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人間にとって数学とは、ご意見、良書 紹介してください!

創作ビデオで、数学とは何か?というものを作ります。大学では、数学科で、学んで来ました。僕の考えでは数学的主知主義がピタットしています。他に、ステイーブン F バーカーの数学の哲学を読みました。他に何か、良書がありましたら、ご紹介していただけるとありがたいです。また、あなたにとって数学とはどのようなものでしょうか?ご意見を聞かせていただけるとありがたいです。

みんなの回答

  • flashprim
  • ベストアンサー率23% (51/218)
回答No.6

数日間で消えた私の幻視体験では、目に映るもの個々の全てに乳白色の文字で「数式」が重なって映っていたことがあります。残念ながら私は数学が苦手でその数式の意味はさっぱり分かりませんでしたが、その体験中は目に映っている物の意味(存在性)が「分かり」ました。その時に「ああ、右、左が分かるというのはこのことなんだな」と妙に納得していました。今は右、左も分りません。 十数年前に雑誌「サイエンス」に外国の研究機関が心の構造には数学が密接に絡んでいると思われるので、数理的に心を解明することに着手したとコラムに載っていました。それ以上の情報はもっていないので不親切ですが、その結果をどこかで発表しているかもしれませんね。 人間が「思う」ことは数理的に演算しているのではないかと、多くの人が感じていることだと思います。深層においても演算しているのではないかと思っています。

alexsey
質問者

お礼

興味深い経験、情報、ご意見ありがとうございます。そそられました。

回答No.5

数学とは何かの質問をあえて「哲学」カテゴリーに寄せていらっしゃるので  哲学的に答えます。(数学がどう実用に供するかは他の方が  書かれるでしょうから)  数学は人間の知性が単に経験にとどまらずどこまで普遍性に  届くかの実験の場と見なすことも出来ます。  現に人間の認識がそうやって普遍性=最終的には神  に至ることの出来る証明として数学を援用した哲学者も  います。  デカルトとカントがその代表です。  詳しくは私の過去のスレッドに対する回答を参照ください。      

alexsey
質問者

お礼

ありがとうございます。

回答No.4

1. 数学以前 もちろん、少なくとも数学のテーマ自体は、 学問が整備されるはるか以前からずっとあるわけで、 エジプト、メソポタミアなどでも、 経営・会計などに役立つ算術 と 土地測量などに役立つ幾何学 あたりは、かなり発達していたでしょう。 ユークリッドの言論に出てくる幾多の定理も、 単に既知の命題を証明しなおしたというものが多いと理解しています。 2.原論 = 公理系的知的方法で世界を理解 で、「数学」と名前が与えられて良いような知的活動の端緒は なんといってもユークリッドの原論ではないでしょうか? で、それを表現するとすれば、 「一般に静学的なパターンの抽出から得られた構造をネタにした知的パズル」 であったといえるでしょう。 で、特に、 算術については、 その深い構造的な議論がなされるようになったのは、 少なくともヨーロッパでは16世紀など以降であり、 それ以前は実用以上には、それほどの権威は無かったと理解しています。 つまり、学問の「格」がそれほど高くなかったのでは? 他方で、パスカルやデカルトの方法序説などにも引用されるように、 ユークリッド幾何学は圧倒的権威であり続けたと言えるでしょう。 その公理系の厚みと美しさが他に類を見ない知的体系であったわけです。 その方法は哲学者の憧れの的であり、 スピノザは、神を公理とした宇宙の公理系を構築しようと試みていたわけです。 ちなみに、幾何学が「数学」という名前の分野の一つであるとの認識が人々の間に広まったのは、 デカルトの解析幾何学以降ではないでしょうか? それ以前は、むしろ幾何学は、どちらかといえば哲学的素養の一つだと考えられていたのではないでしょうか? 特に、直線と円だけの幾何学でプラグマティックに対処できる現実問題もそれほど多かったわけでもないですし。結局、固有のテーマ、分野としての応用価値よりは、圧倒的に方法論としての憧れが、幾何学に対する評価であったと思います。 3.プリンキピア以降 = プラグマティズムの時代、自然を理解する物理学の言語 おそらく、ニュートンのプリンキピアなどに始まる 解析学の出現は、 数学が「役に立つ」ということで、 大きなインパクトを与えたものと思います。 なにか、解析幾何学以前のユークリッド幾何学などは、 既知の知識の焼き直しで、 サロンの教養というイメージが強いのですが、 解析学と力学のコラボレーションによって数理科学のパラダイムに希望が持てたことでしょう。 こうした流れで、 プリンキピアは、当初は当時の学会向けに、図が多く、あまり解析学を正面からライプニッツの記号などをもちいることはなく書かれていたわけですが、 物理学の発達と共に、 物理法則は数学という言語抜きに記述するのが不可能になっていきます。 逆に、数学にとっては、 物理学は圧倒的な素材提供マシーンみたいであったといえるでしょう。 別に、自分で一生懸命テーマを見つけようとしなくても、 どんどん物理がネタを提供してくれたわけです。 極端な言い方をすれば、 数学 = 物理数学 みたいな様相も一時はあったのではないかと思います。 4.数学基礎論、ヒルベルトの登場 = 構造主義 3の流れ、および、オイラー、ガウス、その他の活躍によってどんどん数学的知識が積み重なっていくと、 ユークリッド幾何学などの経験を生かして、 どんどん公理系として整理されていくことにもなりました。 で、その流れで、数学基礎論がじわじわと存在感を増していったと思います。 ラッセル、ホワイトヘッドの原論をへて、 集大成がヒルベルトでしょう。 彼によって、再びユークリッドの原論ではないですが、 知的方法論の見本としての数学が内外に脚光を浴びることになったと思います。 そして、原論のアプローチをさらに発展させて、 公理の取り方を任意にして良いという構造主義が得られ、社会に広く浸透していったと考えられます。 5.現代数学 = 形式主義と分業の時代 で、ヒルベルトの登場は、 数学に大きな二つの大きな自己限定を与えたでしょう。 一つは、形式主義。それまでは、それこそオイラーなどの天才は、必ずしも基盤がしっかりしていないところでの仕事もしてきました。 しかし、20世紀中盤以降の数学というのは、 必ずきちっとした基盤のある公理系の上で仕事をすることが求められていると思います。 で、そうした「きちっとした」数学が、 分業の進展と皮肉なことに構造主義の普及とあいまって、 「なにが数学か?」 ということに関して、かなり狭い制約を課すことになったと言えると思います。 つまり、構造主義が広く普及したおかげで、 方法論については、数学の専売特許ではなくなったのです。 で、あくまでも、私の浅い知識の範囲では、 構造主義以降で、数学から外部の人にインパクトのある方法論(考え方)は提起されていません。 境界領域というか、いわゆる数理科学の分野においては、カオス理論であるなどの、従来の科学のパラダイムに変革をもたらすようなものの見方も提起されているようにも思いますが、 数学科の数学に関しては、なんともいえません。 しかも、高等教育とプロの科学の発達(村上陽一郎など参照)によって、数学自体の素養もまったく数学者の専売特許ではなくなりました。むしろ、応用数学は、数学科卒よりも、その応用数学を使う各分野の専門家のほうがよほど詳しいです。学問自体が数学を道具として使うことも当たり前になりました。数理経済学、数理社会学などなど、従来だったら、とても数学を想像させない分野にまで、数学が応用されています。 ちなみに、こうしたことから、数学で飯を食うのが難しく、かなり優秀な人材が数学科卒で他分野で重宝されているのが、とりわけアメリカの科学だと思います。 で、こうした現状で、 哲学が科学にどんどん対象領域を侵食されていったように、 数学も諸科学との分業を余儀なくされて、 かなり自己限定することが求められてきたと言えるでしょう。 というわけで、私の理解では、 今日の数学は、 代数、解析、幾何 の3つのテーマの理解を深めるような 公理系の研究であるといえます。 このことを、一般向けに「数学とは○○である。」とかっこよく表現するのは困難であると思います。 実際、秋山仁とか、一般人にもてはやされる数学の伝道師の伝える数学は、そのネタのほとんどが19世紀以前であると言えるでしょう。これは、素人でも分かりやすいためということ以上の根本的な理由があると思います。 文献について: すみませんが、勉強不足で、文献については、ご紹介できません。 ただ、英語でならば、いくらでも大著が見つかるのではないでしょうか?

alexsey
質問者

お礼

助かります。ありがとうございます。

回答No.3

ほかでもまえに同じことを書きましたが、やはり数学には宗教に近い何かがあると思います。数学はいわゆる理性の極致のように言われる側面があると思いますが,案外理性というのは人間による高度の動物性の発露とも言える面があると思います。理性で数学を用いて生じるのが環境破壊や水爆の開発だったというのは偶然ではないと思います。宗教が世俗的に悪用されたということではないでしょうか。ピタゴラス教団のような例もあります。数学を実利に結びつけるのはある意味では非常に危険なことだと思います。数学では特許はとれないのではないかと思うのですが(応用では可能でしょうが)???理解できないために尊敬されるということもどこか宗教的な感じがします。

alexsey
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • kbannai
  • ベストアンサー率32% (88/268)
回答No.2

創作ビデオをご覧になる対象者がわかりませんが…… 「数学とは何か?」について書きますね。 数学の目的は「定理」を証明することにあります。そこには自然科学の ような観察と実験はありません。厳密な「論理」だけです。 そこで 1)数学とは、「論理的な構造を発見する試みである」 といえましょう。 ただ、証明といっても、受験数学のように誰でもがすぐに……というわけ ではありません。フェルマーの最終定理にしても数多くの数学者がチャレンジ しても350年以上もかかったのですから。また、その他に「未解決問題」と いうものもたくさんあります。 そこで、 2)数学とは、「アイデアの集まり」です。 フェルマーの最終定理の内容は、証明したプリンストン大学のワイルズ教授 は、8年間もかけて、20世紀までに出来上がった数多くの数学をつなげて、 完成させたと言うことです。 当然、この証明は私には理解不能のものですが。でも、アイデアを出したり、 本質を見抜いたり、厳密に考えたりという素養は養われたと思っています。 ガリレオ・ガリレイの有名な言葉; 「宇宙(自然)というこの壮大な書物を理解するには……そこに書かれてい る言葉を知り、文字を読まなければならない。その言葉が数学なのである。」 私にとってこの言葉は強烈すぎました。理科系方面になんてたぶん行かな かったでしょう。 そこで、 3)数学とは「世界を記述する道具である」 その典型は、微分方程式でしょう。 長くなりまして、すみません。 そうそう、お勧めの本ですね。 このカテゴリーが「哲学」なので、 「数学嫌いのための数学」(小室直樹著、2001年) なんて、いかがでしょうか?

alexsey
質問者

お礼

いろいろと、お書きいただきありがとうございます。

回答No.1

「人生は数学と同じようなもの」と考えています. 人生は数学みたいに公式でなんとかなるようなものとは思ってはいませんが… 受験で数学の問題を開いた時おそらくほとんど生まれて初めて見た問題がでてくるわけです. しかし,その問題が解けてしまうのはこれまでの「積み重ね」と「どうすればこの問題を効率よく解けるか」と考えて解くわけです(私の場合はですよ). 人生も初めて遭遇するようなsituationがでてくるじゃないですか. そこらへんの対処の仕方が数学に似ているかなと思うのです. 「what to do」と「how to do」が必要なところが人生を数学の似ているところかなと思っています. 乱文ですみません.

alexsey
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。

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