なぜ「茶道」なのか??? 武士の時代なのだから、「剣道」とか、「馬術」とか、「弓道」とか。

このQ&Aのポイント
  • 武士の教養や自己ステータスの証明、そして社交性を磨く場が茶会だった。茶道の作法を身につけることで教養の高さを周囲に知らしめ、なおかつ茶会に参加した人達との交流を深めながら社交性を磨くこともできる絶好の機会だった。
  • 茶会を開催できるのは信長から賜った名器を所持している者に限るという決まりもあった。つまり茶会を開くことで、名のある茶器を所有していることと、権力があることを誇示することができた。
  • 戦国時代における武士のやる気を高めるための政治的な役目として大活躍していたのが茶道であり名茶器だったのである。
回答を見る
  • ベストアンサー

なぜ、「茶道」なのか???

某書を読んでいたら、下記のような記述があり、「なぜ、茶道なのか???」という疑問が湧いてきました。 「織田信長が天下を治めようとした時代、武士の教養や自己ステータスの証明、そして社交性を磨く場が茶会だった。茶道の作法を身につけることで教養の高さを周囲に知らしめ、なおかつ茶会に参加した人達との交流を深めながら社交性を磨くこともできる絶好の機会だった。さらにこの時代、手柄を立てた褒美が土地ではなく茶器で与えられるという政策が推し進められていた。また、茶会を開催できるのは信長から賜った名器を所持している者に限るという決まりもあった。つまり茶会を開くことで、名のある茶器を所有していることと、権力があることを誇示することができた。秀吉が天下人となってからも、ますますその傾向は強くなる。戦国時代における武士のやる気を高めるための政治的な役目として大活躍していたのが茶道であり名茶器だったのである。」 質問 1 なぜ、「茶道」なのか??? 武士の時代なのだから、「剣道」とか、「馬術」とか、「弓道」とか。 2 「戦」という厳しい現実からの逃避なのでしょうか???時代も階級が違いますが、昭和の時代のサラリーマンの「麻雀とかゴルフのお付き合いみたいなもの」と理解すればよいのでしょうか???今は違うと思いますが。 3 もう、「土地の取得を争う……食料や部下を確保する時代」を卒業しつつあった、つまり「権力のための権力」という時代が到来しつつあったと理解してよいのでしょうか??? 4 漠然として、どう表現してよいのかわかりませんが、このことは「歴史」というものを理解するうえでひとつの視点を与えているような気がします。この「漠然として、どう表現してよいのかわかりません」ということについて、示唆を与えていただければありがたいです。(私も何を質問したいのかわからないので、こだわりません。) 5 上記の質問文には、素人としての歴史認識の誤った飛躍があると思います。それも指摘してもらえるとありがたいです。

noname#247736
noname#247736
  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数5

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10457/32894)
回答No.2

「茶道ブーム」を起こしたのは天才プロデューサー織田信長です。武田信玄や上杉謙信は家臣とお茶をするなんてほとんどなかったんですよ。あったのかな?私が知る限りは聞いたことがありません。まあ「最近京都で流行ってるらしい」でやることはあったと思いますが。 茶道というのは、当時の日本では「新しい流行」だったのです。だから、伝統に縛られるということがありませんでした。茶道のルールを作ったのは織田信長と千利休だといっても過言ではありません。その最大の特徴は「身分は関係ない」ということです。 伝統の世界ではそんなのはあり得ないですよね。今は茶道も伝統の世界なので身分制度が実質的に存在します。他にも伝統がある世界では身分は必ず存在しますね。歌舞伎や落語でも「大きな名前」なんてのがあって、誰でも名乗ることはできません。 けれど当時の茶道にはまだ伝統がなかったので、自由だったのです。だから「身分は関係ない」ということがいえた。身分制度が当然だった当時においては、極めて画期的で、それは出自を問わない織田家ニズムと非常に相性が良かった。だって本来は同じ席に座ることができない木下藤吉郎と柴田勝家が一緒に座れるのですから。 当時は他に「連歌」というのもありました。明智光秀が本能寺の変の前日に連歌の会を開いて、そこで「ときはいま、雨が下しる五月かな」と詠んで本能寺の変を予告したなんてのが有名です。 でも連歌には欠点があって、それは「教養がないと参加できない」ってことです。だから教養がない秀吉はそういうのはついていけない。参加できる人を選んでしまいます。でも茶道だとお作法さえ覚えてしまえばいいので、秀吉でもなんとかなるわけです。その敷居の低さも(今は茶道はとんでもなく敷居が高くなりましたが)茶道の魅力だったのです。 「戦国最弱の武将」として知られるオダ違いの小田氏治という人がいます。この人は自分の城を9回も奪われるという最多記録保持者ですが、しかしほとんどの人が1回や2回奪われたらそれで終わりなのに、9回も奪われても生き永らえて天寿を全うしました。 とにもかくにも「戦えば必ず負ける」というレベルなのによく家臣団がついてきたなと思いますが、小田氏治はどうも家臣たちからは慕われる人柄だったようです。そのエピソードのひとつとして「身分を問わない家臣団総出の連歌の会を開いた」というのがあります。 小田氏治その人は名家の出身なので、身分は高い。だから京都からお師匠さんを呼びよせて連歌の会を開くことがあったのですが、そこには家臣だったら誰でも参加できたらしいです。それはもう当時としては非常に画期的だったんですね。たぶん、関東という田舎だからできたのでしょう。身分が低い家臣からすると「え?僕も連歌の会なんかに参加していいんですか?」ってなるわけで、今なら「東京から偉い先生が来るパーティに自分も参加できる」みたいなものでしょう。 強い方のオダ家では、それが茶道だったわけです。 そして織田信長が狙っていたのが「土地と武士を離す」ということでした。でもこれはとんでもなく困難なことです。武田家では、甲斐国の東側に大きな勢力を持つ小山田家に手を付けることはできませんでした。武田勝頼はその小山田信成に裏切られて切腹しているわけですから、自国を自分の領土で固めることができなかったんですね。 当時の武士にとっては、土地こそが最も重要な給与であり報酬でした。けれどそれだと中央集権政治になりません。有力な武士団が独立した勢力を持つことになります。中央集権政治を目指していた織田信長は、どうにかして家臣が欲しがる土地以外のものを作りたかったのです。 そしてそれを家臣団の中で茶道ブームを作ることで「土地よりも茶器」と思わせることに成功したのです。まさに天才プロデューサーですよね。かつて曲の内容ではなくて「小室哲哉プロデュース」っていうだけで売れた時代みたいなものでした。それを一時的なブームで終わらせずに伝統文化の領域まで高めた千利休もまた天才であったといえるでしょうね。その行動はいかにも天才芸術家の独善的なものでしたが・笑。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 「身分は関係ない」とはいいながら「茶会を開くことができるのは信長から賜った名器を所持しているものに限る」ということもあったようですが???まさに、「権威によって支配する」という観点からは、天才的なアイデアだという気がしてきました。 小田氏治……私の名前なんかは、いくら検索しても出てきませんが、WIKに登場するのですから大したものですね。なかなかの血筋ですね。ふっと今川氏真のことが、頭をよぎってしまいました。 「戦えば必ず負ける」というレベルなのによく家臣団がついてきたなと思いますが、……笑、しかし、根拠はありませんが、なんとなく、家臣団の気持ちもわかるような気がします。世話が焼けるけど見捨てられない上司みたいな。およそ戦国時代とは思えない桃源郷みたいな世界だったのかも。笑 「土地と武士を離す」ということでした。……そうなのですか。本能寺の変の原因にはいろいろ説があるようですが、光秀はこの感覚についていけなかったのかなぁ???という気がしてきました。 千利休もまた天才であったといえるでしょうね。……なぜ切腹させられたのか???興味が湧いてきました。 今日2冊の本を買ってきました。読み始めたばかりですが……「武士の家計簿」……出だしから無茶苦茶面白いです。あれもこれも読みかけばかりで、自分で何をやっているのかわからなくなりました。笑

その他の回答 (2)

回答No.3

1 みんながやってることじゃいみないから 2 たんなるあたらしものずきのみーはーです 3 たんじゅんなせいりょくあらそいです 4 ばくぜんとしておらずえらいひとがはやりをおいもとめたんです 5 うえのえらいひとがのめりこんだからからみんなにはやったんです

  • g27anato
  • ベストアンサー率29% (1166/3945)
回答No.1

先ずその疑問は、 特定の書物に於いて「茶道」という限定的な事柄について、 著者個人の解釈によって記されたものが対象だということです。 茶道が全てではないと念頭に置くことが必要です。 1、その書物の中身は知りませんが、たまたま選んだ題材が「茶道」だということなんじゃないですか? 「書」や「舞」など他にもありますから。 「武道」を題材にすれば、また中身の違うものになっていたでしょう。 2、「茶」は以前から高貴な社会では「学び」の対象として進化してましたが、「戦」の世では一般に広まっていなかっただけです。 秀吉によって天下が統一されたことで、「武道」以外にも目を向ける余裕が生まれた時に、「道」として地位を得ていた「茶」を媒介に立場の違う者からも世を知り知識を得る、交流の場として確立されたということです。 現代に例えるなら「◯◯交流会」とか「セミナー」のような個人主催の小人数会合に近いもので、 「道」として確立された「茶」は、セレブイベントとして格好の手段に用いられたのでしょう。 3、世の中が平定されれば、 「武力」や「戦力」「権力」を誇示する時代から、「地位」や「財力」「知力」を誇示する時代に移行します。 4、「茶道」にこだわる必要はありません。 他にも「絵画」や「陶磁器」等も、「武具」に代わり自らを誇示する道具として価値を持つようになったのです。 5、その書物はたまたま「茶道」を題材にしただけのこと。 時は土地や物を奪い合う時代から、地位や財を競い合う時代に移行したのです。 6、歴史を学ぶという意味では、 中国の飲茶から茶葉が日本に伝来し、茶道として昇華され世に広まるまでの変遷を考えるのも、 日本史の流れを知るには格好の題材だろうとは思います。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 茶道が全てではないと念頭に置くことが必要です。……だと思いますが、重用された理由は何か???という疑問です。 世の中が平定されれば、……安土・桃山時代というのはわずか30年間ですが、必ずしも平定された時代ではないように思います。それゆえに「なぜ茶道なのか」という疑問が生じたのです。

関連するQ&A

  • 最強の日本武士

    ※別に教育の質問ではないんですが、歴史の質問として聞いてください。 質問する理由は長くて面倒で書きませんが、 日本の戦国時代以前の歴史上でもうコイツが天下一の強さって言う感じの強さを持つ武士を教えてください。 とにかく強い武士です。 よろしくお願いします。

  • 武士の教育

    武士の教育はどのようなものだったのかを詳しく教えてください。 時代での違いは?平将門の頃と源平合戦の頃と南北朝の時代と信長のいた時代とで違いはありますか? 現代にもまだ武士がいたらどのように教育は変わっていると思いますか?私は馬術と剣術はもう学ばなくなっていると思います。 家来と主君で教育に違いはありますか? 公家や天皇との教育の違いは? 中国やヨーロッパの貴族やマムルークのスルタンの教育との違いは? 武士の教育について様々なことを教えて頂けると嬉しいです。

  • PCゲーム 信長の野望シリーズで歴史の勉強になる

     恐れ入ります。PCゲーム 信長の野望 シリーズに興味がありるのですが、このゲームをやった方で、歴史好きの方にお尋ねしたいのですが、日本史の勉強、教養をつけるという意味でお勧めのゲームがあったら、教えて欲しいです。  かなり前に、一回、信長シリーズの廉価版を買った記憶があるのですが、飢饉になったり、攻めたり、で、歴史の勉強にはなりませんでした。  しかし、信長の野望シリーズは、ずっと出ていて、僕がやった古い廉価版ではなくて、人々を魅了するゲームなのかな?と思います。  信長シリーズを実際にプレイしてみて、なお且つ歴史好きの方にお尋ねしたいのですが、信長の野望シリーズで、戦国時代の武将とか、さまざま歴史の教養に役立つソフトがあったら、教えて頂きたいと思います。  宜しくお願い致します。  ゲームと歴史の好きな方のご意見を賜りたいと存じます。

  • 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を一枚の色紙に三角形に

    織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を一枚の色紙に三角形に御朱印を貰おうと思った場合は頂点には誰の御朱印を配置すべきでしょうか? やはりここは天下を統一した徳川家康でしょうか? では三角形下側の左右には織田信長と豊臣秀吉のどちらの御朱印を押すべきでしょうか? 日本では社長の右腕という表現がありますが、左腕はないのでここは色紙の右側に上司の織田信長を押すべきでしょうか? それとも天下も何も取ってない道半ばで死んでたまたま部下の豊臣秀吉が天下を取ったので棚からぼた餅で戦国時代の有名人になっただけでもし織田信長が殺されて、織田信長と関係がない大名が天下を取っていたら織田信長は有名人にはなってなかったと思いませんか? ということで織田信長の御朱印はなしで見開きの御朱印帳に左に豊臣秀吉、右側に徳川家康の御朱印の2つで良いのではと思ったりします。 なぜ戦国時代以前の有名人は現在ではあまり祀られていないのでしょう?殆どが戦国時代からですよね。

  • 「椿」という名前(女の子)

    2月に出産予定です。 女の子の場合、「椿(つばき)」という名前を候補の一つとして考えています。 我が家は義父母と嫁の私が茶道を長くたしなんでおり、 「茶花の女王」と呼ばれる”椿”は、冬の季節のお茶会で大変人気のある茶花なので、ひらめいたんです。 しかし、一般的なイメージでは オペラ「椿姫」の娼婦・病死や、日本では武士の首が切り落とされた様子など、悪いイメージがありますよね。 他のサイトには「教養の無い親がつけた名前」などと書かれていました。 茶道を知っている方には良いイメージかもしれませんが、 一般的にはやはり悪いイメージの名前なのでしょうか? 皆さんの率直なご意見をお聞かせください。

  • 日本一の天下人

    日本の歴史の中で いわゆる天下を取った人物 源頼朝からはじまり足利尊氏 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 と時代的には上げられますが 日本国を統一し、 天下人と言われ、 今に続く都市を築き上げた人物は誰だと思いますか? 私は織田信長は抜けかなと思います あまりに敵が多すぎたし、 たまたま明智光秀に殺されたが、信長の首を狙っていた者は五万といたはずですし、 何より、信長の作った城、町も跡形も無く消され、今も発展している都市が無いからです 安土城のあった場所なんか、 城下町の痕跡すら無いし、

  • 平安時代~鎌倉にかけて

    平安時代の初めに、桓武・嵯峨天皇が権力を持っていたあと天皇の権力が衰退して、藤原家による摂関政治に変わって藤原北家が権力を持ち、その後どのようにして院政にし、天皇家に権力を移すことができたのですか?藤原家が衰退したんですか?また、院政の後に武士が活躍して清盛が出てきた!!という流れが理解できません。簡単な言葉で教えてください。それと、平家から源氏に変わって、武士が活躍して(?)幕府が出来て江戸まで続いた???そのへんがよく理解できないので教えてください

  • 本当に江は秀吉に物申せたのか?

    本当に江は秀吉に物申せたのか? 時代について、歴史については詳しくないのですが、現役の天下人に、いくら叔父が信長だからと言う理由でパンパン物申すことが出来たのでしょうか?利休でさえ死の覚悟で物申すぐらいなのに・・・。 まぁ、最近の大河は”史実より脚色”が目立ちますし、単に面白おかしくしているだけなのでしょうが・・・

  • 武田信玄が天下をとれば?

     >父信虎を追放した晴信が採用した体制は、甲斐の権力者の連合体制であった。これ以後、甲斐国では、勝頼が1582年に信長・家康に滅ぼされる直前まで、甲府盆地(国中)を支配する武田氏、富士川流域(河内)を支配する穴山氏、都留郡(郡内)を支配する小山田氏三者による連合支配が続くことになる。「日本歴史館」(小学館)  以上の、支配方法をみても、武田信玄が天下をとっても群雄割拠が解消されるわけでもなさそうで、戦がなくなるという時代の夜明けを感じることができません。  武田信玄は天下をとるべく出発するものの、途中病に倒れ、志を遂げられなかったのですが、彼がもし天下を取っていたら、どんな日本を造ろうとしていたのでしょうか?

  • 天下

    戦国時代に織田信長氏は天下を目前に、配下に裏切られ自害したといわれています、 配下だった人は豊臣秀吉氏に滅ぼされたといわれており、日本での反乱は、歴史で は鎮圧されています、裏切り行為は日本では、退治の対象とされているのでしょうか、よよろしくお願いいたします。