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平安時代~鎌倉にかけて

平安時代の初めに、桓武・嵯峨天皇が権力を持っていたあと天皇の権力が衰退して、藤原家による摂関政治に変わって藤原北家が権力を持ち、その後どのようにして院政にし、天皇家に権力を移すことができたのですか?藤原家が衰退したんですか?また、院政の後に武士が活躍して清盛が出てきた!!という流れが理解できません。簡単な言葉で教えてください。それと、平家から源氏に変わって、武士が活躍して(?)幕府が出来て江戸まで続いた???そのへんがよく理解できないので教えてください

  • kukki-
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回答No.3

これを考えるには、まず平安時代の家制度というか子育て制度というかをまず理解する必要があります。平安時代の貴族社会は「婿入り婚」と言うことで「女性の家に男性が入る」という形で婚姻関係が成立しました。(現在の結婚のシステムとは違っていますね)源氏物語の中でもご存じとは思いますが、男性はいろんなところに妻を持ちそれぞれの女性の家に通っていたわけです。最終的に、独立するときも妻の実家から補助もしてもらい、家を建てその北の対や東の対に妻を住まわしたようです。  では子供ができるとどうなるか。妻は夫がいつ通ってくるか待っているのだから、その子供は妻の実家で育てられることのなります。今の父親代わりが妻のお父さん(子供から見れば祖父)なのです。だからおじいちゃんは孫を可愛がり育てるわけです。  天皇家はどうかというと、まさか天皇が女性のもとに通っていくことはできないので、入内という形で女性が天皇の住まい(内裏)に妻(皇后、中宮、女御、更衣などの身分もあった)として入るわけです。そこでめでたくご懐妊ということになれば「里下がり」として数年女性は実家に帰ります。子供のしつけや教育は女性の実家が取り仕切り、その中心となるのが父親代わりの子供から見ればおじいちゃんになるわけです。幼いときから何かと世話をかけた子供が男の子の場合、やがて天皇になりますね。その時、気心の知れたおじいちゃんに政治の後見役として摂政、関白になってもらい政治を仕切ってもらった、これが摂関政治です。  また、藤原北家が摂関政治の全盛期を現出したかげには、藤原兼家、道長に女の子がおり、その子が男の子を産み、その男の子が天皇になった結果、兼家、道長が天皇のおじいちゃん(外祖父という)になったから大きな権力を持つことができたのです。  しかし、道長の子頼通、その弟教通、頼通の子師實はNo.2の方が述べられているように外戚になれませんでした。そこにタイミングよく次は旧天皇の娘が皇子を生んだのです。こんどは旧天皇が未来の天皇をしつけていきます。ここで藤原氏の権力が削減されるきっかけができたのです。そして藤原摂関家に左右されない天皇中心の政治をめざして後三条天皇が登場してきます。(あとはNo.1,2の方の説明でよいかと思います)

回答No.2

そうですよね。 一般に教科書では貴族政治と院政は分断されて教えられます。私自身卒業して自分で調べなかったら貴族政治→院政への流れは理解できませんでした。院政は、「歴史がつながっているもの」であるにもかかわらずそれを敢えて分断してしまうという日本史の授業展開法の問題点に一石を投じる最大のテーマでもあります。 さて、能書きはこのへんにしておいて、肝心の歴史ですが、まずNo.1の方の補足から。頼通が子宝に恵まれなかったのは事実ですが(師実・寛子ともに妾腹)、後継者ができなかったのはむしろ後冷泉帝のほうだと思います。彼は生涯皇子に恵まれませんでした。女御歓子(教通女)が皇子を儲けるも誕生とともに夭折し、その後皇子・皇女ともに恵まれることはありませんでした。  これで幸運を得たのが皇太弟の尊仁親王でした。彼の母は三条天皇皇女禎子内親王で、藤原氏を外戚に持たない皇子だったのです。この皇子が即位すれば一族の運命がどうなるか、痛いほど良く解っていた頼通はあの手この手を使って禎子・尊仁母子を追い詰めます。この対立が23年の長きに渡った末に、尊仁親王は治暦4年(1068)に晴れて後三条帝として即位します。 後三条帝は「延久の荘園整理令」に代表されるような、外戚勢力を排除した改革的な政治を断行します。しかし、その治世も4年で終わりを告げます。延久4年(1072)、白河帝への突然の譲位、そして東宮には第二皇子の実仁親王を擁立します。藤原氏を母としない天皇(実仁・輔仁皇子の母は三条院の孫)をつくるための決断でした。が、譲位した翌年に後三条院は病により崩御してしまいます。同じく東宮実仁親王も、病で早世します。 おそらく後三条帝は、白河帝に第三皇子輔仁親王の即位を頼んだでしょう。しかし、自らの皇統を絶やしたくなかった白河帝は8歳の我が子善仁親王に位を譲ってしまいます。幼くして立ったこの親王が堀河帝です。以後、鳥羽・祟徳と三代にわたり幼帝の後ろ盾や補佐として、実権を握り続けました。これが世に言う院政となります。 No.1の方が仰っていたように、その後の武士の台頭は、上皇や法皇が雇い入れた「北面の武士」に端を発します。もうひとつ言うならば、保元の乱もまた武士の力を強め、院の勢力を弱体化させたひとつの契機になるでしょう。・・・とはいえ、白河帝が蒔いた種なんですがね。文字通り。(祟徳帝は教科書では鳥羽帝の子となっているが、実際は法皇の胤子。母が法皇のもとで養育されていた頃から、秘密の関係があったとか・・・。なので実際は叔父と甥の関係になるのです。余談ですが) さらに余談ですが、平清盛は法皇の胤子という説があります。法皇が寵愛していた女御が、法皇の胤を宿したまま父忠盛の妻となって清盛を生んだらしいです。

noname#3954
noname#3954
回答No.1

藤原氏は自分たちの子孫を天皇と結婚させて摂政・関白職を牛耳って、天皇の外戚となり権力を握ったわけですが、藤原頼道に後継ぎが生まれず、天皇の外戚にさせたくてもできない時がありました。その時天皇に即位した後三条天皇は藤原氏を外戚としない天皇で、藤原氏にはばかることなく改革を進めていきました(藤原氏は政治にはあまり関心がなかったらしく、そのやり方はずさんだったらしいです)。その後も後三条天皇の後をついで白河天皇が藤原氏の影響を受けずに改革をする傾向が続きます。そしてこの白河天皇が上皇になり院政の時代に入っていきます。 この院政で上皇が院に雇い入れた武装集団が「北面の武士」で、その武士たちの主たる種族が平氏だったのです。源氏は貴族などに雇われていた武装集団でした。始めは源氏の方が勢力がありましたが、「平治の乱」(源氏側敗北)からは源頼朝、義経が活躍する時代まで源氏は落ち目になることになります。院政時代の最後は平清盛が上皇より権力が明らかに勝っており、一時期ではありましたが平氏の天下だったといえると思います。

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