いておきます。  まづ:  ★ 例2 {日本教}=一神教  ☆ これは よろしいということでしょうか。日本教の要素がいかにあれ ひとまとまりの集合としてあたかも一神教のかたちを成している。と。  それでは 次はどうか。  ★ 例1 {マルクス教,反日教,いろんな宗派,いろんな宗教,支部}=日本教=多神教  ☆ つまり ずばり申しますが 要素はすべて《一神教と成っている日本教》に従属しています。そういうことでは まづいでしょうか?  マルクス教や反日教は 日本教に対していわゆる異端分子であるように思われます。政権をうばって日本教体制をくつがえそうとしているかとも疑われるほどです。  けれども この一神教たる日本教は これら異端分子をもあたかも母親が子を抱擁するかのように みづからの社会の仕組みの中に組み込んでいると見られます。  言いかえると ほかの国では・つまりたとえばアメリカでは 一神教たるキリスト教があって ほかにユダヤ教やイスラームやブディズムなどなどがそれぞれ〔相対的にですが〕独立して存続している。のではないでしょうか。  つまり 内部の情況はかなり違っていると思われます。  組み込まれているかどうかです。  もちろん 日本教の要素となっているいくつかの宗教が 《正式に・公式に・明示的に》組み込まれているわけではないのですが あたかもその実際の状態は あたかも国民精神総動員といった様相を呈している。のではないでしょうか。  それは 例の《クウキ》教とよぶべき状態が 実際の生活上のあり方に現われているところから推察されるのですが どうでしょう?  クリスチャンもマルクシストもブディストもみんな 漠然としたお上あるいはその場のクウキに従うといったあり方のことです。  このところは 異端分子の抵抗や反抗が大きく強くなって来ているとは 見られます。  ですが まだまだ 昔からの《伝統》は根強いものがある。のではないでしょうか。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.29

>同じ筋の神々であると述べています。 >大国主:おほ‐くに‐ぬし >= >大己貴:おほ‐な(地)‐むち(貴≒主):たぶん麦や米の農耕 >∽ >少彦名:すくな‐ひこ(日子)‐な(地):粟・稗・黍など栽培  ああ、うっかり見落としておりましたが確かに大己貴も大物主も"「古事記」においては"大国主と同一の神として扱われていましたね。  つまり、大己貴の事を大物主と同じ神と見做すという事であれば、それは「古事記」の記述に沿って考えるという事なのですから、大物主(=大国主)は古事記の神という事になり、「『古事記』の大国主(=大己貴)」は「お前が作った国をよこせ」という天照大神の命令に従った神なのですから、大物主よりも天照大神の方が格上という事になり、大物主は最高神ではないという事になりますね。  それから、少彦名の事を大物主と同一視する様な話は聞いた事がありませんから、 >その様な天照大神でもなければ大物主大神でもない神を信仰しても構わないとされている以上、 >奈良の三輪山の大神神社が多神教の神社である事は間違いのない事なのです。 という事に変わりはありませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  △ スクナヒコナ(*1)  ☆ は 粟などの〔後世からの呼び名としての〕雑穀のほかに 特に稲が――鉄とともに――渡来した。つまり 粟から米をもつくるようになった生活様式の変化にかかわっています。おそらく。  つまり 言わばスクナヒコナからオホナムチ(≒オホクニヌシ)へとバトンタッチが成った。そういう意味で筋が大きく言って同じです。違和はないのです。  そしてそこには あたかも《物自体》とでも言うべき《オホモノヌシ》が いづれの神に対しても・かついづれの穀物に対しても その根源としてのように存在しており この神学が受け容れられていた。――こういう事情です。  ここに アマテラスは お呼びではないのです。  むろん 太陽としてのアマテラス(あるいは 大日孁貴神(おほひるめのむちのかみ *2)としてなら ふつうに自然現象の内のひとつとして 普遍神の分身となっています。    *1 スクナヒコナ:おそらくもともとは スクナ(少)‐ナ(地)‐ヒコ(日子)        だったのではないか。ハプロロジ(重音脱落)で スクナヒコとなり こ        れでは 《な:土地》のことが表わされていないというので ヒコのあと        につけ添えた。のではないか。    *2 おほ-ひ(日)-る(属格のノ)-め(霊 または 女):日の霊。または日の        神の妻か。    ★ ~~~~~~~~~~~~  大己貴の事を大物主と同じ神と見做すという事であれば、  それは「古事記」の記述に沿って考えるという事なのですから、  大物主(=大国主)は古事記の神という事になり、  「『古事記』の大国主(=大己貴)」は「お前が作った国をよこせ」という天照大神の命令に従った神なのですから、  大物主よりも天照大神の方が格上という事になり、  大物主は最高神ではないという事になりますね。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 概念が錯綜しています。  1. オホナムチ≒オホクニヌシとオホモノヌシとは 筋が同じですが 互いに違いがあります。  2. オホナムチのほうは ほかにもアシハラシコヲでしたか 何たらかんたらのいくつかの名前を持っています。つまり これは 人間です。アシハラ中つ国における話です。    3. しかるに オホモノヌシは あくまで神の問題です。もっと言えば タカマノハラをも超えた場(ないしチカラ)の問題です。総合的にそのように推し測れるでしょう。  4. それは モノ=コト( e = mc^2 )において オホモノヌシ=ヒトコトヌシ(一言主)だと見られ このヒトコトヌシは のちに雄略ワカタケルの前に葛城山で目に見える姿で現われた。雄略ワカタケルに喝を入れています。そのように タカマノハラからの血筋のスメラミコトに対してもそれを超えた場にあります。  5. ★ 「お前が作った国をよこせ」という天照大神の命令  ☆ これは さすがアマテラス崇拝派にあっても あまり大きな声では言えない事態ではないのか。  6. おそらく すでにこのアマテラス派勢力(≒ 河内ワケ政権)が統一政権をにぎったあとに このマツリゴトとしての神々の物語は つくられ挿入されたのではないか。     7. 500年ごろの例の継体ヲホドの時からこの統一政権をもくろみ 欽明天皇あたりで 内輪揉めが何とか片がついた。そのあと 物語としてつくられたと思われる。  8. つまり アマテラス崇拝派にしても そういった政治のどろどろしたエピソードは 神話から除外したい。と思っているはずです。なぜなら このような服属の要求は 紛れもなく覇権をもとめる帝国主義の振る舞いだからです。  9. 尖閣は 昔からわれらが天子の領土である 行って奪うか服属させるかせよという命令が それでは有効となってしまいます。  10. クニユヅリをしたと言いますが・つまり クニユヅリをしたのですが ところが 脅迫のもとにおこなった自白は 無効なのです。そういう問題が横たわっています。  11. そういった無効の行為――つまり 相手の意志を踏みにじり 心を意に介さない暴力行為――は ただし その脅威のもとに相手は従うということが起こります。これは 無効の行為が 社会力学じょう有力となって 現象としては起きる。現象としては 現実のこととなる。かくしてこの社会力学から見れば:  ★ 大物主よりも天照大神の方が格上という事になり  ☆ ましょう。そして それだけのことです。  12. 哲学は このように考えます。人間性の危機について目をつぶっているわけには行かないからです。  これが ナラハシを扱うというその仕方です。  13. ★ 大物主は最高神ではない  ☆ とか 最高神であるとかと言う話ではないのです。普遍神にとっては 最高か最低かの序列は屁でもありません。そういう相対の世界ではなく それを超えている場(または チカラ)だからです。

  • kagakusuki
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回答No.28

>No.23で わたしの反論に答えることが出来なかった。  No.23に対して何か反論があったのですか?  私のNo.23の内容を纏めると >政教分離の原則に基づいて政治が宗教に影響されず、また個人個人がどの宗教を信ずるのかという事に対して政治が基本的には口出ししなくなった後においても、《「アマテラスの支配に従属した神としてのオホモノヌシ」》という捉え方は >>社会のナラハシとしての宗教 >の内部の >>社会のナラハシ > であるが故にそのまま継続して維持され続け、現在に至っているのです。 として奈良の三輪山の大神神社は神道の神社である事を示し、それに加えて >>★ ついでに言えば、奈良の三輪山の大神神社には大物主大神だけではなく、大己貴神や少彦名神も祭られており >だから大己貴神や少彦名神を信仰しても全く問題がない訳で、その様な天照大神でもなければ大物主大神でもない神を信仰しても構わないとされている以上、 >>奈良の三輪山の大神神社が多神教の神社である事は間違いのない事なのです。 というものになります。  それに対するあなたの意見である >神道――あるいは 古神道――が 多神教でありうることは 前提です。 >可能性の中のひとつとして オホモノヌシ信仰を取り上げたのです。 とは、神道が多神教である事を認めた上で、単にあなたがオホモノヌシ信仰を取り上げたという事を述べているだけであり、別にオホモノヌシ信仰が大己貴神や少彦名神を信仰する事を禁じていると述べている訳ではないのですから、反論という訳ではありませんね。 >これこそが あなたが 神々の問題ではなく人間の問題だけを扱っているとして退けた山本七平の《日本教》つまりその神学の理論に当たるものです。 という部分に関しても山本七平の《日本教》について述べているだけで、神道にも大物主にも触れていないのですから反論ではありませんね。 >つまり 神道は 明治維新による国家神道より以前にすでに (中略) >そりゃあ どちらもナラハシだと言えば そうなのでしょう。どちらも伝統だと言えば そう見られるのでしょう。 という部分は結局、私の意見に同意しているのですから反論ではありませんね。 (1)~(2)に関しては >ですが この点は (1)と同じくマツリゴトの問題でしょうから 措いておきます。 として問題にしていないのですから反論ではありませんね。 >問題は  >★ 〔* オホモノヌシ側の〕須佐之男命 の姉である天照大神 >☆ ゆえに そのアマテラスは 古来からのオホモノヌシ信仰のその神をしのぐ最高神である。と もししていたとしたら それは一体どういう根拠なのかです。 (中略) >神話ないし宗教が マツリゴトとして塗り替えられているという視点を避けることは出来ない。 という部分も、別に「神道や奈良の三輪山の大神神社が最高神以外の神を信仰の対象としてはならないと言っている」としている訳ではないのですから反論ではありませんね。 >《神社の教え》というのは よく分かりません。 という部分は単にあなたが《神社の教え》を知らないという事を述べているだけですから反論ではありませんね。  一体どこに反論があるというのですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 別にオホモノヌシ信仰が大己貴神や少彦名神を信仰する事を禁じていると述べている訳ではないのですから、反論という訳ではありませんね。  ☆ 同じ筋の神々であると述べています。  大国主:おほ‐くに‐ぬし  =  大己貴:おほ‐な(地)‐むち(貴≒主):たぶん麦や米の農耕  ∽  少彦名:すくな‐ひこ(日子)‐な(地):粟・稗・黍など栽培  そうですか。あなたは 《神社の教え》を知っているということなのですね。

  • kagakusuki
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回答No.27

>蓮舫状態。  あなたの主張には中身がないと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 No.23で わたしの反論に答えることが出来なかった。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.26

>前提は 考察の過程ですでにくつがえされることさえあります。  何を言っているのやら。  前提が覆る結論を持って来る場合は「ありうることを前提とした場合」、「ありうることを前提としてしまうと」、「ありうるのであれば」といった類の前提が正しくない可能性がある事を示す表現になっている筈なのに、あなたは >ありうることは 前提です。 と、「前提が正しい事は当たり前の事である」と断言してしまっています。  前提が正しいと断言してしまっていながら「前提がすでにくつがえされる」って?  わるいが シリメツレツなのはあなたです。

bragelonne
質問者

お礼

 蓮舫状態。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.25

>《前提》が どうして――考えた結果の―― 結論になるのですか?  神道が多神教である事を《前提》とした話をするという事は、「神道が多神教である」という事を正しいものと見做した上での話をするという事です。  ですから、神道が多神教であるという《前提》が正しければ、 >それならば、多神教が存在している証の一例として神道の存在があるのですから >>多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽 >は「偽」という事で結論が出た事になる という事になりますし、もし《前提》が正しくなければ、そもそもその《前提》に基づいて論を展開している >>そこで オホモノヌシ信仰があたかも一神教としてありうるということ。 >という箇所から下の話 もまた正しくないという事になりますから、結局、《前提》が正しかろうが誤っていようがどちらであっても >>そこで オホモノヌシ信仰があたかも一神教としてありうるということ。 >という箇所から下の話など無用ではありませんか。 という事になるではありませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 わるいが シリメツレツです。  前提は 考察の過程ですでにくつがえされることさえあります。  ただしいとして出発した場合にも そうだという意味です。  前提に反する結論が出ても 何の問題もありません。  ってゆうか こんなことをどうして今 問わなければならないのでしょう。

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.24

>神道――あるいは 古神道――が 多神教でありうることは 前提です。  それならば、多神教が存在している証の一例として神道の存在があるのですから >多神教と一神教とは互いに異なるものではない。この命題の真偽 は「偽」という事で結論が出た事になるため、 >そこで オホモノヌシ信仰があたかも一神教としてありうるということ。 という箇所から下の話など無用ではありませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 《前提》が どうして――考えた結果の―― 結論になるのですか?

  • kagakusuki
  • ベストアンサー率51% (2610/5101)
回答No.23

>(1) 信教・良心の自由に違反します。  「一神教」や「多神教」の場合でもそうでしたが、質問者様はホントに言葉の意味を知らずに使うのが好きなのですね。  誰も「アマテラスの支配に従属した神としてのオホモノヌシ」以外の神を信仰する事を禁じている訳でもなければ、キリスト教等の他の宗教を禁じている訳でもなく、無宗教である事を禁じている訳でもないのですから、信教・良心の自由に違反している事になる訳がないではありませんか。  それにキリスト教やイスラム教などの様に、教義として信教・良心の自由を認めていない宗教が広く信仰されているのですから、信教・良心の自由に違反しているかどうかを問題にして何か意味があるとでも思っているのですか? >(8) つまり 国全体におけるマツリゴトとしての神社のヒエラルキアからすれば 回り回って 《「アマテラスの支配に従属した神としてのオホモノヌシ」》というかたちになった。  そしてそれが長い間続き、 >社会のナラハシ になった。  そしてその >社会のナラハシ は、政教分離の原則に基づいて政治が宗教に影響されず、また個人個人がどの宗教を信ずるのかという事に対して政治が基本的には口出ししなくなった後においても、《「アマテラスの支配に従属した神としてのオホモノヌシ」》という捉え方は >社会のナラハシとしての宗教 の内部の >社会のナラハシ であるが故にそのまま継続して維持され続け、現在に至っているのです。  古事記において、大物主とは大国主命の幸魂・奇魂であると大物主自身の言葉によって語られており、幸魂や奇魂とは神の霊魂が持つ別の側面の事なのですから、大物主とは大国主命自身の一部という事になります。  その大国主命は須佐之男命の子孫であり、天照大神はその須佐之男命の姉であるとされていて、実際、大国主命は須佐之男命の命に従って国を興しただけなので、その須佐之男命の姉である天照大神が望むのであれば国を譲渡する事に異議はないとして、使者が伝えた天照大神の意向に従う意思を示しています。  つまり、大国主命の一部である大物主よりも天照大神の方が格上であるとされている訳です。  それが神道という >社会のナラハシとしての宗教 における >社会のナラハシ なのです。  よって 実質的に言っても形式的に言っても《「アマテラスの支配に従属した神としてのオホモノヌシ」》という捉え方は正しいものであり、質問者様が幾ら >(10) つまり 現代においては 政教分離の原則にもとづく。ゆえに 政治による神社の格付けは 無効である。(1)で触れたように 信教・良心の自由のもとにある。 >(11) よって 実質的に言って >★ 「アマテラスの支配に従属した神としてのオホモノヌシ」 >☆ という規定は 意味がなくなった。 などと主張したところで、それは >社会のナラハシとしての宗教 にとっては何の関係もない人間が勝手に言っているだけの事に過ぎず、 >社会のナラハシとしての宗教 における >社会のナラハシ などでは全くないのですから、質問者様のその考えは意味がないものに過ぎないのです。  念のために言えば、もし >始めに確立していた《オホモノヌシ信仰》 の「オホモノヌシ」が天照大神の配下に属してはいなかったとしても、それは《オホモノヌシ信仰》の「オホモノヌシ」であり、神道における「アマテラスの支配に従属した神としてのオホモノヌシ」ではないのですから、異なる性格と異なる由来を持った神、即ち別の神という事になります。  つまり、 >(2) 《歴史的経緯》としては 大神神社にまつる神は まづオホモノヌシであったし その後いまに到るまでそのままオホモノヌシである。 という認識はある意味で間違っている訳で、 >すでに始めに確立していた《オホモノヌシ信仰》のみのナラハシ は、神道における「アマテラスの支配に従属した神としてのオホモノヌシ」という別の >社会のナラハシ にとって代った事により、 >すでに始めに確立していた《オホモノヌシ信仰》のみのナラハシ は形を失い、廃れ、実質的には死んでしまっている訳です。 (部分的には神道の大物主に受け継がれている部分もあるかも知れませんが、神としての性格や由来が異なっているのですから、別の神とみなすのが順当です)  例え《オホモノヌシ信仰》の下に「オホモノヌシ」を最高神だと見做す人間がいたとしても、それは《オホモノヌシ信仰》を信仰しているだけであって、「神道の大物主」を信仰している訳ではないのですから、 >「オホモノヌシが最高神」と見做した時点で神社の教えに反する考えを持っているという事になるため、その様な捉え方をしている人は「その神社のオホモノヌシ」とは別の存在を信仰している事になり、その人は神道ではない独自の宗教を信じているという事になりますので、神道の最高神が天照大神である事に変わりはありません。 という事であり、神道には何の関わりもない話に過ぎないのです。 >★ ついでに言えば、奈良の三輪山の大神神社には大物主大神だけではなく、大己貴神や少彦名神も祭られており >☆ みな同じ神学に属す神々です。まったく違和がありません。  そうですよ。だから大己貴神や少彦名神を信仰しても全く問題がない訳で、その様な天照大神でもなければ大物主大神でもない神を信仰しても構わないとされている以上、 >奈良の三輪山の大神神社が多神教の神社である事は間違いのない事なのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★★ >奈良の三輪山の大神神社が多神教の神社である事は間違いのない事なのです。  ☆ 神道――あるいは 古神道――が 多神教でありうることは 前提です。  そこで オホモノヌシ信仰があたかも一神教としてありうるということ。あるいは アマテラス最高神ないし絶対神の宗教も作られえたことも その可能性の内に含まれる。  こういった可能性の中のひとつとして オホモノヌシ信仰を取り上げたのです。  これが 神道だという説明です。  もし  ★  ~~~~~~~~~~~~  その大国主命は須佐之男命の子孫であり、  天照大神はその須佐之男命の姉であるとされていて、  実際、大国主命は須佐之男命の命に従って国を興しただけなので、  その須佐之男命の姉である天照大神が望むのであれば国を譲渡する事に異議はないとして、  使者が伝えた天照大神の意向に従う意思を示しています。  つまり、大国主命の一部である大物主よりも天照大神の方が格上であるとされている訳です。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これこそが あなたが 神々の問題ではなく人間の問題だけを扱っているとして退けた山本七平の《日本教》つまりその神学の理論に当たるものです。  つまり 神道は 明治維新による国家神道より以前にすでに律令体制において 神社の格づけなどによって国家としての宗教となった部分があります。  つまり そのように国家としてのマツリゴトそのものとしての宗教――つまり アマテラス崇拝――と そして もともとのムラムラのマツリに人びとの生活現実として承け継がれているかむながらの道とがあるわけです。  そりゃあ どちらもナラハシだと言えば そうなのでしょう。どちらも伝統だと言えば そう見られるのでしょう。    マツリゴトによるのではなく 宗教としての世界でアマテラスが ほかの神々に対して最高神として立つという命題の根拠を あなたは 次のようなことがらに求めています。  (1)  ★(☆要約) いちどマツリゴトによってにせよ社会のナラハシになったのだから 社会が政教分離や信教・良心の自由をうたうようになった時代と社会においても ナラハシであり続けている。  ☆ これは 過去の遺産としてでしょうね。  そこに遺っているのは アマテラス崇拝派が もともとその土地で神社としてあった伊勢の神社を 自分たちのもうけた伊勢神宮を内宮として 外宮の地位へと追いやったということ。  同じアマテラス崇拝派は 伊勢神宮の以前に 三輪山の大神神社に頼み込みその広い境域の中に摂社として檜原神社をもうけ そこにアマテラスをまつってもらったということ。  これらは アマテラスが最高神だというその神道が ナラハシとしての宗教であることを証してるのかどうか。  (2) アマテラスが 神道における最高神であると決まっていると唱える根拠の二つ目  ★ 〔* 例のクニユヅリをめぐってオホクニヌシはその祖先の〕須佐之男命 の姉である天照大神が望むのであれば国を譲渡する事に異議はないとして、使者が伝えた天照大神の意向に従う意思を示しています。  ☆ 《天照大神が望むのであれば》という解釈について 疑義が生じます。  つまり 《あそこに見えるはおれの土地だ。行って 服属させよ》というかたちで使者を遣わして来ている。長いあいだにわたって何度でも使者が入れ替わって来ている。最後に 使者たるタケミカヅチが少々武力による威嚇をともなってやって来たところで クニユヅリが成った。  ですが この点は (1)と同じくマツリゴトの問題でしょうから 措いておきます。  問題は   ★ 〔* オホモノヌシ側の〕須佐之男命 の姉である天照大神  ☆ ゆえに そのアマテラスは 古来からのオホモノヌシ信仰のその神をしのぐ最高神である。と もししていたとしたら それは一体どういう根拠なのかです。  なぜなら 姉は弟に対してつねに優位に立ち 神の格としては上であると決まっているとは思えない。  もうひとつに 確かにアマテラスが タカマノハラの主宰神であるけれど 部下の神々とともにスサノヲについてはかれを そこから追いやったのです。スサノヲは さまよいつつ アシハラなるイヅモにやって来た。  つまり その子孫のオホクニヌシの代で タカマノハラなるアマテラスから服属の要求があった。ということは もともとは支配従属の関係ではなかった。イヅモないしその全体としてのアシハラ中つ国には 支配が及んでいなかった。  祖先のスサノヲに対して姉である《アマテラスが望めば》 その望みどおりになるとか 神としてのランクが上と下とに決まる(もしくは 先に決まっている)とか そこには 現代の知性にとっては考えられない事態がある。  天皇家につらなる竹田なんとかと言うひとが 次の(3)に出て来る《オシヘ》であるかのごとく このクニユヅリの出来事をも神道のナラハシであり伝統であると説いているかに思われます。  これは 《国民投票》で決めるくらいの問題ではないでしょうか。つまり記紀神話そのものとして伝えられているとしても やはり 政治のチカラで神々の世界のことが一方的に決められたという問題です。神話ないし宗教が マツリゴトとして塗り替えられているという視点を避けることは出来ない。  (3)  ★ ~~~~~~~~   「オホモノヌシが最高神」と見做した時点で神社の教えに反する考えを持っているという事になるため、  その様な捉え方をしている人は「その神社のオホモノヌシ」とは別の存在を信仰している事になり、  その人は神道ではない独自の宗教を信じているという事になりますので、  神道の最高神が天照大神である事に変わりはありません。  ~~~~~~~~~~  ☆ 《神社の教え》というのは よく分かりません。《教義》は ないはずです。よく知りませんが それがあるということでしたら みなさんの参考のためにも 示しておいてください。

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