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江戸時代の上水について

ブラタモリで江戸上水を取り上げていました。自分も江戸東京博物館で見た時、ずいぶん感心したものですが、ふと、疑問が湧きました。というのは、現在では丈夫な配管を使って配水していても、何十年に1回は掘り返して交換しています。まして、江戸時代では、木製の流路なので、早く腐ったはずです。そのような江戸時代では、どのようにして交換していたと思われるでしょうか?

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  • sutorama
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回答No.2

「水番人」が、いました 幕府は玉川上水を維持するために、上水沿いの羽村・砂川村(現立川市)・代田村(現世田谷区)・四谷大木戸(現新宿区)に水番人を置きました 水番人は、お互いに連絡を取り合って上水や分水の水量調節をしたり、各自の持ち場の見まわり、壊れているところの修理といった上水の管理を行いました また、上水にかかる橋の管理も水番人の仕事でした https://www.google.com/search?q=%E6%B0%B4%E7%95%AA%E4%BA%BA+%E6%B1%9F%E6%88%B8&oq=%E6%B0%B4%E7%95%AA%E4%BA%BA%E3%80%80%E6%B1%9F%E6%88%B8&aqs=chrome..69i57j33i160.8974j0j7&sourceid=chrome&ie=UTF-8

tahhzan
質問者

お礼

水番人ですか。面白いですね。あまり歴史の表舞台には出てきませんが、水は非常に貴重なライフラインであることは今と同じなので、当然、そのような人が居て当然でしょうね。それにしても、よく、出来ていると思いました。ありがとうございました。大変、参考になりました。

その他の回答 (1)

  • chiychiy
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回答No.1

こんにちは はっきりしたことは分かっていないような気がします。 漏れている個所があれば都度なおしたりではないでしょうか? 木樋というものは平成3年に元都庁の跡地(有楽町)から 発掘されたそうです。 そういうのを考えると、きちんとした形で伝わっているのかは 謎だと思います。 http://www.viva-edo.com/suidou.html https://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/01/haiken.html http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/edo-reference08b.html

tahhzan
質問者

お礼

なるほど。よく考えられていますね。それと、やはり、水道料金を払っていたんですね。あまり、時代劇でも触れられないエリアだけに興味深いですね。それにしても、水売りが担ぐ桶は、おそらく50キロ以上はあったでしょうから、すごい重労働だったでしょうね。昔の人は、身長は低くても強かったんですね。ありがとうございました。大変、参考になりました。

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