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臨済禅を科学する

禅の公案を考えていると 肚が座る感じになって 胆力が付くような気がします。 そこで、私はなぜこのような 変化が起きるのか、 科学の方面から理論的に 明らかにしたいと思っています。 何か、こういう方面で お勧め本があったら教えて下さい。 ただ私は禅の公案を研究、 実践してはいても 仏教を信仰していないので 「仏教の本を読んで研究しろ」 という回答はしないで下さい。 よろしくお願いします。

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  • v3050v78
  • ベストアンサー率36% (43/119)
回答No.2

何ら科学的に根拠はありません。禅は間違っています。私がここで言う「禅宗」とは「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗宗」です。これらの「禅宗」では、釈尊の一代聖教には真実を顕(あらわ)さず、真実の法は釈尊が迦葉(かしょう)一人に、一代の教えの他に別に伝えたといいます。しかし、釈尊の涅槃のときには迦葉はその場にいなかったのであります。ゆえに釈尊が華(はな)を拈(つま)んで迦葉尊者一人が笑みを浮かべたという事実は無く、禅宗でよく言う「拈華微笑(ねんげみしょう)」とは、全く根拠のない作り話であります。 一代聖教を誹謗し、経典を捨て去り、教外別伝、不立文字を立てる禅宗は「涅槃経」の、「若(も)し仏の所説に随(したが)わざる者あらば、是(こ)れ魔の眷属(けんぞく)なり」と説かれるように天魔の所業と言わざるをえません。さらに「直指人伝(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」といい、経教を用いず座禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとします。たしかに衆生はすべて仏ともいえますが、それは単なる理論上の仏であって実際の仏ではありません。三毒強盛(さんどくごうじょう)の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずる事はできません。だからこそ釈尊は「涅槃経」に、「願って心の師と作(な)るとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきでない、と誡められています。

o2b32
質問者

お礼

ありがとうございます。

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回答No.1
o2b32
質問者

お礼

なるほど、呼吸ですか。 ありがとうございます。

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