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日蓮の龍口法難での出来事は事実?

日蓮が龍口法難で首を切られそうになった時に、流星のような光が出てきて難を逃れたと言われています。 これは本当に歴史的事実なのでしょうか。 もし本当であればどういうタイミングで光が出てきたのでしょうか(まさに首を切る寸前なのか、それともかなり前なのか)また科学的になんであったのか。 日蓮の信者の方はこれこそが末法の仏の証拠であると言いますが偶然にしてはあまりに出来過ぎていると思います。

  • KM123
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  • kobe-kun
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回答No.3

> 日蓮が龍口法難で首を切られそうになった時に、流星のような光が出てきて難を 宗教関係の「言い伝え」に付いては、どの宗教にも不思議なものが沢山ありますよね。 しかし大切なことは、そう言う「奇跡的な現象」だとか、細々とした「因縁」などを、 本当に信じるかどうかではなく、その宗教の「教義」の本質が合理的なものかどうか、 「信じるに値するもの」かどうか、と言うような事柄に、関心を向けるべきものだと、 私などは思います。 しかしそうとは言っても、「奇跡」に関した話題は、宗教を離れてなかなか面白いも のですが、今回の件に関しては、「日蓮自身」が下のように説明していますね。 -------------------------------------------------- 「 種種御振舞御書  /建治二年 五十五歳御作 」 http://jmw.jp/kuga/gosyo/title/G113.HTM http://jmw.jp/kuga/gosyo/title/index3.html http://jmw.jp/kuga/gosyo/title/index.html http://jmw.jp/kuga/   P0914   江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる、   十二日の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、   太刀取目くらみたふれ臥し兵共おぢ怖れけうさめて一町計りはせのき、   或は馬よりをりてかしこまり或は馬の上にてうずくまれるもあり、      日蓮申すやういかにとのばらかかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと   たかだかとよばわれどもいそぎよる人もなし、   さてよあけばいかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんとすすめしかども   とかくのへんじもなし。 -------------------------------------------------- 結論から言えば、これらの「奇跡」を信じるのも自由ですし、信じないのも自由だと、 私は思います。 なぜならもう今からでは、それらの「現象の有った事実」を、証明することも不可能 なことでもありますし、本人が書いているからと言って、必ずしも真実とは言えない と思うからですね。 これと同じようなことは、仏教の「経文」に書いてある内容が、必ずしも真実ばかり を書いたもので無いことも、良く知られた事実でも有るのと同じに、だからと言って、 「仏教」が価値の無い宗教と、誰も言わないわけですから、これらの事実が有ったか、 無かったのかで、「日蓮と言う坊さん」の値打ちが変わると言うことも無いわけです。 結果的に「首は刎ねられなかった」のですが、恐らく日蓮の余りにも堂々とした振る 舞いに、「首切り役人」も怖じ気づいた、と言うことでは、なかったのでしょうか。? まぁ神話的なことはそのまま「神話」とし、納得してしまうのが良いように思います。

KM123
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり申し訳けございません。 この現象は奇跡として信ずるかどうかですね。 今この現象を起こせば私も信者になるかも知れません。 種種御振舞御書のURLありがとうございました、じっくり読んでみます。

その他の回答 (5)

  • kobe-kun
  • ベストアンサー率53% (53/100)
回答No.6

「No.3」の解答とは違い、少し< 珍説的 >にはなりますが、これは「信者たち」が仕組んだ、 一種の、【 イリュージョン:大魔術 】と言うことでは、なかったのでしょうか。? 当時の日蓮は、信者から見れば「命を掛けても守りたい」と思うような、大切な人だったはずですし、 信者の中には、比較的地位の高い人や、お金持ちもいたはずです。 そう言う人たちの「自分の最も尊敬している師匠」が、いま正に殺されようとしていたわけですから、 当然、御上への陳情をも含め、あらゆる手段を使って、その阻止に努力をしていたと思うのですね。 しかしそれが叶えられないと分った時点で、最後の手段として、知恵を絞った挙句、「首切り人」を、 驚かすことで止めさせる方法を、思い付いたとすればどうでしょうか。 全国から「天才的奇術師」を集めて、案を出させ、金をふんだんに掛ければ、この程度のトリックは 当時でも作り出せそうに思えますし、奇術による【 火の玉 】だったと言う考え方も出来そうです。 首切りの施行が「 夜間? 」だったことも、もし何らかのトリックを実行し、成功したのだとすれば、 それも上手い、要因の一つだったと言えるのでしょう。 まぁ単なる想像ですが、可能性の一つとし、こう言う考え方も面白いのではないかと書いてみました。

KM123
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり申し訳けございません イリュージョン(大魔術):とうとうこの説がでましたね。これ好きですね、ぜひタネが知りたいものです。タイムマシンがあればぜひ見てみたいですね。 ありがとうございました。

noname#32243
noname#32243
回答No.5

確か誰かに「吾妻鏡」という書物にその「光り物」があったということを伺ったことがあります。(本当かどうかは判りませんが) ただ当時は天変地夭の激しい時代だったと聞いています。お日さまが二重に見えたり、黒白の虹が出たり、大地震があったり。夜に流れ星の親方みたいな「光り物」があっても不思議ではないのかもしれません。その「光り物」があったとしても、当時を見聞きしたわけではないので、そのタイミングなどは判りませんが。ただ、NO4さんが仰るように「首を切られそうになったがからくも助かった」ということは事実だったのでしょう。まあ、言えることは、日蓮さんは当時の日本を心から憂う、偉大な宗教家だったとは思いますので、偶然とは言い切れないものもあるとは思いますが。ただ今現在、日蓮さんの信仰をしている方々が、日蓮さんのように偉大な人間性を持っているとは一概にはいえない、ということは言えます。

KM123
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり申し訳けございません 当時の科学ではちょっとした自然現象も宗教と結びつけて考えてしまうのも無理はないと思います。ありがとうございました。

回答No.4

 日蓮が首を切られそうになったこと、しかしからくも助かったこと、はおそらく事実でしょう。残りは推定の域を出ない。光が実際日蓮の書いたようなかたちで出現したのかもしれないし、そうではなくてただ空が光っただけでそれが「不吉の前兆だ」ということになって処刑がとりやめられたのかもしれないし、あるいは光そのものがなかったのかもしれない。日蓮はいちばん自分に都合よく書いている(信者はそれをされに都合よく解釈する)に過ぎず、文献学的にいえばここの点、実際にどうであったのかは不明とするのがもっとも良識的です。  キリストが刑死したのはおそらく歴史的事実。しかしそこから復活したかどうかは信じる、信じないの問題(実際にあったかもしれないしなかったかもしれない。ちょっとした偶然をとらえて針小棒大につたわっているだけかもしれない)。それとおなじことです。

KM123
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり申し訳けございません 空が光っただけでそれが「不吉の前兆だ」’当時の日蓮を超能力者のように思われていればこの説もうなずけますね。ありがとうございました。

  • sgi1962
  • ベストアンサー率12% (46/367)
回答No.2

天体の現象が実際に起きたという説もありますが 斬首の中止が、時の執権の奥方が懐妊中で そんな折に僧侶を処刑するのは縁起が悪いから という説もありますよ

KM123
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり申し訳けございません。 なるほどこの説も面白いですね。むしろこのほうが 説得力あるかもしれませんね。ありがとうございました。

  • chaff
  • ベストアンサー率30% (264/874)
回答No.1

エンケ彗星ではないかという説があります。 このごろは彗星や日食・月食の動きや超新星の出現なんかが1000年・2000年くらい前なら楽勝で計算できるそうです。 "竜ノ口法難"については、↓に少し言及がありました。 『星の古記録』岩波書店/斉藤国治/岩波新書 黄-207 一部引用しますね。(これ許されるのかな?) 「...このときおひつじ・おうし座流星群の一流星が出現したのだと解釈されている。この流星群は太陽暦で十月下旬ごろ活動し、しばしば明るい流星を出現させることで知られている。その母彗星は有名なエンケ彗星で、この彗星がその軌道上にそって落とした一小片が偶然にも日蓮のいのちを救ったといえよう。」 エンケ彗星といえば、33年周期で太陽系を廻る彗星で丁度去年の今頃も「地球に接近する」とかで話題になりましたね。

KM123
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり申し訳けございません。 科学的に考えればやはり彗星が妥当だと思いますね。 でも偶然であれば日蓮も運のいい人ですね。

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