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信長の葬儀

清須会議が6月27日、秀吉によって執り行われた信長の葬儀が10月10日~ あまりに遅いように思えますが、なぜに信孝信雄は一刻も早く葬儀を行わなかったのでしょうか? どちらも一刻も早くけたたましく葬儀をやりたい立場と思うのですが。 秀吉が遅いのはまあ柴田信孝との開戦に発展するので冬の近い時期を見るのはわかるのですが、逆に一刻も早く葬儀したい側の信孝はなぜに?

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  • pri_tama
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回答No.2

>なぜに信孝信雄は一刻も早く葬儀を行わなかったのでしょうか?  この時点では、信雄は信長の葬儀実施絶対反対マンでした…。    ⇒信孝は、この時点では三法師を確保していましたから、葬儀やると織田家の後見人が信孝に確定してしまう…。  我々は、後に秀吉が天下取るの知っていますから、信長の仇を討ったのが秀吉だと思いますが、当時の人からすると信長の仇を討ったのは、信孝で秀吉は現場で指揮を執っただけ。  (まあ、それでも秀吉の功績は家臣随一になるのですが…。)  信雄からしたら、これ以上信孝にポイント積ませる訳には行かない…。  ただ、信雄からすると勝家やら秀吉らが決めた、以下の清須会議の決定事項を履行する訳には行かない都合が有りました。  (秀吉が信雄に対して兵を挙げるのは、以下の条件が履行されないから…。)   ⇒三法師は、安土城を相続し安土にて執権として羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する。  これを認めると、信孝から三法師を取り上げて、織田家の方針は重臣による合議制に移行してします。  ですから、信孝からすると先ず重臣の切り崩しが必要です。  お市の方と勝家の結婚も、その流れの中で発生したと思います。  信孝からすると、信長の葬儀をすると喪に入ってしまいますから、重臣団の切りくずしのシンボルたるお市の方と勝家の結婚が先延ばしに成ります…。  つまり、信長の葬儀には何が何でも反対したい信雄と重臣達の切崩しの時間を確保したい信孝の思いが合致した事が息子主体の葬儀実施を妨げてしまった。  ⇒ただ、家臣からすると息子同士の権力確保で何時までも、葬儀が出来ない事に不満が無かったとは言えません…。  (信長の百日法要が各家臣で独自に実施されていた…。)  また、この状況が信長の実子(秀勝)を養子にしている秀吉に付け入るスキを作ってしまったのですが…。

jkpawapuro
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほどお市の方と柴田の婚姻が無いと話が動きませんね。 そこからすぐに法要に移って9月に開始とすると、ちょっと冬が近く不安で来年の開催を目指したのかな?

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  • eroero4649
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回答No.1

この場合の葬儀は、政治的なアピールが重要になります。空手家として有名な大山倍達氏が亡くなったとき、後継者とされた松井章圭氏と、娘さんと奥さんの家族が、それぞれに葬儀を行いました。要するに跡目争いです。 別々に葬儀を行ったら、周囲に「私ら分裂して跡目争いをしています」というのを幅広くアピールすることになりす。 我々は後の歴史を知っていますから天下は羽柴秀吉がとったことに疑問を持ちません。けれどリアルタイムのあの当時では、秀吉は重臣の一人だったとはいえ、末席といっていい立場。ただ「弔い合戦に勝利し、光秀の首をとった」というのはこれ以上ない功績ですから強い発言力を持てたのです。 当時の人々は当事者も含めて、「跡目は織田家の誰か」になると思っていたでしょう。そういった中で織田家の血筋にあるとはいえ光秀を討ったわけでもなんでもない信孝にしても信雄にしても、強引に葬儀を行っても周囲は納得しません。 いわゆる「社葬」ですからね。誰が喪主になるのか。その喪主の横に座るのは誰か。どの席にどういう序列で座るのか。それによって「ははあ、これからの時代の織田家はこの人が仕切っていくのだな」というのが周囲に伝わります。 そして誰だってその権力者になるであろう人にすり寄りたいものです。そう目された人には多くの人がゴマをすってくるでしょう。 記録によると喪主が信勝になると決まったのが葬儀が行われる1ヵ月前の9月9日だったそうです。おそらく、喪主が信勝になることが決まったから、葬儀の日程が決まったのでしょう。 それまでは、誰が喪主になるかでなかなか調整がつかなかったのでしょうね。もしかしたら、秀吉が意図的に決定を遅らせていたかもしれませんけどね。 いくら織田家の血筋とはいえ、弔い合戦の殊勲者である秀吉を差し置いて、一族であること以外になーんもアドバンテージがない信孝や信雄に勝手に葬儀を始める権限も実力もなかったのだと思います。

jkpawapuro
質問者

お礼

そりゃ全重臣を引き連れて葬儀を行うのが理想ではあるものの、信長の子があちこちにいる中で万一後れを取ったら致命傷とも思うのですよねえ。 ご回答ありがとうございました。

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