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セザンヌはなんで、抽象的な風景画を描こうと思った?

セザンヌはなんで、抽象的な風景画を描こうと思ったんでしょうか?

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10024/12548)
回答No.3

以下のとおり、その筋の文献を参照しながらお答えします。 >セザンヌはなんで、抽象的な風景画を描こうと思ったんでしょうか? ⇒あらかじめ予備確認から入りますが、最後の結論部分まで目を通してくだされば嬉しいです。 まず印象派は、主題の要点を素早く捉えて、できるだけ混色を避けて色を並べ、「同時対比の原理」によって見る人により生き生きと見せるなど、それまでの技法や制作態度を革新した。また、ありのままの現実を捉える写真が広がり始めると、画家たちは風景だけでなく人々の日常生活の瞬間の動きを表現するようになった。写真が、現実を写し取るだけの技量の価値を低下させたのである。印象派の発展は、ある意味、「写真が突きつけた難題に対する画家たちの反応」とも考えられる。 しかし一方、写真のおかげで画家たちは他の芸術表現の手段を追求し始めた。現実の模写を写真と張り合うのでなく、写真の模写に対し、「主観性を構想して芸術様式に取り込むことによって写真よりうまくできること」に焦点を絞ったのである。印象派は、正確な再現を生み出すのではなく、「そう見える」自然の表現を追求したとも言える。これにより、画家は彼らの目に映るものを主観的に描く視点を展開したのである。 ということで、ここにセザンヌが登場する。当初はモネやルノワールらとともに印象派の一員として活動していたセザンヌだったが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事に囚われない独自の絵画様式を探求した。かくしてセザンヌは、「自然に倣って絵を描くことは、対象を模写することではなく、感覚を実現させることだ」とした。この「感覚の実現」はセザンヌの標語となったが、この感覚には、「自然が網膜にもたらす色彩の刺激という意味と、自然から得た感覚を統御して秩序を構築する芸術的感覚」という二つの意味があった。 すなわち、モネに代表される印象派が、眼を通して受け入れた感覚世界を色彩に分解してキャンバスに写し取ることを追求したのに対し、セザンヌにとって見ることとは、自己の内部にある知的秩序に基づく認識作用であり、しかも、認識の対象は色の斑点ではなく、果物や山といった実在であった。浮世絵の技法(ジャポニズム)の斬新な構図なども、彼の画法・技法に影響したに違いない。「絵画には、二つのものが必要だ。つまり眼と頭脳である。この両者は、相互補完し合うものでなければならない」というセザンヌの言葉に、彼自身の考え方が如実に表れている。 1880年代、セザンヌの静物画では、緊張感をはらんだ「歪み」が現れる。オルセー美術館にある『果物籠のある静物』では、砂糖壺が傾いていたり、壺が上から覗き込んでいるように描かれているのに対し、果物籠が横から見たように描かれているなど、複数の視点が混在していたり、テーブルの左右の稜線が食い違っていたりという、多くのデフォルマシオン(変形)が「生き生きと」描かれている。それが物の圧倒的な存在感をもって見る者に迫ってくる要素となっている。 以上述べたこと、とりわけ「頭脳という第二の眼をもって対象を多角的に見る」技法を、「セザンヌが抽象的な風景画を描こうとした理由」と見なすことができよう。こうした独特の造形法は、同時代の人々からは激しく非難されたが、それがかえってキュビスムによって評価されることに繋がる。こうして、セザンヌの考えや技法がキュビズムにある種のインスピレーションを与えたことは想像に難くない。セザンヌにあっては、受け入れの窓としての眼が、対象に関する感覚・感性の放出窓に変化したが、これに感化されたキュビズムでは、眼は主観の吹き出し口となったのである。 こうして遠近法や陰影などを用いた従来の具象絵画のルールは覆され、立体的な対象が平面的に分解され、幾何学的な形に再構成されるという革新的な技法が生まれ、「複数の視点から見た物の形を一つの画面に収める表現法」が時の美術界を席巻した。なお、セザンヌはポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」と呼ばれる。

rameznaam
質問者

お礼

大変詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!

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その他の回答 (2)

  • nagata2017
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回答No.2

ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839年1月19日 - 1906年10月23日 カメラが発明されたあと 感光材を使って写真として残せるようになり世間一般に普及しはじめたのが ダゲレオタイプ1839年です。 そして焼き増しのできる ネガポジ法ができたのが1841年です。 それまでの写実主義の絵画は カメラに負けるという印象を与えて 画家たちは これからどうしたらいいのだろうと考えました。 セザンヌが画家として活動をはじめたころには カメラは画家にとって脅威の発明になっていたのです。

rameznaam
質問者

補足

キュビズムのときにカメラが脅威になったんだと思ってました!そのずっと前から、カメラは影響力が強かったんですね!何気に、カメラの登場って早いんですね…微妙にビックリしました…

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1158/9169)
回答No.1

その当時写真術が発明され、古典的な写実の意味が揺らぎだしたのではと友人が言っています。囲碁や将棋にAI が参入して専門の棋士より強くなったという状況に似ているのかなと思いました。

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