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江戸時代の客船の食事。
どうでもいいような疑問ですが教えてください。 江戸時代の客船、例えば金毘羅船が潮待ちや風待ちで港に停泊した時の食事はどうしていたのですか。 おそらく、地元の舟が握り飯の弁当を積んで売りにきたのでは、と想像しています。 船頭が客の注文をまとめて買いに行ったとか、想像でも小説でもよいですから教えてください。 旅日記に出てくる話なら最高です。 よろしくお願いします。
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下記(1)では、京・大坂間の淀川を下る三十石船にて途中の枚方[ひらかた]宿での所謂「くらわんか船」の記述から始まり、次に大坂(道頓堀)・丸亀間等の船賃などが「一人分飯料共銀貳拾五匁也」と飯料を含む記述が続き、又「丸龜よりかしき一人增加」ともあって、色めき立ちましたが、 いくら読み進めても(見落としも有り得ますが)船中食の記述は見当たらず、停泊地での煮売(茶)船とか上陸しての食事・入浴・色街等の記述ばかり。 次に下記(2)は、停泊地の事ではありませんが、 「片賄百文也」「船中賄一汁一菜也」などと。 残念ながら(1)(2)からだけでは、準備状況や具体的な献立内容は分からないものの、どうやら海路の長短にかかわら船中賄い飯も有ったようです。 あと二番煎じではありますが、下記(3)で驚いたのは、風呂船まであった事です。 (1)『紀行文集/博文館編輯局編/博文館/大正2.10.15』 〇「筑紫紀行 卷之一」(享和二[※1802]年八月 菱屋平七) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882581/356 <356-358/522>(682頁6行目-686頁9行目) ○(※彌生)廿四日京を立。…辰刻過にともに旅宿を立出。…かくて午刻ごろに伏見に着て。京橋の側なる備前屋といふ船宿にいる。…伏見をやゝはなれたるころ。…飯餅牛房いもくらはんか。…酒の上かんくらはぬかと。不敬なる詞の喧しきこゑに耳ちかくのゝしるは。れいの此邊舟にて物賣者共なれば早枚方に來りけるよと頭持上て見れば。…いざ喰む。のまんなどいへば。物うる男は艫綱をこなたの船に打ちかけて。德利茶碗やうの物持來て。さあくらへとさし出すを。…茶碗をとり上て。…酒つがせてのむ。…佐太守山なんどいふあたりすぎて。夜に入て亥刻ごろ大坂につきぬ。… … ○廿六日…夜に入て亥刻ごろ堺筋の旅宿を立て。道頓堀よりふねにのる。…五郎衞(※御案内申人)はさしよりて。昨日仰かうふりし事を。御宿の主にも此船頭にも。委細にたづねて書付置候とて我前に恭しくさし置をみれば。 船宿大阪道頓堀 大和屋彌三郎 船頭讃岐丸龜 大黑屋淸三郎 水主同所 貞 八 同 同 和三八 右船賃丸龜迄一人分飯料共銀貳拾五匁也 丸龜より安藝宮島迄の船賃同斷 宮島より豐前小倉まで船賃同斷 以上船賃合銀三百目也(但丸龜よりかしき一人增加船人四人にて 小倉に至るまで船賃一日に二朱を增筈なり) と書付たり。… (2)愛媛大学 四国遍路・世界の巡礼研究センター>研究成果> 『2013年度 四国遍路と世界の巡礼 公開講演会・公開シンポジウムプロシーディングス/2014.3.1』 http://henro.ll.ehime-u.ac.jp/post-236/ 〇<資料編>「巡礼と「道中日記」の諸相」塚本明・近藤浩二・胡光 [3/58](上段19行目-) 【6】「西国道中記」(『出羽路』一一五、秋田県文化財保護協会) 〔文政一〇(一八二七)〕 高砂町江 壱里 石宝殿曽根見物終、宿ニ帰り風呂に入、夕飯給候而出船待居也、 金毘羅山迄片船五匁、往来九匁也、ふとん壱ツ百文ニかし、片賄百文也、 閏六月廿六日暮過より出船、廿七日廿八日之四ツ頃丸亀江着岸、 船中賄一汁一菜也、丸亀迄三十六り也、菜ノ物才覚してよろしく候 (3)『東海道中木曽街道膝栗毛/三田村鳶魚[校]/博文館/昭5.7.31』 〇「金毘羅參詣 續膝栗毛 初編 上卷/十返舎一九」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181389/193 ※既出につき省略※ 〇「宮嶋參詣 續膝栗毛 二編 上卷/十返舎一九」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181389/212 <212/369>(401頁7-13行目) 下津井といふにいたり、こゝにしばらく船がゝりしけるにぞ。(丸龜より是まで七里)此兩士が乘たる船のみにあらず、田口をさして出たりし船ども殘らずこの湊にかゝりければ、所の商船何艘となく漕よせ漕よせ。 あきん人「酒のましやませ、がざみのつけやきくはしやませ。かい餅えいかいネヤ。くわしんかはしやませ、かはしやませ。… …せんちうのり合の人々は思ひ思ひにあきなひぶねをつけさせ、酒をのむもあり、もちくふもあり、… http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181389/214 <214/369>(404頁14-18行目) 火ともすころ備後の國鞆の湊に至りける。(下津井より是まで九里餘)此あたりにすぐれて繁昌の湊なれば、… …(此うち入船をみかけて、風呂をしこみたる小舟をこぎきたり、) 「はやうごんした。湯どもあぢやうしうわいたケニ、いらしやませ\/。… 以上
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- SPS700
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かしき(炊き)という言葉、下記の、特に3の船上の飯炊の意味で使われていますから、船上の煮炊きは行われていたようです。 https://kotobank.jp/word/%E7%82%8A%E3%81%8D%E3%83%BB%E7%88%A8-229314 北海道への客船、北前船の料理は下記のようなもので豪華だったようです。 https://www.youtube.com/watch?v=y3pyBrUj1Q4
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ご回答ありがとうございます。 北前船は航海日数が長いですから、かしきが乗っていたのですね。 港で仕入れた新鮮な魚ですから、さぞ旨かったでしょう。
- staratras
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東海道中膝栗毛で知られる十返舎一九は、続編として弥次さん喜多さんが金毘羅さんへ参詣する「金毘羅参詣続膝栗毛 (こんぴらさんけいぞくひざくりげ)」を書いています。その初めのところ、大坂から船に乗り込む場面では物売りの商人が集まって、食べ物「琉球いも(サツマイモ)のほかしたて」や「菓子(みづから・まんじゅう)」「にしんこぶまき(鯡昆布巻)」の売り声をあげている描写があります。 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100208750/viewer/13 もちろんこれはフィクションですが、作者自身の金毘羅参詣体験をもとにしているそうですから参考になると思います。なお「みづから」というのは、当時上方で人気があったという昆布を使った山椒入りの菓子です。 https://kotobank.jp/word/%E3%81%BF%E3%81%9A%E3%81%8B%E3%82%89-1422122
お礼
ご回答ありがとうございます。 弥次さん喜多さんも金毘羅さんへお参りしているのですね。 知りませんでした。 「みづから」「琉球いも」参考になりました。
- hahaha8635
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あと 船 食べ物 江戸時代で思い出すのは 紀伊國屋文左衛門のミカン船伝説 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9C%8B%E5%B1%8B%E6%96%87%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80 みかんが腐らないので そこそこの食べ物は詰めると思う また 江戸ー大阪間で15日 途中 いくつか寄港していたし ほしいい(ご飯を干したもの 水でもどして食べれる) と 味噌という万能調味料があるので 火が使えなくても 大丈夫だと思います
お礼
ご回答ありがとうございます。 「ほしいい」も思いつきませんでした。 自分の食い物は、自分で用意したということですね。なるほど!!
- hahaha8635
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あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、寿司を食いねぇ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E3%81%AE%E7%9F%B3%E6%9D%BE#%E8%AC%9B%E8%AB%87%E3%82%84%E6%B5%AA%E8%8A%B1%E7%AF%80 江戸前寿司ではなく大阪の押し寿司 と書かれているが 鮒寿司みたいな https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%92%E5%AF%BF%E5%8F%B8 発酵させた寿司だと思われる
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ご回答ありがとうございます。 「石松代参」ですね。 思い付きませんでした。 寿司を買って乗り込んだのですね。
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わざわざ調べて下さって真にありがとうございます。 金毘羅航路程度の船旅でも賄い付きであったとは思いもよりませんでした。 復元した金毘羅船の大きさから想像して、揺れ動く船で煮炊きできるなんてびっくりです。 北前船の復元写真を見ると「かまど」があります。 これは何ヶ月もの長旅ですし、また船も大きいですから。