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この俳句の意味を教えて下さい。

積乱雲つねに淋( さび)しきポプラあり(金子兜太(とうた) よろしくお願いいたします

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  • Nakay702
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回答No.2

>この俳句の意味を教えて下さい。 >積乱雲つねに淋( さび)しきポプラあり ⇒以下のとおり、「主観的解釈」をお答えします。 《夏の朝はアサガオ、昼はバラやヒマワリが映える。ポプラは、ほとんど色がない。 積乱雲は雨の前触れ。やがて降り出すと、アジサイやハスの花が生き生きしてくる。ポプラは、ただ突っ立っている。 雨の中のポプラは、まさに「水に打たれる木々」(=淋)そのものだ。

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  • kappa1zoku
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回答No.3

金子兜太さんの句は何句か見たことはありますが、こんなのもあったのですね。 俳句の場合、何歳の頃とかどの場所で作句したかが批評の手がかりになる場合がありますが、そういうのを全く度外視をして、読んでみます。 積乱雲とポプラはどちらも空高くそびえるものです。 そういう順列をしてみると、積乱雲の高さに対し、ポプラの空へと延びる高さはまだまだ物足りないものだという認識になります。 ポプラの木の高さ、垂直性は、木々の中でも群を抜いているものなのですが、空の上に広がる積乱雲を見たら、そのような自負がなにかちっぽけなものに思えてくるのです。 なにか青年期の自分への戒めのような句ではなかったのかという印象を持ちました。

  • sutorama
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回答No.1

戦前戦後、日本中(特に都市部)にポプラが多く植えられました 成長が早いのと、見栄えもスクッと立ち、立派なモノでした しかしポプラは、実は燃えやすく防火には適さず、また、木としての寿命が短く、50~100年で老木になる木でした したがって、今では都会をはじめとした各街から一部の公園などを除き消えていき、残っているモノは気づかれず、単体で残っている木が見られる程度・・・ これを人にたとえると、戦後復興から高度成長まで、地方から若者が都会に集まり、血気盛んに成長していたが、その時代の人たちは今では少なくなっている状況と、寂しく残されていく様が似ています