magga の回答履歴

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  • 僕の存在の意図ってなんなんでしょう

    生きるのが苦しく、いろんな宗教的思想を調べました。 どの思想にも納得がいきません。 僕らは何故存在してしまうのでしょうか。 やれ仏になる為とか・・なんでいちいち仏にならなきゃいけないんでしょうか? やれ天国に行けるとか・・そんなものの為にこんなにも苦しい思いをしなきゃいけないのか。そんな欲望のために存在するんだろうか?天国にいける?神への道?極楽浄土?ふざけないでほしい。 罪やら業やら修行やら・・・なんでいちいち経験させられるんでしょうか? 僕はどうしても根本的な要因の一方的欲望としか思えません。 そうではないんだという回答が欲しいです。 よろしくおねがいします。

  • 「全てのものは変化する」への批判への反論

    「全てのものは変化する」というのは真理ではありますが、そうだとしたら、その真理は変化しないわけですから矛盾するのでは?という問いに対して 「『全てのものは変化する』ということを真理と名づけたのは約束事であり、約束ごとは「全てのもの」の中に含まれない。 数学者が存在するかぎり『正三角形』の定義が変化しないように」 と答えることは適切でしょうか?

  • 人生に意味などないことは明らかで、それ故そろそろ死のうかと思っているのですが

    とても下らない質問です。 お忙しい方は、どうぞ無視してくださって結構です。 さて。 こんな状況を想定してください。 ある理系の高校生がいます。 唯物論的世界観を有する彼にとって、世界は極めてシンプルです。 彼にとっては、科学を前進させること、人の役に立つ技術を開発することのみが、究極的には唯一、真に意義があると思われる命題です。 なぜ彼がこれほど単純な世界観を有しているかと言えば、それは彼がそれまで「自分」や「世界」について真剣に考えたことが一度もなかったからです。 幸い彼は、数学、物理などの理系分野にそれなりの才能があったので、世間では一流大学と呼ばれている大学の工学部に進学します。 大学生活の中で彼は、「哲学」と言うものに初めて出会います。 これがあらゆる不幸の始まりです。 「哲学」と言う名のウィルスは、少しずつ、しかし確実に彼の精神を侵食し始めます。 彼は「哲学書」という書物を読み漁るようになります。 この「哲学」という名の凶暴な悪性ウィルスが、彼の薄っぺらな世界観をすっかり転覆させてしまうのに、それほどの時間はかかかりませんでした。 彼はたちどころにそれまで信じて疑わなかった、「人生の意味・目的」というものを失います。それどころか、今後二度と以前のような意味での「人生の意味・目的」を得ることはできないことを確信します。 これはもちろん彼にとって、受け入れがたい苦難でした。それ故、彼は何度もそれらの書物を読み直し、そして考え直しました。しかし、どのように考えても、存在論的な基盤の上にある西洋哲学からは、人生の意味や目的を見出すことは不可能のように思われました。そして、それを承知でなおもそれら解決不可能な問いを探求し続けるのが哲学だと言うことに、ようやく気付いたのです。 人生の無意味、さらに言えば、存在の無意味に気付いてしまった(と少なくとも当人は思っているようです)彼にとって、残された道は二つしかありませんでした。素知らぬ顔で、残りの人生を過ごすか、あるいは無意味、無目的に耐えながら日々を過ごすかです。不器用な彼がとることができる道は、後者のみでした。それ以来彼は、数年にわたりシューシュポス的な日常に耐え忍んできました。 もちろん、取り付かれてしまった病を克服する努力はしてきました。 論理を超えたところに光があるのではないかという淡い希望にすがりながら、彼は宗教書や文学を読み漁りました。あるいは西田幾多郎や鈴木大拙などと言った東洋の思想も読みました。 一時はそれらによって、絶望を打ち破ることができたように思われました。 しかし、ダメでした。 3年前に、彼はうつ病と診断されてしまいます。 それ以来、投薬治療や認知行動療法などを続けますが、そんなものが効くはずはありません。彼にはそれが誰よりもわかっていました。何故なら彼は、本当はうつ病ではないからです。うつ病だったらどんなに楽だろうかと思いました。うつ病ならば、抗鬱剤で快方に向かいますが、デンマークの哲学者が名付けた彼の病の特効薬は「死」しか存在しないからです。 それ以来彼は、死に対する憧れを抱くようになりました。 夜眠りについて、そのまま一生起きることがなかったらどんなにいいだろうかと思いました。ただし、自殺を実際に行動に移すだけの勇気も、気力も、彼にはありませんでした。 もちろん、彼が自殺を思いとどまってきた理由は他にもあります。それは、家族、友人の存在です。彼が自殺をすれば、友人は猛烈な自責の念に苛まれ、両親は今後一生立ち直れないであろうことは、彼にはわかっていました。それゆえ彼は、それらの人々の為だけになんとか生きているといってもいい状態でした。しかし、忍耐にもそろそろ限界が来てしまったようです。 彼はそろそろ死のうかと思っています。 もちろん彼の死に一握りの悲劇的要素もないことは、彼自身が誰よりも承知しています。 何よりも無意味な死、犬死です。 しかし、彼の悩みが彼固有のものであると思うほど、彼はバカでもうぬぼれてもいません。 それどころか、数え切れないほど多くの人が、同じような問いに悩み、それを乗り越えてきたことを知っています。しかし、数千冊の書物から彼が導き出された結論は、それらの問いを乗り越えることとは、結局妥協によってのみ可能だと言うことです。 ただし、これは彼の結論であって、あなたの結論ではありません。 彼は、レヴィナス風に言えば、少なくとも「他者」を「私」ではない「他者」として認識するだけの謙虚さは持っているようです。 そこで彼は、インターネットと言う媒体を使って、「他者」にたずねてみることにしました。 彼の病を克服する「知恵」を、教えてあげてください。

  • 意志の自由とは何か。

    哲学の授業で論述問題が出されました。 意志の自由 重要な概念 決定・自由・意志・行為 機械論自然観(機械論的自然観) 因果法則 心と身体の関係 相互干渉説 黒板にこのように書かれただけなので、一体なにからやればいいのか… そもそも意志の自由って何ですか?? 束縛されない意志のことですか?? いろいろ調べているのですが、いまいち納得できません… わかりやすく教えていただけると嬉しいです。 よろしくお願いしますっ!

  • (仏教) 経典と教団の権威の裏付け法は?

    曖昧な知識ですがキリスト教には三位一体の概念があります。何故に、この概念を導入したのか承知しませんが、多分、これによって聖書と教会を絶対化しようとしたのだと思います。 ・ 聖書は人間が記述したものではあっても聖霊のなせる業であるから、つまりは神が記したものである。よって、聖書は絶対である。 ・ 聖職者は人間であっても、その言動は聖霊のなせる業であるから、つまりは神の言動である。よって、教会は絶対である。 こういう論法が成立します。聖霊の導入は全ての疑問を封じて上意下達を図る特効薬なのだと思います。本当のことは知りません。 さて、翻って仏教です。 仏教徒たらんとする者にも、 ・「如是我聞」などという言わば伝聞だが噂話だかを集めた経典の記述内容を信じてよいのか、 ・ 僧侶は人間にしか過ぎない。教団や上位の僧侶の判断には誤謬も多いのではないか、 こういう疑問は当然あったし今もあるのだと思います。 仏教の場合、こういう疑問は如何なる論理によって封じているのですか。キリスト教でいう聖霊と三位一体に該当する考え方が何か用意してあるのだと推測します。信徒であるなしは問いませんが、仏教界の見解を代弁できる方のご回答を期待します。仏教界全体の見解ではなく、ある特定の宗派の見解でもよいものとします。 よろしくお願いします。

  • 釈尊と大日如来

    釈尊(仏陀)と大日如来とはどちらがえらいのでしょうか?

  • (仏教) 経典と教団の権威の裏付け法は?

    曖昧な知識ですがキリスト教には三位一体の概念があります。何故に、この概念を導入したのか承知しませんが、多分、これによって聖書と教会を絶対化しようとしたのだと思います。 ・ 聖書は人間が記述したものではあっても聖霊のなせる業であるから、つまりは神が記したものである。よって、聖書は絶対である。 ・ 聖職者は人間であっても、その言動は聖霊のなせる業であるから、つまりは神の言動である。よって、教会は絶対である。 こういう論法が成立します。聖霊の導入は全ての疑問を封じて上意下達を図る特効薬なのだと思います。本当のことは知りません。 さて、翻って仏教です。 仏教徒たらんとする者にも、 ・「如是我聞」などという言わば伝聞だが噂話だかを集めた経典の記述内容を信じてよいのか、 ・ 僧侶は人間にしか過ぎない。教団や上位の僧侶の判断には誤謬も多いのではないか、 こういう疑問は当然あったし今もあるのだと思います。 仏教の場合、こういう疑問は如何なる論理によって封じているのですか。キリスト教でいう聖霊と三位一体に該当する考え方が何か用意してあるのだと推測します。信徒であるなしは問いませんが、仏教界の見解を代弁できる方のご回答を期待します。仏教界全体の見解ではなく、ある特定の宗派の見解でもよいものとします。 よろしくお願いします。

  • 人類滅亡説の歴史

    人類滅亡説(地球滅亡説)はたくさんありますが、今までに(歴史上)どんなのがあったのでしょうか? ご存知の方、教えてください。 わたしの知ってるのはこれぐらいですが、この十倍くらいはあるのでしょうね?(過ぎたのは忘れ去られるので) 1)12000年説;仏教末法説(教えの終わりで地球の終わりではない?) 2)????年;キリスト教他 最後の審判(新世界の始まりで地球の終わりではない?) 3)????年;ラグナロク 北欧神話の話だけど再生もあるのかしら? 4)紀元前3000年;ノアの箱舟(大洪水)同類の話は世界中にあるらしい。 5)1910年;ハレー彗星説 ハレー彗星の尾の毒ガス 6)1978年;カルトの人民寺院の集団自殺 7)1999年説;ノストラダムス(五島説)恐怖の大魔王 8)2012年説;何種類かあるみたい(マヤ文明の暦?とか、フォトン・ベルト?とか) 日本神話には世の終わりの話はなかったような? イスラム教は最後の審判? P.S. 地球滅亡説(人類滅亡説)の程度は、適当に解釈お願いします。 カルト集団を入れると膨大な数になるかしら?

  • なんで宗教って戦争と対立ばっかりするの?

     仏教とキリスト教の教えを学ぼうと  御書と聖書を頂いて、軽く会合に見学をしました  どの宗教でも「この宗教はあらゆる人に必要で・・・・宇宙の原理原則を説いているのよ・・・・」  という感じで、「これ、絶対正しいから!」  みたいです  そして、どの教えでも「周りの人たちに愛を配りなさい・・・優しくしなさい・・・」と教えています  でも、どの宗教でも戦争をしてるし、対立関係の宗教が存在してませんか?  なんで、その教えに反することをしているのでしょうか?  結局は他宗教を「サタン」やら「魔」であるとして、人ではないという扱いをしているからなんでしょうか?  

  • 因果について質問です。

    悪いことをすると自分に返ってくると言いますが、根拠がわかりません。 先生に聞いても納得のいく答えがかえってこなかったので、ここで質問させて頂きました。 誰か教えて下さい。お願いします。

  • 自分の無能さが嫌になります…

    自分はどうも周りと比べて頭の回転が悪いらしく、物忘れも激しいようです。 私は現在高校二年の女で、スーパーでアルバイトをしています。 バイトは一年の時から続けているのでもうかなり長くになるのですが、 未だに仕事の段取りに慣れず、同じ事で何度も失敗してしまいます。 勉強でもバイトでも日常生活でも、つくづく自分の頭の悪さに嫌になります。 主な問題点は、以下の通りです。 ●ついさっきまで考えていた事をいざやろうとすると、 その途端に頭が真っ白になり何をしようとしていたのか忘れてしまう(特に用事が複数の場合)。 思い付いた事、買う物をメモしようとする時、 その瞬間までは覚えていたのにいざメモ用紙を前にするとコロっと忘れてしまう ●何かをしようとする時、まず何をしていいのか分からない。 次何をしていいのか分からない。順序が分からない。 知っていたとしても思い出すのにいちいち時間がかかる ●「おさらい作業」が苦手。 「さて、今言った事はなんだっけ?」「はい、今度は自分でやってみて」 などと返されると途端に教えられた流れを忘れてしまい、 すぐに行動に移す事ができず時間をかけて思い出しながらの対応になる ●仕事や普段の生活でも「今何を取りに来たんだっけ」という事がよくある このような性格(?)を直すには、一体どうすれば良いのでしょうか。 今とても悩んでいます。

  • われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは

     ないでしょうか?  あるいは ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか?  あるいは われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。そのときには 一般に神話の伝えるような《父親殺し》のかたちではなく どうなりましょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか?  さらにあるいは ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている――のではないでしょうか?  その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか?  この《ブッダ》――つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。  ご教授を乞います。    減らず口をたたきます。質疑応答に取り上げられるブッダの多さを見てください。その議論の多くは あたかも意識の排泄であって さとりでも何でもなく 排泄であるなら金魚のふんのごとくつらなります。われわれはこの地獄から解放されるべきでは?  ぼこぼこになるまでご批判をたまわりますようお願い致します。

  • われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは

     ないでしょうか?  あるいは ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか?  あるいは われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。そのときには 一般に神話の伝えるような《父親殺し》のかたちではなく どうなりましょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか?  さらにあるいは ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている――のではないでしょうか?  その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか?  この《ブッダ》――つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。  ご教授を乞います。    減らず口をたたきます。質疑応答に取り上げられるブッダの多さを見てください。その議論の多くは あたかも意識の排泄であって さとりでも何でもなく 排泄であるなら金魚のふんのごとくつらなります。われわれはこの地獄から解放されるべきでは?  ぼこぼこになるまでご批判をたまわりますようお願い致します。

  • 子供を生むのをためらうのは殺人ではないのか

    感情論はなしです。 この世には殺人という概念がありますが、 ようは人を殺すことです。 悪意をもってるかもってないか関係ありません。 頼まれて殺しても仕方なく殺しても殺人です。 では、子供を生むのをためらうのは殺人じゃないのですか? 人を殺すのが殺人だ、でも将来的にうまれる、しかも大きな存在となるかもしれない人をを殺していることにはならないのですか?

  • 魂は存在するか!!

    いままで何度も議論されてきただろうし いまさらこんなことを伺っても詮無きことですが。 これも感情論抜きでお願いします。 人間から、言葉を抜きます。 論理的思考が難しくなり、ただ感情に流されるままになりそう。 視覚を抜きます 聴覚を抜きます。 触覚を抜きます。 感情を抜きます。 しかし、それでも残っているものがある気がします。 自分は結構そういうオカルトは信じないのですが、 薬なんかで感情とかならある程度変えることも出来る都思います、 それでもそこに、自分はあるっていう何かがあるような気がします。 どうでしょう?

  • やらない偽善よりやる偽善を論破できますでしょうか?

    こんにちは。 論理的思考ができる賢者の皆さんにお尋ねしたいのです。 知人が「やらない偽善よりやる偽善」といってるやつがムカツク そしてそれに対しうまい言い返しができない自分が悔しい と嘆いておりました。 その知人は、日テレの24時間テレビをやっている時に上のように申しておりましたので、この場合の「偽善」とは日テレの24時間テレビなどの障害者をダシにした視聴率稼ぎや、口先だけで実りのない奇麗事の事を指すと思っております。 私一個としては、たとえその行為の思惑が八方美人な性格のためだったり、他人との交流を深めるためだったりなのだとしても「やらない募金よりやる募金」だと心得ておりますので、あまり知人の力になれないのですが、もし、「やらない善よりやる偽善」を論破できるという方は、どうか、私の知人にお力を差し伸べてやってください。 よろしくお願いします。

  • 悟り・少々ヨコヤリ

    少々ヨコヤリっぽいが、悟りを開く意味とは俗人的に生きるのにこそ必要なのではないのか? 俗世間から距離を置いて生きるのならそもそも悪いこともさほど起きないだろうし・・・、俗人的に生き、楽しいことや嬉しいことを満喫しつつ、悪いことや嫌なことは無くす。 そのための「悟り」ではないか?

  • 座禅せば 四条五条の 橋の上 往き来の人を そのままに見て

    「座禅せば 四条五条の 橋の上 往き来の人を そのままに見て」 を簡単に実践する方法を教えて下さい。 ※「座禅」をする気も「四条五条の橋の上」まで行く気もありません。 ※要するに、この人が至った境地を知りたいだけです。 完全に主観をゼロにすることが不可能なことを前提にして下さい。 ただ、目の前に存在する現象そのものを、ありのままに受け入れる。 この方法を教えて下さい。という質問です。 僕たちは現実を認識していない、現実ではない幻想に惑わされている。 仏教的にいえば、それは無知であり無明である? そこから煩悩が生まれ、そして苦しみが生まれる、、、 こんなようなことをグダグダと言われたくないので結論だけ簡潔に教えて下さい。 ※ただ単に愛に生きるだけの人になりたい訳ではありません。 よろしくお願いします。

  • 星条旗よ永遠なれ

    ちょっと調べ物、「星条旗よ永遠なれ」ですか、たまには、アメリカ国家を聞くのも良いかなと、クリック、あれ、国家ではなくて、アメリカ軍の行進曲が・・・「星条旗よ永遠なれ」は、アメリカ国家の名前じゃなかったのか?。聞けないとなると、聞きたくなる。探しました。色々有りますね。やっぱり、ホイットニー・なんとか、一番良いですね。う~む、ホ・なんとかが、一番美しく聞こえるのは、彼女の歌声が日本では(私の知る限り)人気が有って、聞く機会が多いから美しく聞こえるのかな?いろんな人の歌うアメリカ国家を聞いていると、日本語訳も出て来ました。恥ずかしながら、へぇ~こんな意味があったの! アメリカはキリスト教の国で、確かキリスト教って、偶像崇拝は禁止していたような、星条旗は偶像じゃないのかな?それに、日本の国歌と比べると、ずいぶん物騒、自分たちの国は、戦いで勝ち取ると言う意識があるのかな?驚いて、イギリス国歌、日本語訳が見つからない?おっと、フランス国歌の日本語訳があった。早速聞いてみる、(あっ、言い忘れましたが、ことの始まりは、youtubeさんです。また削除されると困りますから、皆さんで探してね) なんと、子供たちに、さぁ戦え・・・? ここでも旗が出てくる。 あら、吃驚。いきなり飛ぶけど、日本の道徳、というのか、アジアと言って良いのか、中国的な日本に影響を及ぼした、仏教か儒教か知りませんが、そういった道徳は、「旗」のような(偶像)ではなく、道徳の実体は、特定の「人」によって実現される? つまり、規範となる象徴・「シンボル」ではなく、「偉人伝」「伝記」「二宮尊徳」・・・ひょっとすると、これこそ、東洋と西洋の違い? いつの間にか、考えは、最初の調べ物「武士道」新渡戸稲造、天に従えばおのずと平和が来るのか、平和は、戦いとるものなのか?。「星条旗は永遠なれ」? 独り言です、気にしないで、「?」マークが沢山あります。沢山つけました。いくつ有りますか? このなかにあなたが感じた、あなたに届いた「?」マークが有りましたら、宜しく。

  • 「すべては手に入らない」という意味の思想・熟語を教えてください。

    本来は 仏教カテゴリで質問したかったのですが、見つからなかったので哲学カテゴリで質問させていただきます。国語カテゴリが適切なのかもしれませんが。 仏教ですとたとえば、「諸行無常」=「あらゆるものは移り変わり常に同じ状態であるものなどない」 といった意味の熟語?がありますが、 「すべては手に入らない」という意味の思想・熟語はあるのでしょうか? 私のイメージしているのは、「二股に分かれた道があるときに、右を選べば左は選べない、左を選べば右は選べない、両方の可能性や結果を得ることはできない。」というものです。 つきつめると、「何かを得るには、何かを失わなければならない」(右の道を選ぶには左の道の可能性を失わなければならない)という感じでしょうか。 よろしくお願いいたします。