• 締切済み

信じる者は救われる、正直者は馬鹿をみるなどについて

最近、信じる者は救われるといった言葉が、否定的な使われ方をしたり、正直者は馬鹿をみるといった、後ろ向きな考えが、世の中に出回ったり(一種の流行のように)、このような実態の裏には、なにがあるんでしょうか?なにか、同じような原因があると考えますが、ハッキリとした実態が未だにわかりません。

みんなの回答

  • andrewcd
  • ベストアンサー率12% (1/8)
回答No.16

実態は以下の通りです。 正直者だろうと嘘つきだろうと、馬鹿を見るときは馬鹿を見ます。 信じていようと疑っていようと、騙される時は騙されます。

  • mizunone
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.15

「約束は破るためにある」という人も増えてきましたね。 おそらく、常識、ルールや秩序から逃げる為、そして未来を夢見れない人が使うのでしょうね。 商取引で重要なのは、お互いに信じること。 人間関係をよくするのは誠実に相手(人)を扱うこと。 嘘を故意に使い、自分の利益を得るのは酷ければ詐欺。 約束を破るのは相手からの信用を落とすだけ。 そういう人達が、住みたい世界、子供に残したい世界は、 きっと、騙して、人を信じず、約束を破る世界なんでしょうね。 現実に生きていくには汚いこともしないといけない場合もありますが、 決して正当化だけはしてほしくないですね。 と上記は極論ですが、 皆きっとストレスがたまっているんでしょう。 簡単に「死ね」とかいう言葉をつかう人も増えてますし… 自分たちが、本当に少しずつでも住みたい世界に近づけるように、考えと言葉を使いたいですね。 ちなみに論理武装している人よりも正直ものの方が精神的には強いと思いますよ。

回答No.14

私個人の意見は、「正直者が馬鹿を見るのは当然」です。 最近は「勝ち組」「負け組」などという言葉が流行っています考えてください。勝ち組と負け組みの比率は1:1でしょうか?勝ち負けの線引きは難しいでしょうが、勝ち組と呼ばれる人はほんの一握りです。 では正直者はどうでしょう? 現代資本主義社会で勝ち組になるためには、ある程度汚いことをやらなければなりません。正直者はすすんでそんなことをしたがりません。それは非効率的なことです。そうなると「お荷物」「うっとうしい人」などといった目で見られるでしょう。 つまり、この社会体制の下では正直者はダメ人間のレッテルを張られやすいということなのです。もちろん、日本中どこでもそういうことではないですが、その傾向が強いことは間違いないです。 散々否定的なことを書いておいて言うのもなんですが、私はできるだけ正直に生きたく、そうするたびに馬鹿を見ています。ある意味で「法難」なのかもしれません。

  • gc-ms
  • ベストアンサー率39% (9/23)
回答No.13

信じる者は救われるとはそもそも,信仰的な言葉です。  だれを信じるか?それはすべてを創られた神を信じることであると聖書は述べています。  では,どこから救われるのか?聖書を読んでいくと地獄であることがわかります。  では,なぜ地獄へ行くのか?それは,人間が神の前に罪を犯しているためと書かれています。罪とは,心の中で思う様々な悪い考え,またそこからくる行動,自分が神であると思う事だと聖書は述べています。  ここまでは,前知識として知っておいて欲しいのですが,今の社会を見ると,確かにggghhhさんがおっしゃっている事はよくわかります。  聖書からすると,その原因は,やはり人間が罪人である事に起因していることは,間違いないです。聖書は,この世の中がますます不信仰になり,神を恐れない人がどんどん現れると述べていますから。  自分が神である(自己中心)と考えている人は,自分がすべてで,自分のためなら他人を蹴落とします。行動に現れなくても心の中でそのようなこと思う人は数多いはず。自分はそうですから。  社会学者は色々と説を述べますが,「信じる者は救われる」,の大元である聖書をご一読されると世の中や人間の根幹が色々わかりますよ。

回答No.12

小利口には何を言っても無駄だろう.  

回答No.11

正直者は馬鹿をみる、という風潮に対して、疑問を投げかけている人もいます。 糸井重里さんは「正直は最大の戦略である」ということをいくつかの著作の中で述べています。 この「正直は最大の戦略である」という考えは、元々、山岸俊男という社会心理学者が、掲げている主張です。その主張は、社会的ジレンマの実験から導かれたもののようです。 最近、NHKの横領問題や西武の堤氏の逮捕やライブドアのニュースを見てますと、日本的な集団主義が、商業の世界では限界に近づいているように感じました。 いわゆる、戦後の護送船団方式を未だに続けざるを得ない大企業は、数々の問題が噴出しています。三菱のリコール隠し問題などを見ましても、隠すことよりも、正直に公表した方が、よっぽど戦略としては良かったことでしょう。 企業は、本音と建前を捨てて、包み隠さず正直に事を行うことが、求められてる。 その上で、アメリカなどが要求する欺瞞的な行為に対しては、はっきりNoを言うことが大事な気がします。 アメリカは、日本に狂牛病が発生したとき、日本の牛肉の輸出を禁止しました。そのため、日本では全頭検査を行うようになりました。そして、今度は自国アメリカで狂牛病が発生したときには、日本がアメリカの牛肉の輸出を禁止するのはけしからんと騒いでいます。 先に自分でやっておいて、今度は他人がそれと同じことをするとそれを非難する。こんなインチキな国は他にありません。欧州も、アフリカ政策に対しては同じような欺瞞だらけです。

参考URL:
http://www.1101.com/marugoto4/
  • modoki666
  • ベストアンサー率27% (29/106)
回答No.10

「正直者が馬鹿を見る」といった言葉が使われた時代は、敗戦直前の日本でも使われていました。 つまり、政府の言うことに、まじめに信じた人たちが損をするという感覚です。 裏が見えてきた人たちは、そういう感覚になってきたということです。 今話題の西武の堤さんの親父さんは空襲のときでも、自分のことしか考えなくて、土地を買いあさっていたそうです。 外見は忠君愛国の人でしたが。 つまり、自由競争といいながら、日本を守るためといいながら、銀行は助けたり、ゼネコンは助けたり、 税金を納めないのがうまい堤さんのほうが政治家をコントロールしたり、まじめに税金を納める国民が「たかが、。。。」扱いされてしまう。 社会的に確固とした価値観や信じられてきたものの実態がさらされることによって、価値観や信じてきたものに対する不信感が蔓延している状況がこういう言葉を流行らせているのでしょう。 この状況を作った責任を誰かに転嫁しようとこの状況を作った責任者が考えているように見える社会状況がまたそういう言葉を流行らすのでしょう。 倫理観が喪失した人間のほうが得しているのじゃないかという感覚が生み出したのではないでしょうか?

  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.9

操作ミスで連続投稿になってしまいました。 申しわけございません。

  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.8

「信じる者は救われる」って誤解されている言葉だと思いますね。つまりこの言葉は、唯一絶対なる神を「信じる」こと。つまりキリスト教、それの母体であるユダヤ教は、天地の創造主である唯一にして絶対なる「神」を信仰する。そして神こそが正義であり、善であり、絶対の基準。  神が正しいのか? と疑問を抱くこと自体が誤り。なぜなら神が善であって、神の行動のみが正しいとする。そこで、キリスト教はイエスは「神の子」とします。つまりイエスの言葉は神の言葉。われわれ人間は神によって作られたものだから、その神を信じることこそが救いという考えです(イスラム教はイエスはムハンマド同様に神の言葉を預かった人間、つまり「預言者」と位置づけていますが、その言葉が「神の言葉」であることに違いはないですね)  だから神を信じた結果、人間社会で失敗したとしてもいいのですよ。重要なのは神に喜ばれること。人間の価値観は初めから基準に入っていない。  日本のように多神教で神にも善悪さまざまな性格があるという信仰で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のように“唯一にして絶対なる神”が存在していないから「信じる者は救われる」を誤解しやすいのですね。 ・・・、ってなんで坊主が、日本人のキリスト教にたいする誤解を解説しなくちゃいけないのだ(^^;)

  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.7

「信じる者は救われる」って誤解されている言葉だと思いますね。つまりこの言葉は、唯一絶対なる神を「信じる」こと。つまりキリスト教、それの母体であるユダヤ教は、天地の創造主である唯一にして絶対なる「神」を信仰する。そして神こそが正義であり、善であり、絶対の基準。  神が正しいのか? と疑問を抱くこと自体が誤り。なぜなら神が善であって、神の行動のみが正しいとする。そこで、キリスト教はイエスは「神の子」とします。つまりイエスの言葉は神の言葉。われわれ人間は神によって作られたものだから、その神を信じることこそが救いという考えです(イスラム教はイエスはムハンマド同様に神の言葉を預かった人間、つまり「預言者」と位置づけていますが、その言葉が「神の言葉」であることに違いはないですね)  だから神を信じた結果、人間社会で失敗したとしてもいいのですよ。重要なのは神に喜ばれること。人間の価値観は初めから基準に入っていない。  日本のように多神教で神にも善悪さまざまな性格があるという信仰で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のように“唯一にして絶対なる神”が存在していないから「信じる者は救われる」を誤解しやすいのですね。 ・・・、ってなんで坊主が、日本人のキリスト教にたいする誤解を解説しなくちゃいけないのだ(^^;)

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