• 締切済み

ラカンを読みたいのですが‥‥‥

ラカンを読みたいのですが、分からんです。何から読みはじめたらよいでしょうか?  大文字、小文字、欲動のグラフ、意味分かりません。ラカンの導入をどうしていいか分かりません。教えて下さい。

みんなの回答

  • yyou
  • ベストアンサー率59% (25/42)
回答No.5

ラカン自身のものなら「四基本概念」。自身というか、ミレール編纂ですが。セミネールの邦訳されているものでは、この次は「精神病」が良いと思います。「四基本概念」はとっつきやすいですが、中期というか、展開中のラカンだと思うので。エクリの邦訳は訳語が今と違いすぎるので、邦訳・英訳・原典を併読しないと厳しいです。 ジョエル・ドール「ラカン読解入門」、R・シェママ「精神分析事典」は入手しておいた方が良いです。John P.MullerとWilliam J.RichardsonによるLACAN AND LANGUAGEも良いです(邦訳があるのかは知りませんが、英語圏ではベタな「入門書」)。 日本のものでは新宮一成先生の「ラカンの精神分析」が素晴らしいですが、主に対象aを扱ったものです。藤田博史さんの「精神病の構造」も良いですが、結構バイアスも激しいので(笑)、他と合わせて読む方が良いでしょう。 また、下のURLの「ラカンとポストフェミニズム」も後期ラカンとその受容のされ方を見る上で参考になります。 日本とフランスの「入門書」は割りと我が強い傾向があり、ある意味「ラカン的」ですが、英米系は冷めている?ような気がします。あまりこだわらず色々手をつけた方が良いと思います。

  • ofofofo
  • ベストアンサー率16% (2/12)
回答No.4

浅田彰「構造と力」のラカンを扱った章がおすすめです。古いとか、単なるサーベイだとかいろいろと言われていますが、「教科書」としての出来栄えはさすがです。本格的にラカンを読むには、フロイトの全集に手をつけねばなりませんが、「構造と力」ならフロイト抜きでも何となく理解した気にさせてもらえます。

noname#7585
noname#7585
回答No.3

>欲動のグラフ、(これは主体)。 欲動のグラフ∽偽りの主体∽鏡像=a/S=Aを否定する事の/主体 主体が大文字Aを否定するのは畢竟去勢願望で有るのだ。 大文字は資本、小文字は商品又は貨幣。欲動のグラフとは労働=生産=消費的な隷属行為。 想像界、現実界、象徴界は、キルケゴールの三つの生に由来します。

noname#7585
noname#7585
回答No.2

「精神分析の四基礎概念」(セミネール11だったかな?) が良いと思います。 エクリも読みたいんですけど未だです。 ジジェクも良いのでは? 大文字、(これは大目標)小文字、(これは個物)欲動のグラフ、(これは主体)。 象徴的去勢←これは分かりますか?

noname#8527
noname#8527
回答No.1

ラカンですか・・・。これまた大変な。 ええっと、まず、フロイトですよね。 導入としては・・・。 個人的には、 石澤誠一氏 『翻訳としての人間 フロイト=ラカン精神分析の視座』 平凡社がすきです。

参考URL:
http://nakano.main.jp/reading/psycho.html

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