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死はあるか?

僕は死はないと考える。というとずっと生きているという事か?生きてるんです。かといって「山田 太郎」という人物がずっと生き続けるか、そうではない。今現在この世界では「死」というものがあり、必ず最後に体が動かなくなるときがくる。それが「死」だ。しかし死の後、死の次があるか、化学的にも証明できないと思う。だからこれから述べる僕の理論は想像の世界にすぎない。しかし聞いてみればつながる点があると思う。生きているときこれなんか見た事ある。といったことを、一度は体験した事はないだろうか?それは前世での出来事だと考え方がある。僕はそれに近い考え方だ。ここで例をあげてみる。(1)、(2)という違う世界があるとする。例えば(1)の世界で、一度死ぬような事あるとする。すると次の瞬間というより0秒でまた(2)の世界に誕生する。そしてその(1)と違った世界の新しい常識、環境に適応していく。しかし根本の考え方「思想」だけは変わらない!ここがミソだ!!今、考えてること。それは何万、何億という年月の何億もの人が考える思想が似ていたり、同じだったりすることはありえると思う。それはさっき言った。「これなんか見た事ある。」というのもその一部だと思う。(自分の前世がそのことを考えたことがあるから。)要するにすべては自分の持つ根本的な1つ思想をもとに0秒という変化を経て適応し、この変化を繰り返す。その思想、想い、願いがかなうまで続くものだ。よって死は半永久的にないと考える。これについてどう思われますか?最初に結論(あるorない)をのべてください。よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.5

一個人の死というレベルでなく、より突き詰めた究極の次元において 「死というものはない」というPochi-69さんのご意見に賛同します。 そもそも無から有が生まれようはずはなく、有が無に帰するというのも、 いたって不自然な考え方に思われます。 (ここで有や無と云うのは、有象無象のあらゆる個別の存在ではなく、  その次元を超越した本質的なものとしての存在の仕方についてです) その絶対なる本質的な存在を、魂と呼ぼうが何と呼ぼうが、 生命(一個人の「命」という意味でなく)そのものは、生まれもせず、 死にもせず、永遠なる「ここ」にあり続けるものではないでしょうか。 ちょっと(大分?)この現実世界の「常識」とはかけ離れた発想と とられるかもしれませんが、私はこの世のあらゆる生命体の本質は、 基本的に一つのものではないかと感じています。 ヒトに限って考えても、いわゆる「生まれ」てきたところと 「死ん」で帰っていくところは同一のところで、 またヒトのみならず、これまでに生まれて生きて死んだ、そして これから生まれて生きて死ぬであろう凡ての生命体も同様、 一切のものは一つどころより出で、還ってゆくものに思われます。 Pochi-69さんのおっしゃるデジャヴの周辺に関することが、 そのまま前世や輪廻についての科学的に立証にはならないとしても、 少なくとも私は上に書いたことから、「死はない」とする考え方が 何より合理的であると確信しています。 ご投稿の後半部分については、感覚的に分かるような気がするものの、 私の中にまだ確信と呼べるものがないので、 今回はコメントを控えます。 以上、あくまでも個人的な思想です。 ご参考までに。。。(^^)

その他の回答 (5)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

参考程度に 「心」は不死ですよ。億という歳月を通って今がありますね。地上での肉体の一生は高々80年ぐらいですけど、経験という「心」に留めたものは残っていきますよ。諸行無常というのは「心」つまり「思考エネルギー体」は含まないんです。それだけのことです。簡単な事実なんですけどね。「心=思考エレルギー体」を「魂とか霊」というからややこしくなるのですけど思考するエネルギー体といえば、エネルギー不変則でわかりやすいかもしれませんね。ただエネルギーに意思があるといったら現代物理学者はひっくり返るかも知れませんけど、事実ミクロの世界ではそのような振る舞いも見られますね。

  • nemosan
  • ベストアンサー率22% (582/2598)
回答No.4

輪廻転生ですか? 私も若い頃には色々考えたことがあります。イヤ~懐かしい(笑) 結論から言えば、「死」はあると思います。 私は「生きる」ことは「記憶を蓄積する」ことだと思っています。で、「死」は「記憶の蓄積」が止まること。パソコンのHDが壊れるようなものです。 「生まれ替わり」は「HDの初期化」みたいなもので、前世の記憶は無くなってしまう。 でも、外部にバックアップがあります。今までに出逢った人々に残る記憶や写真、日記。また研究論文や芸術作品を作っていれば、より濃縮された私の記憶を残せます。 私自身、世界中のあらゆる年代の人々が残してくれた記憶から、その人々の人生を別けてもらっていると思っています。これら科学的に証明されている膨大な前世の記憶の前では、私自身の前世の記憶(があったとしても)など塵芥のごとしです(笑) 改めて結論ですが、文字など記憶を残す文明を手に入れた人類は「記憶を共有化」することで「個人の死」を乗り越えることが出来たのではないでしょうか? ちなみに、ココのサイトに書き込むことで、私の「記憶」も誰かの記憶にバックアップれることに・・・。

Pochi-69
質問者

お礼

僕も今年の修学旅行で夜中この論題で盛り上がりました。「HDの初期化」そうである可能性は大だと思います。

  • ststeps
  • ベストアンサー率26% (57/217)
回答No.3

死はあると思います。  質問者さんの論理だだと矛盾することが出てきます。それは人口の増減です。ある定点から次の瞬間、全世界で人口が一人増えたとすると、その人の「思想」はどこから来たのでしょうか? 同様にある定点から人口が一人減った場合、そのときに死んだ人の「思想」はどこへ行くのでしょうか? 人間以外のすべての生物を含めて「思想」の交換があったと仮定しても、ゴリラとかチンパンジーならまだ説明がつきそうですが、プランクトンやウイルスなどまでいくと人間の「思想」を取り込むだけのキャパシティーに無理がありますし、また次の世代でプランクトンやウイルスから人間へと「思想」を交換したとき、人間のキャパシティーから比較すると限りなく無に近い「思想」を得た事になります。 既視感は脳の記憶が混在しただけ、思想が遥か昔から変わらないのは文化や宗教、はたまた人間が本来持ちえる遺伝情報(生き続ける・子孫を残す)によるもの、だと思います。 そもそも、人間の脳は神経物質の伝達によるものですから、自分以外の外界とリンクしていない限り「思想」が交換されることはないと思います。 ただ唯一、母親からの思想の封入は否定しませんが・・・。(笑) 質問者さんの理論の矛盾を突くだけの後ろ向きな意見ですが、御容赦ください。死後の世界の話は、発達しすぎた人間の脳が生み出す文化思想の一つだと考えています。 最後に一つくだらない話を・・・。(私の意見とは逆ですが・・・) 母が娘に教える天使の話。 「鼻の下にくぼみがあるでしょう?赤ちゃんはね、生まれる前に天国にいるの。赤ちゃんがお母さんのおなかに向かうその日になると、天使がやってきて、天国で見たり聞いたりしたことは誰にも言っちゃいけないよって言って、ひとさし指でシーッて口を抑えるの。それで、鼻の下にくぼみがあるのよ」

回答No.2

死はあります。  輪廻はあっても死はあります。霊界のような世界に逝ってから戻ってきて、記憶が保存されることを死といわないなら別ですが、1の人のおっしゃる様にデジャビュという現象にもあるように、人間の脳とはかなりあやふやな構成でできています。スピリチュアルな世界は私も好きなので否定はしませんが…科学が発展した今の哲学では死を"無"と既定する事が多いみたいですね。また、この無もまたやっかいですので、この辺でやめますけどw。  心理学や遺伝子などの科学の視点から見ても、あなたのいう"思想"や"願望"は、人間のエロス(広い意味での欲望)として解決されちゃうんじゃないかと思います。

  • 405sac
  • ベストアンサー率32% (29/88)
回答No.1

死はあると考えます。 思想は人間特有のものという考えを前提に述べさせていただきますが、質問者さんの仰る論理だと、人間以外の動物には適用されないという考えからの回答です。 私は、人間は生物の単なる一種であって、他の生物の例外とは捉えていません。体の機能が停止すれば、それが死。誕生以前も死後も存在しないと思っています。 質問者さんの仰る既視感も、脳の記憶違いによるものと考えます。 私も時々「あ、これ前にもあった」と感じることはありますが、人のとる行動は案外いつもの軌道をそれないものです。よって、「前にも(似たようなことが)あった」わけです。 例に挙げるなら、イチゴが好きな私は、初めてケーキを買いに行き、イチゴショートを買います。2回目、前回を覚えているならば、次はプリンにしようかなと思うかもしれない。しかし、前回のことを忘れていたなら、それが自分にとっては1回目の買い物。イチゴショートを選びます。そして「あれ、前にもこんなことがあったような」と思う。 それが既視感であると私は考えます。 しかし、これも確かな証明は不可能な考え方なので、ホントの事とは全然違うかもしれません。 ご質問が面白くて、思わず書き込んでしまいましたが、お気にさわったのならすみませんでした。 単なる一般人の考えの一つですので、無視していただいて結構です。

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