magga の回答履歴

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  • 皆さんの好きな哲学者、嫌いな哲学者を教えてください。

    「教えて!goo」に参加した新参であるため 皆さまの哲学者の好みがよくわかりません。 そこで、できれば理由も添えて 好きな哲学者と嫌いな哲学者を教えてください。 私の好みは以下の通りです。 ・好き スピノザ、ニーチェ、ドゥルーズ ・嫌い プラトン、デカルト、キルケゴール ショーペンハウアー、ハイデガー、マルクス 精神分析全部、分析哲学全部、フーコー 最近、ライプニッツに興味が沸いてきました。

  • あなたは信じている宗教がありますか?

    あなたは信じている宗教がありますか? もしあったならそれはどんな宗教ですか?またなぜその宗教を信じているのですか?心のよりどころですか?教理に共感してですか? もしくは、信じる宗教がなかったなら、あなたは何を信じて生きているのですか?科学ですか?自分ですか?家族ですか?仕事ですか?会社ですか? 人は何かを信じて生きていくべき生物なのでしょうか?その方が精神衛生上良いのでしょうか? 質問が散文的ですが、あなたが思っていることをお書き下さい。

  • “死”ということ

    “死”ということは、どういうことだと思いますか。 私は、“まったく無になること”だと思ってます。 でも、そう考えると、 “死ぬこと”って、すごくもったいないことですよね。 今までつちかってきた、全てが “無”になるんですよ? すごくもったいないことだと思います。 急に命が惜しくなってきました。 そう考えると、 自殺も思いとどまれそうな気がします。 みなさん、私の考え、 どうですか?

  • 霊や霊魂の存在に関心があります。

    霊や霊魂の存在に関心があります。 「生」と「死」、そして「人生」「人間」について考えるうちに霊や霊魂の存在にも関心を持つようになりました。 霊、霊魂について書かれた書物のなかで、お勧めの著作があれば教えて下さい。 信頼に足る著作を求めています。 よろしくお願いします。

  • 聖職とはどのような意味でしょうか?

    聖職とはどのような意味でしょうか?

  • 昨日の私と今日の私では何が同じで何が違いますか?

    昨日の私と今日の私では何が同じで何が違いますか?

  • 恥ずかしながらこの歳になるまで時間は無限じゃないかと思っていたんですが

    恥ずかしながらこの歳になるまで時間は無限じゃないかと思っていたんですが、、、、。 宇宙物理の本(といっても一般向けの)を読んでいたら、時間には始まりがあるんですって。 宇宙のビッグバンとかいう言葉は聞いたことがあって、宇宙の始まり、実際にはビッグバンの「少し」前が始まりということは理解していたのですが、「宇宙が始まる前」なんてのを勝手に想定していて、時間はその前にさかのぼれるんじゃないかと、漫然と思っていたんです。 ところが、宇宙の始まりが時間の始まりであって、それ以前の時間は「無い」んだそうです。 科学は、ときどき非常識な真実をつきつけてくるものですね。 過去にも未来にも無限にたどれると思っていた時間ですが、過去に遡れるのは「ここまで!」で、時間は有限であることが分かった。 始まりがあると言われると「じゃ、おしまいは?」と聞きたくなるのが人情じゃないですか。 物理学では、宇宙の終わりは、今のところ「分からない」そうです。 いつの日かわかる日がくるのかもしれないですが、私の生きている間ではなさそう。 科学でわからないことは、宗教か哲学に答えを求めるしかない。 無限でない時間のおしまいについて、哲学は答えを用意しているのでしょうか? 宗教に行く前にちょいと聞いておきたくて。

  • いい人について

    19の大学生です。 自分でも性格は良くないと思うし、ハッキリ言ってイヤな奴だと思います。 そこでいい人と考えた時、中高の同級生に一人二人はいたのですが、何というか憎めないタイプで、悪い奴という印象はまったくと言っていいほどありませんし、誰かの陰口や悪口で笑う感じではなく、楽しい時に普通にニコニコしてる、性格的にとても丸い人物でした。 人から絶対好かれるタイプとまではいかないでも、決して悪い人ではないという人は誰でも一人は知っていると思われます。 私もそんな人物になりたいと思うのですが、どういう感じにしたらなれるかといつも考えあぐねています。 そこで質問なのですが、皆さんの思う悪い人じゃない人はどんな感じでしょうか? 参考までに聞かせてください。

  • 人間に限らず まず第一の価値は「存在すること」だと思います

    人間に限らず まず第一の価値は「存在すること」だと思います 存在しない事には価値も何も話になりません この世は活力ある安定調和を目指して存在をせめぎ合っているのです しかし人間は頭で進化しますから 生存競争をする必要はないと思います 死は動物としてとして進化するために世代交代の為に必要だったのです どうでしょうか 間違っているでしょうか?

  • 試練は誰があたえるのか?

    人生はいろいろありますよね。 僕は何かの壁にぶち当たるたびに、試練は神があたえる。 と、つい最近まで思っていました。 しかし、よくよく考えれば試練は神があたえるのではなく 人間があたえているのでないでしょうか? ちなみに、僕はよく仕事で怒られて、嫌な気分になるのですが、 これはあきらかに人間が僕に試練をあたえているものと思われます。

  • 言葉以前のそれ

    言葉以前のそれ 私達がまだ、人類の曙であった頃、そこには、言葉以前のそれで暮らす最初の人々があったと、私は始原に思いをやります。 いつの間にか言葉は、巧みに作られ、多くの形態を生み出すに至ったが、私はいつも、真実の言葉を、真実の想いを、真実のやさしさであるそれを、おもっています。 思慮ある皆様にお尋ねします。 私達の起源、始原、原初であるそれは、一体何であるのでしょうか。 よろしくお願いします。

  • 仏教に感じる矛盾について

    素朴な疑問です。こういう場所で訊くのは野暮な気がする一方、一度は訊いておいた方がよい気がするので思い切って質問します。 以下は最近、私が頂戴した回答の一節です。著作権に敏感な方があってはいけないので出典を記せば、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5114865.html のNo.2です。 ここに、 >>仏教の目的は、「成仏」、つまり、お釈迦様と同じ境地、境涯に至るというです。 お釈迦様の境地、境涯というのは、お釈迦様と同じ境地、境涯になった者だけが解ると言われています。<<・・・・・(*) とあります。 私に仏教の素養はありませんが、多分、この一節は正しいのだと思います。「言われています。」と伝聞形であることからNo.2の回答者特有の認識ではなく仏教界全体に共通した理解らしいと見て取れます。そうだとすると大いなる素朴な疑問が生じます。 ・釈尊は出家し乞食生活に入りました(スッタニパータ)。 ・在家にあって帰依する者は法による供養に努めるのは勿論のこと、財物の布施によっても出家者を供養せねばなりません(維摩経、第12章「法供養」)。 さて、在俗の者が解脱を目指し精進するとします。よく精進し境地が進めば何時しか在俗のままでは修行の限界に達して乞食生活に入る必要が生じるでしょう。この結果、釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど出家者が増え、これはまた、在家が減少することを意味します。救われる者の生活(出家)が救われない者(在家)によって支えられているために釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど救われない者の負担が増え、よってまた救われる者の生活も破綻に向かいます。共倒れにならないためには圧倒的少数の救われる者と圧倒的多数の救われない者の存在を維持しなくてはなりません。救われない者の存在が条件になるのでは教えの根本に矛盾があるというしかありません。 人類の規範たりえる思想は経済的自立を主張することが必須の条件の一つだと思います。 この疑問は次のどれかに根ざしていると思います。 1 私が何かを誤解をしている。 2 (*)が誤っている。 3 釈尊は究極に於いて出家も在家も餓死してよいと考えている。 4 釈尊の思想には欠落があり仏教は人類の規範たりえない。 5 その他。 この質問は視点が非仏教徒の立場にあります。信徒向け限定ではなく万人向けの解説を望みます。また、アンケートでもないし詩歌の鑑賞でもありませんから、皆様の考えの開陳を望んでいる訳ではありません。単なる感情の吐露ではなく論理による説得を期待します。必要であれば宗派の明示を頼みます。 よろしくお願いします。

  • 仏教に感じる矛盾について

    素朴な疑問です。こういう場所で訊くのは野暮な気がする一方、一度は訊いておいた方がよい気がするので思い切って質問します。 以下は最近、私が頂戴した回答の一節です。著作権に敏感な方があってはいけないので出典を記せば、 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5114865.html のNo.2です。 ここに、 >>仏教の目的は、「成仏」、つまり、お釈迦様と同じ境地、境涯に至るというです。 お釈迦様の境地、境涯というのは、お釈迦様と同じ境地、境涯になった者だけが解ると言われています。<<・・・・・(*) とあります。 私に仏教の素養はありませんが、多分、この一節は正しいのだと思います。「言われています。」と伝聞形であることからNo.2の回答者特有の認識ではなく仏教界全体に共通した理解らしいと見て取れます。そうだとすると大いなる素朴な疑問が生じます。 ・釈尊は出家し乞食生活に入りました(スッタニパータ)。 ・在家にあって帰依する者は法による供養に努めるのは勿論のこと、財物の布施によっても出家者を供養せねばなりません(維摩経、第12章「法供養」)。 さて、在俗の者が解脱を目指し精進するとします。よく精進し境地が進めば何時しか在俗のままでは修行の限界に達して乞食生活に入る必要が生じるでしょう。この結果、釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど出家者が増え、これはまた、在家が減少することを意味します。救われる者の生活(出家)が救われない者(在家)によって支えられているために釈尊の境地に近づく者が増えれば増えるほど救われない者の負担が増え、よってまた救われる者の生活も破綻に向かいます。共倒れにならないためには圧倒的少数の救われる者と圧倒的多数の救われない者の存在を維持しなくてはなりません。救われない者の存在が条件になるのでは教えの根本に矛盾があるというしかありません。 人類の規範たりえる思想は経済的自立を主張することが必須の条件の一つだと思います。 この疑問は次のどれかに根ざしていると思います。 1 私が何かを誤解をしている。 2 (*)が誤っている。 3 釈尊は究極に於いて出家も在家も餓死してよいと考えている。 4 釈尊の思想には欠落があり仏教は人類の規範たりえない。 5 その他。 この質問は視点が非仏教徒の立場にあります。信徒向け限定ではなく万人向けの解説を望みます。また、アンケートでもないし詩歌の鑑賞でもありませんから、皆様の考えの開陳を望んでいる訳ではありません。単なる感情の吐露ではなく論理による説得を期待します。必要であれば宗派の明示を頼みます。 よろしくお願いします。

  • 人の悪口をいうこと

    人の悪口を言う、ということ。 この行為についてどう思っていますか? 皆様の意見を教えてください。

  • ブッダの性愛観は 間違っていませんか?

      ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。  ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~  814  長老ティッサ・メッテーヤがいった、   ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの    教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。  815  師(ブッダ)は答えた、   ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。    これはかれのうちにある卑しいことがらである。  816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、    車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫    と呼ぶ。  817  かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと    を見て、性の交わりを断つことを学べ。  818  かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。    このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。  819  そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、    虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。  820  独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、    ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。  821  聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま    もり、性の交わりに耽ってはならない。  822  (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ    とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら    ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。  823  聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを    渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ    を羨むのである。  と。  (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  疑問点です。  1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。  つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?  2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。  つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。

  • 誰を深く勉強すればよいのか!?

    はじめまして。 大学院生です。研究を行っている過程で、いろいろな思想家の考えを勉強しています。自分の研究テーマに関係がある(関係があると思い込んでいる)思想家を勉強していると思っています。 フッサール・フーコー・レヴィ・ストロース・ブルデューなどです。しかし、それぞれの思想家は他の思想家を批判したりという事があると、途中まで勉強しても、「あっ、それならそっちの思想家かな」とか考えてしまい、なかなか深く勉強できません。そんなに完璧な思想があるとは思っていませんが、なかなか目移りしてしまい集中して勉強できません。自分自身の中でも、研究においての認識論的立場がはっきりしていないからだと思いますが。 テーマ的には特定の状況にある人たちが行う行動の特徴や意味付けを明らかにしたいという漠然ですみません。 どなたかアドバイスお願いします。

  • 神の認識

    人間は不完全なものだという考えを根底に持っている上での質問です。 だったら、人間が知覚、認識した神という存在も不完全なものではないのかという疑問が湧いてきました。もし神があるとすれば我々の五感や思考を超えたものであり、人間が理解できる範囲のものではないのではないか? 古今東西、神の存在を現した芸術がたくさんあります。音楽、美術、建築、文学・・・。それらに触れてなぜ美しく感動するのかと考えていたのですが、それが非常に人間的であるからという結論になってしまったのです。神は人間の知性で理解できる範囲にいるものなのでしょうか?

  • 「全てのものは変化する」への批判への反論2

    以前、質問させていただきました「全てのものは変化する」のパラドクスですが、自己言及のパラドックス(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%A8%80%E5%8F%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9#.E8.87.AA.E5.B7.B1.E8.A8.80.E5.8F.8A.E3.81.A8.E3.83.91.E3.83.A9.E3.83.89.E3.83.83.E3.82.AF.E3.82.B9.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82)と本質的に同じと考えます。「「クレタ人は嘘つきである」とクレタ人が言った」という例のものです。同じものだとするとタルスキー(?)が示した解決法でひとつの説明がつきそうです。 論理学的に同じと考えるのは適切でしょうか? *仏教思想的には「諸行」と「諸法」は別ものということで納得しています。

  • ブッダの性愛観は 間違っていませんか?

      ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。  ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~  814  長老ティッサ・メッテーヤがいった、   ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの    教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。  815  師(ブッダ)は答えた、   ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。    これはかれのうちにある卑しいことがらである。  816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、    車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫    と呼ぶ。  817  かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと    を見て、性の交わりを断つことを学べ。  818  かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。    このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。  819  そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、    虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。  820  独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、    ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。  821  聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま    もり、性の交わりに耽ってはならない。  822  (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ    とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら    ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。  823  聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを    渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ    を羨むのである。  と。  (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  疑問点です。  1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。  つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?  2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。  つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。

  • 人を遠ざける癖を改善したい

    人に都合の良いように私を判断される事が不安で人の輪からちょっと離れる事が多いです。 自分が受け入れられているな、と安心出来るまでは知り合いであっても他人扱いしてしまいます。 話し合いやプレゼンなど自分が話す必要のある立場のときは社交的で人見知りの”ひ”の字も見せませんが、 そういうきっかけがないとし~んと口を閉ざし、場合に寄っては知り合いに対し視線を外してしまうため、相手方に無視した、という印象を与えてしまい、人を傷つけてしまう事もあります。 実際には特定の相手に対して他意はなく、人によって態度を変えたり冷淡になるのではなく、自ら場を作る事が出来ないだけなのですが、とても未熟な態度であると思うようになりました。 また、 私に興味を持ってくれている人に対しても、普段人と壁を設けているので、話しかけて来た人にもとっさには対応出来ず、無関心な態度を取りがちで、いつも人を遠ざけてしまいます。 このような私に、具体的に御勧めする人との向き合い方を教えて頂けないでしょうか? 是非皆様の御意見を参考にリラックスして人と接する事が出来るよう成長したいと思います! 幅広い具体的なアドバイスを頂ければそれだけ参考になりますので、一言でも嬉しく思いますのでよろしくおねがいします。