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自己と他の認識

sinfoniaの回答

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  • sinfonia
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回答No.3

No.2でアドヴァイス差し上げた者です。 私の学んでいた哲学が現象学であることを前提にして補足させて ください。 (熱心な感じが伝わってきたのでそれに応えたく思い…) >客観を確かめるメタコード事態を自己は有し得ないので、他の >認識を主観の憶測でおいてするということですよね。 その通りですね。人は他を認識する上で必ず憶見(ドクサと言いま す)を含んだ了解をしますので、完全な他とは一致しえないという のが私の学んだ現象学の見解です。 自己了解のメタコードについてですが… メタコードとは形而上学的な超越項のことでしょうか? 自己の認識には様々な見解がございますが、デカルトのような疑う べくは疑い…と言った形式は現象学ではとりません。 (デカルト批判とはまた違います) No.2でアドヴァイス差し上げた中に、 >その認識が正当なものであるか否かは別の問題で… と書きましたが、人は自我の認識においてその正当性は問えない、 というのが現象学の回答です。 これが自分だ!とされる「認識」は、目が覚めたら夢であるかも しれない。しかし、一般的に人は現在の認識を特に疑いません。 これは「記憶の継続性(時間的な記憶の一致)」や「ありありと した現実感」から人はそう確信しているから、といった観点からの 回答です。 従って、何か「自分を自分だと認識させるメタコードが存在する」 わけではなく、自らが「認識している」と確信させるその条件とは? を問うのが現象学的な観点で、私のアドヴァイスはそこに基づいて おります。 (参考までに) 自己を認識することの対の問題として他の認識問題が挙げられ、どの ような認識が妥当かという哲学史的な発展をしてきましたが、実は 自己の認識と他の認識は全く異質な問題で…と連なって行くのです が、私の技術では説明し難いのでパスさせてください(泣) 近代哲学では「言語の謎」と共に結構話題の中心ですので、学ば れると面白い箇所だと思います。

kumotyann
質問者

お礼

なるほどと言った感じです。弁証的な物と現実との確信の違いはありますよね。 やはり、他を認識するように自己を認識するのは不可能っぽいですね。その逆もまたしかりです。 丁寧な回答ありがとうございます。

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