考古学・人類学

全1900件中201~220件表示
  • 【漢委奴国王印】漢委奴国王印の金印は判子ではなく土

    【漢委奴国王印】漢委奴国王印の金印は判子ではなく土印って本当ですか? 今まで漢委奴国王印はスタンプで朱肉に当てて押すものだと思われていたが、当時は粘土の上に押し当てて押印していた土の上に押すものだった。 本当ですか? イギリスのゴム印と同じ仕組みが中国の判子の元祖ってことですか?

  • 誰の天皇陵だか不確かな物がある理由はなんですか?

    日本書紀のような記録がある前の天皇陵が誰のだか解らなくなってしまってるというのは解らなくもないのですが、奈良時代や平安時代の天皇陵でさえ誰のだか不確かなものが多い理由は何ですか? またこの天皇陵がどの天皇の墓であるというのが不確かなもので最後の天皇陵はどの時代の物ですか? さすがに戦国時代や江戸時代以降の天皇陵は全て確実ですよね?

  • 前にクレオパトラについて質問したんだけど

    ふと思えば、あのおかっぱ頭のイメージがあるクレオパトラですが、ミイラやはたまたピラミッドのような王墓ってありましたっけ?

  • ツタンカーメン(ファラオ)とクレオパトラの接点

    いつもツタンカーメン(ファラオ)とクレオパトラの違いがわかりません。 何か接点的なのってあったんでしょうか?

  • 聖骸布について

    キリストさんが亡くなるときにくるまれてたと言う聖骸布。あれは本当にキリストさんがいたことを表すものでしょうか? あと、なぜあんな模様なんでしょうか? もし仮にそうだとしたら、まるで絵を描いたように布に書き写されてるようなものはいったい?

  • そもそも入れ墨が犯罪者の証ではなく

    そもそも論入れ墨が犯罪者の証ではなく、犯罪者のいれた入れ墨がその指名手配をするときに(どこどこにほくろがある)みたいな感じで(肩に星形のタトゥー)とか、目印になると言う話ではないのでしょうか? だから入れ墨をするひとが犯罪者予備軍と言うより、犯罪をしたら見つけられやすいという意味がいつしか湾曲して「犯罪者の証し」となったんじゃないんでしょうか? そもそも入れ墨は魔除けの意味だったりすんですけどね

  • 翼竜種について

    プテラノドンに代表するような翼竜種って鳥とは違うんですよね。 確か脊椎動物のは虫類の一種だとか。 今で言うコウモリは翼竜種の生き残りなんでしょうか?

  • 粟・稗 と小麦

    日本の中世の歴史で山間部の痩せた灌漑の無い土地だと、どうにも粟・稗を植えてる程度の話が多いです。 でも中国だと高地の天水農業でもガンガン冬小麦や陸稲を植えています。 いったい日本と中国で何が違ったのでしょうか? 日本の山では小麦や陸稲は育たなかったのでしょうか?

  • 【古代エジプトのピラミッドの棺桶の中には死者の書が

    【古代エジプトのピラミッドの棺桶の中には死者の書が一緒に納められていた】 死者の書には何が書かれていたのでしょうか? 家系図ですか?

  • 【漢字・画像あり】これは何と書かれていますか?

    【漢字・画像あり】これは何と書かれていますか? どういう意味ですか? 国王と書かれている気がします。

  • 邪馬台国に関する私論

    考古学については素人ですが、邪馬台国問題に関心があり、いろんな本で個人的に研究してます。そこで自分なりの考えを披露してみますので、考古学的な考え方におかしいかどうかアドバイスが欲しいです。 長文になりますが、我慢して読んでいただけると幸いです。 まず結論からいうと、邪馬台国は北九州にあったと思うのです。理由は2つあって、一つは近畿地方だとすると魏志倭人伝の記述の仕方が不自然だからです。倭人伝によるとまず帯方郡から出発して狗邪韓国→対馬国→一支国→末慮国→伊都国→奴国と非常に細かくしかもかなり正確に記載されています。距離的にも数キロから数十キロおきにこまめに記述されてます。ところがその先が奴国→投馬国へが「南へ水行二十日」とあり、投馬国→邪馬台国が「南へ水行十日、陸行一月」ときわめておおざっぱで、それだけの長距離または長期間移動したのであれば、当然その間にもたくさんの島や小国があったはすです。それが一切無視されていきなり奴国から邪馬台国の間に投馬国しか記述がないのはいかにも不自然です。帯方郡から奴国(九州北部)まではこまめに書いてあるのに、そこから近畿地方までいきなり数百キロ飛ぶのはおかしいと思います。なぜ九州北部から近畿地方まで一気に記述が飛んでしまうのでしょう。なぜその間にあったはずの国々についての記述がないのでしょう。 それともう一つ疑問なのは、これは単純に私の感覚的な思いですが、人間は目に見える範囲でしか行動できないと思うのです。今は地図もあるしスマホもあるので知らない土地に苦も無く行けて、ナビシステムがあれば苦も無く目的地に行けます。しかし弥生時代のろくな航海術も移動手段もない時代に、どうやって帯方郡から近畿地方に行ったというのでしょうか。魏志倭人伝に倭国の記述があるということは、誰かがそこまで行って再び帯方郡に帰ってきたということです。帯方郡から海を渡って九州に来て、そこから近畿地方まで行って、また同じ距離を戻るなどということが簡単にできたわけはないと思います。その間の食事や寝床はどうしたのでしょう。また道路だって整備されていたわけではありません。船で瀬戸内海を陸を見ながら航海したとしても、方角的に本当に目的地に向かっているのかどうかも分からず、その先に本当に邪馬台国があるのかも分からないのです。要するに目に見えない目的地に向かって、ただ人からの聞き伝えを信じて移動するなどということは不可能だと思うのです。 そう考えると、むしろ奴国から先の魏志倭人伝の距離に関する記述が間違っていて、邪馬台国はやはり九州にあったと考えるのが自然だと思います。南へ水行十日や二十日というのは水行一日や二日の間違いで、もしかしたら陸行一月というのも一日の間違いかもしれません。そう考えて九州地方に邪馬台国があったと考える方が自然だと思います。もちろん魏志倭人伝の記述が間違っていたというのは単なる推測で根拠はないのですが、それにしても倭人伝に記載のあるとおり方角や距離を進めると日本列島を大きく南にはみだしてしまうことを考えると、やはり魏志倭人伝のどこかに記述の誤りがあったはずなのです。 上記以外にも細かい疑問点はあるのですが、こうした理由から私個人としては邪馬台国九州説を取りたいのです。こうした考察の仕方はおかしいでしょうか。ちゃんとした考古学的な考察ではどのように考えるのが正当なのでしょうか。詳しい方からのアドバイスが欲しいです。 よろしくお願いします。

  • 【人類学】人類最初の人間は言葉が先だったのか、行動

    【人類学】人類最初の人間は言葉が先だったのか、行動が先だったのか教えて下さい。 人間と猿の違いの1番最初は言葉が最初の違いだったのか、猿との行動の違いが人間に進化させたのか、人類学ですでに解明されていますか?

  • この動画の詳細、教えてください。

    https://youtu.be/_tU3B0Jtox4 これってなんの儀式(?)してるんですか? 教会か何かの洗礼でしょうか.......詳細がわかる方いますか?

  • 宮殿とお城

    王様の豪華なおうちを宮殿とかお城とか言いますけど、どう違うんですか

  • 大和朝廷、騎馬民族渡来説に関する査読済、無料論文

    こんにちは、最近「大和朝廷が、実は渡来してきた騎馬民族だ」という説の存在を知りました。 本当かな?と気になります。査読済みの無料論文で読めるものがありましたらご紹介していただけないでしょうか? よろしくお願いいたします。

  • 自宅の庭を掘ると過去の遺物は出土するのか。

    我が家は先祖代々、記録上、少なくとも300年は同じ場所に居るとされています。家こそは何度か建て替えられており、今建っている家は築30年程です。 土地は、部落の中に位置しています。ふと思ったのですが、土地の一部を古代の地層に相当する深さまで掘り下げた場合、過去の遺物(過去に建っていた家の礎や、使われていた食器の一部、ゴミなど)が出てくる事はあるのでしょうか。 また、可能性はないに等しいと思われますが、もし我が先祖が縄文や弥生時代から同じ場所で生活していた場合、当時の住居の跡や土器などが出土することはあり得ますか。

  • 古墳には天皇家タブーがある?

    未だに発掘させないのは、古墳の中に、天皇家にとって何かマズいものが残されてるからなのでしょうか?

  • 資源

    例えば、食料資源のお米は天災でもなければ、毎年一定量取れますので、地球が存在する限り、無限にあると言えます。 一方で、工業製品を作る、石油、金属、鉱物などはどうしたって有限ですよね? ですので、地球人が存続するためには、この有限の資源を、いかに効率よく、有効に活用するかが肝ですよね? この理解はあっていますか?

  • 前方後円墳での葬送儀礼について教えて下さい

    本日21時~にBSプレミアムの「英雄たちの選択 古代人のこころを発掘せよ!」という番組で、前方後円墳について以下のように話していました。 番組: https://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2021-01-03&ch=10&eid=07267&f=2647 ~~~ 古墳には権威を見せつけるためのイベント性があった。 前方後円墳では、後円部で埋葬の儀式(?)をおこなった後、新たな王は後円部から前方部へ歩いていった。 そうすると、いちばん高い後円部からくびれ部に降りたときに、地面の高さにいる民衆からは一度王が見えなくなる。 その後、前方部へ歩いてくるとまた王の姿が見える。 印象的に登場した王は、そこで民衆へ向けて言葉を述べる。 古墳とはこういう演出をする舞台だったのだ。 ~~~ というような内容でした。 本当であれば面白い話だと思ったのですが、ネットで検索したり、手持ちの古墳に関する本を眺めても、それらしき記述が見つかりませんでした。 「なんらかの儀礼の後、後円部から前方部へ歩いていって民衆の前に姿を表し言葉を述べる」 という行為が本当にあったのかどうか知りたいです。 また、本当にそういうことをしていたのであれば、その上で演出意図があったかどうかも知りたいです。 なにか参考になる情報があれば教えて下さい。よろしくお願いします。

  • 日本と中華・半島系のスタイルいい人の違い

    ※勝手な印象で物事を語りますが、ご了承ください 日本と中華・半島系のスタイルの良い男性の違いについて。 日本の高身長でスタイルがいい男性(芸能人を想定して)↓ ・小顔 、首が長い ・なんとなく全体的にスラッとしたタイプ なイメージがあるのに対して 中韓・半島系のスタイルのいい男性(〃)↓ ・肩幅広め ・顔立ちに関係なく、身体が全体的にがっしりとしたイメージ ・手足が長い ようなイメージがあります。 もちろん体格には個人差がありますし、一概に言ってしまうのも無理がある気はしますが…。 なぜ体格が違うのでしょうか? 単に民族的に差があるというわけでなく、芸能界で求められる需要の違いなのか 民族的(遺伝子的)な違いなのでしょうか? 教えてくださると嬉しいです.