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哲学って何?自己流で考える真実!
- 半年前に読んだ「14歳からの哲学」についての感想
- 哲学の素養がある人々との話で、自己流の考えについて気付く
- 哲学は答えが一つではなく、自己流で考えることが大切
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質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 ★ ~~~~~~~~~ 哲学って数学みたいに答えが一つ、ってものではないのでしょうか? みんな違ってそれでいい、というようなものなのでしょうか? ~~~~~~~~~~~ ☆ 《みんな違ってそれでいい》というようなものではありません。その前に互いに批判をし合って考え合っています。 またこれこれの場合に あれそれの条件のもとでは いつの時点でどこの場所においてなら 答えは一つというふうに考えるのが 哲学のくせです。経験科学も総じてそうです。 条件を細かく絞って行って 或ることがらについての答えはひとつだと考えるものです。 ただし たとえば経済学がこれこれの政策をいまこの国で採るのが経済の安定的成長のためにはよいというひとつの答えを出したとき――たいていは 条件の取り方の違いによって 別の答えも用意されるようですが 仮りに経済学者がこぞってひとつの答えに見解が一致したとするとき―― それでも政治はその政策を採用するかどうかは決まっていません。 それは 政治(ヒトにとっては 意志という行為能力のことです)は 経済(同じく 知解というそれです)とは 基本的に異なる性質の行為だからです。 あるいはまた おそらくすべての意見が一致する答えを実行したらうまく行くかと言えば それは実際におこなってみなければ分かりません。そういう性格をもった答えであるということになります。 このような全体にわたる見方を持とうとするし 持ってその見方を提供しようとするのが 哲学です。 そのように哲学は きわめてずる賢くすべての知性・すべての科学の王者になろうとする気の小さい出しゃばり屋であるようです。 まとめとして: 1. 《ひとつの答え》を出すことを 経験科学は一応そのつとめとしている。 2. ただし それが確かに《ひとつ》かどうかは 全体観に立ってあらためて見なおしてみなくては決まらない。 3. 言いかえると ひとつであるためのいろんな条件づけが必要であるのも然ることながら けっきょく 人が生きることや社会のいとなみについては ときが流れているという要因もあるということだと思われます。一回きりの生でありいとなみなのですから その一回性の事態に対する答えは ひとつあるのか二つ以上あるのか そういうことについてすら 答えは出ないということになるかも知れません。 4. つまり一回生きたときそこで実際に採用した哲学思想が 唯一の答えであるのかどうかはむしろ永久に分からないまま 答えとしたということになります。だとすれば最終的には 確信の問題だということにもなります。そしてじつは この最終にひかえる確信というものは すべての知性の王者であると自負する哲学をも超えています。 5. そうですよね? 6. ですから おそらく取るべき方針は ふたつにひとつ。 唯一の答えだとは分からないまま しかもそれを己れにとっての答えであると確信して生きる。むろん 試行錯誤であり 軌道修正をおこないます。 あるいは いっさい答えを決めない。白紙で生きる。ものごとの成り行きをじっと見つめながら そのどこかに隙間があると見たらそのときそのつどおのれの考えを言いそれを実行に移す。 おのれの考えというのは 一般にはすでにそれまでに考えの発表としてならおこなってきているということであるでしょう。
その他の回答 (9)
- sakura-bun
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「14歳からの哲学」をじっくり読み直して質問者様自らがお考えになられるのが一番だと思います。 ど素人で結構ではありませんか。間違っても哲学の「お勉強」は決してなさらないように。
お礼
ご意見ありがとうございました
- ノーバン(@nobound)
- ベストアンサー率13% (297/2125)
経営哲学って、経営者の多くの方がたぶん持っていると思うのですが、あれは経営者によってもちろん異なっていてもいいはずですし、それぞれが俺が一番と思っていていいと思います。(ただし経営者はその哲学で実際に結果を出さないとまずいはずですが) やはりひとそれぞれの哲学があって自己流でいいのではないでしょうか?ちなみにマイケル・サンデル先生の授業では、「君は新自由主義の立場だね」とか、「共同体主義者だね」とかおっしゃっていたので、どういう主義でしゃべるかは重要かもしれません。 そして何よりよくわからないのは、哲学と思想は同じなのか、違うのか、です。一見同類のように思われますが、たとえば、サンデル先生の白熱授業は、「政治哲学」といわれますが、あれが「政治思想」というタイトルだったら、どういう印象を与えるか?ちょっと重々しい感じを受けます。同様に「哲学カフェ」のように、コーヒーでも飲みながら気軽に議論できる場面を、「思想カフェ」と置き換えていいかどうか?(安保世代みたいですね) もしかすると思想に対して、哲学はそれぞれの主義主張を気軽に批判し合えることが、逆にその概念にあっているのかもしれません。そういえば、ここのカテゴリでも「哲学」があって、「思想」はないですね。思想のカテとかでは、何か他人につっこみづらいし、逆にぶつかると、血みどろになりそうです。その点、「哲学」はみんなでわいわい言えてこのカテにあっていそうです。 「白熱授業」の最初のテーマは「正義とは何か」でした。まさにアメリカらしいんですが、「世界戦略としての正義とは?」という意味では、哲学とは、共同体幻想を個人がどうとらえるかということなのかもしれません。
お礼
ご意見ありがとうございました
- bougainvillea
- ベストアンサー率21% (185/853)
哲学の歴史に照らし合わせて、簡単に説明すると 「考えれば普遍の真理が分かるものだ」=絶対主義 ↓ 「キリスト教神学は絶対だ!」「マルクス主義哲学は絶対だ!」などとなって それを振り回す人たちがキリスト教国家、共産主義国家を作り もの凄い抑圧や大戦争を行った ↓ どうも「絶対主義はよくないよね」ということに 「自己流で考えて真実と思えばそれが真実!」=相対主義 ↓ 個人の主観で俺がイイと思えばいいんだ!となり、共通の価値観を喪失。 現代美術では便器でも美術(デュシャン)、オタク絵でも美術になって 音楽ではアイドルの曲でもモーツアルトと同じに。 ↓ 「さすがにコレはないよね」「ミソもクソも一緒だ」ということに
お礼
ご意見ありがとうございました
哲学って、詰まるところ「ものの見方」です。もしも、ありのままに物事を見れたとしても(想像してみて下さい)、そこには“意味”はありません。ある一定の視点から眺めた時に意味が発生します。『へぇ~、そういう見方もあるのか!』という新発見、『あらためて言われてみれば、なるほどそうだ。』と思わせるような認識様式、そういう発見の積み重ねが哲学の歴史です。そして、その成果は現代の我々の生活に“常識”として、知らず知らずのうちに定着しています。哲学の変遷は、何十年から数年の遅れで、われわれ一般人の新常識になっていきます。そういうものと僕は理解しています。
お礼
ご意見ありがとうございました
- HANANOKEIJ
- ベストアンサー率32% (578/1805)
高校までの学習内容で、「哲学」にちかい科目は、社会科の「倫理」でしょうか? http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_rinri/ 私がNHK高校講座国語の授業で、坂田昌一博士の「科学の現代的性格」という文章を学んだとき、 自然の階層性、弁証法的唯物論という言葉がでてきました。坂田先生は、名古屋大学理学部物理学で研究、教育をされてい ました。 自然科学を学んだり研究しているひとは、原子論とか、唯物論の立場に立っていると思います。 物質の自己運動という考え方をします。 社会科学や歴史観では、社会的な立場で、考え方が違ってきます。 哲学も、唯物論と観念論の大きな流れがあります。 「現代社会」http://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_syakai/index1.html 現代の課題と向き合う・・・これも哲学の仕事です。 哲学とは、世界観・人生観ですが、「ものの見方・考え方」といってもよいでしょう。 仕事をしたり、何かを実現しようとすると、対象にはたらきかけて、変えることが必要になります。 「ものの見方・考え方・変え方」が哲学といってもよいでしょう。 高校までの学習で、ものの見方・考え方・変え方を学んでください。 理科総合では、「科学の目」といっていますが、科学的な世界観(力学的自然観)といってもよいでしょう。 社会科では、社会・政治・経済・地理・歴史を学んで、社会観・歴史観を鍛えてください。 国語、英語、数学では、論理的思考と対話、意思の疎通を学んでください。 大学では、これまでの回答者のみなさんが回答しているような、高度な議論がでてきます。 NHK大河ドラマ「竜馬伝」にでてくる「横井小楠」、「坂の上の雲」の秋山真之、魅力的な人物です。 真理の探究に、お励みください。
お礼
ご意見ありがとうございました
- 雪中庵(@psytex)
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数学も、決して「答えが1つ」ではありません。 数学の代表分野である代数学においても、幾何学においても、 「XX代数」や「XX幾何」という異なるパラダイムが並存しています。 たとえば、学校で教えている「答えが1つ」の代表が「ユークリッド 幾何学(平行線定理や三角形の内角の和が180度etc.)」ですが、 それは狭い空間&小さいエネルギーにおける近似=実際は 間違いである(「答えが1つ」には含まれない)事が明らかと なっています。 もちろん、それらの「並存した説」の中で、近時ではなく、現実と 完全に一致したものは、1つであるというのが常識です。 ところが、全ての存在は量子的な不確定性(確率波動)に基づいており、 無限に詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、 認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化)を 想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、 自我仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識するのです。 そこにあるのは、「認識体が成立するための条件とその相補」であり、 必ずしも“絶対普遍の真理(先入的な第一原因)”というものでは なくなります。
お礼
ご意見ありがとうございました
- cyototu
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質問文さんは数学の証明法で背理法と言うのをご存知ですか。「A ならば B である」ことを証明する代わりに、その対偶、即ち、「B でなければ A でない」ことを証明するのです。別の言い方をすると、B でないとすると、A であることが矛盾してしまうことを証明するのです。要するに、言っていることにケチを付けて、それが間違いであることを証明するのです。数学の歴史の中で、殆どの重要な定理はこの背理法で先ず証明されて来ました。なにせ、何が正しいかと言うことを証明するのではなくて、人の言っていることにケチを付けて、何が間違っているかをし証明すれば良いんですから、こんな簡単なことはありません。ですから、数学者は背理法の証明に異様に拘ります。そして、数学を新しい未知の領域まで含めて拡張する時にも、この背理法が使えないような拡張は絶対にして来ませんでした。 実は、人の言っていることにケチを付けさえすれば何かが出来上がって来ると本気で思っている連中が世の中にはニ種類いるんですね。一つはこの数学者達。もう一つは、理屈に目覚めた思春期の中学生や高校生達です。そしてこのニ種類だけです。大人になるろ、ケチをつけるだけでは駄目で、何か肯定的、生産的なことを言わなくては何も出来上がって来ないことが分かるようになります。 実は、数学以外の他のあらゆる学問は、人の言ったことにケチを付けても、その対偶が正しいとは限りません。だから、否定するのではなくて、肯定的な証明法が必要になります。だから、数学と思春期は例外に属するんですよ。だから数学以外のあらゆる学問には、答えが一つって物は存在しません。哲学どころか、自然科学の中で精密科学と呼ばれており、日々数学を使って論じている物理学だって答えが一つってわけには行かないのです。その多様性が分かるようになれば、貴方もこの多様な自然界と人間界が好きになり、かつ本気で学問が好きになれるかも知れませんね。
お礼
ご意見ありがとうございました
- k_kota
- ベストアンサー率19% (434/2186)
>哲学って数学みたいに答えが一つ、ってものではないのでしょうか? どうやら違うみたいです。 答えが明確に決まらない、かつ実用性を求めていないところで私は勉強する気が全くしません。 まあ、人の数だけ哲学があると思えばいいのではないでしょうかね。
お礼
ご意見ありがとうございました
- bardhead
- ベストアンサー率42% (3/7)
哲学に答えなんてありません。みんな違ってそれでいいんです。 なんて言えれば楽なんですがね。 答えなんて無いといってしまうと、答えがないという答えが生まれてしまう。それが哲学です。 貴方が誰かの考えを素晴らしいと思いそれが哲学だと思えばそれが哲学ですし、みんな違ってみんないいんだと思えばそれが哲学になるんじゃないでしょうか。 哲学にの素養があるという人たちがそのような注意をしたのは、固定概念に囚われて自分らしさを失ってしまうことを危惧したからではないでしょうか? しかしその言葉に従ってしまうと、固定概念に囚われてはいけない、ということにもなりますね。 自分で見聞きし、正しいと思ったことを信じる。そして時には自分の考えだけでなく相手の考えも受け入れる。それが言葉で表記できる一番哲学らしいものだと私は思っています。
お礼
ご意見ありがとうございました
お礼
ご意見ありがとうございました