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臨済禅を科学する
禅の公案を考えていると 肚が座る感じになって 胆力が付くような気がします。 そこで、私はなぜこのような 変化が起きるのか、 科学の方面から理論的に 明らかにしたいと思っています。 何か、こういう方面で お勧め本があったら教えて下さい。 ただ私は禅の公案を研究、 実践してはいても 仏教を信仰していないので 「仏教の本を読んで研究しろ」 という回答はしないで下さい。 よろしくお願いします。
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- v3050v78
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何ら科学的に根拠はありません。禅は間違っています。私がここで言う「禅宗」とは「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗宗」です。これらの「禅宗」では、釈尊の一代聖教には真実を顕(あらわ)さず、真実の法は釈尊が迦葉(かしょう)一人に、一代の教えの他に別に伝えたといいます。しかし、釈尊の涅槃のときには迦葉はその場にいなかったのであります。ゆえに釈尊が華(はな)を拈(つま)んで迦葉尊者一人が笑みを浮かべたという事実は無く、禅宗でよく言う「拈華微笑(ねんげみしょう)」とは、全く根拠のない作り話であります。 一代聖教を誹謗し、経典を捨て去り、教外別伝、不立文字を立てる禅宗は「涅槃経」の、「若(も)し仏の所説に随(したが)わざる者あらば、是(こ)れ魔の眷属(けんぞく)なり」と説かれるように天魔の所業と言わざるをえません。さらに「直指人伝(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」といい、経教を用いず座禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとします。たしかに衆生はすべて仏ともいえますが、それは単なる理論上の仏であって実際の仏ではありません。三毒強盛(さんどくごうじょう)の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずる事はできません。だからこそ釈尊は「涅槃経」に、「願って心の師と作(な)るとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきでない、と誡められています。
- 薫子(@kao-ruko)
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それは「公案」によるものではなく、 公案を考えることによって 「呼吸」が変わることが要因だと 私は考えます。 (実は「公案」には「意味は無い」とも言えます) 呼吸のお勧め本です。 https://www.amazon.co.jp/%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%8C%E5%AE%9F%E8%B7%B5-%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%8C%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%8B%E6%9C%80%E9%AB%98%E3%81%AE%E5%91%BC%E5%90%B8%E6%B3%95-%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%B3/dp/4761272953/ref=asc_df_4761272953/?tag=jpgo-22&linkCode=df0&hvadid=295695037621&hvpos=&hvnetw=g&hvrand=12609961399206114602&hvpone=&hvptwo=&hvqmt=&hvdev=c&hvdvcmdl=&hvlocint=&hvlocphy=1009252&hvtargid=pla-554617806444&psc=1&mcid=e96ccfc899873a89910ca492ebd43991&th=1&psc=1
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