• ベストアンサー

なぜ「紙一重」なのでしょうか。

sirayukihimeの回答

回答No.31

シツコクて御免なさいね。何だかfrauさんの用事を増やしてるみたいで申し訳ない・・・私自身ここに参加させていただくことで錆びついた頭の整頓をさせてもらっているのですから私に対しては決して御返事に義務感をお持ちにならないでください。でも、いただくと、やっぱり嬉しいので、どうかくれぐれも、お時間にゆとりのあるときに・・・。間が空いたって全然平気ですから!(暗に期待を匂わせてますね。^^;でも気にしないでください) 『神や人や生命や宇宙や哲学や心や魂について皆どうして語ることを恥ずかしがるのか』 理由は幾つか考えられますが「恥ずかしい」うちは余裕があるということだと誰かが言っておられました。これは恋愛についてのことばだったんですが。哲学の母体って苦しみだと思います。だから宗教とは兄弟分なんでしょうね。哲学に対して冷淡な態度をとれるのは、それほど苦しまずに済んでるからなんでしょうか。ある面、結構なことで羨ましいような気もします。それに、ある種の恐れを感じているようにも見受けられます。それこそ「ロゴス」号なる小舟に乗って茫漠たる宇宙に漕ぎ出すようなものでしょう?普段からクルーとしてのトレーニングを積んでいないと怖気づくのも無理ないと思いますけど一番の理由は日常の雑多な義務に追われて、めんどうになっちゃうんでしょうね。思考も、なかなかエネルギー要求されますから。 うちの近所に宗派は知らないんですが小さな教会がありまして、そこの玄関先に 『すべて疲れている人、重荷を背負っている人は私の元に来なさい。私があなたを休ませてあげます』 というようなことばを書いた立てカンがあるんですが、以前ここを通るたびに、それを見ては、じんわり涙目になってしまって困りました。ですからキリスト教に嫌悪感を持つことはできないでいるんです。このことばが真実イエスのことばであるなら、その精神はお釈迦様のやさしさと変わりないものだと思うからです。聖書が紆余曲折を経たあげくに荒唐無稽でキテレツなものになってしまったとしても、それこそが『狭き門』であり信ずることを試されているのかなと思います。勝手に想像してるだけですが・・・。高校生の頃、倫社の先生が無知で生意気な私の「他力本願」攻撃にひと言 『本当の信仰というのは、むしろ厳しく主体性を要求されることだ』 と仰ったことを思い出します。あの頃の私は、その意味が飲み込めないほど本当にガキだった。 frauさん仰るところの『神様の孤独』 昔一人暮らしを始めて間もなくの頃テレビで「ジーザス・クライスト・スーパースター」という映画を見たこと思い出しました。見終わった後ヤボ用で外に出たんですがクリスマス・イブの夜にふさわしく晴れた夜空に星がたくさん瞬いていました。白い息を吐きながら映画のワンシーンを思い浮かべました。最後の晩餐のあと眠気に耐え切れず眠り込んでしまった弟子たちにイエスは憤ります。 『お前たちは私が、あす磔になるというのに、そうして眠るか・・・!!』 ああ、クリスマスはケーキ食べるための日じゃなくて「イエスの孤独」を偲ぶべき日だったのかなあと思ったこと、いまでも憶えています。 でも!私個人は「仏世界」を支持したいんです。「神に許しを乞う」よりも「仏世界」が出現することを支持したいんです。あなたはクリスチャンかムスリムかブディストかと聞かれたら 「ブディストです!」と宣言できるようになれました。仏教のお勉強なんて特にしてないから考えたら宣言する資格もないのか知れませんけど。信じるというより支持したいんです。無神論者のつもりだった高校生の私が見たら唖然とするでしょうね。無神論者から「厭神論者」に移行しただけかも。 私、若かった頃、世俗に振り回され目先のことに汲々として「哲学?文学?ハッハ・・・」なんて言うような大人にだけはなりたくない、って思ってましたが実際、虚弱なからだで親の(それも憎たらしい)介護等でヘトヘトになってたときは正直じっくりモノ考えてる余力がなかったです。そもそも先日も言いましたように形而上的な話題をぶつけられるような出会いに恵まれてるとは言い難かったので、ああ、私の人生って、このまま異邦人のなかに埋もれたまま終わっちゃうんだろうな・・・と諦めかけていました。 モーリヤック作「テレーズ・デスケイルゥ」のなかで『魂の身内』ということばが出てくるんですが、私は自分は一生かかっても本当の仲間に出会うことはないのだろうかと哀しい気持でいました。二、三この人は・・・と思える人もいたんですけど儚い縁でしたので。パソコンって、うっとうしいなあと思うこと多いんですが、この利器がなければfrauさんたちとお話しすることもなかったんですよね。不思議な感じです。 苦しみは哲学の母・・・多分、件の「某氏」も彼なりの苦しみを抱えていて、しかも女性に親しむ機会に恵まれなかったためにキゲン良く笑ってる女の子たちを見てると『俺が、こう哲学せずに居られんほど苦しんどるのに女ども、やけに楽しそうである・・・いったい連中は哲学してしまうほど苦しんだりせずに済んでおるのだろうか」などと思って純粋に知りたかったというのが本心だったんじゃないかと思います。だったら素直に質問すればいいんですがな。「ボクちゃん女性の考えてること分かんないで~す知りたいで~す」とね。ところが哲学のツールであるロゴをぶんぶん振り回して普段ため込んでるコンプレックスを体良く発散しようとしたのじゃないでしょうか。「それは、みっともないから、およしなさい」と皆さんに注意されたのに気づこうとしませんでしたね。 彼が言ってた哲学する理由、憶えてらっしゃいます? 『俺は死ぬのが怖くて怖くてたまらん、だから哲学せずに居られん』 死ぬのが怖かろうが生きるのが怖かろうが苦しみが喉元までせり上げてる人に、ことば遊びしてる余裕はないっすよ。だから「一分ほど息止めてみなはれ」って言ったら「幼児」呼ばわりされましたわ。^^;失礼しちゃうったら、ばぶ!! 『俺が女やったら思想したらい!!って思ったる』てなことも言ってましたね。せずにいられないのか野心の道具なのか。 『やんごとある姫君たち・・・~そは深き、深き表面』深き表面はアンタですからっ!! けど確かに削除は残念でした。皆さん、すばらしい回答を寄せておられましたし、せめてfrauさんの最後通告に対し、どう出るのか見届けたかった。『行けー!frauさん、ゴーゴー!!』なんてこぶし振り上げながら、ちょっと買物に出て帰って来たら「あぼーん」されてました・・・残念!! まあしかし本人のいないとこで、あんまりクサすのも何ですから・・・告白すると確かに彼に見抜かれたとおり私は・・・ハラかかえてました。斬り!!(意味不明) さて、ここからが本題です。なっながっ!!ウッウッ;;許してください。もう二度としません・・・ぼちぼちお読みくださいね。 最近このカテで『神は万能じゃ~ない』ということばを見かけたのですが、あり得る話かも知れないと思いました。 「二律背反」に代表されるところの錬磨の方策によって、おのおのが、より高いステージへと登って行くよう設定された世界であるとしたら、それは神人一如の法則により神自身、常に変動変化し続ける宿命を負っているのであり罪ある人間もしくは神にとって反抗的人間を切り捨てることでカタがつくものではなく何度でもリセットさせ何度でも生まれ変わらせねばならない・・・人間どんな善人、人格者でもミスゼロということは、まずあり得ないからエンドレスに転生し続けることになる。この世は、おのおの専用にプログラミングされた修行の場で、「死」という現象により一旦この地上を離れては、その修行ぶりによって「火星」なり「木星」なりの世界に振り分けられ、そこで仕切り直しと言うか気合を入れ直して次回自分が生まれる場所を取り決め(このとき早くアガリになりたいなどと欲張って、敢えて厳しいプログラムを組んだりすると、あとで自殺して逃げ出したくなる、とか。それさえ折込済み、ってことはないのかな)またぞろ、この地上に舞い戻ってくる・・・。とまあ、以上は私の想像とこじ付けです。まじめに受け止めないでくださいね。 frauさんは、何故自身がここにこうしてあるのか神様に会ったらゼッタイ聞いてみたいそうですが、私はと言うと、もうずい分前から、そういうのは気にしなくなってます。自身が何故、というよりは、この世界自体(厳密に言えば宇宙の外側も含めて全て)が何のために存在するのか何が目的なのかが聞きたいです。で、一番怖いなあと思うのは『いみな~いじゃ~ん』と言われることです。もし、そう言われたら即行いまの人生ストップさせてもらいたいです。本音言うと、ちょびっとでも甘い汁吸わせてもらってから・・・でも、そしたら意味ないままダラダラ生き続けてしまうかも。そして意味がなくてもイヤでも生まれ変わらなきゃいけないなら今度は人が入って来れないような深い深い森の奥で山猫かなんかに化身して、いや待てよ私、ねずみは食べたくないからリスがいいかなあ。何言ってんだか・・・話が逸れました。 多分リセットされた瞬間、神様に文句言う必要もなくなるんだという気がします。だからfrauさん、だいじょうぶですよ。(無責任) 脳を含む肉体が、その形を失ってのち再び新規に授かったとき、また一から積み上げられていく記憶と、生まれ変わり生まれ変わりしても無意識のレベルに受け継がれ保持し続けられる記憶とがあるとしたら・・・。 心理学のカテでfrauさんが質問しておられた『専門家が癒されるには』でしたっけ、あのなかでkaitaradouさんが興味深いことを仰っておられましたね。 『もし真実を知ってしまったら・・・。森羅万象の神秘のベールは剥がされて私たちの神は死んでしまうのでしょうか』そのときは多分、我等ももろとも。 私、少し前まで何が腹立つってカルマかなんか知らないけどイジワルされるワケがあるなら、どうして本人に、そのワケを、しっかり記憶さしとかないのかなあなんて思ってて、それが神様が、いけ好かない理由の一つだったんです。『千夜一夜物語』にも『神は嫉妬深きかたにおわします』っていうことばが、しょっちゅう出てきます。 でも、ここに参加してみて、いつの間にか考えることを放棄していた知りたくてたまらなかった「我々の知の限界の理由」それが、おぼろげに見えてきたような気がします。 とは言っても私は凡人、どんなに神のストーリーを展開してみても指の隙間からサラサラ、サラサラ・・・。 アメリカの人ですが「エドガー・ケイシー」というかたを御存知でしょうか。そう、眠りながら予言を行ったという。彼は敬虔なクリスチャンで東洋思想についての知識は特に持っていなかったにもかかわらず、なぜか、その予言は輪廻転生の思想に重なるものだったそうです。 また自殺した少年のお話で私も同じ年頃の、ある少女を思い起こしました。『地球のひみつ』?とかいう題名だったと思いますが、その絵本を書き上げた翌日、何の前触れもなく、こと切れていたという少女。その遺した絵本の内容は、子どもの手になるものとは信じ難いほど高度な内容のものだそうですが思うに少女は持てる力や実年齢の限界を超えるほどのパワーを自覚もないままに出し切ってしまったんだと思えてならないのです。当時、新聞やテレビで大きく取り上げられましたが亡母も『なんと不思議な子!』と目を見張っておりました。 いや~こんな長い回答文なんて前代未聞かも・・・こうしていると、また他にもお話したいことが出てきちゃう。いい加減失礼します。長文、御容赦ください。

frau
質問者

お礼

私はユングが大好きです。ご存知かと思われますが、「意識」は氷山の一角で「無意識」は、その氷山の形どおり、水面下でつながっているんですね。これを「普遍的無意識」といって、そこは「全ての源」なんです。とても混沌で深遠な世界です。 心理学では意識のひとつである無意識(矛盾がありますがここにこそ神の世界があると思います。無意識は意識のひとつで、生きとし生ける存在は皆それぞれ持っています。心理学と宗教が互いにそれを意識しているのかどうかわかりませんが、「神は私たちの中にいるということと同義語だと勝手に考えました。「教え」では自分で答えを出しなさいという、例えばカルマの課題に沿った宿題のような考えで、つまり苦を喜びに変える方法はあなたの中にいる神がヒントを与えたもうという、「愛情ある突き放し」のイメージです。一方「無意識」は実存していて、そこへのアクセス権は自由です。 ここにコンタクトするには例えば睡眠で見る夢、催眠、瞑想、ヨガ、LSDなどの薬物などでみれますが、普段の生活でも、催眠状態に「普通に」入っています。例えば映画や本の世界に夢中になっていたり、いちいち意識していてはいられない行為、例えば車の運転ですね、アクセル踏んで、次はハンドル握って、ギアいれて等々、ひとつひとつ確認をとりながらでは行動がスムーズにできないことなどは意識せず自動に行っていますよね。この状態も「催眠中」です。またフロイト大先生は精神疾患はほとんどが無意識への抑圧で生じる身体や行動の、より苦痛な症状であると説明されています。無意識について少しご紹介させていただきましたが、まだまだ奥深い世界です。 私が神に会いたいというのは、無意識にダイビングしたい、ということでしょうか。大海原に、大空からダイビングするような感覚が欲しいのかな。それこそ「至高体験」ですね。もうそうなれば「悟り」でしょう。私はシャーリー・マクレーンの「アウト・オン・ア・リム」で精神世界に啓蒙されました。この本の副題である「愛さえも超えて」というのは、どんな状態だろう?と当初は思いました。精神世界に親しむ前は愛が最も尊いことで、愛以上に完璧な状態はないと思っていたのですが、クエスチョンでしたが、それはきっとこういうことだと知りました。

frau
質問者

補足

こんにちは♪全然迷惑じゃないですよ!これはこの巨大サイトの片隅でやりとりする文通だと思ってますし、私が発信するときは恋文だと思ってますから!いつも楽しみにしております。 さて、また「つれづれ」してしまうのですが、哲学についてです。いつしかメインテーマの本流から別の流れになってしまいましたが(笑)、これも「哲学」であるからいいですよね! パスカルの有名な「人間は考える葦である」という言葉ありますよね。↓ 「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。…宇宙がこれをおしつぶすとしても、人間はやはり人間を殺すものよりも崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、そして宇宙が自分よりも優越していることを知っているからである。宇宙は何も知らない」 頭を少しでも強く打っただけで死んでしまったり、病気や事故におびえて生きているなんて、なんて弱い肉体を持った生き物だろうと思います。同時になんて強靭な葦をそれぞれ抱えているんだろうと思います。人生や運命においての過酷さは人それぞれ質や分量は違うのですが、人は有史以来、危険から身を守る知性も未熟な時代から、内外において過酷さや残酷さのおどろおどろしい事件の中で、大脳新皮質を武器にここまで歩んできました。それは科学万能主義の理性ではなく、生き続けることへの貪欲さでもなく、むしろ赤子のようにはかなげで、純粋で、生命力のあるものではないかと思います。見本当の葦のように、吹き飛ばされても可笑しくなく、一見弱いもののようですが実はそれはピアノ線のように強靭であるというイメージかな。 上のパスカルの言葉は例の高校のときの教科書からの引用ですが、こう解説してあるんです。 「人間は自分の弱さとみじめさを知っているがゆえに偉大である。人間は偉大と悲惨、無限と虚無のあいだの中間者であり、不安と倦怠の中に生きざるを得ない。パスカルは、この現実を直視する理性が最終的には自分を否定して信仰に賭けるところに、人間の救いを求めている」 この「信仰」というのは時代性からいって神などへの信仰のことなのでしょうか?私は「信仰」に代えて「自己」とあてはめます。神を信じたり祈ることはできても、結局自分を救えるのは自分、つまり「葦」だと思うのです。 フロイト大先生の言う「リビドー」とは本能の衝動のことですが、これは「生の本能」の他に「死の本能」も含まれています。死の本能とはエクスタシー願望のことだと思うんですが、私たちはその甘美さにも惰ちず、退廃的な生に抗いながら生きていますが、「それ」は本能とも理性とも違う。クラゲは波に揺られながらゆらゆらと自己主張しています。人の意志の強さってあるいはそんな感じのイメージ?でも「長いものに巻かれ」ている姿ではない。(そのクラゲ、今大量発生してます。)でもあんなふうに生きれたら!

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